エロ本というものの極意は捨てることにあると黒鉄鋼は思っている。
保存することが邪道だ、とは言わない。すべてを保管し、ジャンルごとに分け、手に取りやすいよう工夫し、すべてにビニールカバーをかけることも悪いことではない。それは人の趣味嗜好の範囲だし、自分がとやかく言って直させるようなことではない。
それをわかっていてなお、鋼はエロ本を捨てる。ひとつのダンボール箱に保管できるエロ本はおおよそ三〇冊。そこから溢れたものは必ず捨てなければならない。三一冊目はないのだ。
それがルール。
エロ本を捨てる時はいつも悩む。一度読んで満足したものは次の週にでも古紙回収に出してしまうが、残しておきたいものは秘蔵の三〇冊のどれかと交換しなければならない。鋼はいつもダンボール箱の中から一冊一冊を丁寧に取り出して、万年床以外にはなにもない六畳間に丸く並べる。そうして殿堂入りのエロ本と、膝の上に置いた新入りを火が点くほどに見比べるのだ。
そうしていると鋼はいつも、途方もない充実感の中で、いいエロ本とはなんだろう、という思いに囚われる。
それは、好みの女の子が表紙を飾っている号か。それとも連載されている官能小説が伝説的な盛り上がりを見せた号か。あるいは特定のシチュエーションに凝った特集が組まれた号か、それともいっそ初恋の女の子が成長したようにしか見えない素人娘を集めた増刊か。いつも悩む。そうしているうちにだんだん悩みが細分化されていって、いいシチュエーションとはなんだろう、自分が一番グッと来る髪形やスタイルはどれだろう、読みやすい文章だが作者とは絶対に酒を飲み交わせないだろう官能小説と、読みにくくハードで吐き気すらするが絶対にこいつは天才だと思える官能小説どちらが「いい」ものなのか、ここまで来るともはや答えの出しようがなく、鋼はいつも最終的には気分にすべてを任せてしまう。直感で、ただし目をつぶることだけはせずに、一冊選んでそれを捨てる。殿堂入りの中から選ぶこともあるし、新入りを諦めることもある。そうして大抵の場合、どっちを選んでも後悔する。宝物を持ち去っていく冷酷非情な古紙回収車を裸足で追いかけようとしたことさえある。
失ったものの大きさに身もだえして頭を抱えていると、生意気な後輩からは、そんなに苦しいなら全部取っておけばいいのに、と冷め切った目を向けられる。確かに理屈ではそうだ。鋼の部屋は安普請とはいえエロ本ごときで床が抜けることはないし、部屋にはテレビもゲームもパソコンもない。布団と、そしてひとつの黒いダンボール箱があるだけ。あとはせいぜいその日その日に食い潰したコンビニ弁当の容器やティッシュの空き箱が転がっているのみ。とっておこうと思えばできる。
だが、鋼はそうしなかった。そうしてしまうと、途端にエロ本への情熱が薄れていってしまいそうな気がした。そして鋼が恐ろしいのは、いまや自分の人生の目的となったこのエロ本の蒐集と廃棄をやめた後に残る、死ぬまで続く倦怠の方だった。それに比べれば捨てたエロ本の中身を思い出そうと深夜の二時に頭抱えて悶々としている方がずっとマシだった。鋼はなにも思い出したくなかった。自分がボクサーだったことも、自分の右腕がもう無いことも。
何も考えたくなかったし、何もやりたくなかった。
新しい人生へと踏み出した黒鉄鋼の一日は、驚くほど虚しい。
カレンダーを見てエロ本の発売日なら昼過ぎに近所の書店へいってその日に出たエロ本を全種類買う。最初は冷徹な目を向けてきた女子大生らしきバイトの女の子も、いまではなかば尊敬の眼差しを向けてくるようになった。周りに子供がいようが人妻がいようがお構いなしに真昼間からエロ本コーナーに突撃して堂々と女子店員のレジにお目当てのブツを置く姿はかえってなにがしかの使命感すら覚える。『エロ本しか買わない片腕の兄ちゃん』と言えばその界隈の小学生なら知らないやつはいない。一時期は鋼の尻を後ろから蹴っ飛ばす遊びがガキどもの間で流行したこともある。鋼はそれでみんなが楽しい学校生活を送れるならそれでもいいかと思って黙って蹴られていた。少し効いた。
一年もそんな日々が続くともうずっとそんな暮らしをしてきたような気がする。もう朝早くからロードワークに出ることも、ひたすらにサンドバッグを殴り続けることも、汗臭いヘッドギアを着けて3階級上の先輩とスパーリングして顔面を腫らすこともない。大の苦手だった縄跳びなんぞはみじん切りにして捨ててやった。もうボクシングなどしなくてもいいのだ。そうとも。
したくても、できない。
夜、ふと夢の名残を嗅ぎながら目を覚ますことが今でもある。布団の中で鋼は全身汗だくで、闇の中を凝った目玉でぎしっと見つめている。木目も見えない闇の向こうにさっきまで見ていた夢が浮かんでくるような気がするのだ。そうしてだんだんと聴こえてくる。本当にリアルなほどにハッキリとした、雨のような拍手と自分の名を呼ぶ歓声が。
トレーナーにならないか、と白石会長には薦められた。なにせ事故に遭ったとはいえ元・国内チャンピオン。その教えを請いたがる後輩は多かったし、仮に含むところがあったとしても、誰もまだ生きている鋼の左を前にして偉そうなことなど言いたくても言えなかっただろう。ミット持ちもへたっぴに任せるくらいなら片腕でも元王者の方がよっぽどいい、などと言って慕ってくれるやつもいた。だが、鋼は首を縦には振らなかった。
「いいよ、やめとく」
「先輩……でも、せっかくですから、受けてみたらどうですか?」
「俺は感覚だけでやってたから。お前らに変なクセつけさせちゃ悪いよ」
「そんなことないですよ。先輩のボクシングには華があった。みんな、先輩に憧れていたんです」
「いいんだ」
「先輩……」
「気にするなって。俺はべつに、困ってるわけじゃないから」
しかし本当はそれも建前で、鋼は心の底ではこう思っていたのだ。
――楽しそうに右腕を振っているやつをずっと見ていたら、きっと我慢できない。俺は、そいつを残った左で殴り殺してしまうだろう――
恩に着ているジムの床を血みどろにするわけにはいかない。
鋼はトレーナーを辞退し、右腕を売って得たような、障害者年金を食い潰す生活を始めた。最初は頻繁にお見舞いに来てくれた後輩たちも、日を追って顔を出さなくなっていった。たぶん、それには鋼の大事な大事な黒い箱も無関係ではないだろう。誰だって憧れていた人間の落ちぶれた姿なんて見たくはない。ましてやボクサーの。
十八歳の日本王者も、たった一年でただの無職に成り果てた。
いま。
鋼の前に、二冊のエロ本がある。
鋼はそれをあぐらをかいた膝前に置いて、いったいどちらで腹を切ろうかと考えているように微動だにしない。
問題の二冊のうち、一冊は鋼が前から所有していたものだ。表紙は麦藁帽子にワンピースを着た、雨のように長い黒髪を散らした女の子が前かがみにこちらを見下ろしているもの。一見するとエロ本に見えないが、そういう趣旨を持って作成されていて、中を開くとまず机に座って窓の向こうを見つめる制服姿の女の子の白黒写真と、短い小説が載っている。シチュエーションの内容は、友達のいないクラスメイトの女の子に冴えない男子が声をかけてみようと思い立つ、というもので、順繰りにめくっていくとピンナップと共に小説のストーリーが続いていくという、よくもこれを五〇〇円で売る気になったなと言いたくなるほど凝った作りになっている。確かに最終的にはアダルトな展開になってしまうのだが、付属の小説の出来がまた悔しいほどによく、これはもうほとんど青少年が初めて女の子と付き合っていく際の指南書と言っても言いすぎではない。鋼はもうそれを長い間、ベルトを獲る前からお気に入りの一冊として引っ越す時も捨てずに持ち越したほどの気に入りようだった。版元に在庫が残っていれば保存用と布教用にも買っていたところだ。
もう一冊を鋼は手に取ってみる。こちらはさっき買ってきたばかりの新品で、この蒸し暑い部屋の中で鋼がひとり頭を悩ます羽目になった元凶である。表紙はショートカットで童顔気味の女の子が片目を瞑って人差し指を唇の前に立てているもの。店頭で見かけた時に思わずまじまじと覗き込んでしまったほど、鋼はその子に一発で魂を抜かれた。中身はさして珍しくもないコスプレもので、メイド服やチャイナ服をその子が着回していくだけのものだし、中にはその子じゃない女の子がコスプレしているピンナップもあった。完成度で言えば黒髪ロングのワンピ少女に軍配が上がる。なにせ向こうは一度も王座を明け渡したことのない、いわば鋼のエロ本の中の女王である。
冷静に考えれば、ワンピ少女だ。
だが、それでも鋼はショートカットを捨て切れなかった。
両方取っておけばいい、という意見はきっと誰もが言うだろう。あるいはどうしても三〇冊に収めたいのなら、なにも頂上決戦などせずにどの道いずれ引退を迫られる三流雑誌のどれかを捨てて、ショートカットの子をナンバーワンでもツーでも末永くワンピ少女と共に君臨させてやればいいだけのこと。何をわざわざ誰に強いられたわけでもない二者択一に拘るのか――
鋼にも、それはわからない。
それでも、鋼は思うのだ。
頂点というものはひとつだから「いい」のだと。
ここで欲に負けて、二冊両方どちらが上でも下でもない、どっちもよくてどっちも抜ける、そんな風にこの土壇場を誤魔化したら絶対に自分は後悔する。
確信がある。
この二冊の内、どちらかが生涯最高のエロ本になるという確信が。
だからこそ、どちらかを捨てねばならない。理由などない。
最強は一人でいい。
鋼は迷った。
それでもやっぱり、鋼はワンピ少女とさよならすることに決めた。決着は愛着でついた。蒐集家になる前からの付き合いの彼女には、今の自分などとても見るに堪えないだろうと思ったから。
決めたからにはすぐに動いてしまわなければならなかった。鋼は部屋の隅に重なっていた四流の上にワンピ少女を乗せて、そのまなざしに最後のお別れを済ませてから左手と両足を使って本を縛った。片腕で雑誌を縛るのにはコツがいる。鋼は今でも慣れない。
やっとのことで本を縛って、アパートの下まで持っていった。電信柱の影の中にそれを置き去りにする時に身を裂かれるような思いがした。
手を伸ばしさえすれば。
手を伸ばしさえすれば、何もかも元通りになるのに。
鋼は部屋に戻った。
万年床の中央には、新しい女王が鋼に笑顔を向けている。その笑顔はまぎれもなく鋼の心を打つ本物だったし、女王として不足はない。これから鋼はきっと彼女に満足していくだろう。失ったものは大きい、だがそれゆえに残ったものの輝きが増す。だから、これでよかったのだ。
ぺらりぺらりとショートカット少女のコスプレシーンを物色していると、ピンポン、とチャイムが鳴った。新聞屋はここに住んでいるのが誰なのか又聞きで知っているのか一度もやってきたことはないし、新興宗教は長く続く不況のせいで組織の維持すら覚束ないらしかった。となるとこんなろくでもない部屋にやってくるのは後輩の誰かか、それとも何かの間違いか。
がちゃり、とさほど警戒もせずに鋼はドアを開けた。外の空気と一緒に、何か懐かしいにおいがした。
雨のように長い黒髪を散らした少女が、ドアの向こうに立っていた。
「――黒鉄鋼さん、ですね」
「――――……」
まだ衝撃から回復していない鋼に、少女はすっと一歩近寄った。
「突然、ですが治験に興味はありませんか?」
治験、その言葉で鋼は急速に現実感を取り戻していった。よくよく見れば少女はあのモデルよりも若かったし色白だった。目元には涙ぼくろが浮いている。しかも3つ。服装だってワンピースじゃなくて無地のカッターシャツに薄緑色のカーディガンを羽織っていて、下はフレアスカート、荷物は肩から提げたクリーム色のポシェットと、いったいどこの箱入り娘さまですかという感じだ。
知らないやつだ。
「治験? バイトってこと?」
「ええ――そうなりますか。バイト、というには少々拘束時間が長いのですけれども」
「なんで俺に? なにかの悪戯?」
「違います」
少女の瞳は決然として揺らがない。
「厳正なる選定の結果、あなたが被験者候補に選ばれたのです」
嘘くさいにもほどがある。鋼は誰か笑ってやしないかと周囲を見回しながら言った。
「治験って、新薬が人間に効くかどうか実験台になるバイトだよな」
「おおむねそう思って頂いて結構です」
「いくらもらえるの?」
「その答えはいくつかあります」少女は指を一本立てた。
「薬が効かなかった場合、百万円ほどお支払いさせて頂きたいと考えておりますが」
「百万……」
鋼は気のない声で言った。百万円。なるほどたかが新薬の臨床実験にしては高額かもしれない。目の色変えて飛びつくやつもいるだろう。
だが、人生を変えるには少しばかり、はした金だ。
「中に入ってもいいですか? ここは少し陽が当たるので」
「え? ああ、どうぞ」
気になることが多すぎてすんなりと少女を部屋へ上げてしまった。後悔したのは万年床にででんとご開帳されているサイケデリックなピンナップとそのお仲間をぎっしり詰め込んだ黒ダンボール箱に気づいてからだった。しまった。
百に一つの可能性を信じ、何も言わずに座って、何食わぬ顔でショートカット少女の雑誌を手に取ろうとしたが、その手が空を切った。鋼は信じられない思いだった。この女マジかと思った。
少女は、パラパラと鋼のエロ本を眺め始めた。
いったいこれはどういうことなのだろうと鋼は思う。とうとう暑さと孤独にやられて脳がバグったか。何もかも幻覚と幻聴が織り成す万華鏡か。それならそれでいいか。
鋼がじっと見ていると、少女はぽいっとエロ本を放り捨てた。(なんてことしやがる!)と鋼は泣きそうになったが、エロ本はとぐろを巻いたタオルケットに落ちてことなきを得た。
そして少女は、エロ本を見ていた時と少しも変わらない、シャーベットのような冷たい目で鋼を見つめ、言った。
「元日本スーパーフェザー級五十二代チャンピオン、黒鉄鋼」
その言葉は、今の鋼にとって、罵声にも等しい。
鋼の目の色が、変わった。酒乱のそれに近い。
「それが今では」
氷の瞳が今度は黒い箱へ注がれる。
「アダルト雑誌の蒐集家ですか」
もう、こいつを夢か幻かなんて思わない。
鋼は自分の左手で、右肩の付け根をぽんと叩いた。顔は杭で打ったように少女の方を向いている。
「知ってるか、ボクシングってのは両手があるやつの格闘技なんだ。両の拳がないやつはリングに立っちゃいけないんだ」
「知っています」
「俺は立ちたくても、もうリングに立つことはできない。俺がどう足掻こうともだ。残った左にグローブはめて吼えて見せても誰も相手になんかしてくれない。ただ哀れそうな顔でリングを下りてどこか静かな場所で元気に暮らしていってくれとお祈りされるのがせいぜいだ」
鋼は少女を貫くように睨んだ。
「――俺にどうしろって言うんだ、ほかに」
そんなことは、鋼が一番、知りたいのだ。
鋼は唇を噛み千切りそうになるのを、こらえた。
「なあ、頼むから出て行ってくれないか。俺はあんたを敵だと思い始めてる。もし完全にそう思ってしまったら、俺はきっとあんたを殴る」
ボクサーの拳は、見るよりも速く飛んでくる。視神経が脳へと情報伝達する0,2秒を超えてその拳は空を
裂く。その向こうに十六、七かそこらの女の子の顔面を置くようなマネだけはしたくなかった。
それでも、自分は相手が敵だと思えば躊躇わずにやるだろう。
失うものなど、もう、どこにも無いのだから。
少女は、鋼から目を逸らさなかった。
触れただけで傷がつきそうな唇が囁いた。
「私はきっと、あなたにチャンスを持ってきたんだと思います」
はっ。
今度は影も形もようとも知れないエセ自己啓発か。
鋼が疑いと怒りの念が左拳に宿らないように苦心惨憺している間に、少女はポシェットから何かを取り出した。
どこにでも売っている板チョコレートの包みだった。少女が銀紙を剥いで、ぱきりと一欠けらを割り取る。それを指でつまんで、手品師のように鋼の顔の前に掲げてみせる。
「これが、あなたに試して頂きたい新薬です」
鋼は思わず鼻で笑ってしまった。次はいったい何を言い出すのか。このわたちの愛をいっぱい溶かして固めたお薬が、あなたのお胸の痛みを綺麗綺麗に取っちゃうの! そこまで言ってみせて片目を瞑りぺろりと舌まで出したら半殺しで許してやろうと思う。そうして仕掛け人を見つけ出し、生まれてきたことを後悔するまでぶん殴る。
だが、少女は鋼の想像をいくらかだいぶ超えてきた。
「この薬を正しい用法・用途を守って服用すれば、あなたは、特殊な能力に目覚めます」
「特殊な能力?」
「簡単に言ってしまえば、超能力です」
はっ。
お笑い種だった。
この期に及んで超能力か。捻りも何もなくてかえって脱力してしまった。そうだろうな、その程度がせいぜいで、これ以上の驚きを引き起こす悪戯というのはちょっとやそっとのセンスと才能じゃおっ着かない。誰が描いた絵だか知らないが多少はハラハラさせてもらった。だが、それも仕舞いだ。劇は終わった。役者には帰ってもらおう。
鋼は立ち上がった。もはや容赦しなかった。まだ一度も使ったことのないガラスの灰皿を鷲づかみにすると躊躇うことなく少女の背後に向かって投げた。引き戸のガラスが粉々に砕け、灰皿のそれと混じりあって小さな欠片になって畳に降り注いだ。
ひどいことをしている自覚だけはあった。
「帰れよ。もう遊びは終わっただろ? 彼氏んとこ走っていって、よくできましたって褒めてもらえよ。仕掛け人は誰だ? 虹山ジムの田口か? それとも猿渡のおやじんとこの馬鹿兄弟か。どっちもスパー組んだ時に壊れるまで殴っちゃったからな。ごめんって言ったのに。まあなんでもいいやとっとと帰れ、俺は忙しいんだ、あんたが投げ捨てたエロ本とちょっと野暮用があるんでな」
少女は動かなかった。
「仕掛け人なんて、いません」
鋼は一瞬、二の句が継げなかった。だが、ここで怯んだらこっちの負けだ。息をそっと吸う。小さく細かく速く、言葉のショートパンチで一気呵成にまくし立てた。
「ああわかってるよ皆まで言うな、そう、確かにあんたの言う通り仕掛け人なんていなくって、俺はその怪しげなチョコを食べて超能力に目覚めるんだろう。急に力が身体に漲り、だるさは消えてお目目ぱっちり、それはひょっとすると麻薬をキメた時に似ているかもしれないが、それは神をも信じぬ哀れな愚か者の常套句で、あんた方のは正真正銘の神通力、たとえ本当に空に浮かんでなんていなくたって俺がそうだと信じてられればそれでよし、いったい何の問題がある? 片腕を失ってこんな狭苦しい牢獄同然の六畳間でエロ本片手にかつての栄光に浸るしかないどうしようもなく哀れなこの俺が救われるには信仰を深め壷を買いあんた方の言うところの神の言葉を代弁する教祖さまに誠心誠意尽くすほかにはないんだ。それには一にも二にもまずカネで、あんたたちはそのチョコだかなんだかで俺をふらふらの狂信者に仕立て上げ、足元もおぼつかない俺の襟首を猫みたいに掴み上げながら俺の親類縁者にこう言うんだ、カネを出せばこいつを救ってやる。そうして昔は一家に錦を飾ったこの俺に、みんなはお金を出し合ってくれ、あんたたちはそれを拾うために俺から手を離し、あとには自分ひとりで小便にもいけないズタボロのジャンキーに成り果てた腕一本の生ゴミがその場に取り残されるという筋書きだ。
ちがうか?」
きっと聞いていなかったに違いない、と鋼は思った。
少女はなんの顔色も浮かべていなかった。本当に自分がまだ何も喋っていないのではないかと疑ってしまう。息が切れていなければそう信じて、もう一度まくし立てていたかもしれない。
少女は、鋼を見上げて言った。
「同じだとは思いませんか?」
「あ?」
「いま、ここで私の誘いに乗って、この欠片を飲んで――そう、気づいているかもしれませんが、私は薬の効果が現れなかった時、百万円を差し上げると言いました。では、もし薬が『効いて』しまったら――」
薬が効いてしまったら。
少女の目は、どこまで落ちていけそうな深さを湛えている。
「新しい力に目覚めるか、さもなくば――死」
死。
「それの」
上擦る、
「それのどこが同じなんだ。百万もらうのと、超能力者になることと、死ぬこと――どれがどう一緒だって言うんだ」
「同じですよ」
今度は少女が貫くように目を離さない。
「ここにいる限り、いえ、もう一度あの強さを取り戻さない限り、あなたは死んでいるのと同じです」
死んでいる。
俺が?
いつかも聞いた、セリフ。
「あなたは私に色々とまくし立てましたが、そのどれもが本当でも構わないとは思いませんか。仕掛け人がいる? そうされても仕方の無いと思えるほど情けない男が私の目の前に今います。新興宗教が金ヅルのジャンキーを増やそうとしている? お言葉ですがもし仮にそうであったとしても、あなたにお金を払ってくれる親類縁者などいないことはすでに調査済みです。薬が効かない? よかったですね、これからも続くこの下らない耽美な世界を私が差し上げる百万円でほんの少し豪華にしたらいかがです。死ぬ? だからなんだと言うのです。いま、この部屋でくすぶっているあなたのことをいったい誰が生きているなどと言えますか」
鋼は、一言も返せなかった。
首を切られて転がり落ちて、自分の身体を見上げている生首の気持ちがした。
「ですが、一つだけ確かなことがあります。もしあなたが死なず、負けず、新しい力を得ることができたら、脳の中にある未知の力が詰まった宝石箱のフタを開けることができたなら、約束しましょう。あなたをもう一度、リングへ上げてみせると。――もう一度、リングへ上がりたくはありませんか?」
もう一度、リングへ。
どれほどその言葉を待っていたか知れない。
思えば奇妙な話だ。エロ本の中から飛び出してきたような女の子が俺に生きるか死ぬかをとっとと決めろと迫ってくる。
もう一度リングへ上がりたいかだって?
上がりたいさ。
いますぐグローブ持ってジムに来いと言われればきっとすぐに飛んでいくし、左手一本だろうと尻込みなんて絶対しない。この左で世界ランカーの鼻っ柱だってへし折って、その頭蓋に二度と立ち上がれない激震を走らせてやる。
もし、もう一度、
俺に居場所をくれるなら、
今度は絶対、
離さない――
鋼は少女の顔を見た。そして、差し出された、その手の中にある一欠片のチョコレートを見た。シャーベット状の透明な外殻はこの暑さと少女の体温でかすかに汗をかいていて、その中に、どろりとしたチョコレートそっくりの溶液がなみなみと満ちている。
鋼は言った。
「もう一度聞かせてくれ。――なんで俺なんだ」
「言えません」
「俺を選んだのは誰だ」
「私です」
「じゃあ、俺が死んだらあんたのせいだな」
初めて、少女の顔色が変わった。
「――そうです」
鋼は、少しだけ頬に赤みの差した少女の顔をじっと見た。そして何も言わず、その指先からチョコレートに似たまったく異質な何かを受け取った。
掌に乗せる。
思った通りの、氷そっくりの手触り。表面に浮いた氷の粒々がいつかどこかで食べたアイスを思い出させる。その冷たさが急かしてくる、悩むのはいいが、溶ける前にしてくれよ。
鋼はそれを口の中に放り込んだ。右の奥歯に舌で押し込む。なぜだか少女の目が見れなくなって、畳に残った誰がつけたものとも知れない傷跡を見つめた。次第にそれも焦点がぼけてきて、鋼は無意識の緊張の中に溶けていった。鋼はもう何も見てはいない。
思い出す。
あの時、会長は心から自分を心配してくれていたのだ。何もかもが変わってしまったあの日、9Rが終わってニュートラルコーナーに帰ってきた時に聞いた白石会長の助言は最初から最後まで何一つ間違っていなかった。自分は精密検査を受けるためにリングを去るべきだったし、もしそうしていたらベルトこそ獲れなかったが自慢の右を失うこともなかった。脳にこそ甚大な障害は発生していなかったものの、運命的には会長に従うことが正しかった。
だから、今日もそうなのかもしれない。この欠片を口にしたら自分はあっけなく死んでしまうのかもしれない。いまここに白石会長がいたらそんな怪しげな女の差し出す毒薬まがいのゲテモノなんか口にするなと言ってくれるのかもしれない。だが、それでも、鋼の耳には少女の言葉がわんわんと反響して鳴り止んでくれない。
――もう一度、リングへ上がりたくはありませんか?
鋼は少女を見た。少女も鋼を見た。
最後に聞く。
「あんた、名前は?」
少女は一瞬、躊躇った後に名乗った。
それを聞いて、鋼は笑った。
とりあえず、冥土の土産はこしらえた。
笑いながら、躊躇わず、
鋼は奥歯を噛み締めた。
ぱキッ
氷の外殻が砕け、中の溶液があふれ出した。舌先にそのどろりとした食感を覚えた瞬間、鋼の脳みそが電流に撃たれた。目玉が破裂するかと思った。その場に倒れ込み、痙攣し始めた身体を抑えることもできず、鋼はただ自分を見下ろしてくる少女の顔を滲んだ視界に捉えていた。その表情は曇った瞳に遮られてよく見えなかった。
遠のいていく意識を感じながら、鋼は思う。
綺麗な薔薇には、棘がある――きっと恐らく、毒だって。
どうして、もっとよく考えなかったのだろう。
いまさら気づいても、もう遅い。
だが、よく考えてみたところで、何が変わる?
べつに、いまがいまだから誘いに乗ったわけじゃない。
俺は、いつだって――……
答えに辿り着く前に、意識がブラックアウトした。