Neetel Inside ニートノベル
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 控え室では記者たちによるフラッシュとインタビューの波状攻撃が行われていた。前評判では圧倒的に黒鉄鋼の不利だった。戦績を比べれば、鋼は10戦10勝10KOとはいえ、タイトルマッチは初挑戦。対する王者はスーパーバンタム級から階級を上げてきた四階級制覇チャンピオン。50戦46勝1負け3引分という好成績を持つ百戦錬磨のボクサーだった。そのチャンピオンが、まだ一度も10回戦をやったことのないボクサーにファイナルラウンドで沈められたのだ。ジャイアントキリングだった。
 それにしても、カメラマンはちょっとフラッシュを焚き過ぎではあった。記者たちにも新人が多かったのかもしれない。
 だが、鋼はべつにそういうのは嫌ではなくて、むしろ自分のファイトが明日のボクシング界が盛り上がっていくのかと思うとこの痛めつけられた身体にドンドン質問をぶつけて来て欲しいくらいだったが、白石会長がそれを許さなかった。会長はステッキで記者たちを殴りかねない勢いで、ジムメイトの楠春馬――スーパーフェザー級・日本ランキング10位――や荒谷かづき――ライト級・日本ランキング7位――たちが羽交い絞めにして抑える羽目になっていた。
「いいかよく聞けブン屋ども、貴様らは見ているだけでいいだろうがな、ボクサーはリングに上がってたった三〇分間で何十日も休養を取らなければならなくなるほど疲弊するんだ。ましてやこれが人生の土壇場も土壇場のタイトルマッチを終えたすぐ後、ベルトの感触もまだ信じられん選手に質問やらフラッシュやらをやたらめったら浴びせおって、ええ、おい、どうして休ませてやろうと思わない?」
 さすが、マイク・タイソンを育てた名伯楽カス・ダマトよりもクチが悪いと言われているジジィだけはある。鋼はタオルの奥で苦笑いしてしまった。今年も白石ボクシングジムは悪名ばかり積み重ねることになりそうだ。
「まァまァ会長、もう救急車は呼んであるんですから。どの道あと一〇分かそこらで先輩は精密検査行きですよ。ああ、それにしても、やりましたね、先輩!」
 春馬が抱きつきかねない勢いで童顔を寄せてくる。
「先輩はチャンピオンになるべき男だと僕は信じてました、本当ですよ!」
「わかってるよ」
「ああ、わかってる、わかってるだって! 聞きましたか荒谷さん、先輩は、先輩こそが自分は王者にふさわしいと僕よりも思っていたのです!」
「荒谷、こいつうるさい。黙らせて」
「ウッス」
 どすっと荒谷のボディブローが春馬に突き刺さった。突然の暴挙に記者たちがどよめく。が、春馬は何事もなかったかのように立ち直って「荒谷さん、忘れないうちに僕とあなたの拳で再現しましょう、あの歴史に残る激闘を!」とかなんとか言い出して荒谷相手に拳を振り回し始めた。気持ちはありがたいのだが本当にうざったい。会長、記者よりも春馬を追っ払ってくれないかな、とまで鋼は思った。
「会長、救急車が来たみたいです」
 控え室の入り口から顔を見せた練習生のひとりに、白石会長がうむと頷き、鋼に肩を貸した。
「いいって。自分で歩ける」
「だめだ。転んで頭でも打ったらどうする」
「ガキじゃあるまいし」
「おまえなんぞわしからしたらガキ同然だ」
「ははは……違いねえや」
「ふん、どこまでも生意気な小僧よ」
 そのままホール下まで、鋼は白石会長に付き添われていった。知り合いと出くわした時は恥ずかしさで死にたくなったが、しかし、今夜だけは誰にも何の遠慮もしなくていいのかもしれない。
 ――俺は、『チャンピオン』になったんだから。
 みんなに見守られながら、鋼は救急車の担架に乗せられた。まだ試合用のトランクスを履いている鋼を見てまだ若い救急隊員が目を丸くした。
「着替えられないほど手元がおぼつかないんですか? 連絡では特に異常はないが念のため、ということでしたが」
「いや、記者にさ、まだ新卒ほやほやって感じの女の子がいてさ」
 何の話かと救急隊員はきょとんとしている。鋼はなんだか自分でウケに入ってクスクス笑いながら、
「その子の前で素っ裸になりたくなかったんだよ」
 ああ、と救急隊員はようやく鋼の言いたいことがわかってニヤっと笑った。
「すごい試合だったらしいですね」
「悪いな、うちのジムの会長、心配性でさ」
「クロスカウンターで王者――いや、もう元王者でしたね。それでも彼のクロスカウンターを二発も喰らったら私だって心配になりますよ。本当に吐き気や頭痛などはしていないんですか?」
「ああ、たぶん――でもわかんねーな。これで搬送中に死んだりしたら笑えるな」
「笑えませんよ」救急隊員はまじめな顔で言った。
「あなたはこれから世界を狙う人だ。こんなところで死なせはしません」
 鋼はまじまじとその若い隊員の顔を見つめた。
「あんた、ボクシング好きなの?」
 救急隊員は急に素っ気無くなって仕事に戻った。
 たぶん、照れてしまったのだと思う。






 その日、歴史的な事件が都内某所で起こった。
 公道を、F1マシンが走ったのである。
 このニュースを翌朝聞いた人間は誰もがどこから突っ込むべきなのかと考えた。公道をF1マシンが走ってはいけないのは当然にしても、そんな高級品をどこの馬鹿が持ち込み、あるいは作らせ、しかもその結果、一台の救急車にぶつけて死傷者を出したのか。そんなやつは頭がおかしく、その上、きっと金持ちに違いない。
 誰もが抱いたその感想は的を射ていた。親の金でF1マシンのレプリカを購入した少年A(17)は誰もが聞いたことのある製薬会社の社長の息子だった。そのこと自体はテレビでは報道されなかったものの、週刊誌の記者が珍しく芸能人のケツを追っかけるのをやめてみんなが知りたいことをすっぱ抜いた。だが、それまでだった。
 少年Aは無罪になった。
 少年院行きでさえない。
 精神衰弱による責任能力の喪失。相変わらずの悪法がここでも幅を利かせた。
 少年Aはなんの苦労もなく自由を勝ち取った。彼の親父が金と、手持ちの企業の社会的重要性をかさに着てあちこちにカネをバラ撒いていたからだ。最終的には少年Aを逮捕した警官までもが「おかしいな、いま裁判にかけられているあの子は私が捕まえた子ではない。どこかで取り違えがあったのではないかナ」と札束を抱いて言い出してもおかしくなかった。
 後日、少年はある週刊誌の記者にひっそりと本心を語った。
「俺はカリスマなんだと思う」
 この時点ですでにおかしい。だが、少年は省みない。
「だってそうじゃないか。都内をフォーミュラカーでぶっ飛ばしたんだぜ。みんなは俺を悪く言うが、じゃああんたにはできるのか? レプリカとはいえ最高時速二四〇キロで走る車に乗って、障害物だらけの道をアクセルベタ踏みで突っ込めるか? できないだろう」
 くくっと笑い、
「俺はやった。最高の気分だったよ。俺の目の前には青信号しかないんだって思った……終わり方も最高だったな、バリケードみたいな救急車に真横からぶつかって車体を突き破った。でも俺は無傷だった。神様が味方してくれてなければ、いま俺はここにいねえよ」
 煙草の煙を吐く音。
「ボクサー? ……ああ、救急車に乗ってたとかいう。さあね、よく知らない。ボクシングになんか興味ないし。なんでもその日、試合だったんだって? 日本チャンピオンになったとか。すごいね、でもまあ、かえってよかったんじゃない? 無敗のまま引退ってことになってさ。防衛戦であっさり負けちゃってもあんまり名前残らないでしょ。王者になったその日に事故で引退、かっこいいじゃない。ねえ?」
 そして、これからこの事件が取り扱われるたびに何度も何度も放送されることになる名文句を吐いた。
「もう試合が出来ないからってなんだっていうんだ。ボクシング続けて脳に後遺症残るよりマシでしょ。むしろ感謝して欲しいな、そのへん」
 そう言って、少年は人好きのしそうな気持ちのいい笑顔をインタビュアーに浮かべたという。
 そう。確かに、その救急車に乗っていたボクサーは助かった。
 生命に別状は少しもない。経過も良好。
 ただ、
 右腕を、切断した。
 根元から。





 白石ボクシングジムが総出でそのガキを八つ裂きにすることを誓い合った時にはもう、少年Aは国外に出てしまったという噂だけを残して、撓る左や唸る右ではどうやっても殺せないこの国の闇の中に消えた。その日を境に、多くのジム生が白石ボクシングジムから去っていった。
 なにもかも空しくなった、と彼らは口を揃えて言った。
 黒鉄鋼も、そのひとりだった。
 彼が使っていたロッカーはいまでもそのままになっているが、もう彼がそこへ来ることも、壁にかかったグローブを右手でひょいと掴み上げることも、
 もうない。

       

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