Neetel Inside 文芸新都
表紙

ティラノクション
ACTION 4 大きな渦の中へ

見開き   最大化      

ぼくのお父さんは人を殺しました。

ぼくのお父さんは公務員で税務署という所で国税徴収官をしています。たくさんお給料をもらっているのに税金を払わない人に催促しにいくという、とても心が痛む、嫌な仕事です。

今日もお父さんが税金を滞納している「お客さん」の所に出向いて行きました。今日の「お客さん」は社長の息子さんで昼間から高級車を乗り回しているのに税金を2年間払っていない「悪質滞納者」です。

お父さんが滞納状況を詳しくお客さんに話しますが相手は聞き耳持たずです。

お父さんは強制権というものを使い、その若者の車を差し押さえると言いました。若者は2つ、3つ暴言を吐きましたがさすがに自分の立場を理解したのか、
お父さんの言葉を受け入れ、お金を払うと言って家の中に戻って行きました。


お父さんがホッとして上司に電話を入れると家の中からその若者が物凄い顔をしてアイスピックを持ってお父さんに襲いかかってきました。

二人はしばらくもみ合いになり、お父さんがベンツのボンネットの上に若者の体を押し付けました。するとその時なぜか内側にピックを持っていた若者の体に尖ったピックが刺さりました。

心臓を一突き。即死でした。

ぼくはその光景を一部始終見ていました。と、言うのもその事件はぼくの学校と家の間の通学路で起きた事件だったからです。

ぼくの他にも同じクラスの友達が真っ赤に染まったスーツを見て崩れ落ちるお父さんの姿を目撃していました。ぼくと友達は裁判所に証拠人として呼ばれました。

あれは事故でお父さんは何も悪くない、とぼくが話しても目の前の大人は誰も信じてくれませんでした。

そしてお父さんはぼく達とは会えない、遠い所に行ってしまいました。

その事件がテレビのニュースで報道されるとぼくは学校に通えなくなりました。お父さんが殺した相手はぼくと同じクラスのテルくんのお兄さん、
大橋拓郎さんだったからです。ぼくと妹はお母さんの実家のある向陽町という所に引っ越す事になりました。


そして俺はその事を自分の心の奥に追いやったまま、今日までのうのうと生きてきた。

でもまたその事件が俺の前に「ほら、お前のせいだぞ」と顔をもたげてきた。音楽の授業で習った『魔王』という楽曲のように恐怖や罪といった
フレーズは忘れた頃に何かの拍子で振り返った瞬間、背後に迫っている。死神はケタケタと剥き出しの骨を揺らしながら俺の喉元に白く光る鎌を当てつける。

いくら逃げても逃げ切れる事はない。税金を徴収しにくる親父とはレベルが違う。それは俺にとってのカルマのようだった。


夜が明けて朝が来た。ベランダでは小鳥が歌を歌っている。そんな当たり前な事が今日はなんだかとてもありがたかった。

となりでは妹のアイコが細く寝息を立てている。俺は握られていた彼女の手の平を開いた。

真っ白な白い手。俺が汚した真っ白な妹の手。俺はベッドサイドからウエットティッシュを2枚取ると彼女の手についた汚れを拭き取った。

俺は昨日の自分の行動を振り返って舌打ちをした。3年ぶりに再開した加害者の弟に一言も言い返せず、トラックに轢かれかけ、妹の優しさに埋もれてその中で...!

邪念を払うように頭を振った。アイコを起こさないようにベッドから起き上がると俺は部屋の窓を開けた。互いを愛でている小鳥2羽が大空に飛び立っていった。

俺はベランダに手をかけてその鳥の行く末を見守った。もし親父に2枚の羽根があれば都会の刑務所から俺達にあいに来てくれるだろうか。

それとも俺達に合わせる顔がない、と2枚の羽根で姿を被ってしまうだろうか。そんな想像をする自分が可笑しくて俺は少し笑った。

しばらく外の風に当たると俺は学校に通う準備をした。アイコは今年で14歳になるが彼女は学校に通っていない。同学年の友達がとても馬鹿らしくて話していられない、と言う。

俺は「行ってくる」と告げ、眠っているアイコの頬にキスをした。俺は目に浮かんだ涙を堪えて目の前にある現実という名のドアを開けた。

     

「違う、そうじゃない!」

俺達は放課後に軽音楽部の部室である第二音楽室に集まり、10日後のライブハウスでのライブに向けて練習を繰り返していた。

俺達『ザ・テンポス』の3人はフロントマンの平野の作った新曲をパートを合わせて練習していた。俺の隣でギターを弾いていた平野がマイク越しに俺に叫んだ。

「サビのラインはもっとシンプルにダウンピッキングで力強く!間奏の前はもっと動かなきゃダメだよ、ワッキ!」

その言葉を聞いて俺は平野に言い返す。「さっき、もっとサビでグルーブ感を出さなきゃダメだって言ったろ。どっちなんだ?」「まあまあ」

後ろでドラムを叩いていた山崎が俺達の間に声で割って入る。頭をかきむしると平野はジェスチャーを交えながら再び俺に説明した。

「ボーカルのメロディがダッタラダー、ダッダラターだからその間を埋めるフレーズを弾いて欲しい訳よ、ワッキちゃん」
「そんな事言われてもわからん」

俺が言葉を返すと夕方5時を知らせるチャイムが鳴った。ノートパソコンを眺めていたやよいが顔を上げて俺達に声をかけた。

「あんた達、もう2時間以上練習してるわよ。すこし休憩したら?」「そうだね、休憩しよう」

やよいの提案で俺達は少しの間休憩する事にした。

離れた席にどっかと腰を降ろすと山崎が近づいてきて俺に言った。

「まあまあ。ワッキは先月加入したばっかりだからニュアンスがわからなくて仕方ないよ。
ティラノも説明不足なんだ。あいつ自体、コードとか理論、よく分かってないみたいだしさ」

俺は頭からハンドタオルをかぶり、ペットボトルの液体の喉に注ぎ込んだ。

昨日の様々な出来事が頭の中で尾を引いていて、山崎の気遣いがなんだか今日は空々しく感じていた。

部室を見渡すと俺達の他には1年生の伊藤と高橋しかいない。「他のメンバーはどうした?」俺が高橋に尋ねると答えづらそうに伊藤を眺めたので俺は伊藤に聞き直した。

「俺達、もう、ダメみたいです」
「はぁ?」

「ジローのやつ、こないだの女子高ライブで失敗したの、結構凹んでるみたいで」
「ナベの話だと放課後、毎日嫁と遊んでるみたいです」
「嫁というのは何だ?あいつは結婚してるのか?」

俺が聞き返すと1年達は含み笑いをして俺に答えた。

「彼女の事ですよ。まぁ、俺達は見たことはありませんが」
「本当にあいつに彼女がいるかどうか、疑わしいけどな」

伊藤が清川を冷やかすような口調で口元に笑みを作った。

「で?おまえらはそんな事で辞めるのか?せっかく組んだバンドを?」「まあまあワッキ」

隣にいた山崎が俺の肩を揉む。力を抜け、というサインだ。萎縮した1年に部長の山崎が優しい声をかける。

「しばらくしたら清川もまた演りたくなってここにくるさ。ステージに立った時の感動っていうのはライブでしか味わえないもんなんだ。
おまえ達もわかるだろ?」

部長に聞かれ、二人は顔を見合わせた。「は、はあ」「まあ...」1年生がはっきりしない口調で答えると平野がやよいと大声で話しているのが聞こえた。

俺は平野に声をかけた。「おい、平野」「ん?なんだい」平野が振り返ると俺は壁のカレンダーを睨みながら尋ねた。

「本番まで何日こうやって練習できる?」「放課後練習の事?ん~バイトがあるからせいぜいあと4日ってとこかな」

「よっか!?」

それを聞いて俺は椅子を飛び上がった。床に滑り落ちたオレンジのタオルが他の部員達の視線を集める。のんきに菓子を食っている平野に俺は言葉をぶつけた。

「あと4日で30分の出演時間を埋めるだけの曲を練習できるのか?今度のライブは遊びや練習じゃない。客から金をもらって演るライブ。いわば興行だ。
それなのに、まだ明確に演る曲も決まってない、それどころか曲も出来ていない。お前本当にライブやる気あるのかよ!?」

俺の怒鳴り声に部室が静まりかえる。平野が咳払いをひとつして立ち上がった。

「ライブに対してのやる気はある。だがバイトに対してもやる気はある」
「ほう、両立していきたいって事だな」

俺が落ち着いた声を返すと部屋の中からほっとため息をつく声が聞こえた。歩きながら平野は語りだした。

「ボクがしているバイトはらーめん屋の洗い場の仕事でね。洗い場っていうのは厨房の心臓だ。食器を洗ったり用意する人間がいなくなると
そこで製造やサービス提供の流れがストップしてしまう。地味でキツイ仕事だと思うかもしれないが飲食店の最重要ポジションだ。ボクも始めた時は毎日バイトに通うのが憂鬱だった。
でもそれに気づいた途端、急にやりがいが芽生えたんだ。だから、10日後にライブがあるから急に休みをください、というわけにはいかない。
社会的な立場もあるしね。急に仕事をばっくれるヤツとなんか一緒に仕事したくないだろ?」

「そーかい。おまえの立場と情熱はよくわかったよ」

俺は床に落ちたタオルを拾い上げて平野に気になっていた事をぶつけた。

「なんでそんなに金が必要なんだ?毎日4時間とはいえ、週4日もシフトに入ればかなりのバイト代が貰えるよな?また無駄に高いギターでも買おうってのか?」

それを聞いてやよいがなにかを言いかけ、山崎が目線を落とした。「今は言えない」平野が俺の顔を見据えて言った。「今は言えない、か」

俺は言葉を復唱して吹きだした。この大事態に中心人物が欠けてどうするというのだ。俺は半ば呆れて立ち上がった。

「前から言おうと思ってたんだがな、」

俺は平野が来ていたアニメキャラのTシャツを指さした。栗毛色の長い髪をした下着姿の少女が自分のシャツを下に引っ張ってパンツを隠そうとしているイラストだ。

「俺ははっきり言ってそういう趣味のTシャツは気に入らない。必要過多に自己防衛してるように思えるんだよ。
『ボクはこういう趣味を持った弱い人間です。だから攻撃しないで。いじめないで』ってな」

「そうかい?だとしたら全くの予想ハズレだ」平野が笑みを受けながら両手をあげた。俺は制服の上着を掴んで入口のドアを開けた。

「どこへ行くの!?」やよいが少し怒った口調で俺に聞いた。「外」振り返らずに俺はそう答える。

俺はすべての事象に苛立ち始め、その怒りをヤニの薫りで固める事にした。制服の内ポケットからタバコを取り出すとそれを握りしめて屋上に続くドアを荒々しく蹴り上げた。

     

夕暮れの屋上で煙草を一服、二服すると俺は深呼吸をひとつして非常口から階段を降りた。第二音楽室に戻ると怒った顔でやよいが俺を出迎えた。

「ワッキの馬鹿」「はぁ?」

崩れた顔を返すとやよいが部室に残っていた山崎を振り返った。「ティラノ君の事、もうワッキに教えちゃってもいいよね?」

山崎はその場で考え込んだが、小さく2回うなづいた。3人だけの部室。やよいが俺に向き直って言った。

「なんでティラノ君があんなに身を粉にしてバイトしてるんだと思う?」「さあな」「ちょっとは考えなさいよ!」

即答する俺にやよいがヒステリックな声をあげる。山崎がおい、という風にやよいを気遣う。呼吸を整えるとやよいは俺に事情を話した。

「ティラノ君がバイトをしてるのはね、親友のライブを観に行くためなの」山崎がゆっくりと椅子から立ち上がった。

「俺達が前組んでたバンドのメンバーが『バイオレットフィズ』ってバンド組んでてさ、全国ライブツアーの一環として向陽第一体育館でライブをするんだ。
ティラノはその限定チケットを手に入れるためにバイトしてんだ」

「そうだったのか...」

俺は平野と山崎が以前組んでいたバンド、『T-Mass』にいたベーシストの事を思い出した。背が高く、華のある有能なプレーヤーだった。

そんな彼がメジャーバンドに引き抜かれ、数々のTV番組に出演しているのだという事を俺は人づてに聞いた。俺は拳を握り締めて言葉を吐き捨てた。

「親友だったらライブに無償で招待してやってもいいんじゃないのか?」
「そんな簡単な間柄じゃないのよ」

やよいが椅子の背を引いてそれに腰を下ろした。

「今のティラノ君と元メンバーの鱒浦将也との間には大きな溝が出来てしまった。でもその溝は直接会って話合わないと解決出来ない。
あなたが本質から逃げてると思い込んでいるティラノ君はそれに立ち向かおうとしてるのよ」

「俺はあいつに対してそんな事思い込んでいない」

心の内を見透かされて俺はやよいに反論した。

「ともかく、」

足を組み替えるとやよいは俺に言った。

「ティラノ君はああ見えても色々考えて行動してるのよ。多分今度のライブの曲も真剣に書いてるはずよ。彼は追い込まれると爆発力を発揮するタイプの男なんだから」

やよいが笑みを作ると俺は聞いた。「ライブの日は何時だ?」「ええっと」山崎が首を回してカレンダーの日付を確認した。

「6月20日だから...今日じゃん!」「あの馬鹿...!」「ちょっとどこ行くの!?」

カバンを持って部室を出る俺にやよいが声をかけた。決まってるだろ。俺は向陽公園行きの電車に乗りこんだ。


午後6時50分。向陽公園内の向陽第一体育館前には大きな人だかりが出来ていた。

俺は駐車場前でパーカーのフードを被り、人並みを避けながら不自然に行ったり来たりを繰り返している肥満気味の若者を見つけると携帯電話を手にとって発信した。

「こちらスネーク。現場に到着した。マルタイを発見。応援を頼む」「了解。ただちにそちらへ向かう」

ゲームのキャラクターに真似事をして通話を終わらせると俺はウロウロしている若者のフードを掴んだ。ボサボサの髪が飛び出すと驚いた顔をして平野が振り返った。

「ワッキ!どうしてここに?」甲高い声を上げると平野は気まずそうにうつむいた。

「あつし君か、やよいさんに聞いた?このライブの事」平野に聞かれ俺は「ああ」と答える。そして平野の右手に大事そうに握られたチケットに目を移した。

「どうした?観に行くんだろ?『バイオレットフィズ』。会場オープンの時間はもう過ぎてるはずだ。中に入らないのか?」

俺は会場の入口を向き直った。1000人収容の会場からは洋楽のSEが流れている。「わ、わかってるよ。今から入ろうと思ってたところさ!」

そういうと平野は入口に向かって歩き始めた。しかし歩幅を短くしたかと思うと警備員の前あたりでUターンをし、俺の方に戻ってきた。やれやれ。じれったい。

「うわ!何すんだよ!!」

俺は平野の首根っこを掴み入口に連れて行き、会場の中へ放り投げた。

「親友の凱旋をしっかりとその目に焼き付けてこい!」「ちょ、ちょっと~」

平野が俺の方に手を伸ばすとSEが鳴り止み、入口の警備員がドアを閉めた。開演時間が始まったのだろう。俺は平野がいた駐車場の方に周り、
体育館の外壁によし掛かるようにして後頭部を押し付けた。壁と骨を伝わって地鳴りのように会場内の歓声とバンドの演奏が聞こえる。痺れる力強いバスドラム。
主張の強いギターのソロ。そしてうねるランニングベース。俺は目を閉じて会場内の様子を想像し、音楽に合わせてリズムを刻み始めた。

     

「ワッキ!」誰かが俺の肩を叩く。俺が仮想現実に別れを告げてゆっくり目を開くと目の前に山崎あつしが立っていた。

その姿を見て俺は「ああ、」と声を返す。

「ティラノは?」「ちゃんと会場に入った。ウジウジと相当悩んでたみたいだけどな」

そういうと山崎も俺と同じように体育館の壁に頭を押し付けた。ライブも中盤を迎え、スローテンポのドラムのスネアの音が会場に響いている。

「平野の奴、後数分で会場に入れなくなる所だったんだ。せっかくこの日のために金を稼いだのに馬鹿な奴だよな」

俺が呟くと山崎が独り言のように口を開いた。

「マッス、新しいバンドでうまくやっていけてるかな。三月さんと...うまく暮らしていけてるのかな...」

声を震わせる山崎を見て俺は何も言い返せなかった。山崎と平野。そして鱒浦の間には俺の知らない様々なドラマがあったに違いない。

「話してくれないか?お前たちと鱒浦の事」

涙を浮かべて山崎が俺の顔を見上げた。今まで俺達の間で鱒浦の事を話題に上げるのはタブーだった。でもこの日、俺はそのルールを破った。

いつまでもメンバーの過去に背を向けてバンドを続けてはいけないと思ったからだ。

「俺の率直な気持ちを言おう」咳払いをひとつして俺は山崎に自分の想いを伝えた。

「確かに俺は鱒浦のような華のあるベーシストじゃないし、うまく人間関係も築けない。でもお前らのライブを見たときに感じたんだ。変わらなきゃいけないって。
陽のあたる場所に出て俺はここにいる、何かが出来るんだって証明したい」

山崎は少し考える仕草を見せると俺に向けて笑みを浮かべた。

「それを聞いたらティラノもきっと喜ぶと思うよ」「おーい、ワッキ、あつし君」

「ティラノ!?」

遠くから手を振る若者を見て山崎の声が裏返った。「もう観なくていいのか?」俺が言葉を投げかけると平野がパーカーの袖をまくって笑った。

「いやー、売れ線の単調な曲ばっか演ってるから飽きてきちゃってさー。もういいかな、って会場出て来ちゃった」
「なんだよそれー、せっかく何万もするチケット買ってそれはないだろー」

山崎が平野を茶化す。平野の顔にできた涙の跡を見て嘘だ、と俺は思った。

きっとこいつはステージの上でたくさんの歓声をもらう鱒浦の姿を見て感涙しその場にいられなくなったのだろう。

「どうだった?マッスは?」

山崎に聞かれうーん、と平野は口元に手をやった。

「全然ダメだったよ。曲は途中で間違えるし、歓声もらって半泣きするし、MC振られても何も答えられなくなるし...」

顔から雫をこぼしながら笑顔で平野は俺達に答える。

「全然、ボク達の知ってるマッスのまんまだったよ」

山崎が無言で平野を抱きしめた。そして頭を手のひらで何度も叩いた。頑張った。もういいよ。という風に。

「さっきも山崎に言ったんだがな、」

二人の美しい友情を目の当たりにしながら俺は言葉を吐き出した。

「俺にも話してくれないか?お前たちと鱒浦にどんな思い出や武勇伝や冒険があったのかを。相互理解。俺達が次に進むにはそれが一番早いと思うんだ」


平野と山崎が泣き終わると俺達は駐車場に座りこんで色々な話をした。中学の時に平野が鱒浦と出会った時の事、平野がバンドを組もうと思った日の事、3人で向陽ライオットに出場し、優勝を勝ち取った事。

話は盛り上がり、飲みかけの缶ジュースをアスファルトに置くと平野が俺にこんな事を聞いた。

「でさぁ、前々から気になってたんだけどワッキはどうしてボク達のバンドに入ろうと思ったの?たまたま偶然?」

山崎も俺の方に視線を向ける。「いや、前からお前らのバンドが気になってたんだよ。ティーマスだっけ?」「うんそう」

「お前らが楽しそうにバンド演ってみんなに認められていく姿を見て羨ましいと思ったんだよ。俺もあの輪の中に加わりたいってな。
そう思ってたら鱒浦が脱退した。チャンスだと思った。だから第二音楽室の扉を叩いた。これが俺がテンポスに入った経緯だよ」

「へぇーそうかぁ」

嘘はない。俺は初めて本音で自分が新バンドメンバー募集の面接を受けに行った理由を話した。桜田に脅かされたのはただのきっかけに過ぎない。

「俺達は最初っからバンドを組む運命だったんだよ」「おー!」「もう!ワッキったら!」

自分でも恥ずかしくなるような台詞を吐くと二人が俺を冷やかした。すると入口の方からたくさんの人並みがぞろぞろとこっちに向かって歩いてくる。

「ライブが終わったのかな」山崎がそう言うと平野が感慨深げにその列を見つめた。みんな満足気な表情を浮かべ、幸せそうに今日のライブを振り返っている。

「おれ達もみんなに笑顔をプレゼント出来るように頑張ろうな!」山崎が俺達に言うとキイ、という音と共に後ろの非常口の扉が開いた。

「どうした平野?」「マッス...!?マッスなのか!!」

ぼうっと口を開ける平野に尋ねると幽霊を見るような目で平野は非常口から出てきたフードを被った男を指さした。

「よう、久しぶり」「マッス!!」平野と山崎がその男に駆け寄った。少し気まずそうに、だが優しそうな笑顔を浮かべその男は話し始めた。

「ステージの上から見てたよ。ティラノが観に来てくれたって」「この野郎!このライブのチケットとるのにいくらかかったと思ってるんだ!」

平野が鱒浦の肩を小突いた。それを見て微笑むと鱒浦は言葉を続けた。

「立ち話もなんだからよ。俺の楽屋に案内するよ。それにここじゃ目立つ...そこの彼は?」

鱒浦が俺の顔を見つめた。鱒浦は整った顔立ちをし、眼鏡の奥のまつげがワイパーのように伸びている。美男子だと俺は思った。

「ワッキだよ。新しいバンドのベーシスト」「ああ!そうか!!」鱒浦が納得したように手を叩く。そして俺の方に歩み寄り、手を差し出した。

「ティラノをよろしく頼む」俺はその手を握り返す。固まったマメの多いゴツゴツとした手が彼の血がにじむような努力と不条理な世界で闘う厳しさを物語っていた。

「鈴木和樹だ。あんたの代わりにベースを担当してる」「俺の代わり、か」手を解くと鱒浦は虚空を見つめて呟いた。

ティラノが俺達の間に割って入った。

「ワッキはマッスの代わりなんかじゃないぜ。マッスには出来ないようなグリグリしたフレーズを弾けるんだ。はっきり言ってマッス以上のスーパーベーシストだ!
それに下ネタの曲だから演りたくない、って誰かさんみたいに駄々こねたりしないしね」
「おまえ、それ言わないお約束だろ...」

鱒浦が言い返すと3人がニカっとした顔で笑う。それを見て俺はこの場には必要のない人間に思えた。

悪い意味ではなく、この3人は他の人間が簡単に介入できないような太い絆で結ばれているのだ。

「それじゃ、俺はこの辺で失礼するよ」「え、ワッキ帰っちゃうの!?」「芸能人のサインもらっとけよ~」

山崎と平野の言葉を振り切って俺は人ごみの中を走り出した。これでいい。今日一日だけは元バンドメンバーとの邂逅に酔いしれてくれ。

悔しさと満足感が混じり合った気持ちで俺は夜空を見上げた。手の届きそうな場所で星達がまたたいていた。

     

「それでさぁ、マッスの奴、なんて言ったと思う!?」

放課後の第二音楽室。昨日『バイオレットフィズ』のライブを観にいった平野の声が響く。1年生の伊藤と高橋があまり興味なさそうにその話に付き合っている。

平野はそんな二人の態度を気にしない口調で昨夜の親友との邂逅を振り返っていた。「鱒浦先輩はなんて言ったんですか?」眼鏡を指で押し上げながら伊藤が平野に聞く。

「はまちょんが『息子がキミのファンやからサインくれや』って言ったんだけど『いや、自分はまだまだ半人前ですからサインは出来ません』って断わったんだってよォー!!
マッス、超カッコいいィー!!な、高橋!マッス、カッコ良くね!?」
「は、はぁ...カッコいいっす。とても...」

高橋は答えづらそうに坊主頭を撫でる。平野の奴ときたら今日一日ずっと鱒浦の事ばかり話してる。部屋の奥でノートパソコンのキーボードを叩きながらやよいが言った。

「ティラノ君、『バイオ』の事は分かったから。あなた達のライブの事はどうなったの?」

「それで、マッスの奴が...」「ティラノ君!!」「は、はひ!?」

やよいが机を叩いて勢い良く立ち上がった。その姿を見て部屋にいた部員達全員がたじろぐ。周りを見渡すとゆっくりと席に座ってやよいが話しだした。

「しっかりしてよね。私が今回のライブの告知やらフライヤー制作やらをやってあげてるんだから。ちゃんと新曲は書いてるんでしょうね?」
「は、はい!睡眠不足が続く日でもライブ出れるなら書いてるっス!!問題ないから、問題ないから~」

芸人のギャグのように手を動かしながら平野は部屋の隅のステージに向かって歩き出した。

「よ、よし!!ワッキにあつし君、再来週に迫ったライブに向けて練習しよう!追いつけ、追い越せ『バイオレットフィズ』!イッツオーライ!やってやろうぜ!!」

「よし、じゃあやろうか」「期限まで残り少ない。急ピッチで仕上げよう」

山崎と俺も立ち上がってステージへ向かった。今日は平野が新しく書いてきた曲、『アイドルヘイト』と『電脳少女みゆきちゃん』という曲の練習をした。

どちらも奇天烈な歌詞が印象的だがノリの良いリズムにはっきりとした主張のある曲で俺はそれらの曲を演る事に抵抗はなかった。

練習が一段落し、帰り支度をすると缶ジュースを飲み終えた平野が俺に言った。

「あ、ワッキ、今度のライブの事だけど」

俺が振り返ると平野はチケットを3枚、俺の方に突きつけた。

「今度のライブは店側のはからいで演者ひとりにつき3人だけ無料で招待する事が出来るんだ。友達や彼女、誰を連れてきてもオッケー。
知り合いに自慢のグリグリベースを魅せつけてやってくれ」

「呼ぶ人が決まったら教えてね。ゲストリストに登録するから」

部屋に残っていたやよいが俺に声をかけた。チケットを受け取ると俺はある人物の姿を思い浮かべた。


「いらっしゃいませ~...あ、和樹!久しぶり!」

カランコロン。週末の午後、鈴のついたパン屋のドアを開けると幼馴染の泉あずみが俺に声を返す。

「久しぶり」俺はポケットの中身を確認しながらカウンターに向かって歩く。泉が明るい笑顔で俺を出迎える。

緊張している事を悟られないよう、ショーケースに目を落とすと俺は店員である泉に注文をした。

「メロンパンとクロワッサンをひとつずつ」

それを聞いて泉が長いまつげのついた目を細める。「好きですね。メロンパンとクロワッサン」

泉の言葉を聞いて俺の口元がほころぶ。俺がこの店に来るたび毎回メロンパンとクロワッサンを頼むのを泉は覚えていた。

トレイにパンを載せながら泉が冗談を言い始める。

「当店のパンは一切動物性油を使用しておりませんのでベジタリアンの鈴木様でも安心してご賞味頂けます」それを聞いて俺はハン、と鼻をならす。

「バターを使わないパンだけを売って精算のとれるパン屋がいるならお目にかかりたいね」「もー、馬鹿にしてー」

泉がトレイにパンを取り終えると俺は意を決してこう切り出した。

「話があるんだ。ちょっとの間、店を抜けられないか?」

きょとん、とした顔を俺に向けると泉は振り返って店の奥に向かって声を出した。

「お母さーん。あたしお昼の休憩まだだから行ってきていい?店番お願いねー」

店の奥から「はい、わかったよ」と声が帰ってくると泉はカウンターに手をつけて俺に顔を近づけた。

「なになに?デートのお誘い?それとも愛の告白?和樹もずいぶんおませさんになったもんだ。あたしは嬉しいよー」
「からかうな」

泉の顔から視線を外すと俺は呼吸を整えて胸の鼓動を抑えた。当たらずとも遠からず、だ。


俺は買ったパンの箱を店の前に停めてあった自転車のカゴに入れ、湾外沿いの歩道を自転車を押しながら泉と歩き出した。

強い風がポニーテールの泉のうなじをすり抜けていく。

「寒いね、今日」
「低気圧が発達して西高東低の気圧になったんだろ」

目線を前に固定して俺は泉に言い返す。「もー、そういう事じゃないってばー」期待通りの言葉が返って来なかった事に泉が腹を立てる。

サーフボードを乗せたバンの二人組が俺達を指さして冷やかすと俺は咳払いをひとつし、バンが通り過ぎるタイミングで泉に本題を切り出した。

「7月1日、CLUB861 というライブハウスでライブを演る」「え?なんだって」

排気ガスを手で払いながら泉が聞き返す。俺は同じ言葉を泉に返した。

「こんど俺が組んだバンドがライブを演るんだ」歩みを止めて泉に振り返る。

「来て欲しいんだ。そのライブに、そこに俺の生きる理由があると思うから」

言った。遂に言った。「ほら、これ」俺は目線を外し、ポケットに手を突っ込みチケットを泉の前に突き出す。少しの間があって泉の薄いくちびるが開いた。

「あ、ありがとう」

泉がチケットを受け取ると俺は小さく息を吐いた。「生きる理由があるだなんてずいぶん大げさね」

照れ隠しのように泉が呟く。「俺にとっては大事なライブなんだ」俺は交差点で大橋照之が言った言葉を思い出した。あいつもこのライブに出場する。

俺はあいつと、そして自分の運命に立ち向かわなければならない。未来の行く末がこのライブにはあるんだ。俺の決心とは対照的に泉は顔をほころばせた。

「自転車、一緒に乗ろうか?」
「はぁ?」

裏返った声を俺が出すと泉が自転車の荷台を両手で掴んだ。

「ね、いいでしょ?それとも、もしかして和樹、二人乗り未経験?」
「馬鹿にするな」

泉が荷台にまたがると俺は自転車のペダルに足を置いた。すると泉が俺の腹に手を回した。

「おい...」
「いいでしょ。こっちは女の子なんだから。怪我したら責任とってもらうから!」

「へいへい」

泉の言葉を受け流し俺はペダルを漕ぐ。ひとつの物質に合わさった自転車に乾いた風が通り抜けていく。

ビュウビュウという北風が二人の間にBGMとして流れていく。並走するように低い位置を飛ぶカモメが俺達を羨むように称えるように飛び去っていった。

立ち漕ぎの背中に暖かな鼓動を感じながら俺は前に向かって進み出す。この時がずっと続けばいい。大きな青空の下で柔らかなかりそめの幸福をゆっくりと噛み締めていた。

     

CLUB861 でのライブ前日、俺は駒ヶ岳の自転車道をロードバイクで駆け抜けていた。

軽量化されたアルミホイールの隙間を冷たい風が突き抜けていく。俺はドロップハンドルを握り10段変速のギアをスムーズに切り替える。

スプロケットがシーク音のような音を立てて軸の回転をローラーチェーンに伝達していく。


俺は週末になると定期的にこの駒ヶ岳のサイクリングロードを愛車と共に訪れていた。明日に迫ったライブを思い高ぶった気持ちを俺はペダルに込める。

「おーい、キミ!危ないじゃないかー!」

対向車線をシティサイクルで走っていたドライバーが自転車を停めて俺に声をかけた。

俺も自転車を停めると通り過ぎた彼を振り返った。背はあまり高くなく、痩身で不精ひげを生やしている。

「なんだ、まだ子供か」20代後半と思しき青年は自転車をまたぐと俺に向かって声を張った。

「ヘルメット!」「?」俺が彼の言葉の意味を理解出来ないでいると青年が自分の頭を指さした。

「公道をロードバイクで走る時はメットが必須だろ!」そう言われて俺は彼のママチャリを見ながらふっと息を吐いた。

「ロードバイク乗車時にヘルメットの装着義務はない」

呆れたような俺の言い方が気に入らなかったのか青年は舌打ちをし、「気をつけろ」と言葉を残して自転車にまたがり、坂を下りていった。

水滴が俺のウエアからこぼれ落ちる。俺は薄く霧の出てきた空を見上げた。さっきから霧雨が降ったり止んだり繰り返している。

路面はスリッピーになりがちでこれからアタックする下り坂を見通してあの青年は俺に気をつけろと言ったのだろう。

俺は駒ヶ岳の山頂の休憩所で水分を摂り、ウエアを着替えて用を足すと再び自分のロードバイクに腰をかけた。歩道の外には向陽町がジオラマのように広がっている。

俺はひとつ、ふたつ深呼吸をし、その街並みを目指すように二つの車輪を走らせた。


下り坂は思いのほか悪路だった。

風が出てきて昼間だと言うのに辺りが暗くなり始めた。雨が強く降り出し車道の中央に水溜りを作っていく。

俺はそれを避け、カーブの30メートル手前でギアを重いのに変えて速度調整をとる。

中央帯をはみ出して曲がるトラックに巻き込まれないように俺は車体を操る。トラックが連れてきた突風を全身にうけると俺はフー、と細く長く息を吐く。

後方に気配を感じる。俺はその気に覚えがあった。ゆっくり呼吸を整えて俺はその影を振り返る。

「や、久しぶりだね。和樹」

隣を大橋照之が並走していた。「驚いたかい?」俺は視線を前に戻し、ペダルを漕ぐペースを早める。少しの間ヤツをやり過ごすと俺は自分の頭を整理した。

なぜあいつがここにいる?俺に何の用があってここに来た?両手が震えているのはこの雨風の寒さのせいではない。あの男が放つ暴力的な狂気。

このまま逃げるべきか、それとも、

「逃げられないよ」

耳元で聞こえる声に背筋が凍る。「何の用だ?」平静を整って俺は『テル』に言葉を返す。ヤツは俺の隣でにこやかな笑みを浮かべ言った。

「僕も好きなんだ。サイクリング」

対向車が減速するためにブレーキを踏む。俺はその音に合わせて『テル』に気づかれないよう、ギアを切り替える。

それを察してか、無意識かヤツも自転車を漕ぐスピードを早める。

黒塗りの14段変速のバイクの上でヤツは言った。

「いよいよ明日だねぇ。僕と和樹の決戦の時だ。おまえがどんな顔をして前日を迎えているか見に来たのさ」
「プレッシャーを与えにきた、の間違いだろ?」

俺は自分の体がガードレールと『テル』の車体に挟まれているのに気づいていた。俺の言葉を受けて乾いた笑いをするとヤツは俺の前を車体ひとつ半ぐらいのリードを取って走り始めた。

まるで俺に「ついてごらん」という風に。緊張状態で頭に血が上り、俺はその挑発を受けてしまう。俺はハンドルを握り、次々とギアを切り替えていく。

体感時速50キロ、60キロとバイクの速度が上がっていく。俺は逃げない。こいつから、運命から俺は逃げる訳にはいかない。

減速することなくカーブを曲がると『テル』が俺の姿を横目で睨む。俺は『テル』のすぐ隣に車体を走らせる。

「僕はあの日の事を一日も忘れずに生きてきた」

その言葉を受け流し、俺は『テル』の前方に車輪を投げ出す。「本当はおまえも同じはずだった。でもおまえはその事からずっと逃げてきた」

「違う」俺は『テル』を完全に追い抜き、ダンシングスタイルでペダルを漕ぐ。「いまでも思うよ。死んだのが兄さんじゃなくおまえの親父だったらってさ」

カーブの手前、大型トラックが視界に見えた。体中の血液が一気に脳天に沸騰する。後ろに死神、前方に鉄の戦車。ブレーキを踏むが間に合うはずもない。

俺はハンドルを左にきり、軸足を地面に擦りつける。ラバーソールとアスファルトの間で火花があがる。「おまえが死ねば良かったんだよ」

呪詛の言葉を受け、俺の現実はブラックアウト。バイクは車道に投げ出され、俺の体はガードレールに直撃した。頭の奥で死神が笑う声が遠くなっていく。

遠雷の鳴る空、裏返った車体の上で猛スピードでホイールが回る音が響いていた。

     

――あれからどうなっただろう?あれからどれくらい時間が経っただろう?ぼんやりとした闇の中から俺は自分の意識を取り戻した。

俺はどうやらまだこの世界で息をしているようだ。背中にマットレスの感触、首元には羽毛が詰まった掛け布団。―ここはどこかの病室のようだ。

俺は自分の存在を現世に繋ぎ留めるためにゆっくりと目を開く。薄暗い部屋の中で瑠璃色の瞳をした少女と目があう。

「気がついたのね。お兄ちゃん」

俺は妹のアイコの方を向くのにずいぶんと時間が掛かった。感覚が麻痺しているか体を打った衝撃で首がむち打ちになっているのだろう。

アイコは俺の顔を見るといつものようにふっと笑った。

「あの日からずっと成長しないのね」

その言葉を受けて俺はゆっくりと天井に向けて首を動かす。違う。成長しようとしても何かが俺の邪魔をする。それは『テル』なのかもしれないし、
自意識によるものなのかもしれない。「とにかく生きててくれて良かったわ」

アイコがベッドに近づいて静かに俺の額に手を置く。頭には包帯が巻かれているらしく、アイコの体温を感じる事はなかった。

「とても心配したのよ」アイコがゆっくりと俺の首に手を回し抱きかかえる。俺は両の目から涙を流した。孤独で冷たい世界の中でアイコだけがずっと俺の味方だった。

涙を指の腹で拭うとアイコは布団をめくりベッドの中に潜り込んだ。俺はベッドで妹と抱き合う姿勢になった。妹のめくれたスカートの太ももに俺の隆起した陰茎があたる。

「まぁ、恥ずかしい人!」からかうように、呆れたようにアイコが声を出す。母や看護師は近くにはいないようだ。俺はアイコを抱き寄せた。

アイコは特に抵抗せず俺の両手にくるまれた。ぽってりとした唇にキスをするとアイコは俺の口に舌を入れてきた。慌てて顔を離すとアイコが恥ずかしそうな顔でニコっと笑った。

「いいの。私、お兄ちゃんとだったら」

アイコが俺に体を近づける。アイコの瞳を見ていると価値観や良心が吹っ飛びそうだ。

「いけない」俺はベッドの中から体を起こした。「今日、何日だ?こんな所にはいられない」間一髪の所で理性を取り戻すとうっとりした表情を浮かべる妹に問いただした。

「今日は7月1日。今は夜の7時半よ」「なんだって!?」

俺は勢い良く掛け布団をめくり上げる。「痛ッ!」ベッドから立ち上がろうとすると体に激痛が走る。そのままベッドに座り込むとアイコが俺の首元に腕を回した。

「いまさら間に合わないわ。それにその体じゃ演奏するなんて無理」

アイコが俺の下腹部に腕を伸ばす。寝巻きの上からさすられると俺の陰茎は再び勃起した。

「母さんは先に帰らせたわ。ナースコールもこの部屋からは届かない。私と気持ちいい事、しましょうよ」

俺は耳元で囁く妹に抵抗できないでいる。「苦しそう」アイコが俺の寝巻きとトランクスの間に指をかける。


―俺はその時とても人には言えないような恥ずかしくて暴力的な想像をした。

アイコは俺の勃起した陰茎を見ると「わっ」と顔を赤らめて向こうを見る。俺は妹の体を抱き、丁寧に服を脱がすと全身に吸いつくようにキスをして
彼女の肉と肉の割れ目に勃起したそれをねじり込み腰を振り始める。取り戻しかけた理性は吹っ飛んで兄妹は肉欲に狂った獣に変貌する―


俺はそこまでイメージを広げるとトランクスのゴムをめくる妹の手を掴んだ。

「やめろ。俺達は兄妹だ」それを聞いてアイコが驚いた顔をして手を引っ込める。そして目に涙を溜めて俺にこう言った。

「私が何をしたいか、知ってるくせにっ!」俺は痛みを抑えながらゆっくりとベッドから立ち上がった。

「日本では親近相姦は禁止されていない」俺は棚に閉まってあった自分の服を出してそれに着替えながらアイコに言った。

「俺もおまえを抱きたいと思う。それは事実だよ。でも俺には今、やらなくちゃいけない事がある」

気持ちを落ち着けながら俺はトレーナーに腕を通す。ベッドの上で泣きだす妹を見ていたたまれない気持ちになったが、友や泉との約束を思い出し俺は心を奮い立たせた。

俺は死の誘惑を振り切り、仲間がいる戦場を目指す。病院の入口のドアを開けると俺は見知らぬ夜の道を勘を頼りに歩き出した。

     

あてもなく外へ飛び出していた。

いや、あてならある。20時から始まる『ザ・テンポス』のライブ。俺はそのライブハウスのステージでベーシストとして演奏するはずだ。

だが、そのベーシストである俺は国道沿いの野道を這うように一歩、一歩動きを進めていた。

体を動かす度に関節がギシギシ悲鳴を上げ、頭は熱を持っていて、ぼー、とだるい。思考が鈍化している。病院を出てからまだ250メートルも歩いていない。

対向車のハイビームが俺の体を照らすと俺は自分の右手首に出来た注射針の後を睨んだ。寝ている間に3本、4本点滴を打たれたらしく血の管の上を赤い点が点在していた。

その光が通り過ぎると俺は自分の姿を客観的に振り返ってふっと笑った。こんな時間に野道を歩いている傷だらけの若者を見て乗用者はどう思うだろうか。

俺は反対車線にあった古びた時計台の時間を見上げた。現在時刻19時35分。間に合わない、と俺は思った。

すると歩道沿いを軽自動車が徐行して近づいてきた。俺がそのラパンを振り返ると手で挨拶をするようにその瞳がパッシングをした。

俺は歩みを止めてドライバーの顔を見た。見覚えのない、若い女。ラパンは俺の隣まで進むと窓が開き、女が俺に向かって声を発した。

「鈴木和樹君だよね?」

それを聞いて俺は右ハンドルのラパンの窓に顔を近づけて「はい、そうです」と答える。女は車を停め、サイドブレーキを引くと俺に向かってこう言った。

「乗りな。CLUB861 まで連れてってあげる」

俺は小さく頭を下げるとドアを開け、その車に乗りこんだ。普段の俺だったらこの女を警戒し、この短い会話のやり取りだけで自分の行く末を委ねるなんて事はしなかっただろう。

シートに乗り、ベルトを伸ばすと女が俺を見て微笑んだ。大きなサングラスをし、金色の長い髪をフロントガラスに戻すと女は車を発進させた。

カーステレオからはレッドツェッペリンの『天国への階段』が流れている。しばらく間があると俺は本来一番先に聞くべき質問を女にした。

「あなたの名前を教えて貰えますか?」「あつこ」「え?」

短い解答に俺は無意識に聞き返す。「ピンクスパイダーあつこ。この場ではそう名乗っておこうか」

あつこと名乗った女は含み笑いをしながらカーステレオに手を伸ばした。ジミー・ペイジのギターが止み、ジェフ・ベックが『Led Boots』のリフレインを弾き始めた。

「洋一とは以前一緒に仕事をしていてね。煙草は吸う?」

煙草のケースを向けられ俺はそれを断わった。「吸っても大丈夫?」俺に許可を取るとあつこは煙草に火を着け、煙を窓の外に向かって吐いた。

「洋一からキミの事は聞いてる。キミが事故に巻き込まれて昨日からそこの病院に入院している事もね」

それを聞いて俺は窓の外に視線を落とす。

「もし来る途中にワッキの奴を見かけたら一緒に連れてきてくれ、って頼まれてたんだ。怪我は大丈夫?」「わからない」

俺は手のひらを開いて深く指を握り締めた。腕の腱の収縮が鈍く感じる。「でも、演るしかないんだ」俺は自分に言い聞かせるように言った。

それを聞いてあつこがふふふっと笑う。「キミのそういうとこ、洋一によく似てるよ」「まさか」

ベックの熱演が終わると今度はリッチー・ブラックモアのやかましい演奏が始まった。あつこは二本目の煙草に火を着けると俺に聞いた。

「私、いくつぐらいに見える?」突然の質問に俺はなかなか答えを見つける事ができない。「25歳くらいですか?」俺が答えると彼女は煙草を吹き出して嬉しそうに笑った。「永遠の17歳よ。私は」


車は市内に入り、狭い路地が続きあつこが窮屈そうにラパンを右折をさせると繁華街の街並みが見えてきた。「この辺りでいい」「大丈夫?歩けんの?」

俺がシートベルトを外すとあつこが俺に声をかけた。「キミ、お金持ってるの?楽器は?」それを聞いて俺はラパンの天井を見上げた。

ベースはおろか、財布と携帯さえ病室に置いてきたままだったのだ。「キミ、見た目によらず無鉄砲なんだね」繁華街の手前で車を停めると俺達は車を降り、あつこは後ろのトランクを開けた。

「これ、使いなよ」あつこはベースの入ったケースを俺に向けた。「でも、」「いいから」

あつこからケースを受け取ると俺は頭を下げた。「すいません。何から何まで、ありがとうございました」「いいって」サングラスを外し、長いまつげが顔を出すとあつこは俺をみて微笑んだ。

「私、車停めるとこ、探してくるから」車に向かう足を停め、あつこは俺に振り返って言った。

「生きてる証をこの夜に打ち付けてみせてよ」それを聞いて俺はうなづく。「いい夜になることを祈ってるよ」

あつこは車の乗り込み、ドアを閉めるとキーを回しエンジンをかけてもう一度俺を振り返った。大丈夫というニュアンスの笑みを返すとラパンは発進し、俺は繁華街の中心を目指して歩き始めた。

     

俺は店の前に出来た人だかりを分け入り、地下に続く階段を下りた。フライヤーやポスターがたくさん貼ってあるライブハウスの入口に

ベースケースを担いで姿を表すと受付の女の子が「いらっしゃいませ」と声をかけた。

「お目当ての出演者は?」そう聞かれて俺は「『ザ・テンポス』のメンバーです」と答える。それを聞いて察したように女の子が机から出演者証を渡してくれた。

「これがあれば楽屋に入れますので。『テンポス』の出演時間は20時からなので遅れないようにしてください」

「今、何時ですか?」「えっと」マニュアルにない俺の返答を聞いて店員が携帯電話を開く。

「今は19時53分です。前のバンドがおしてるので出演時間は約10分後です」彼女の言葉を受けて俺はふーっと長い息を吐いた。


出演者証を首から下げ、俺はフロアの重いドアを開けた。ステージでは男女混合バンドが金切り声をあげながら熱演を繰り広げている。

俺は知っている顔を探した。山崎が先輩と思わしき人物と親しげに会話している(その人物が山崎が招待した相手か、俺達の前の出演者かは知らない)。

他にも学校で顔見知りの人物が何人かいた。俺は平野を目で探した。平野はドリンクカウンターの前でガショーと話していた。

「あ、ワッキじゃん!」平野は俺と目が合うとガショーを連れて俺に近づいてきた。俺は平野に向けて小さく手を立てて謝った。

「迷惑かけてすまない」「いいよ。間に合った事が奇跡みたいなモンなんだから」平野が強めに俺の肩を叩いた。全身に激痛が走ったが俺は立場上、必死に堪えて笑顔を作った。

「ワッキが来なかったらガショーにベースを弾いてもらおうと思ってたところさ」「ニヒヒッ!久しぶりデース!」ガショーが平野の後ろから顔を出して口を三日月にして笑った。

「知り合いなのか?」俺が尋ねると二人が顔を見合わせて笑った。「ガショーとは前に一緒のライブに出たことがあってね」「天才は天才同士、惹かれあうのデース!」

ガショーがポーズを決めると俺はステージで演奏しているバンドを見上げた。その中には大橋照之の姿があった。俺は唾を飲み込んでヤツの演奏を見つめた。

リズムギターを担当し、金切り声で歌う女にコーラスをつけている。隣で歪んだギターを弾く女が聞き取れる範囲でこんな歌詞を歌う。

「昔好きだった女の子、子供殺したってテレビに出てたよ。僕と一緒になればそんな事にもならなかったのかなぁ。でもいいかそんな事。次のニュースで忘れちゃった」

女がシューゲイザーのような姿勢でギターソロを弾き始める。「あの女の子、貞子みたいだね」平野が彼女を見て冷やかす。

俺はステージの『テル』と目があった。俺はおまえと、運命と決着をつける為にここに来た。『テル』は俺の姿を見てニヤリと笑った。


演奏が終わると彼女達に向けて拍手が鳴った。ギターをスタンドに置くとタオルで汗を吹きながら『テル』がステージから降りてこっちに向かってきた。

「知り合いなんだ。ちょっとした、な」平野に『テル』との関係性を話すとヤツは俺に向かって声を発した。

「よう、誰かと思ったら和樹じゃないか。しつこいなぁ。あの時、トラックに巻き込まれてればよかったのに」「手を出すな、口を挟むなよ」

二人に告げると俺は『テル』に向き直った。「おまえの嫌がらせのせいで俺達は本番前に練習する時間がもてなかった。どうしてくれるんだ?」

「は、知るかそんな事」共演した女が持ってきたドリンクを手に取ると『テル』は高圧的に壁に手をかけた。「あの事故はおまえの不注意から生まれたんだ。僕にはなんの過失もない」

「そうかよ」俺も『テル』に高圧的な態度を返す。ヤツは舌打ちをひとつすると俺に向かって笑みを作った。殺し屋がターゲットに銃口を向けるような冷たい笑みだった。

「今日のライブはさしずめおまえの運命を決めるための決闘って訳かい?」それを聞いて俺はふっと口を横に開く。

「日本では明治22年に法律で決闘は禁止されている」「くだらない事いうなよ」『テル』が壁を殴った。辺りが静まると『テル』は俺に向かって言った。

「俺はあの日から今日までずっとおまえを恨み続けて生きてきた。でも最近その事に少し疲れてきているんだ。許すとは違うな、受け入れる、というべきか。
おまえが僕が受け入れられる人間か見定める必要がある。拳で殴りあうのが一番いいのかもしれないが、僕ももうそんな子供じゃない。
僕達のバンドの演奏は終わった。ステージの下から、おまえの生き様、存分に見物させてもらうよ」

『テル』はそう言い残すと隣にいた女と共に入口へ消えていった。「気にするな」平野に振り返ると「ワッキ!」と山崎が俺を呼ぶ声が聞こえた。

「間に合ったんだね!」「ああ、全身ボロボロだがなんとか間に合った」「ベースはどうしたんだい?」平野に尋ねられて俺は背中に担いでいたケースを開いた。

「これは...」ケースに中からは黒いスティングレイのベースが顔を出した。その姿を見て平野と山崎がおーっという声を上げる。

「どうしたんだ、このベース?」「いや、車に乗せてもらった女から...」「おー、よういちー!」

俺達が振り返ると俺をここまで送ってくれたあつこさんが平野に向かって小さく手を振っていた。「やれやれ...あのおばさんも気を利かせてくれるぜ...」

俺はローディがせわしく動き回っているステージを見上げた。すると赤と黄の照明が目の前でぐるぐると回転した。「ワッキ、大丈夫!?」

山崎の声と女の悲鳴が鼓膜をつんざく。俺の顔が液体の池に浸かる。どうやら目眩を起こしてテーブルに倒れ込んでしまったようだ。

「大丈夫、大丈夫だ」体の不調を気づかれないように俺は体を起こした。「ちょっとキミ、本当に大丈夫なの!?」

女の声が聞こえて俺は振り返った。そこには俺達の前に演奏を終えたと思われる白井サラサが立っていた。

「怪我してるんでしょ?そんな体で無理して演ることないよ」サラサが俺に手を差し出した。俺はその白く柔らかい手を払いのけた。

「気を使ってくれてありがとう。でも俺は、戦わなきゃならないんだ」「どうして?たかが部活の延長でしょ!?どうしてそこまでしなきゃならないのよ!?」

山崎が俺の肩に手を貸してくれた。「もっと自分を大事にしなよ!」「白井さん、」平野がもう片方の肩に手をかけて少女に冷たく言い放った。

「命懸けで演んだよ。ライブって言うのはさ」平野が持つ竜の瞳を見てサラサがその場を後ずさる。

俺達の様子を見てスタッフの女性が声をかけてきた。

「ザ・テンポスの皆さん、出番です」それを聞いて俺達はステージ裏の楽屋に向かった。俺の生きる意味を証明する決戦の舞台が幕を開けようとしていた。

     

俺達は楽屋に入ると演奏曲の打ち合わせをした。流れとしては最初に平野のMCがあって1曲目にインパクトのある曲を演り2、3曲目で

新しいバンドとして幅のある曲を演る。その後にもう一度MCを挟んで、4曲目にロッカバラード。そしてその後、時間が許す限り早い曲を演る、という

のが平野と山崎の提案だった。俺はそれを受け入れ、ラパンの女、あつこから借りたスティングレイにチューニングを始めた。

ハムバッカーピックアップが太い弦の音を拾う。いつものプレベとは違う音色に戸惑いながらもチューニングを終えるとスタッフの女が俺達を呼びに来た。

『ザ・テンポス』の3人が立ち上がった。「いよいよだね」山崎が言うと平野が肩を揺らして笑った。「どうしたんだ?」俺が聞くと平野が何かを思い出すような顔で俺に言った。

「いやさ、ボク達は前のバンドでライブを演る時に掛け声を決めてたんだ」「ああ~」それを聞いて山崎も笑う。

「今こそボクら3人はその掛け声を決めるべきじゃないかなぁ、と思ってさ」

「やってみよう」俺が言うと平野と山崎が俺の前に手を出した。「ワッキ、『行くぜ!』って言ってみて。大きめの声で」平野に促され、二人の手の上に俺が手を重ねると俺は声を張った。

「行くぜ!」
「おう!」
「セックス!」

平野が大声で叫ぶと驚いた顔でスタッフが振り返った。「馬鹿みたいだ」俺が笑うと「馬鹿みたいだろ?」と山崎が返す。

「でもさぁ、」ステージに繋がる階段を渡りながら平野が感慨深げに呟く。

「マッスが抜けてワッキが新メンバーとして加入して『テンポス』として活動していく訳じゃん?そろそろ新しいジャンルの扉を開きたいよなぁ」

「そのきっかけがこのライブにあるんじゃないのか?」俺が平野の肩に手を置いて言った。

「俺達はドアノブに手を引っ掛けてるんだよ。それに気づいていないだけさ」「答えはやりながら見つければいいよ」

山崎も俺の意見に賛同する。「ボク、このステージに繋がる階段を歩く時、いつも思う事があるんだ」

平野が段差を踏みしめるように言った。「なんかさぁ、ロープレでラスボスと闘う前の長い階段を思い浮かべるんだよ」「...ああ!」「なんとなく分かる気はする」

山崎と俺が相槌を打つと平野は差し込んでくる光の先を見つめた。

「初めてギターを鳴らした時の事、バンド組んでステージに立った事、向陽ライオットで優勝した事。色んな事を思い出す」

俺達はその光に向かって歩みを進める。「でもそこで立ち止まっちゃいけないんだ。前に進まなきゃ、未来は掴めないんだ」

「客電落とします」

スタッフの機械的な声が聞こえるとふっと俺達の影は闇に飲まれた。SEの前の一瞬の沈黙。「SEは何にしたんだ?」俺が尋ねると平野が俺に声を返した。

「『T-Mass』の『 (You&Ican) Chenge The Wolrd 』。」それを聞いて俺はふっと笑った。「なるほど。世界中で何千万枚も売れた名曲よりずっとそれが良い」「なんってったって大会で優勝した曲だからね!」

山崎が言葉を言い終わるとフロアにベルのような鮮やかなイントロが鳴り響いた。

「いよいよだ」俺が呟くと山崎が平野に耳打ちをする。スタッフのペンライトが二人のシルエットを打ち消すと俺達はCLUB861のステージに上がった。


「はいどーもー!カート・コバーンの生まれ変わりでーす」

平野が手を振りながら姿を現すとフロアにいた客達が俺達3人に歓声を送る。観客およそ30人前後。その中に泉を探すが姿は見えない。

その代わり『テル』が獲物を狙うハゲタカの目で俺を見上げていた。俺と目が合うとヤツはニヤリと笑った。「おてなみ拝見といこうじゃないか」

大音量でSEが流れる中でも『テル』のそういう声が聞こえてきそうだった。スタッフからベースを受け取ると俺はケーブルをジャックしPAに向かって

ビートルズの『Rain』のベースラインを弾いた。思いのほか太い音色に俺は少し違和感を覚えたがそのメロディはこれから始まる決戦のファンファーレのように力強くフロアに鳴り響いた。

PAからOKのサインが出ると今度は平野のギターのサウンドチェックが始まった。俺は目をつむり、神経を集中させた。先日のトラブルの影響で練習不足の感は否めない。

その上体調も不完全。最高のコンディションとは程遠い状況。しかし、俺は戦わなければならない。自分と、そして運命と、これからと。

「あ、あ~あ!皆さん!」マイクチェックも終わると平野が客席に向かってMCを始めた。客の視線を集めると平野は語り始めた。

「今日はボク達『ザ・テンポス』が未成年の部の大トリという事で!あ、拍手ありがとうございまーす」

ぱらぱらとした拍手が鳴ると平野は前の方の女性に頭を下げた。気が高ぶっている俺は「早く話をまとめろ」、と心のなかでぼやく。平野がMCを続けた。

「えー、ボクら新バンドを結成して初めてこういうライブハウスでの舞台、という事になるんですが、ここまでくるのに色んな事がありました。
その中でボクが見た事、身につけた事をこのステージで体現して行こうと思ってます。
この後の呑み会とか、アンコールとか、そんな事全然考えないでこの瞬間に、魂を燃やすつもりで演るんで、皆さんも盛り上がっていっちゃってください!ヨロシクゥ!!」

満潮のように歓声が強くなる。「イくぜ!1曲目、『修羅場シュガーラバーガール』!!」平野の印象的なギターリフが響くと歓声がいっそう強くなる。

遂に始まった。俺は姿勢を前に向けるとベースの弦に指を落とした。

     

『修羅場シュガーラバーガール』は平野が『ザ・テンポス』として初めて書き下ろした曲だ。

結成直後に「ワッキはどんな音楽聞くの?」と平野に聞かれ「邦楽なら椎名林檎がブランキー」と答えたら浅井健一のような印象的なギターリフの曲を書いて持ってきた。

曲の構成はシンプルなエイトビートで歌詞の内容はヤンデレと呼ばれる病的に恋愛に依存している女子の心情を歌っている。

主人公の娘が好いている男の彼女と出くわす、という修羅場を描いたなんとも平野らしい馬鹿げた世界観を歌った曲だ。

「あなたの胸に真っ赤な薔薇をあげましょう」だの「銀色に輝く二人の未来」だの、ストーリーの中の二人の未来には『死、そのもの』しか待っていない。

でも俺は演奏中、そんな事は気にしなかった。俺だって同じだから。

「アイム ラバーガール 私、修羅場シュガーラバーガール 
アイム ラバーガール 私、修羅場シュガーラバーガール イェア」

1番の歌詞が終わり、間奏が始まる。俺は頭の中でコード進行を整理する。「D-A-Bm-F#m-G-D-G-A よ。お兄ちゃん」頭の中で声がする。

俺は横目でその声の主を探した。顔のすぐ横をチョウのような羽根を付けたアイコがふわふわと浮いていた。その姿を見て俺はふっと笑う。

「それは何を表してるメタファーなんだ?」「D-A-Bm-F#m-G-D-G-A よ。早くしないと乗り遅れちゃう」

妹に促され俺はカノンコードのベースラインを弾く。ストーリーの二人の未来を祝福するような心地良く、安定したハーモニーがステージ上から鳴り響く。

「一体どういう事なんだ?」心の声で俺はアイコに尋ねる。妖精になったアイコは俺の肩に腰掛けて言った。「私はずっとお兄ちゃんと一緒だから」

アイコが俺の耳にくちびるを近づけた。「言ったでしょ?あの日、妹が欲しいって。こんな苦しみはひとりじゃ耐え切れないって」

中学2年生の自分の言動を振り返って俺は恥ずかしくなる。「アイコ、」俺は妹の名を呼び、その妖精に言葉を伝える。

「おまえの気持ちは充分伝わったよ。でもこれは俺と『テル』との勝負なんだ。俺ひとりで戦わせてくれ」それを聞いてうなづくとアイコは背中に張り付いた4枚の羽根を羽ばたかせて俺の前を一周した。

「わかったわ。お兄ちゃん。私の声が聞きたくなったらいつでも呼んでね」

いつものようにふっと笑うとアイコはステージの裏へ消えていった。俺は曲に意識を集中させる。山崎が叩いているドラムのタムが高速回転し、平野がマイクにくちびるを近づける。

曲は佳境を迎え、ストーリーの二人は一気に奈落の底へ転落していく。そのスピード感はこの疾走感のあるメロディとピッタリ合致した。

平野が最後のコードを弾き下ろし、山崎のドラムロールが鳴り止むと客席から歓声が沸いた。

「私、修羅場シュガーラバーガール イェ~」

低い声で平野があざけると何人かの笑い声が聞こえた。「2曲目、イくぞ!」

平野がギターから手を離して奇妙なダンスを踊る。

「hey, hey, We am idol hete ! hey, hey, I are idol hete ! fu~」

ポップで不気味なコーラスにフロアが混乱する。2曲目に俺達が演奏する曲は『アイドルヘイト』。人気アイドルにのめり込んでCDやグッズを買い占めていた男がそのアイドルが落ち目になった途端、

急に熱が覚めて自分の言動を後悔するというストーリーだ。みんなもこういう経験、一度や二度、あるのではないだろうか?

平野がギターを手に取り早口でまくし立てる。

「好きだったアイドル 芸人とできちゃった婚

積み上げられた200万のCDは握手券に早変わり ああなんであんなのにハマってたんだか 馬鹿らしいね アホらしいや

大嫌いさ 無敵のアイドル 欲しいのは自分だけのアイドル 3次元はいつもこう、それだからボクは今日もアイドルヘイト」

平野がポージングを取り、2回目のコーラスを始める。アブリルラビーンの曲みたいだ、と前の方の客が冷やかした。

消費されまくるアイドルに対してのロックアイロニー。俺達が演っている音楽が正当に評価される日は来るのだろうか?演奏が終わり、拍手が鳴ると俺はそんな事を考えていた。

「3曲目、『ボクラポップ』!」平野が次の曲名をマイクに告げると俺達はステージの上で希望をイメージしたメロディを打ち鳴らした。

「暗い時代に明るい曲を」というフレーズをコンセプトにした曲は16ビートのダンスチューンで山崎のドラムがフューチャーされる曲となった。

キーボーディストが入ればもっと華やかな曲になるのかもしれないが俺達は自分達が出来るすべての力を使ってこの「テンポス風ダンスナンバー」を体現していた。

「K-POPでもJ‐POPでもボクらが鳴らしてる音はひとつなんだ 国会も国境も巻き込んだものだったたり、自由と愛を歌った物語

大事な物は胸の中にある 響かせよう!ボクらだけのボップミュージック」

混沌を極める国際情勢をニュースで見ながら俺達の発信する曲はメッセージ性の強いものになっていった。国や皮膚の色で音楽は分別されるべきなのか?その問いかけがこの曲には込められていると俺は感じる。

山崎のシンバルが鳴り、平野がギターをミュートすると3曲目が終わった。平野のMCが始まる。しかしその声は俺の耳には届かなかった。

俺の体はもう、限界だった。

立っているだけでも脂汗が湧きだし、背筋が震え、目の前の焦点が合わなくなってきた。少し休まなきゃ、伸ばした手がアンプの上にあったペットボトルに当たり、床に水が溢れ落ちる。

ローディが慌てて飛び出すと入れ違うように俺はステージ裏へ体を投げ出した。寒い。少しだけでいい。このMCが終わるまで休ませてくれ。

俺は目を閉じて汗と痛みの波が引くのを待っていた。

     

ここはどこなんだろう?

俺が目を開くとCLUB861のステージは美しい花畑に変わっていた。マイクスタンドのように奇妙な形に木々が伸び、鉄の照明の代わりに

青い太陽と真っ赤な月が空に浮かんでいた。酸素は薄く、汗とスモークの混ざる臭いがする。きっとここは夢と現実の狭間の世界。俺は草の上から体を起こすと周りを見渡しながら歩き始めた。

喉がとても乾いていた。自販機はないだろうか?

「はい!こちらは今だけ限定のドリンクショップです!とってもおトクなドリンクが100万マネーで販売中!
この機会を逃すともう手に入らないかも!?この機会にぜひ、まとめ買いをオススメします!さぁ、皆さん買った買った!」

緑色の制服を着たおさげが良く似合う事務員の女性がライブを有利に進めるアイテムを売っていた。プッチやプラダを着た二本足の豚のような生き物が札束を片手にその列に並んでいた。

「お一人10セットが購入制限です!押さないで!押さないで!ああ...!!」

野原に建てられた露店はよしかかってきた豚達の重さで押しつぶされてしまった。札束一山で買った350mlの缶ジュースを満足そうな顔をして一口で豚達が飲み込んで行く。

俺は空間を泳いでいた薄いブルーの色をしたクラゲを指でつついた。空が急に暗くなって影を見上げると全長50メートルはあろうかという蛍光色の金魚が空を泳いでいた。

他にも丸太のように太い触腕を持つダイオウイカや体の半分を食われ、自分が死んでいる事にも気づいていないであろう無神経な深海魚が空を泳いでいた。

アホらしい。馬鹿げている。俺はアイコの姿を探した。きっとあいつがこの空間に俺を連れ込んで俺の未来の行く末を邪魔しようとしているのだ。

でもなんのために?俺は目の前に浮いた鏡で自分の顔を見た。顔中シワだらけで頭髪が禿げ上がった俺の姿が映し出されている。俺はその老人の瞳を覗き込んだ。その目のなかにはアイコはいなかった。

俺は足元に転がっていたブラウン管の映像を眺めた。世界のミュージシャンのライブ音源がコミカルに垂れ流されている。

ポールマッカートニーが『レット・イット・ビー』を観客全員に歌わせ、スティーブンタイラーは歌ってる途中にアゴが外れ、
エルトンジョンは槇原敬之とホモセックスに明け暮れていた。狂っている。「アイコ、」俺は空間に向かって尋ねた。「居るんだろ?そこに」

「ここよ、お兄ちゃん」目の前に真っ黒い渦が生まれ、その中からピータパンに出てくるティンカーベルのような姿で妹のアイコが姿を現した。

「ほほう、原作に忠実なコスチュームだ」俺は妖精になってしまった妹に近づいて衣装を見た感想を述べた。

「ちゃんとディズニーに使用許可をとったのか?あそこは権利問題がうるさいんだ」ドーン!と遠くで地響きのような音が鳴った。

「くだらない事言うなよ」後ろの空間からドアが生まれ、ノブが回るとその中からグレイ型宇宙人のような姿で『テル』が現れた。

「なんでこんな所にいるんだ?」「こっちが聞きたいっての...」『テル』に尋ねられ俺は頭を掻く。アイコがパタパタと俺の正面まで飛んで両手を広げた。

「お兄ちゃんは渡さないわ!」「は、美しい兄妹愛と言いたい所だが...」呆れたように、馬鹿にしたように銀色のコスチュームを着た宇宙人が腰に手を当てた。

「あれを見てみな」『テル』はさっきのブラウン管を指さした。ヨガのポーズで狂ったように踊る大槻ケンヂの映像が切り替わり、CLUB861 で演奏する平野と山崎の姿が映し出された。

ベースのポジションは空白だった。ブラウン管の端に倒れ込んでいる俺の左足が写りこんでいる。俺はその映像を見て息を呑んだ。

するとステージの裏から手を振りながらハンサムなベーシストが現れ、二人だけの演奏にランニングベースで華を添え始めた。

そのベーシストがハイフレットに手を伸ばす度に女子の黄色い声援が飛び、平野と山崎は嬉しそうに横目で彼を見て微笑む。鱒浦将也は倒れ込む俺を一瞥するとフロアの女性に向けてウインクを送った。

最前列にいた泉がその愛の印を受けて胸を押さえて倒れ込む。それを見て俺は「クダラナイ」と言って鼻で笑った。

「それが今のおまえとまわりの評価だ」

『テル』が映像を統括するように言った。「バンドメンバーはおまえを心からは信用せず、観客はおまえの事をなんとも思わず、演者であるおまえは現実と向き合わず床に突っ伏している」

「違う」「違わないさ」俺の影が正面に伸び、その中から姿を現してテルは俺の言葉を即座に否定した。

「おまえ、自分の行動を客観的に振り返ってみろよ。何か腹の立つ事がおこれば暴力に訴え、都合が悪くなれば『俺には関係ない』と言って逃げて仲間との約束、ひとつも守れない。
そんな奴がステージに立ってベースを演奏したところで誰がおまえを相手にする?周りへの迷惑を考えた事があるのか?」

「うるさい」俺は耳をふさいでその場にしゃがみ込んだ。「ほ~ら、また出た。現実逃避」影の中から角を生やした小さな悪魔達が生まれ、俺の周りをかごめかごめの要領で囲い始めた。

「ほ~ら出ました。最低人間和樹。授業の度に何かにムカつき、『俺は特別だ』とほざき~都合がわるけりゃ人のせい。ああ、パパもなんて子に育てたんだか」

「うるせぇって言ってんだろ!!俺が爆発的な声量でロウソクの火のようにそいつらを打ち消すと切り株に座り込んで『テル』が俺の中学2年次の通信簿を広げた。

「鈴木和樹君。授業態度に落ち着きがなくクラスのみんなとの協調性に欠けているようにみえます。2学期ではみんなの輪に打ち解けて楽しい学校生活を送りましょう」

「てめぇ...」俺が『テル』を睨むとその横に片目を眼帯で被った剣士が現れた。俺は近づいてくるそのキャラクターに見覚えがあった。

「氷華、残雪剣!」剣士が氷で出来た刃を俺の体に突き立てた。「ギヤァァアアアア!!!」俺は痛みと恥ずかしさでその場にうずくまった。

喜べ中学2年の俺、おまえが生み出した氷輪惨殺丸は未来の俺に大ダメージを与えてくれたぞ。

「ユニークな想像力をお持ちで...」指先から炎の魔法を出し、『テル』は剣士を具現化したノートを焼き捨てた。

「てめぇ、いくら夢の世界だからってそれは反則だろ...」俺の目の前をパタパタと光の粉を巻きながら飛び回り、アイコが両手足を広げた。

「お兄ちゃんをいじめないで!」「お兄ちゃん、か」

『テル』はアイコの姿を見てくくっと笑った。「まだ気づかないのか?おまえは和樹の理想と妄想が生み出した只の人形だ」

それを聞いてアイコがたじろぐ。「おまえは現実には存在しないフィクションの世界の妹なんだよ」アイコの体が徐々に薄くなっていく。

「違う、アイコは俺の本当の妹だ」俺は崩れていた体を起こして声を振り絞る。「俺はアイコを愛している!!」

「お兄ちゃん...!」アイコが潤んだ瞳で俺を振り返る。「愛している!愛しているだって!!こりゃ傑作だ!!」

『テル』が切り株の上から落ちて腹を抱えて笑い転げた。

「ふははははは!うひゃひゃひゃひゃ!!馬鹿かおまえは!おまえが今言った事はおまえが馬鹿にしてるオタク君が学校にフィギュアを持ってきて『これはボクの妹です』っていって
隣の席に座らせるのと同じ事なんだぜ!!こんな馬鹿初めてみたぜ!ぶはははは!!」

俺は色が濃く戻り始めたアイコ越しに『テル』の姿を眺めた。目から涙を零して『テル』が続ける。

「おまえ、それはヤバイよ。どうすんの?このままずっと自分の世界の中でツルツルの妹の体を撫で回してるつもりか?
そうか!知らねぇんだもんなぁ!見たこともねぇんだもんなぁ!『性器』を!やりたいんだろ?女を抱きたいんだろ?さっさと家に返ってあの日の夜のように妹に慰めてもらえよ!この変態野郎!!」

アイコが顔を真っ赤にして視線を落とした。「なぁ、和樹。想像力、っていうのはこう使うんだ」

『テル』がゆっくり体を起こすとヤツの隣に出来た水溜りから泥で作られた俺の人形が生成された。「そりゃ!」『テル』は鬼の金棒のような鈍器を掴み、その脳天に力いっぱいそれを振り下ろした。

レバーのように肉片が飛び、タールのように血液が弾け飛ぶ。顔についた泥を拭うと『テル』は俺達に笑みを浮かべこう言った。

「俺がおまえにしてやりたいのはこういう事だ。でも現実におまえの頭をかち割ったら僕もおまえの親父と同じ所に引っ張られちまう。
だからこうやって想像の世界で自分を慰めてやってる訳さ。確かにおまえには直接的な恨みはない。ただ、僕はおまえの事が極度に気に入らないだけさ」

『テル』はアイコを見ると不愉快そうに唾を吐いた。「テイレベルの地味キャラの癖に女なんてはべらせやがって」俺はさっきのブラウン管に目を落とした。

ジョージハリスンがグリーンデイを載せたバンにアビイ・ロードではねられて「ヘルプ!」と叫び、

トムヨークとコールドプレイのボーカルがどっちの学生時代が暗かったかを競い合っていた。

マイケルジャクソンが墓場から蘇り、スティーヴィーワンダーがサングラスを外し、実は目が見えている事をカミングアウトしだした。

ジョン・レノンはオノヨーコとのセックス中に中折れし、リンゴスターは俳優として表彰されオスカーを手にし、ミックジャガーはツアー中に酔って木に登って落ちて誰にも気づかれないまま寂しく凍死していった。

郷ひろみがロックナンバーを歌い、老婆になった倖田來未が瓜のような乳房を振り回しながらダーティダンスでバックを盛り上げていた。

「もうたくさんだ」俺は声を張り上げた。「どうやれば元の世界に戻れる?」俺は『テル』に向かって尋ねた。「簡単な事さ」

『テル』がいつの間にか生まれた崖を指さして笑った。「そこから飛び込めばCLUB861 のステージに戻れる」「わかった」

俺は立ち上がり、その崖に向かって走ろうとした、が、アイコが俺の耳を引っ張って止める。「だーめー、お兄ちゃん!お兄ちゃんはアイコとずっとここにいるの!」

アイコが俺に耳元で囁いた。「あの人の言う事を信じちゃダメ。きっと谷底に落ちてホントに死んじゃうよ?」「アイコ」

俺はアイコを片手で握り、遠くに向かって放り投げた。「あー、もう!お兄ちゃんの馬鹿ー!!」アイコの怒声を背中に受け俺は崖に向かって歩いた。

「風が吹いたら、それが合図だ」すれ違い様に『テル』は俺に言った。「鈴木和樹の生き様、この僕に見せてくれ」

俺は崖のふちに立ち風が鳴るのを待った。誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。その声は時間が経つたび、どんどん大きくなっていく。

俺は目を閉じて神経を尖らせた。ここに飛び込んだらもうここには戻って来られない。でもそれでいい。俺が選んだのは現実の世界なんだ。

耳鳴りの奥で風が吹いた。俺は目の前の闇の中へ、体を投げ出した。


     

「ワッキ!ワッキ!!大丈夫!?ワッキ!!」

甲高い声で俺を呼ぶ声が聞こえる。薄ぼんやりとまぶたに力を入れると背の低い俳優に似た顔をした男が俺のあだ名を呼んでいた。

ああ、この男は軽音楽部の部長で俺と一緒に『ザ・テンポス』を演っている山崎あつしだ。「ワッキ!」目を完全に開いて体を起こすとステージで客席に話しかけている

平野洋一が目に入った。「えっと、あー、今日は皆さんお忙しいところ、ボク達のライブに来ていただいて...」

俺が倒れている間、ずっとMCで間を埋めていたのだろう。フロアはがやがやと騒がしい声をあげている。平野は俺を二度見すると、「今すぐステージに戻ってこい!」

という仕草を幕の裏で倒れている俺と俺の肩に手を回した山崎に見せた。「大丈夫、立てる?」「ああ、大丈夫だ」

体をゆっくりと起こすと肺に激痛が走る。今まで気付かなかったがアバラが何本か折れているのだろう。

肩に重石を載せたような重圧がかかり、起き上がると膝がガクガクと落ち着き無く震え始めた。取り戻した意識はぼんやりと霞み、額は熱を持っていた。さっきまでの夢の世界での自由さが嘘のようだ。

「そうだ、俺は夢を見てたんだ」山崎に肩を貸してもらいながら俺はステージに向かう。「とても楽しい、けど、寂しい夢だった」

俺は顔の前に手を当てて平野に謝ると床に×が貼られた自分のベースポジションについた。「残り時間3分です!」スタッフが俺の背に声をかけると平野が一瞬驚いた顔をみせたが客の方を向き直ってスタンドマイクに告げた。

「どうやら、ベースのワッキの準備が出来たそうです!大興奮のライブ中に昼寝をしてしまう問題児ベーシストに大きな拍手を!!」

平野が音頭をとると俺に向かって大きな拍手が鳴った。みんな俺が倒れた事はただ事じゃないと悟っているように心配そうな、気遣うような、そんな拍手だった。

スタンドにかけてあったスティングレイに手をかけようとした。が、俺はネックの位置を見失いその場に倒れてしまう。「ああ!」という観客から起こった悲鳴が俺の耳にも入る。

隣にいた平野が俺の肩に手をかけてこう呟いた。

「戻ってきてくれてありがとう」

意外な言葉に俺は平野の顔を見上げる。「本当は疑ってたんだ。ライブにこないんじゃないかって。途中で嫌になって投げ出しちゃうんじゃないかって」

平野の告白を聞いて俺はふっとそれを受け流す。「ライブ中だろ?感傷に浸るにはその後でいい」俺は平野の腕を払いのけ自力で立ち上がる。

「世界を変えるんだろ?鱒浦と同じステージに立つんだろ?こんな所で足踏みしてる場合かよ。一発デカいの、かましてやろうぜ!Tーれっくす!!」

俺の言葉を受けて一瞬だけ微笑むと平野は正面の客たちに向き直った。「Tーれっくすか。ボクにはもったいないくらいカッコいいネーミングだ」

俺がベースストラップを首から下げ、元の位置に3人が戻ると平野がマイクに向かって叫んだ。

「さぁ、いよいよクライマックスです!最後の曲、聴いてください!!『KILLER A』!!」

俺はその言葉を受けて今から演奏する曲のコード進行を思い起こした。平野がギターをカッティングし、セリフを呟く。

「ぼくの夢は安定した生活を手に入れること。奪い合いも殺し合いもない平等な世界。核兵器も原子力も必要ない。優しい気持ちがあればいい。けど、けどけどけどけど、」

「そんなモノは手に入らない!!!」

平野が思い切って飛び上がる。俺はその姿に合わせるように跳躍する。山崎がシンバルを叩く腕を振り上げる。全否定から始まる曲に誰もがたじろいだ。

この曲はバンドに入る前の俺の『安定思考』を皮肉った平野が書いた曲だ。不安定な世の中で若者はスリリングな冒険より穏やかな日常を求めるようになった。この曲はその思想に対するアンチテーゼとも言える。

着地でバランスを崩すがなんとか立ち直り俺はその曲にベースラインを付ける。平野がギターを掻きむしりながら告げるように歌詞を歌う。

「親の世代が作った未来の土台 でも目の前の景色はどうだい? 平和な世界は吹っ飛んで、隣の誰かを疑って過ごしてる。
学習しなさいと教師は言う 夢、持ちなさいと先輩が言う」

リズムが鳴り止みカッティングの音が響く。「クソみたいなんだよ。そんなモン」平野の暴言をディストーションが包み込む。

「anything about it!」サビのフレーズが響くと俺は観客の中に泉の姿を見つけた。今来たばかりなのだろう。呼吸が荒く、心配そうに俺を見上げている。

「絵に書いた餅の様!」韻を踏んだ平野のシャウトが俺の耳に絡みつく。はは。お前のセンス、俺はそんなに嫌いじゃないぜ。俺は視線を手元に戻し、意識を演奏に集中させた。

「未来を奪え!世界を嫌え!喜びを歌えよ 世界よ『KILLER A』」

一瞬の沈黙の後、ステージをレゲエマスターが放つノイズが包み込む。俺はその渦の中に色々な人物を見た。アイコ、父親、そして『テル』。

ヤツはステージの下で腕組みをして俺を見上げている。照明から遠い所に立つヤツの顔色は伺えないがきっと皮肉と憤りをたたえた目で俺を睨んでいるのだろう。

父は俺を心配そうに俺の顔を眺め、俺は「大丈夫だよ」と心の声で言い返す。アイコが何か口やかましく俺に言葉を発しているがその声はもう俺には届かない。

俺が生きる世界、進むべく道は現実の世界なんだ。もう部屋でひとり、ベースを弾いていた俺はいない。俺はその渦をかき消すように咆哮をあげた。

体が軋み、汗が体温で沸騰し、意識が明後日の方へ吹っ飛ぶ。最高の気分だ。体の骨が何本か折れている。でもそんな事はどうでもいい。

観客から歓声が鳴り、鋭角的で暴力的な音楽がすべてを包み込む。『KILLER A』、『KILLER A』。平野と山崎のコーラスが響く。鮮やかなる熱狂。俺はこの瞬間が続くようにベースラインを繋げた。


「和樹、大丈夫!?」

演奏が終わり、ステージから降りると泉が俺に声をかけてきた。「来てくれたんだ」ぼー、とした頭で言葉を返すと泉が早口で話しだした。

「お母さんが急に熱だしちゃって、店番抜けられなかったんだ。…頭、どうしたの?」

「ああ、」俺は頭に巻いてある包帯を撫でた。「ファッションだよ、ファッション。巷ではこういう奇抜な格好が流行っているらしい」

「和樹...」「くだらない事言うなよ」

『テル』が俺と泉の間に割って入った。「泉さん、久しぶり。小学生の時以来かな?」「え、ええ。どうも...」

泉が記憶を手繰る表情で『テル』に挨拶するとヤツは俺の顔を見上げた。「和樹」俺は覚悟を決めて奥歯を噛み締める。

「とりあえずお前を許そう」「は?なんだそれ!?」

思いもしなかった言葉に俺はテルに突っかかる。「許すと言ったんだ」頭からつま先まで、俺の姿を見下ろすとテルは話を続けた。

「お前の覚悟と生き様は充分に伝わったよ。正直、そんな体でこのライブをやり遂げるとは思いもしなかった。ただ、」

テルが俺の前に指を一本立てた。俺はその指に焦点を合わす。

「僕が許すのは期限付きだ。お前はこれから何度も死や暴力の誘惑に魅了されるだろう。その度に僕はお前の前に現れる。
お前がその時に僕が許せないような腑抜けた人間になっていたら僕はお前に制裁を加える。その日まで、せいぜい面白可笑しく生き延びてくれや」

言い終わるとテルは俺達に背を向けて入口に向かって歩いて行った。「勝ったんだ...!」俺は膝の力が抜けてその場に崩れ落ちた。

「和樹...」泉が心配そうにしゃがみ込みだ。俺は泉の肩を掴んで叫ぶ。

「勝った!勝ったんだよ!!ずっと、ずっと後悔してた!あの時親父を止められなかった事、テルに謝れなかった事、逃げ出してこの町に引越してきた事。
でも今日、俺は勝ったんだ!前に進めたんだよ!!俺の世界は変わったんだ!!」

俺は顔から涙をこぼしながら泉の体を揺さぶっていた。泉は最初驚いた顔をしていたが次第に俺の気持ちが伝わったのか優しい瞳を俺に向けた。

俺が言葉を吐き終えると泉は歌うような弾むリズムで俺にこう訊ねた。

「生きる理由は見つかった?」

息を整え、俺は泉にうなづく。2012年7月1日。この日、俺は自分の運命を変えた。止まってた時間が、再び動き出した。


     

7月28日。向陽高校学園祭の日がやってきた。

私立向陽高校では夏休み直前の金・土曜日に学園祭が行われる。終業式は前の日に終わり、生徒達は遅くまで祭りの準備に取り掛かっていた。

俺はあの日のライブの後、結局入院する事になり、夜中に病院を抜けてライブを演って事、転んで病状を更に悪化させた事などを担当医から口酸っぱく叱られた。

俺は大人に叱られた経験が久しくなかったので少し不思議な気分だった。そしてアイコが再び俺の病室に現れる事はなかった。

その代わり、泉が見舞いに来てくれた。週に3、4回訪ねてくる泉とは高校の出来事や中学時代の思い出話をした。そして無事退院すると今日の学園祭に来てくれる様、約束を取り付けた。

大きくショーアップされた校門をくぐると近くで演劇部が声を張り上げながら練習するのが目に入った。演劇か。俺は中学時代に学祭で『三銃士』を演じたのを思い出した。

演じた、と言っても俺が担当した役は主役の三銃士の役ではなく、ダルタニアン役の大橋照之に「おお、ここがパリか?」と尋ねられ、「ああ、ここがパリだ」と一言、言葉を返すだけの村人Dであった。

なんとも間抜けな会話だ。ガスコーニュからパリを目指してやって来た若者に一言「ああ、ここがパリだ」と声を返す村人D。誰の記憶にも残らない村人D。パリだと言うのに村人はないだろう、と憤慨しながら演じたのを覚えている。


「『一人は皆の為に、皆は一人の為に』、か」

三銃士の名台詞を呟くと俺は自分が演っているバンドの事を思い出した。『THE TEMPOS』がもし劇になったら俺の役はなんて身勝手で愚かな役なんだろう、と想像してふっと笑った。


俺は自分のクラス、2年A組で担当教師からホームルームを受けるといつものように第二音楽室を目指して歩いた。

『いつものように』か。俺は放課後に練習や雑談をするために軽音楽部のある第二音楽室に訪れるのが当たり前になっていた。

俺がドアを引くといつものように平野と山崎が出迎えた。「よう、ワッキ!調子はどうだい?」平野が椅子に座り愛用のレゲエマスターのチューニングをしながら俺に声を上げる。

俺はああ、と声を返すと背中に抱えていたベースのケースを降ろした。「それにしても今年もトップバッターなんて、生徒会の連中、やってくれるぜ~なぁ、あつし君!」

話を振られ、後ろ向きにした椅子の背に手をかけて座っていた山崎あつしが顔を上げる。「そう言えばこないだ、ミヤタと話したよ。ティラノ、覚えてる?ミヤタのこと」

「ああ...青木田と一緒にボク達をイジめてた連中の一人だろ?」平野が忌々しい記憶を思い起こすような顔をして言った。「そのミヤタなんだけれどさ、」山崎が心なしか嬉しそうな顔をした。

「こないだのおれ達のライブ、観に来てくれたんだってさ。ライブハウスのノートに名前あったから『観に来たの?』って聞いたら『お前らの音楽、悪くなかったぜ』って褒めてくれたんだ。
まだ、ベースは続けてるみたい。機会があったらバンド組みたいって話してたよ」

「そっか...」平野がギターを抱え、椅子に深く腰をかけた。「去年はボクのせいでミヤタはステージ上で炎上したんだもんな。それから早1年か。あいつらの分も今日は良いライブをしないといけないな」

独り言を呟くと平野は俺の方に首を曲げた。

「あれ?ワッキ、『なんだそれは?』って顔してない?」

平野にそう聞かれ、俺は今日のイベントを思い出した。9時20分からグラウンドで学祭ライブが行われる。そこで我ら『THE TEMPOS』がライブを演る事になっていた。

「忘れてない。準備はバッチリだ」「ほう、ならよかった」平野がギターのネックをクロスで拭きながら笑みを向けた。

「今度の曲は自信作なんだ」それを聞いて山崎も声を上げる。「ああ、今度の曲はなんて言うか、パンクって感じがする」

「そう!パンク!」じゃらーん、と手で弦を弾きおろしながら平野が声を張る。「ジッタリンジン、ラッドウィンプスの流れを汲んだ『もし~だったら』シリーズの決定版だ!やってやろうぜ!ブラザー!!」

「ああ、あの曲はその辺からパクってたのか」「パクリじゃない!オマージュだ!!」「おはよーございます」「先輩、おはようございます」

平野が立ち上がるとその後ろから1年生の伊藤と高橋が部室に入ってきた。その姿を見て山崎が二人に尋ねる。

「おまえ達のバンドも今日出るんだよな?」部長の言葉を受けていやー、という風に高橋が坊主頭を撫でる。伊藤が口元に笑みを浮かべて眼鏡を押し上げた。

「すいません、1年なのにトリになってしまって」「いいって。気にすんなよ」「どーせ生徒会の陰謀だろ」

平野が呆れたように両手を広げた。「もうボクも去年みたいにステージで全裸になったり脱糞したりしないのどうしてみんなボクを認めてくれないのか」

「人に赦してもらう、ってのは時間がかかるんだよ」体験談を語るように俺は平野に言葉をぶつける。高橋が明るい笑みを浮かべて山崎に言った。

「いやー、最近ジローのヤツがやたら熱心に練習するようになりましてね。天変地異か何かの前触れかも、って伊藤と話してたんですよ」
「そういえば最近あいつ、自慢話しなくなったよな。真面目になった」

「嫁の空気が抜けたんだろ」

平野が清川ジローを揶揄すると入口のドアが開いた。「ほら、噂をすればなんとやら、だ」清川は俺の姿を見ると俺に向かって声を発した。

「鈴木先輩、ちょっと話があるんスけど、いいっスか?」

俺はその言葉を受けて壁の時計を見つめた。時計は8時40分を指している。「ああ。問題無い」俺が声を返すと「ワッキ」と後ろから声がした。

「ライブ、時間、わかってる?」なぜかカタコトの山崎に「大丈夫、わかってる」と告げると俺は清川と部室を出た。

「屋上へ行こう。まだ露店は出ていないはずだ」俺は自分が学校で落ち着ける屋上を話場所に選んだ。短い階段を登り、重いドアを開けると初夏の風が俺達の間を通り抜けた。

手すりに手をかけると俺は清川に振り返って聞いた。

「で、何だ?俺と殴り合いでもしよう、って話か?」「いや、そんなんじゃないっスよ」頭を掻くと清川は俺に向き直った。

「俺、あんたの事、誤解してた」清川は俺に向かって言葉を続ける。「対してベースも弾けないのにカッコつけて肝心なトコで逃げ出すようなヘタレ野郎だと思ってた」

「おいおい...」俺は呆れて外に目線を移した。水飲み場に大きなやぐらが運び出されている。

「あの日、実はオレもライブ観に行ったんスよ」

意外な告白に俺は清川を振り返る。自分の感情を伝えようと、ジェスチャーを交えながら清川が俺に言った。

「いや、ホントは行く気がなかったんですけどね。その日嫁、つーか彼女と別れちゃって。イライラしてセンパイ達でも冷やかしに行こーって感じであのライブハウスに行ったんスよ。
そしたらなんかこう、センパイの演奏見てたらオレもテンションアガっちゃって。走り出したくなっちゃったんスよ。エイドリアーンって感じで。
訳わかんないっスよね、でもオレも頑張れば変われんのかな、とか思っちゃったり?ああ、これ、ティラノセンパイ達には内緒っスよ?」

いたずらっぽい顔で指を立てる清川を見て俺はふっと笑った。「俺達のライブがお前にとって有意義なモノになったらそれはそれでいい。アーティスト冥利に尽きるね。まったく」

「あ、それと」清川が言葉を付け足した。「センパイ、ライブの後、女の人に抱きついて泣いてたっしょ?あそこ、最高にロッキーだった。センパイってああいう娘が好みなんでスね」

「おい、コラ!おまえ!!」俺は顔から火が出る思いで清川に向かって叫んだ。清川は笑いながら屋上の入口に向かって走り出していた。「じゃ、センパイ、ライブ頑張ってくださーい!」

ロッキーのテーマを鼻歌しながら階段を駆け降りる音が聞こえる。ああ、恥ずかしい。あんな所を後輩に見られるとは。俺は自分の行動を少し悔やむと9時のチャイムと共に非常口の階段を降りた。

     

俺は非常口の階段を降りるとそのフロアにある美術室を目指した。部屋のドアを開けると予想通り、グリグリ眼鏡でおさげを下げた女の子がひとり、彫刻を前にして座っていた。

彼女は俺の姿を見つけるとぼーっとしていた意識を取り戻し、俺にぺこっと頭を下げた。俺は社交辞令である笑顔を返さずにその女に近づく。

「今から外でライブを演る」俺が告げると「あ、ああ。そうですか...そうなんだ...」と女は眼鏡を手の甲で押し上げる。あまり時間のない俺はすぐに本題を切り出す。

「観に来てくれないか?そうしてくれるとあいつも喜ぶ」「え、えっと」女が顔を赤くしてきょろきょろと視線を外す。「ちょっと、あなたの言ってる事がわからないです...」

「じれったいな」俺は彼女の椅子の背もたれに手をかけて言った。

「好きなんだろ?平野の事」「え!?」

女が声を裏返してその場を飛び退く。「気付かなかったとでも思うのか?」俺は頭を掻きながらここ数日の彼女の行動を振り返った。

用もなく第二音楽室を覗きに来たり、壁の影から平野の後ろ姿を見つめている様子を俺は何度か目撃していた。可愛らしい、子供じみた恋愛表現だと俺は思う。

「ちょっと、ちょっと...」

女が頭と口の間で言葉を繋げられないでいると俺が確信に迫る言葉を彼女にぶつける。

「やっぱりそうなんだな?」「は、はい...まぁ」

女がもじもじと下を向いた。「別に悪い事じゃない」俺は窓の外から風景を眺めた。学生服のカップルが松の木の下でキスをした。その二人から視線を外すと俺は彼女に告げた。

「あいつが欲してるのは理解者だ。音楽的な事じゃなく、自分を肯定してくれる存在。認めてくれる人間。君がそうなってくれればあいつもアーティストとしての幅も広がると思うんだ」

女の子は俺を疑うような眼差しを向けた。「道具、ってわけですか?私は?」「すまん。言い方が悪かった」

俺は頭の中でうまいワードを組み合わせる。しかし彼女の恋を後押ししてやる言葉がなかなか見つからなかった。

「とにかくだ、」俺は彼女に向かって声を発する。「あいつを好きだと思っているんなら、自分の気持ちを伝える事だ。それが原理として一番正しい」

「そ、そんな事が出来れば苦労はしないですよ!」女の声が上擦った。俺は驚いてその娘に目を向ける。想いを振り絞るように彼女は続けた。

「彼は町の人気もので、ロックスターで、私はただのしがない漫画家志望の女なんですよ!?そんな二人が結ばれるわけないじゃないですか!?」
「結ばれないな、現状だと」

あえて厳しい言葉を俺は彼女にぶつける。「今の状態だとそうだ。あいつは君の気持ちに気づくのに時間がかかるだろう。その間にあいつを好きになる女も出てくるかもしれない。
恋愛ってのは早いもの勝ちだ。レジに並ばないと買い物は出来ない。そうだろ?」

俺の言い回しが伝わったのか、彼女は言葉と想いを反芻(はんすう)するようにうなづいた。「でも、そんなの無理」うつむくとあざけるように彼女は笑った。

「私、恋愛するのが初めてで、恋っていうのがよくわからないんですよ。でも家に居る時や寝る前に考えるの。あの人の隣にいたいって思う。あの人の恋人になりたい、って思うの。
原理とか、原則とかあの人の前に立ったらそんなの吹き飛んじゃう」

俺はそれを聞いてふっと笑った。「な、なんなんですか!馬鹿にして!!」顔から湯気を出しながら彼女が俺を咎めた。

「それはひどい症状だ。ウイルスだ。熱病だ。でも、世界はそれを、」「愛と呼ぶんだぜ、ですか?」「そう!」俺がピン、と指を弾くと彼女もにっ、と笑った。しばらく笑い合うと俺は彼女に尋ねた。

「君の名前を教えてくれないか?」眼鏡の美術部員が俺に視線を返した。女性を君とか女とか抽象名詞で呼ぶのは気が引ける。

「小豆平美雪です」「あずきだいら、さんか。ユニークで素敵なお名前だ」そう言うと小豆平さんは俺をみてにこっと笑った。

「ライブ、観にいきます。想いを伝える事が出来るかわからないけど」それを聞くと俺はドアに向かって歩いた。「鈴木和樹さん、」声をかけられて俺は振り返る。

「あなたの恋も叶うといいですね」それを聞いて俺はふっと笑顔を返す。見透かされていたのか。照れ隠しで頭を掻きながらドアを閉めると俺は後ろの通路を振り返った。

「居るんだろ?そこに?」俺が問いかけると黒い影がヒュ、と後ろに引いた。「隠れてないで出てこい、アイコ」

俺が呼びかけると寂しそうな目をしたアイコが俺の前に姿を現した。「お兄ちゃん、行っちゃうの?」俺にとって辛い妹との別れが始まった。

     

俺は妹のアイコに話をした。おまえは俺の想像上の妹である事。俺は自分の中の幻想世界を捨て、外の世界で生きていくという事を噛み砕いた表現でアイコに伝えた。

アイコは俺の言葉にうなづいたり、首を振ったりした。とても俺の決断に納得できない、理解できないという様子だった。学園祭の開始を告げるチャイムが鳴った。

もういかなければならない。「アイコ、」俺は妹に告げる。短く、深い愛の言葉を。「愛してる」それを受けてアイコは目に涙を浮かべた。

「そんなこと、言われたら、消えられなくなっちゃうじゃない」唇を噛み、俺は同じ言葉を繰り返す。「愛してる」それを受けてアイコは歩き出した。

そして通路の角に差し掛かると一度だけ俺を振り返った。「さよなら、お兄ちゃん」アイコの姿が消えると俺は3歩、そちらに向かって歩き出したが、やめた。

悲しみに暮れている暇はない。今の俺にはやる事がある。想いを断ち切るように、決心を確信に変える為に、俺は玄関に向かって駆け出した。


「さぁ、やってきました向陽高校学園祭!学祭ライブのトップを飾るのはご存知!ティラノ洋一率いる『ザ・テンポス』です!!」

玄関で靴を履き替えるとグラウンドから歓声が響く。進行役がライブの概要を伝え始める。急がなくては。すると後ろから声をかけられる。

大きな影に意を決しておまえは振り返る。見よ。その桜田という男は20分後におまえの演奏を見て感涙し、
「見ろ!これが俺の知る鈴木和樹だ!!俺が尊敬する、誇りに思う男の歌だ!!」と校庭中に響くような声で歓声をあげる男だ。

しかし今の桜田にその前兆はなく、冷たい眼差しでおまえを見下ろしている。「ライブは始まったはずだ。逃げるのか?」

それを聞いておまえは言い返す。「ちょっと色々取り込んでててな。今から参加する」それを聞いて桜田は笑う。

「本当だ。命を賭けよう」「小学生のガキか、お前は」ガキ大将だった桜田の声は治りかけたアバラ骨によく響く。

もし桜田が音楽の魅力に取り憑かれ、ボーカリストを志していたらこんな所で俺に絡まなかったはずなのに、とおまえは思う。

「あんたも観に来てくれ。俺が逃げないよう、客として見張っててくれ」「ほう。それは楽しみだ」

顎ひげを撫でる桜田を見ておまえは踵を返す。グラウンドの歓声が大きくなっていく。


「ども!皆さん、ステージで脱糞して以来ですね。みんなのアイドル、ティラノんこと平野洋一です!ヨロシクゥ!!」

バンドメンバーのティラノ洋一が調子よくマイクを掴むと生徒達の歓声が笑い声に変わる。おまえはグラウンドに向かう足を止め、入口の露店に向かって駆け出す。

逃げるのか?いや、おまえにはある確信があった。あいつはまだグラウンドには行かず、ここに居る。ティラノがメンバー紹介を始める。

「スペシャルテクニックマスタードラマー、略してスペルマドラム、山崎あつし~」「意味分かんない説明するなよ!」

あつしのタム回しを笑い声が包み込む。「それと、」思わぬメンバーの紹介にお前の心音は跳ね上がる。

「正規メンバーがまだやって来てないので...もう2回目です。もう慣れっこです。穴埋めメンバー、ミヤタショウヘイ!」

おまえが安心して息を吐き出すと、驚きの声とベン、ベン、と弦を弾く音が響く。

「おまえがメンバーいないって言うからステージに上がっただけなんだからな!高校生活最後の思い出に学祭ライブに出て目立とう、って算段じゃねぇからな!」

「皆さん、ツンデレサポートメンバーに大きな拍手を~」「いや!そんな!でへへ...」

おまえの代わりにベースポジションに立っているであろうミヤタという男に観客の暖かい拍手が贈られる。おまえは首を回してあの女の姿を探す。

「それでは時間もおしてるようなので...イっちゃいましょう!学祭1曲目!『ガールフレンド』!!」

ティラノが新曲のタイトルコールをすると観客が静まる。ギターをかき鳴らしながらティラノがマイクに顔を近づける。今年度の学祭ライブの幕が上がった。

「ボクがキミの恋人になったら四六時中キミを想うだろう。汚れたテディベアを捨ててキミを抱いて眠るだろう」

愛を想う歌詞を聞きながらおまえは露店の前を一件、一件周る。中庭でピエロの格好をした男が一輪車の前でお手玉を繰り広げている。

人数の足りない吹奏楽部が応援歌の練習に明け暮れてる。風船屋がガスをビニールに詰め込んでいる。

居た。りんご飴屋の影に同じ学校の友人と一緒にこの学園祭にやってきた泉あずみを目指しておまえは腕と足を振ってその影を追いかける。

「泉!」声をかけられて浴衣姿の女が振り返る。女は「どうしたの?」という表情を浮かべたが彼女は最初からおまえがここに来る事を分かっていた。

隣にいた友人が「あ、私他の娘と話してくるね」と舞台から退場する。その舞台の上でおまえは泉に向き直り、呼吸を整えて泉に告げる。

バンドの演奏が大きくなっていく。「キミがもしもボクのガールフレンドだったら~」

「泉!俺、ずっとおまえの事が...!」「大切にするよ~」

ティラノの歌声がおまえの告白を打ち消した。手を離した風船が空に浮かび上がり、吹奏楽がファンファーレを奏で、ピエロは転倒して額をアスファルトに打ち付けた。

おまえは一世一代の告白を邪魔されて頭が真っ白になる。「え?」泉が今のおまえの言葉を聞き返す。「ああ、もう!平野の野郎!!」

おまえは行き場のない怒りで地団駄を踏む。「ライブ!ライブを演るから!!」開き直ったようにおまえに言われて泉はきょとん、とした表情を向ける。

「その後に、今言った事、もう一度いうから!だから観にきてくれ!いまからステージに立つから!」「あ、うん」

呆気にとられたように泉がうなづく。おまえはグラウンドに向かって一目散に駆け出す。ずいぶんと大胆な愛の告白を振り返って恥ずかしくなる。

その間にも演奏は続く。「キミがもしもボクのガールフレンドだったら~、キミがもしもボクのガールフレンドだったら~世界で一番、大切にするよ~」


「悪い、通してくれ!」1曲目が終わるタイミングでおまえはステージ裏の楽屋に潜り込む。ステージの3人を大歓声が包み込む。

おまえは運び込まれていた自分のベースを左手で掴むとステージに繋がる階段を目指した。その入口には髪を栗毛色に染めた板野やよいが腕を組んで壁にもたれかかっていた。

「遅れてすまない」おまえの言葉にやよいは薄いくちびるを開く。「8分と43秒、遅刻よ」すれ違い様にハイタッチを交わすとおまえは階段を登り、出口で僕の姿を見つける。

おまえは一瞬躊躇するが、自分のやるべき役を思い出して僕を素通りする。あの日から一回り成長したおまえに僕は言う。

「見せてくれよ。村人Dの脇役っぷりをさ」村人Dはもういない。「三銃士は見つかったのか?田舎者」

俺は主役を待つ一大舞台にあがる。「ああ、魅せてやるよ。村人Dのその後をな」かんかんと照らす光りの中、自分の名を呼ぶ渦の中へ俺は飛び込んでいった。


これは俺の、鈴木和樹の物語だ。

       

表紙

まじ吉 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha