Episode of ZERO 『タイトル;錬金術師』




 たかが、スパーのはずだった。





 一般に、ボクシングジムに他のジムから出稽古に選手がやってくることはそう珍しいことでもない。そもそも日本人の体格は軽量級から中重量級までがほとんどで、JBCが認める日本最重量級のミドル級ともなれば一六〇ポンド――約七十二・六キログラムの体格が要求される。その上でボクシングに適した肉体を持ち、なおかつ他の種目をかなぐり捨ててこの拳闘の世界へ飛び込んでくるものと言えばさらに限られ、中重量級クラスではスパーリングパートナー/練習相手にさえ窮してしまうのが現状だ。
 だから、猿渡一家が白石ボクシングジムにスーパーウェルター級の選手を求めて出稽古にやってきたこと自体は、なんの問題もないし、ましてや道場破りなどでは決してなかったことは間違いない。


 猿渡一家、と言えばボクシング界では有名である。父親がジムを経営している、元東洋太平洋ジュニアミドル級チャンピオン。その息子二人も兄は元ミドル級の日本ランカー、弟は現役のスーパーウェルター級/旧ジュニアミドル級の全日本新人王。その弟の方が猿渡一家の虎の子で、二ヵ月後に迫った日本ランク四位の選手との試合のためにスパーリングパートナーを求めていた。
 白石会長は快くスパーリングの申し出を受けた。そしてランカーでこそないものの二十戦近くの戦闘経験/キャリアを持つスーパーウェルター級のベテラン、海藤明彦をおのがジムのリングの上に立たせて、猿渡一家を待った。猿渡一家は猿渡兄弟だった。元ボクサーでトレーナー兼セコンドの兄と、現役選手の弟だけがのっそりとやってきて、人のよさそうな笑顔を浮かべて丁重に挨拶を述べてきた。二人とも髪が金と銀にそれぞれ染め上げられていることを除けば、好青年に思えた。
 そこまではよかった。
 リングに上がった猿渡弟は、ゴングが鳴るやいなや海藤の顔面に鮮やかなワンツーパンチを決めた。一発で鼻骨が折れた。グローブに覆われた手で鼻を押さえ半ば背を向けた海藤だったが猿渡弟はオープンハンドで海藤の肩を回し無理やり自分の側に向かせると左右のボディフックを見舞った。マウスピースを吐き出して海藤の膝が折れかけたところで白石会長がロープを潜ってリングに飛び込んだがもう遅かった。猿渡は日本人離れした膝のバネを最大限に利かして姿勢を下げると狙い済ました右アッパーをマウスピースすら嵌めていない海藤の顎にぶちかました。海藤は失神、リングに大の字に伸びて広がり、足を小刻みに痙攣させ、顎が壊れた人形のように落ちていた。数十秒前まで真っ白だったキャンバスに鮮血の花が咲いていた。白石会長は破壊された自分の手持ちのボクサーにかけよるとその肩を抱き上げて、ライトの下に立つヘッドギアを着けた悪魔を炎じみた眼光で睨み上げた。
 以上が、この血にまみれた修羅場が生まれた顛末である。


「貴様ら……これはスパーリングだぞ!! 試合じゃない、相手を壊す意味がどこにある!? それが出稽古に来たボクサーの取る態度か!?」
 白石会長の悲痛な怒号に、しかし猿渡兄弟はニュートラルコーナーから怪訝そうな顔を返した。
「白石さん、確かにひどいことになってしまったが……我々は何か反則行為をしましたか?」
「何……?」
「うちの弟はゴングが鳴ってから飛び出していったんですよ。ローブローだって、バッティングだって、サミングだってしちゃいない。うちの弟は正々堂々リングの中央に出張っていって、あなたのところのボクサーを殴り倒した。それだけだ。ボクシングとは、そういうものでしょう?」
 なあ、と猿渡兄が隣にいる弟に同意を促す。弟は子供のようにこくこくと頷いた。
「決定打は最初のパンチでついていたはずだ! その後のフォローはうちの選手が明らかにグロッギーになったことをわかった上で殴っていた!」
「根拠は?」
 根拠? 根拠だと? 白石会長はあと少しで脳味噌の中の血管をぶち切って急死するか、さもなくば年甲斐もなく現役のボクサーめがけて殴りかかるところだった。こいつらは、こいつらは、この状況が見えていないのか? 血まみれになって倒れている、そして恐らく再起不能になったボクサーを見て何も感じていないのか? それがスポーツマンの取る態度か? 何ヶ月も減量した果てに臨んだタイトルマッチならばいざ知らず、こんな場末の、中重量級の選手が豊富だという程度が自慢のジムが擁するボクサーをわざわざやってきて破壊して……謝罪の言葉ひとつ、大慌てで駆け寄ってくることひとつできないというのか?
「白石さん」猿渡兄が気の毒そうに言った。
「そこで伸びてる彼、早いところ病院へ連れていってあげたらどうです?」
「――――っ!!」
「恨んでもらっちゃ困りますよ。だってこういうものでしょう? ボクシングっていうのは。お互い納得ずくだったはずだ。うちの弟が同じ目に遭っていたとしても、私は何も言いませんよ。弱かったんだから仕方ない。それだけのことです。外国はどうだか知らないが、ここは日本、スパーにも全力を出すことが尊ばれるお国柄。……それにね白石さん」
 はっきり言えば、と猿渡兄は言った。
「――ガードのイロハもわかっていないボクサーをスパーリングパートナーだなんてリングに上げられても、ねえ?」
「――貴ッ様ァ!!」
 とうとう理性をかなぐり捨てた白石老人を他のジムボクサーたちが慌てて抱きかかえた。そのうちの何人か、ジムの中でも古株の選手たちが意識を失った海藤をリングから引きずり下ろし、手早く救急車の手配を打っていた。その顔にはマグマのような憤りよりも、風雨にさらされた石像のような疲弊が見られた。彼らにはわかっているのだ。新進気鋭の全日本新人王に勝てるボクサーがこのジムの中にはいないということを。もっとも成績のいい日本ランカーである久里浜英志はフライ級の選手。技術では青二才には勝っていても二分三回戦のスパーリングで相手をKOして意趣返しできるようなパンチ力はない。そもそも、階級というものは簡単には超えがたい壁があるからこそ分けられているのだ。フライ級とスーパーウェルター級の間には二十キロ近い差がある。猿渡弟が減量前だとしたらもっとだ。パンチに重心を乗せる以上、体重の違いはモロにパンチに影響する。二人のパンチの差はそれこそ拳銃とミサイルほどもあるだろう。
「ほかに選手はいないんですか? ああ、そこのあんた、どうだい。やってみないか? 同じ階級だろう? 名前はちょっと、わからないけど」
「…………」
 ウェルター級以上のボクサーたちは何も聞こえなかったかのように、サンドバッグを叩き、パンチングミットを鳴らし、縄跳びに集中するフリをしてやり過ごしていた。まるでその嘲りを飲み込むこともトレーニングのひとつであるかのように、哲学者の顔をして。
「仕方ないな……またスパーリングパートナー探しか。相手には困らないと聞いてやってきたのに、拍子抜けだな」
 なあ? と同意を求める兄に弟はこくんこくんと頷くばかり。まるで何を言っても同意を返すように訓練されているようにも見える、だがその胸の内がそっくりそのまま兄と転写したように一致していることはマウスピースを汚らしく吐き出した時の下卑た笑顔から窺えた。
 スパーリングに来た、というのは嘘ではない。
 道場破りというのも、間違っている。そもそも白石ボクシングジムの看板は見せびらかして映えるようなものではない。
 ただ、この二人にはわかっていたはずだ。白石ボクシングジムの誰とスパーを組んでも、こういう結果になることは。練習にもならずに相手を壊して終わりになるということが。
「くそっ……」
 屈辱にまみれた老拳闘家の呟きに答えるものはいない。
 なぜなら、そいつは何も言わずに、白石会長の隣を通ってリングに上がったからだ。それを見て、白石会長は目が覚めたような顔をした。
「……だれだ?」
 猿渡兄が怪訝そうに言う。それも無理はないだろう、その男――というよりも、少年は、恐らくまだ十五、六歳かそこらで、プロデビューしているかどうかも怪しかった。ばすんばすんと真っ黒なグローブをお互いに打ちつける、その腕は細く、階級は多く見積もってもスーパーフェザー級。あどけなさを残す顔には傷ひとつなく、ヘッドギアの隙間から見える黒髪は女のように緑がかり、卵黄のように揺れる瞳は目の前にいる相手が見えていないかのようにくつろいでいた。
「スパーリングパートナーを探してるんだろ?」
 と、そいつは言った。軽くステップを踏んで、
「俺がやる」
「まっ、待て黒鉄っ」
 白石会長が慌ててリングに飛び込んできた。黒鉄(くろがね)とみずから呼んだ少年の肩をガタガタ揺さ振り、
「わかってるのか、相手はお前の四階級も上なんだぞ!!」
 ということは、やっぱりスーパーフェザー級か、と猿渡兄弟はチラリと顔を見合わせて、暗い笑みを交差させた。
「それにお前はまだデビューだってしていないし――」
「スパーリングぐらい練習生だってやるだろ。それに俺ァ、昨夜喰いすぎたから多分いまミドル級ぐらいあるよ」
「馬鹿かお前はっ!?」
「まァまァ」黒鉄はどこから引っ張り出したのかもうマウスピースをくわえようとしていた。
「このままあいつら返したら業界の恥だぜ。マズイんじゃないの? ただでさえ練習生が少なくって経営、大変なんだから」
「それは……」
「それにさ」
 黒鉄はロープにもたれて、ジムの入り口から運び出されていく海藤を見やった。
「俺は海藤さんにジャブとか縄跳びとかいろいろ教えてもらったんだ。それをほったらかしにはしておけねえよ」
「だからといって……!!」
「こっちは彼でいいですよ、白石さん」
「だまっとれ畜生!! ……いいか黒鉄、確かにお前にはパンチがある」
 ぴくり、と猿渡兄弟の小耳が震えた。……パンチがある? なるほどそうだろう、あれだけ大きな態度を取るからには若さに任せたハードパンチャーであることは想像に難くない。しかし、それは同じ階級ならばの話だ。ボクシングでは通説として階級を超えてパンチは持ち越せないと言われている。……それをわかった上で、スーパーウェルター級の新人王を前にして、あのジジィはこう言ったのだ。
 黒鉄、お前にはパンチがある、と。
 ……猿渡兄弟の目に剣呑な光が宿った。それを知ってか知らずか、白石会長はさらにまくし立てる。
「勝ち目はないぞ、今はまだ。どうしても意趣返ししたいというのなら、身体の成長を待とう。お前もまだ中重量級まで成長する可能性はあるし、そうしたらしかるべき場所で闘えば、勝つのはお前だ。間違いなくな」
「……白石さん、背中で言わずにハッキリとこっちを向いて喧嘩を売ったらどうです」
「は? ……いやわしは別に……」
 黒鉄は笑った。
「な? もう止められっこないんだって、会長」
「黒鉄……」
「大丈夫。……俺は勝ち目のない勝負は大好きだけど、あんまりやらないことにしてるから」
 言って、ぱくりとマウスピースを噛み、きゅきゅっとステップを踏む。
「ああくそ!」白石会長は綿雲のような白髪をかきむしり、
「猿渡さん、さっきと同じ二分三回戦でよろしいか? レフェリーは……」
 俺がやりますよ、とフライ級ランカーの久里浜が手を挙げた。その目が猿渡兄を捉える。
「構いませんか?」
「お好きにどうぞ。どうせ1ラウンドでKOですよ」
 なあ? と同意を求める兄に答えもせずに、弟はリング中央へと飛び出していった。
 カァン、と。
 ゴングが鳴った。
「ボックス!!」
 リングに上がった久里浜の掛け声を契機に、二人のファイターが真正面から相手めがけて突っ込んでいく。
 そして、猿渡弟は、軽くグローブを合わせようとした鋼の右手を左手で振り払うと、躊躇うことなく右ストレートをぶっ放した。
 スーパーウェルター級のストレートは、人間を殺せるストレートである。

 ○

 猿渡兄は手早くビデオカメラを回しながら(父親から撮影を厳命されていた)、考えていた。――スーパーフェザー級のハードパンチャー。とはいえデビュー前? 普通に考えればスーパーウェルター級の弟の勝ちだ。
 だがそれでも、もし仕留め損なうとすれば足、フットワークを使われた場合となるだろう。当然だが身体が重いよりも軽い方が速く動ける。恐らく黒鉄もそれを踏まえて無謀な喧嘩に打って出てきたのだろう。距離を取ったアウトボクシングでパンチを的確に当てて三回戦逃げ切り、ほんのりと顔を腫らした相手を蔑んだ目で見上げながらリングを下りる。恐らく、それがやつの描いたシナリオ。
 甘すぎると言わざるを得ない。
 黒鉄が日本ランカー級のフットワークを駆使するというのならともかく、いくら四階級下のスピードを相手にしても、新人王の弟が遅れを取るはずもない。
 そして、それはゴングが鳴って一秒もせずに証明された。
 軽くグローブを合わせようとした黒鉄の拳を振り払い、弟の右ストレートが黒鉄の左ガードめがけて火を噴いた。
 土嚢を蹴り込んだような鈍い音。
 黒鉄はガードこそしたものの、ボクシングブーツはキャンバスから浮き上がり、その身体は誰かに引きずり込まれたようにロープへと深々とめり込んだ。げほっ、と黒いTシャツ越しに背中を強打した黒鉄が息を吐いた。その足がたたらを踏む。
「黒鉄ぇっ、アタマ下げろ!!」
 はっ、と黒鉄が素早くアタマを下げる。そのすぐ真上をハンマーのような猿渡弟の右フックが通過していった。真っ黒なグローブにちりちりと数条の頭髪が絡みつく。
「うっ……」
 たまらず黒鉄はクリンチ(相手にしがみついて動きを止める技術。多用すると反則を取られることもある)に出た。仕留めるチャンスを逃した猿渡弟が鬱陶しげに左のボディブローを黒鉄に見舞うが密接距離で威力が出ない。
 レフェリーの久里浜が二人をブレイクしようとした時、
「ちっ」
 舌打ちと共に、猿渡弟が黒鉄の背中にエルボーを落とした。ぎゃっ、と黒鉄は呻いて崩れ落ちかけた。当たり前だが肘鉄は反則である。
「ブレイク!! ブレイクっ!!」
 久里浜が割り込んで猿渡弟を反対のロープ際まで追いやった。顔を寄せて黒鉄に低く囁く。
「大丈夫か?」
「な、なんともないッス」
「足使ってけ」
 久里浜は何事もなかったかのように顔を上げ、
「ボックス!!」
 試合を再開させた。
 猿渡弟が突っ込んでくる。黒鉄は身体を左右に振って小さくジャブを放ちつつ、リングを丸く使い距離を取ろうとした。が、相手のパンチを軽量級となめている猿渡弟の進撃は止まらない。普通のワンツーパンチだけでなくいきなりの右やフェイントを交えられ、いくつかのパンチをガード越しとはいえもらってしまう。そのたびに突き飛ばされたように黒鉄の身体が揺れた。そしてとうとう、ボディが一発、いいのが刺さった。どずっ、と寒気のする音がして黒鉄の目が見開かれ、その身体が下がった。そこに喜色満面の笑顔を見せた猿渡弟の右拳が打ち下ろされようとしたまさにその時、ゴングが鳴った。
 だが、猿渡弟は止まらなかった。
「やれぇっ!!」
 兄の叱咤を受けて威力を増した拳が、
 空を切る。
 空を、
 あれ?
 その時、その場にいる全員が呆然とした。確かにボディをもらって沈みかけていた黒鉄が猿渡弟のパンチの軌道から消えていた。
 とん、
 その足音は、後から聞こえたように思う。
 猿渡弟が振り向くと、そこには半身に背を向けた黒鉄が肩で息をしながら立っていた。なお向かおうとした猿渡弟に左手をまっすぐ突き伸ばして、
「ゴング!!」
 怒鳴った。弟はその気勢に呑まれて怒られた子供のように固まった。黒鉄はそんな相手を一顧だにせず自分のコーナーに戻り、白石会長がリングに上げた丸椅子に腰を下ろすとうがいを始めた。その頃になって猿渡兄も我に返り、
「……お前もコーナーに戻れ」
「いらねえよ。疲れてない」
「いいから戻れ!」
 弟は渋々コーナーに戻ったが、椅子には座らなかった。矜持のアピールだが、ボクシングではこういうことが馬鹿にならない。
「くそっ、あのガキ、ちょこまか動くのだけは一人前だぜ」
 ぼやく弟に兄貴が笑う、
「何言ってるんだ。ほとんどお前が押してたじゃないか。俺に言わせれば、お前に詰められる程度の軽量級ボクサーなんてクソさ」
 最後のクイックエスケープだけは魂消たがな、という言葉はギリギリで飲み込んだ。
「ちっ、めんどくせえ。次のゴングが鳴ったら飛び出していって、パンチなんて選ばねえ、さっさと決めてやる」
「その意気だ。どうせ当たれば倒れるんだ。ある程度の大振りでも構わんし、小さく当てたければそうしろ。お前が勝つんだ」
「当たり前さ」
 一分間のインターバル/休憩が終わり、ゴングが鳴った。兄は弟の背を軽く叩き、椅子と共にリングを下りた。
 どうせこのラウンドで終わる。
 そう思っていた。

 ○

 1ラウンドを振り返ってみて、猿渡弟は黒鉄をアウトボクサーだと判断した。パンチはほとんどない。距離を取るために放たれるジャブのほとんどは、
 ぺち……ぺち……
 死にパンチだ。恐らく機会を探って起死回生の右ストレートを狙っているのだろうが、左で倒す気迫もなしに当たる大砲でもなければ、よしんばもらっても、軽量級のサンデーパンチをもらった程度で倒れる程度の猿渡弟でもない。
「…………」
 ひょこひょこと動きながらジャブを放っては左右に逃げていく黒鉄に、猿渡弟はぐっと身体に力を込めて、笑った。
 教えてやろう。
 これがジャブだ。
 心の中で呟いて、猿渡弟は鍛えに鍛えた左ジャブからのワンツーを繰り出そうとした。
 ジャブを撃つ前に、拳が見えた気がした。
 ばあん、と顔が弾けた。痛みはなかった。ただ、何が起こったのかわからない。呆然としたまま、ダメージもなく、猿渡弟は後退した。
 黒鉄は、オーソドックススタイルに構えたまま、拳の隙間からこちらを見ていた。何事もなかったかのようだ。だが、こちらの顔面はまだチリチリしている。
「カウンターだ!」兄が叫んでいるのが聞こえた。
「カウンターをもらったんだ! 不用意に撃つな! そいつは、そいつはカウンターパンチャーだ!」
 カウンター? それは相手のパンチに合わせて拳を返すという例のあれ? それを俺がもらった? 左に左を返されて?
 こんな、餓鬼に?
 アタマにカッと血が上った。グローブを貫くほど拳を握り締め、何も考えず、ただ右を振りかぶって撃ち抜いた。
 空ぶった。
 黒鉄は冷静に、アタマを下げて小さくなっていた。頭上を通り過ぎていった破壊力を気にも留めない。握った拳から力を抜く。
 力むのは、撃ち抜く一瞬。それだけでいい。
 踏み込む、
 綺麗なフォームで放たれたロングアッパーが、猿渡弟の顎を撃ち抜いた。
「――――っ!!」
 が、さすがは中重量級というべきか。
 軽くたたらを踏みはしたものの、猿渡弟はファイティングポーズを崩さずに体勢を立て直した。かすかに足に来ているが、倒れるほどではない。ただ、その目は驚愕に見開かれていた。
 なんで、
 なんで、俺が、こんな小さいやつに――
「冷静になれ!」セコンドの兄から叱咤が飛ぶ。
「おまえのモーションがデカすぎるんだ! 熱くなるな! 小さく細かく速く確実に――」
 聞いていなかった。
 猪突猛進をその身と拳で体現し、猿渡弟は顔を真っ赤にして黒鉄に突っ込んでいった。そのたびに出会いがしらを左で撃たれ、動きを止められ、今度は右のストレートまでもらいはじめた。全然効かない――全然効かないんだ、こんな軽いパンチなんて! ……それがまた愚行を惹起させ、結局ゴングが鳴るまで猿渡弟は一方的に撃たれ続けた。
 戻ってきた弟の、ヘッドギア越しにも腫れ始めた顔面を見て、猿渡兄はなかば呆然としてしまった。

 ○

 この光景が現実のものとは思えないのは白石会長も、そして周囲で観戦しているジムメイトたちも同じだった。戻ってきた黒鉄の額から白いタオルで汗を拭き取りながら、白石会長は独り言のように呟いた。
「……おまえ、本当に黒鉄鋼か?」
 黒鉄はその問いには答えなかった。代わりにこう言った。
「次で倒すぜ」
「何……? 倒す? 倒すだと?」
「ああ。おかしいか」
「おかしくは……」その先の言葉を、白石会長は飲み込んでしまった。そしてそんな自分に年甲斐もなく恥じ入って、選手用のペットボトルをみずから自慢の総白髪にぶちまけてかぶりを振った。
 現役時代の生き写しのようなまっすぐな目で黒鉄を、見る。
「倒せるのか。……わしから見て、このまま足を使う以外、お前に勝ち目はないぞ」
「俺にはパンチがあるんだろ?」
「言っておくが、ほとんど効いていないぞ、あれは」
「そうかな」
「……黒鉄、おまえ何考えてる?」
 黒鉄は笑って、マウスピースを噛んだ。
 大事な問いに、彼はいつも答えない。
「セコンドアウト!」
 久里浜が叫び、すぐにゴングが鳴った。
 黒鉄はばしんばしんと漆黒のグローブを撃ちつけながら、キャンバスの真ん中へと出て行った。
 スパーリングパートナーの猿渡とは、身長差が十センチはある。

 ○

 ――ボディを狙っていけ。
 それが、猿渡兄が考え出した答えだった。
 ――あいつは結局、足やカウンターで誤魔化されがちだが、軽量級だ。軽いんだ! だから、そのメリットであるスピードを殺してやればいい。ボディだ。ヘッドならウィービングでこっちのパンチをさばかれても、的の大きい胴体ならかわせない。お前の自慢のボディブローであの小僧を悶絶させてやれ。
 言われなくても、そのつもりだった。
「ボックス!!」
 ゴングが鳴ると同時に猿渡弟は飛び出していった。狙うはボディ。そしてあわよくば、それでガードが下がったところを右ストレートで顎を撃ち抜く。それで数十分後には先輩と仲良く病室で添い寝だ。ざまあみろ、ド素人め。
 この世界においそれと飛び込んできたことを死ぬほど後悔させてやる。
「…………」
 お互いに肩と腕を使ったフェイントで牽制し合う。ボクサーの拳は見えるよりも速く飛んでくる。だから避けるなら見えるよりも速くかわさなければならない。いつも相手の先の先を狙っていく。それがボクシング。
 猿渡弟はここに来て伏線を利かせた。くん、と右をストレート気味に出すフリをした。いきなりの右はいままで散々見せている。黒鉄のガードが上がった。
 そのチャンスにアタマから飛び込んだ。
 砲弾のような左フックを黒鉄のボディにブッ刺した。
「うっ……げぇっ!!」
 カエルを握りつぶしたような呻き声。黒鉄の口からマウスピースが吐き出された。だが、それでもガードは下がらない。構わない。ガードの上から叩き潰してやる。
 ぎりぎりぎり、と握りこんだ右を、バネ仕掛けのようにぶっ放した。
 重たい岩が砕けたような音がして、黒鉄はガードごと弾き飛ばされ、1ラウンドとそっくり同じに、ロープにぎりぎりと食い込むほど吹っ飛んだ。チャンスだ。猿渡弟はそのまま返しの左ストレートを踏み込みながら撃った。
 かわされた。
 いや、肩でパリングされたに近い。いきなり飛び込んできた黒鉄の右肩に当たって軌道を逸らされた拳は虚空に突き刺さって凍りついた。そして、
 猿渡弟の左胸に黒鉄の右ストレートが埋め込まれたかのように突き立っていた。
「…………!!」
 ハートブレイクショット、という。
 心臓の鼓動のタイミングに合わせてパンチを撃たれると、心臓の鼓動が一瞬停止して、時間が止まる。魔法のパンチとも呼ばれる。
 それが黒鉄の右に宿っていた。
 その場にいて何が起こったのかはセコンドの白石会長だけだった。すぐそばで見ていたレフェリーの久里浜も、相手側の猿渡兄も、どうして黒鉄が猿渡弟の右ストレートを受けてからあれほど速く切り返せたのか理解できなかった。セコンドの白石会長だけは黒鉄鋼を理解していた。
 ロープだ、とそのひびわれた唇が誰にも届かぬ言葉を作る。
 スーパーウェルター級の右ストレートをガードしてロープにめりこんだ黒鉄は、その反動を使って逆に相手に飛び込んでいったのだ。それも思い切り体重を乗せて。ハートブレイクショットのタイミングに乗せて。放ったのだ。
 右ストレートを。
 この、土壇場で。
「…………うあ」
 時間の止まった猿渡弟の口から脳の中のゾンビが呻き声を上げさせた。
 相手の見せた弱味を逃してやる黒鉄鋼ではない。そのまま左右のボディフックを、大振りとは思えない剃刀じみた速度で回した。並みのボクサーのワン・ツーより速い。ワ・ツーのタイミングでぶちこまれたボディはそれまでのラウンドで出してきたすべてのパンチが捨てパンチだったことをその威力でもって物語る。すべては伏線。
 自慢の拳は、相手が倒れる時まで取っておく。
 それで倒せる程度の相手なら――
「げえっ……!!」
 吐しゃ物と一緒にマウスピースを吐き出した猿渡弟の顎が下がる。真っ黒なTシャツに茶色い染みがつくのに気も留めず黒鉄は身体を捻って落ちかけた猿渡弟の顎を左のショートアッパーで跳ね上げた。この時点で猿渡弟は下顎部粉砕骨折、ボクサー生命を事実上絶たれた。そしてキャンバスからブーツが浮かび上がった猿渡弟のボディが、いい感じに黒鉄鋼の右ストレートのラインに乗った。今までのラウンドをフルに『手加減』していた鬱憤を晴らすように、めきり、と地獄の獅子の歯軋りのような音を立てた右拳が猿渡弟のふわふわになったみぞおちにぶち込まれた。
 大砲のような音がしたという。
 階級の壁を四枚まとめてぶち壊した黒鉄の右を腹に喰らった哀れな男は反対側のロープまで吹っ飛び、その隙間に上半身が引っかかってずるずるとリングから滑り落ちていった。悲鳴も上げられなかった。
 後には、右拳を振りぬいた姿勢のまま止まった、黒鉄鋼の姿だけが残った。誰も歓声を上げる余裕すらなかった。久里浜さえ開いた口が塞がらなかった。ただ一人、白石会長だけがその両目に喜色を湛えていた。黒鉄はそれをちらっと見やってかすかに笑うと、猿渡兄のすぐそばのロープにどすっと背中をもたれかけさせ、こう言った。
「困りますなあ」
 笑って、
「――ガードのイロハもわかっていないボクサーを、リングに上げてもらっちゃあ」




 黒鉄鋼、この時、十六歳。
 後から彼が語ったところによれば、このスパーリングの前日は食べすぎはしたものの、それは『かきのたね』と『バターピーナッツ』の話であり、合宿明け間もなくだったこともあって、猿渡弟と拳を合わせた時のウェイトは、正確にはバンタム級に近かったと言われているが、彼が引退した今となっては真偽は定かではない。
 デビュー後、破格の勢いで勝ち続け、ついには日本スーパーフェザー級の王座に駆け上がり、……そしてただ一度の防衛戦もすることなくリングを去ったこの名選手のことを、彼を愛したファンは敬意を表してこう呼んでいる。









 ――黄金の右。