Episode of HELL 『トラッシュ;さまよう弾丸』



 くだらねえ、とつい零してしまった。
 けれどその言葉に、嘘はなかった。




 ひゅん、と風を切る音がして、木製のバットが背中に打ち下ろされた。肺の中の空気が想定以上の量で口腔から吐き出された。背骨に走った電流が指先まで伝達する。薄暗い校舎裏の向かいは深い崖と森になっていて、助けなど呼ぶべくもない。
 鋼は赤ん坊のように四つんばいになって、まだ雨滴を孕んだ地面に額を擦りつけ、低く呻いた。息が、できない。
 そんな不様な鋼を見て、野球のユニフォームを着た少年たちが、クスクスと笑う。口元にはコピー&ペーストしたかのような下卑た微笑を浮かべ、目元には矮小な生き物を踏み潰す時の愉悦が刻まれている。時折チラチラと後ろを振り返る下っ端の視線の先には、校舎の角で見張りをしているジャージ姿のマネージャーたちの姿がある。お祭りの雑踏に紛れ込んだ子供のように、彼女たちの顔にも普段得られないお楽しみにいても立ってもいられない興奮が溢れている。実に楽しそうだ、と鋼は思った。口元からよだれが糸を引いて滴る。それを押し戻すかのように、バットを持った少年のスパイクが鋼の口に突き刺さった。アッパーを喰らったボクサーのように、鋼の首がのけぞり返り、大の字にひっくり返った。どくどくと口の中から真っ赤な血が噴きだした。何もかも見通す青空は、嘘みたいに綺麗だった。
「おい、この程度で済むと思うなよ」
 リーダー格であり、野球部のキャプテンでもある新田が言った。大きく振りかぶった蹴りを鞭のようにしならせて、獲物のふとももを蹴り上げる。砂袋を打ったような音がした。
 干からびた虫けらのように動かない鋼を、野球部の面々が次々とバットで打ちのめす。鋼は身体を丸くして、強姦される処女のように、唇を噛み締めているしかなかった。見張りの女子たちが滅多に見られない享楽を携帯電話の動画に録画し始める。太陽が少し傾くまで、それは続いた。真っ黒な学生服を血と砂と埃で斑に染めた鋼の胸倉を、新田が掴んだ。
「何がくだらねえって?」
 結局は、それだった。
 一週間前の今日、放課後、鋼は帰り際に滅多に喋らない女子たち数人に話しかけられた。野球部のマネージャーの女の子たちだった。彼女は鋼には理解しがたい微笑み方で、断られることなんて考えもしていないといった態度で、言った。
「次の日曜日、うちの野球部が試合あるんだけど、クラスみんなで応援しにいくことになったから」
「いかない」
「……は?」
「俺は、いかない」
 鋼は女子たちの肩を押すようにして教室を出ようとした。一瞬ぽかん、とした女子たちは次の瞬間には顔に血を昇らせて、鋼の右腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!! なにその態度? 何様のつもり? うちの学校の野球部の晴れ舞台なんだよ? うちのクラスの新田くんだって四番で出るのに、あんた、応援しようって気持ちがないわけ?」
「そんなの、知るか」
「知らないじゃないわよ。もうみんな行くってことで決定してんの。あんたも行くのよ。一応、うちのクラスの一人なんだし……どうせ予定だってないんでしょ?」
「ある」
「何よ?」
「…………」
「ほら、ないじゃない」女子がせせら笑った。
「いいから行くのよ。あんただってスタンドに座らせておけば頭数の足しにはなるんだから。いい? 相手は去年の地区優勝校なのよ。監督が何度も何度も頭下げて練習試合してくれることになったの。あんたみたいな人間にはね、一生立てない舞台に友達が立つことになったのよ。応援するのが当たり前でしょう?」
 鋼は振り返った。すでに教室中が二人に注目していた。その他人行儀な視線を感じながら、鋼は聞き返した。
「応援?」
「そ。応援よ。勝てますようにって、祈るのよ」
「祈れば、勝てんのか。そのなんとかっていう優勝校に?」
「……そうよ」
 は、と鋼は短く笑った。
「くだらねえ」
 女には、泣くという最終手段がある。校舎の壁が揺れるほどの大号泣を無視して、鋼はその日さっさと家に帰った。そして鋼がのんびりと飯を食い風呂に浸かり川原で拾ったエロ本を顔にかぶせている間に鋼の悪評は情報爆発を起こして野球部の顧問にまで到達していた。それで、試合に勝てていれば何もかも丸く収まったのかもしれない。鋼のくだらない意地など誰もかも忘れて勝利に酔っていられたのかもしれない。だが、鋼の学校の野球部は三日後、試合に負けた。
 25対0のコールドゲームだった。
 それは、生贄が必要な負け方だった。
 それでも、野球部のメンバーは我慢した方だった。月曜日、火曜日、水曜日と彼らは自制じた。自分たちが負けたのは、黒鉄鋼のせいではない。自分たちの練習が足りなかったからだ、と。しかし、頭では分かっている理屈などは原始の感情の前では紙くずにも劣る。かえって理性で自分たちの『本当の気持ち』を押さえつけた野球部のメンバーたちは、その危険な本性をギリギリまで煮詰めてしまった。
 そして、何より、タイミングが最悪だった。
 たまたま野球部のメンバーが着替えてグラウンドに出ようとした時、出口のそばで、黒鉄鋼とマネージャーが口論している現場に出くわしてしまったのだ。
 話題など、一つに決まっている。
「あんたのせいよ」
「……」
「あんたが言う通りにしないから、みんな負けたのよ」
「なんで」
「なんでじゃないわよ。そういうものなの。協調性の問題よ。あんたが来なかったっていう些細なことが切欠になって、みんなの気持ちに不純物が混じったに決まってる。あんたが来れば、勝てたかもしれないのに」
「そうだな」
「認めるのね。この人でなし」
「ああ。俺がいけば勝てたのかもな。でなきゃ――」
 次の言葉を、野球部十二人全員が聞いた。
「――雨でも降れば、負け試合なんてしなくて済んだのにな」
 言ってはいけない、言葉だった。


 だが、それでも、鋼の言葉がどれほど悪辣としていても、鋼のせいで野球部が試合に負けたわけではない。
 それだけは、確かなことだったし、もしそれを認められないというのなら、やはりあの試合は最初から、負け試合だったのだろう。
 鋼はそのまま、校舎裏に連行された。
 ボールを打つために用意されたバットは、封を解かれて以来初めて、人に向かって振り下ろされた。
「もう一度言ってみろ」
 鋼の胸倉を掴み上げて、新田が鬼のような形相で言った。
 風が、吹き始めている。
「雨でも降れば、なんだって?」
 鋼の唇から、よだれ混じりの血が泡立った。その頬を、新田の平手打ちがパァンと張った。周囲の取り巻きがクスクス笑う。
「お前らが、負けたのは、俺のせいじゃない」
「いや、お前のせいだよ、疫病神」
 新田は鋼から手を放して、よろめく鋼の腰を返す刀の木製バットで殴りつけた。ぎゃっ、とけものじみた鳴き声をあげて、鋼がまた泥の中に転がり込んだ。
「女子ぃー、誰もこないようにちゃんと見張っとけよ」
「わかってるってば。テッテーテキにやってよね、テッテーテキに。うちらが負けたのは、そいつがアヤつけたせいなんだから」
 占いや運命が好きな女子たちは、どうやら本当に諸悪の根源はこの我の強いクラスメイトのせいだと思っているらしかった。それに乗せられた男子たちが、輪を作って蹲った鋼を取り囲む。
「ごめんなさいは?」
 新田が言った。鋼は、眩しいものでも見るようにかすんだ目で新田を見上げた。
「ごめんなさいと言ってみろ。僕が間違ってましたと詫びを入れろ」
「お前ら、……練習いけよ」
「はいブッブー」
 鋼の顎を木製バットが弾き飛ばした。どっ、と校舎の壁に叩きつけられた鋼はずるずるとその場にへたり込んだ。暗い笑顔を浮かべてさらにバットを振りかぶった新田に、さすがに仲間が止めに入る。
「に、新田。顔はやめろよ。死んじゃうぞ」
「死ねばいいだろ、こんなやつ」
「そうだけどさ……でも程度ってもんが」
「知るかそんなの……こんなやつ崖から突き落とせば誰にもどこいったかなんてわかんねーよ。こいつんち、親いねーし。むしろ家族からしたら厄介払いになって捜索願いとかも出さないんじゃね?」
 一同は、新しい仲間が来たかのようなそぶりで、背後の崖と、視界を遮る鬱蒼とした森を振り返った。風が吹くと、さやさやと枝葉が揺れて、まるで何かを囁いているかのようだ。
 いいぞ、俺は構わない。お前らがその気なら、俺はそいつの死体をかき抱いて、バラバラに分解し、キノコや樹木の栄養にしてやってもいい。何、バレやしない。その理由はお前らが今、言ったから俺からはあえて言わないぜ。だが忘れるな。俺はお前らの味方で、その糞生意気な餓鬼の敵だ。それだけは、確かなことだぜ。
 ――そう言っているようにも、聞こえた。
 一種の発狂状態だったと言っていい。
 積み重ねてきた練習が、『本物』の前では何の武器にもなりはしないことを知った野球少年たちの挫折と苦悩は、誰にも慰めることができないほどに深いものだった。勝負の綾とか、実りある人生経験とか、そんな言葉では清算できないほどに取り返しのつかないものだった。努力した、なんていうのは美徳でもなんでもない。勝てばよし、だが負ければ、それは性質の悪い狂気の種でしかない。
 本気であればあったほど、努力は人に成功を要求して止まない。たとえ、すべてが終わった後だとしても、悪夢のように付け狙う。
 ゆえに、代償が必要なのだ。
 真っ白なユニフォームを着た少年たちに取り囲まれて、鋼は、朦朧としていた。さっきの顎への一撃で意識が半分飛んでいる。いま自分が見ているものに確信が持てない。身体の下の湿った大地だけが、真実のような気がした。じかに触れているものだけが、確かだった。
 新田は俺を殺すだろうか、と鋼は思った。新田は、自分の肉棒をそうするように丁寧で優しげに血のついたバットをさすっている。いまこの状況が楽しくて楽しくてたまらないらしい。
 悪魔のような新田の背後には、その背に覆いかぶさるように、緑色の闇が広がっている。今にも校舎裏とその闇を隔てる錆びた金網を乗り越えてきそうなほどの存在感。
 まるで、死、そのもののような。
 鋼は、唾を吐いた。
「勝てんのか」
「……あ?」
「俺を殴って、勝てんのか。野球ってのは、そんなつまんねえゲームなのか」
「……お前全然わかってねえらしいなァ。このジョーキョーがさァ」
「答えろ」右腕で口元を拭った。八つ裂きになった口の中で、電撃のような痛みが炸裂し、意識が少しはマシになる。
「俺がスタンドで居眠りしてりゃ、お前らそれでヒット打てんのか。塁に出れんのか。お前ら、応援されたくてバッターボックスに入るのか。思い出作りのために毎日毎日走ってんのか。馬鹿かてめえら」
「……お前、絶対殺す」
「俺を殺しても、お前らには一点も入らねえぞ」
 新田は、ははっ、と笑った。
「助かると思ってんの? そんなこと言えば」
「…………」
「悪いんだけどさァ、俺さァ」
 新田は、バットを高々と振り上げた。
「――人生、もう嫌になっちゃったンだよね」
 振り下ろした。
 その凶器を、鋼の左腕が受け止めた。木と骨がぶつかる甲高い音がして、ぴしっ、と何かに亀裂の入る音がした。鋼は、痛みを噛んで喋った。まだ反抗する気力があったのかと目を見張る新田を、睨みつけ、吼える。
「俺は違うぞ」
「…………あ?」
「俺は違う。俺はお前らとは違う。俺は――」
 校舎の壁に、ギリギリまでたわめた足をくっつける。
 そして、親の仇のように蹴りつけた。



「何かに祈ったり、しない――ッ!!」



 渾身の踏み込みで弾丸のように飛び出した鋼の身体が、新田の腹に突き刺さった。猫の額ほどしかない校舎裏でそんなことをすれば金網まで吹っ飛ぶ。そして、その金網はもう老朽化が進んでいて、男子二人分の体重など支えられるはずもなかった。金属が引きちぎれる嫌な音がして、驚き喚く野球部の面々を置き去りにし、新田と鋼は斜面を転がり落ちていった。どちらが上でどちらが下かも分からなくなるほどの回転がいつまでも続いた。どちらも叫んでいたが、どちらがどちらの声なのか、まったく区別がつかなかった。
 やがて、新田を下にしたまま、二人は地面に激突した。癇癪を起こした子供に投げ捨てられるように鋼が弾き飛ばされ、砂利まじりの地面を転がった。新田は、すぐには起き上がれなかった。背中をしたたかに打ちつけていたのもあったが、それより――
「ううっ……!!」
 その左手の甲に、枝が深々と突き刺さっていた。痙攣を起こした手からパラパラと血の雫が飛び散る。
「あ……あぅ……」
 抜けばいいのか、それともそのままにしておいた方がいいのか、その場にへたりこんだまま震える新田の姿を、黒い影が覆った。
 鋼は、逆光を浴びて、真っ黒な顔をしていた。
「ひっ……!」
 逃げようにも庇おうにも、左手が死んでいた。
 槌のように固く握り締められた鋼の右拳が、新田の顔面を殴り飛ばした。勢い余ってよろめいた鋼の殴りぬけたばかりの拳には、新田の前歯が二本、生えていた。
「ぎゃあ……や、やめろ黒鉄。見ろこれ……ひだりっ、俺の左手っ……」
 尻餅をついた新田は、まるでそれが自分の免罪符だと言うように枝が刺さった左手を見せつけ、後ずさった。
「も、もうやめようぜ。な? 怪我してんだから俺……それより、誰か呼んでこいよ! くだらねえ喧嘩してる場合じゃねえよ、俺の、俺の手が……」
「…………」
 鋼は何も言わなかった。黙って、背中を向けた。新田はほっと安堵のため息を漏らした。
「よかった。わかってくれたか」
「ああ、わかった」
 言って、鋼は。
 自分の左手の指を右手で掴むと、紙でも絞るようにゴキリと捻った。
「――え」
 無造作に下げられた鋼の左手の先で、ゴムが伸びてしまったように四本の指がだらんと垂れた。四本全部、脱臼していた。
 新田は、鋼が自分を見ていることに気づいた。
「……これで『フェア』だな?」
 一瞬、相手が何を言っているのか分からなかった。新田の唇が、恐怖で紫色になっていく。
「お、お前……どうかしてるぞ……」
「バットで殴られてる時、ずっと思ってたよ。一対一なら勝てるのに、ってな」
 ゆらり、と鋼が倒れこみかけのような一歩を踏み出した。歩き方がおかしい。どこか痛めたらしい。
「九対九は慣れてても、一対一は初めてか? 四番なんだろ、頑張れ新田」
「……や、やめてくれ。助けて……」
「おいおい、いまさら――」
 言いかけた鋼の顔に、土くれが振りかかった。新田の右手が、湿り気のある土を投げ放っていた。そのまま新田は鋼の頬を殴りぬけた。
 こいつは、ヤバイ。
 絶対に、いつかとんでもない『何か』をやる。
 今の内に殺しておかないと、駄目だ。
 むしろ、正義感にも似た義務感に駆られて、新田は鋼を肩で押して距離を取るとさらに右拳を振り回し始めた。素人技ではあったが野球部の基礎練で鍛えられた新田の拳脚は決して安く見ていいものではなかった。腹に前蹴りを一つもらって、鋼が咳き込みよろけた。シメた。チャンスだ。新田はノーガードで突っ込んだ。


 ぱキィッ……


 鋼の拳が新田の顎を綺麗に撃ち抜いた。
「は……へ?」
 かくん、と膝から力が抜ける。痛い、というよりも、誰かに上から肩を押さえつけられたように、立っていられなかった。呆然としたまま、鋼を見上げる。
 がしっと髪を掴まれた。引き抜かれるのかと思って不安になったが、違った。
 大砲のような鋼の左の膝蹴りが、新田のレバーにぶちこまれた。
「えっプぅぁ」
 目玉が飛び出すほどの衝撃と激痛に新田は髪を掴まれたまま身体を縮こまらせた。鷹にくわえられた栗鼠のように抵抗できない。髪を離した鋼のサッカーボールキックを胸に喰らって文字通り吹っ飛んだ。地面に叩きつけられ身もだえしながら這いずり回る。
「ひギュッ……ウェッ……ァ」
「…………」
 鋼は、痙攣している左手を放置したまま、血を求める蛭のように蠢く新田を見下ろしたまま、攻撃の手を休めている。その唇が、すうっと開いた。
「立て」
「……あ、あ」
「立てよ」
 鋼はそばに生えていた木の枝を力任せに殴りつけた。粉々になって霧になった木片を見て新田はびくっと身体を奮わせた。やっとのことで立ち上がるが、すでに身体は半分以上も鋼に背を向けている。逃げようとしている。
 斜面を這い上がり始めた新田の足を掴んで、鋼は引き摺り下ろした。
「あああー」
「立て」
 新田は逃げる。顔面を泥と涙と鼻水まみれにして斜面をかき登っていく。ユニフォームの股ぐらはとっくのとうに濡れていた。
 鋼は顔を真っ赤にして新田の首を掴み引きずり上げると、手近な木にその身体を叩きつけた。首を締め上げながら、いまにも相手を噛み殺しそうな顔を嫌がる新田に見せつける。
「なんで逃げる」
「ぐっ……ううっ……」
「俺を殺すんだろ?」
「……やっ……がっ……」
「やってみろよ」
 新田の身体がどすんと地面に落ちた。手を首元にやってケホケホと咳き込む。鋼はフラフラと後ずさった。三十分以上も十人がかりで滅多打ちにされていたのだ。効いていないわけがなかった。そのまま、今にも倒れそうな足取りのまま新田から距離を取ると、鋼はキョロキョロと辺りを見回した。そして視線を定めると、地面に落ちていた手頃な枝を右手で持ち上げた。それを見ていた新田の目が恐怖に染まる。そんなもので喉を一突きでもされたら――
「や、やめろ。やめてくれ」
 鋼は答えない。じっと手の中の枝を見つめている。
「やめろって!! なあ、悪かった、許してくれ、もうしないから、もうあんな真似やめるから、だから――!!」
 鋼は答えない。新田は目を瞑った。



「――やめろって言ってんだろうがよォォォォォォッ!!!!」


 くうっ、と子犬のように鳴いて、新田は両腕で顔面を覆った。
 だが、いつまで経っても何も起こらない。
 恐る恐る、目を見開く。
 すると、そこには。


「……がっ……痛ぅ……うああ……」


 鋼が、日差しの当たる草地の上に、しゃがみ込んでいた。
 その右のモモに、ささくれ立った木の枝が、突き刺さっている。モモの裏から、枝の先端が覗いていた。
 新田はもう、ポカンとするしかなかった。笑いさえしそうだった。
 何がしたいんだ、こいつは。
 左手といい。右足といい。
 なんでそんな、自分を痛めつけることばかりするんだ――?
「クっっっっソがぁっ!! 痛ぇ、痛ぇ、痛ぇんだよ畜生!!」
 どん、と鋼は尻餅をつき、背後の大木に後頭部をガンガンと打ちつけた。左手の激痛と右足の新傷が混ざり合って、もはや耐え難いまでにその痛覚は刺激されっぱなしらしい。身をよじり、こめかみを樹皮にこすりつけるようにして痛みに耐えている。はあっ、はあっ、と荒い呼吸を漏らすその様が何かに似ている気がしたが、さっきまでの自分だったことに新田は気づく。
「畜生ッ……てめえ、くそ、これでいいだろ……!!」
 何が? と思った。
 鋼は、顔を目一杯しかめながら、言った。
「これで……逃げなくて……いいだろ……?」
「お前……絶対おかしいよ……なんなんだよ……」
「かもな……でも」
 言って、鋼が笑う。
「これで、白黒ハッキリ、つくから」

 だから――

 右足を伸ばしたまま、陸に打ち上げられた魚のように鋼はへたりこんだままの新田に近づき、その胸倉を掴み、頭突きをぶちかました。白目を剥いて気絶しかける新田の額に自分のそれをすり合わせて、眼球が触れあいそうな距離まで近づく。
「どうした。来いよ。俺を殺すんだろ。殺してくれよ、頼むから」
「……う、うう……うわああああああああああああ」
 新田の不様なスウィングパンチを、鋼はかわさず、テンプルにそのままもらった。めキィッ、と鈍い音がして鋼の身体が吹っ飛んだ。新田は信じられないものを見たように、自分の拳と倒れこんだ鋼を見比べた。

 勝った――?

「……ふ、ふふ」
 鋼が、息を吹き返した。ゾンビのように上半身を起こし、髪を振り乱す。黒髪の隙間から覗く目が爛々と輝いていた。
「いいねえ」
 絶対おかしい。
 どうかしている。
「今度は俺の番だな……ちょっと待ってろ。いま行く」
 来るな、来るなと叫ぶ新田を無視して、鋼は血の川を残しながら這いずり、新田の鼻っ柱に右ストレートを叩き込んだ。拳が離れると、新田の不自然にねじくれ曲がった鼻があらわになった。もうすでに、顔面は真っ赤で肌色の部分を探す方が難しい。
「えっブ……ぐビッ……」
「どうした……来いよ。ふふっ、あとちょっとで倒せるぜ、俺……」
 そう言って笑う鋼の喉に、新田の右がぶち当たった。喉を潰された鋼がまたもやひっくり返り激しく咳き込む。その隙に新田はまた背中を向けて逃げようとした。
 襟元を掴まれる。
「待……て……」
「ううっ………」
「逃げんな……」
 鋼は新田をモノのようにひっくり返すと、マウントを取った。熱に浮かされたように、呟く。
「最、後まで……やる、んだ……」




 人を殴るのは、初めての経験だった。
 喧嘩なんて、生まれてから一度だってしたことがない。
 因縁をつけられて、一方的に嬲られることは今までもあったが、
 全部、一対多の私刑だった。
 だから、どうせ殺されるなら、
 最後の最後は、
 一対一で、やってみたかった。
 本当の本当に、
 最期まで。




「――――――――――ッ!!」



 新田の蹴りが鋼の顎を真下から撃ち抜いた。右モモに刺さった枝を思い切りねじりこまれてマウントが緩んだところを、蹴り上げられた。倒れこみかけた反動をそのまま捻り返して、右フックを返した。新田のアバラが折れた。
「いい音したなァ……俺のはもう、お前のバットに折られちゃったよ……」
 咳き込みながら鋼は新田に近づく。ぐったりとしたその胸倉を右手で掴み、がくがくと揺さ振る。新田はもう答えない。気絶していた。
「なァおい……教えてくれよ、みんなして一人をボコボコにするのってそんなに気持ちいいのか? 一対一でやるよりずっといいのか? 答えろよ新田……」
「…………」
「俺にはわかんねえよ……何も……」
 鋼は、八つ裂きにされた空を見上げた。
 無数の枝に切り分けられた曇り空から、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてくる。
 その雫を頬に受けながら、言葉がさらりと流れた。
「何も感じないんだ……何も……」









 黒鉄鋼、十五歳。
 その拳は、彷徨うことしか、まだ知らない。