Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 足元で開いたハッチの底から、軽い唸りのようなものが聞こえてくる。恐らく、さっきまで跳ね回っていた鋼と星の残響か何かだろう。ヤシマは、もうピースを持って飛び降りていった。次は鋼の番だ。
 鋼は、そばにいた研究員の子に剥いだ自分の上着を押し付けるように手渡した。そのうしろから椅子に座った殊村が顔を出す。
「まったくもう、やめてよね、ラボの中で乱闘沙汰とかさ。ブラックボクサー同士が簡単に接触できる環境だって『上』を説得してやっと維持してるっていうのに……あのカメラの映像がもしバレたら黒鉄くんアレだよ、隔離されちゃうかもよ。それでもいいの?」
「ワリ」
 これだもんな、と殊村は諸手を挙げて降参した。
「涼虎ちゃんが冒険に出るわけだ。前代未聞だよこんなの」
「研究データが蓄えられていいじゃん」
「いまさらノッカーシリーズのデータなんか集めてもね。まあ気になるのはせいぜいプラスを飲んだ君の体調ぐらいかな」
 殊村はふわわ、とあくびして背もたれにもたれかかった。しっしと手を振る。
「僕はさ、君たちと違って喧嘩なんかやってる余力はないの。眠ってるから、涼虎ちゃん、後はよろしく」
「ええ、おやすみなさい。殊村くん」
 コテンと寝入ってしまった殊村を、鋼と涼虎は肩を並べて見下ろした。
「注意事項はいつもと同じです。スプレイの残量に気をつけること。エレキは絶対一回までしか使わないこと。極力キスショットはしないこと。障壁が割れたらすぐに離脱すること。プラスでも障壁は二層までしか張れません。お忘れなく」
「うん」
 涼虎は、少し間を取ってから続けた。
「これは、あなたの生命を守るために言ってるんです。あなたのために。あなたに、死んで欲しくないから」
 鋼は涼虎の横顔を見た。
「……ヤシマも?」
「剣崎くんも、です。人が無闇に死んで、それが何になりますか?」
 鋼は薄く笑った。
「なんにも、だな」
「わかってくれましたか?」
「ああ、もちろん。わかってるって。たかがスパーだろ?」
「それならいいんです。安心しました。いってらっしゃい、黒鉄さん。5分間、頑張って」
 涼虎の声に、鋼は左拳をぐっと横に突き上げて応えた。そのまま振り返らず、ハッチの下へ身を躍らせる。風が顔を強く打った。目を開けていられない。防御隔壁のクロワッサンを滑るように落ちていって、白い空間に出る。
 ヤシマから一〇メートル挟んだ床に、両足から突っ込んだ。
 衝撃。
 鋼は一瞬止まってから、平然と起き直った。
 アイスピースなしでも発動できるブラックボックス能力はいくつかある。スプーン曲げや、さっき蛍光灯を割ってみせたのもそのひとつだ。そして鋼がいま使った、高所から飛び降りた時の衝撃をそのまま床に流す技もピースなしで発動できる。
「――『フラッシュ』ができるってことは、一応、基礎はこなしてきたらしいな」
 頬にどでかいガーゼを張っているヤシマが言った。どうも今のはフラッシュという技だったらしい。鋼は初めて聞いた。
 もちろんそんなことは顔に出さない。むん、と胸を張った。
「天才なんでね」
「へえ、そりゃお気の毒」
「あん?」
「だって、いまから俺に殺されて、その貴重な才能を散らしちゃうんだからさ」
 鋼は染みるように笑った。
『まったくもー、あんなこと言ってるよヤシマのやつ』
 ピースを取り出そうとした鋼の指が止まる。
『ルイちゃん? なんだ、今回もサポートについてくれるのか』
 アタマの中に響く少女の声が、呆れたようなため息をついた。
『あったり前でしょ。黒鉄くんをひとりで戦場に出すなんて寂しいことしませんよー』
『嬉しいなあ。でも、向こうのサポートはしなくてもいいのか?』
『向こうは向こうでべつのブレイン持ってるからいいの。ねえねえねえ、それより何したの? あたしあんまり事情聞いてないんだよね』
 鋼はちょっと考えて、答えた。
『あいつさ、俺のあげたチャーシューが気に入らないんだって』
 ルイは感心しているようだ。
『へええ。ねえ』
『ん?』
『チャーシューって何?』
『チャーシュ』
 鋼は心の声を詰まらせた。何事かと思った。
『あんた、チャーシュー知らないの?』
『知らない』
『……そっか』
 言って、鋼は、ベルトに下げた袋からノッカープラスを摘み出し、口の中に放り込んだ。
『帰ったら、喰わせてやる』
 答えを待たずに奥歯に乗せたアイスピースをバリンと噛み砕く。氷の破片が飛び散り、パッケージされていた溶液が溢れ出し、味覚から神経系統を電気の味が悪寒のように走り抜け、直上、脳の暗部に入力の一撃を叩き込み、
 目覚めた。
 慣れた手つきでグローブホルダーから白(ひだり)と黒(みぎ)を引きちぎってマウント。宙に置いた拳を振ってみる。軽い。ノッカーとは比べ物にならない。テスト用のバージョンアップでこれなら、新型というのはどこまでの力を引き出せるのだろう。空恐ろしくすらなる。
 前を向く。
 視界を新たに覆っていく氷殻の向こうで、敵も障壁に包まれていくのが見えた。
 目が合う。


 ブザーが鳴った。


 やることは決まっている。時間はかけない。最初から飛ばしていく。鋼は自分の前に白(ひだり)を引っ張ってきて、先手必勝の火球を撃とうとした。
 撃てなかった。
 背面上段から左捻りで障壁が砕けるような一発が、文字通り落ちてきた。
 衝撃。
 想定外の一撃だった。思いもかけない衝撃と障壁に亀裂が入った騒音で鋼の脳は一瞬、真っ白になった。それがいけなかった。ブラックボクシングにおいて脳の入力される情報はゴミでもダメージになるものはなる。ましてやそれが想定外の一撃ともなれば、覚悟して受けたダメージの数倍の破壊力にも到達しうる。
 いま鋼の受けた一撃が、まさにそうだ。
 声が聞こえる。
『――いじょうぶ!? 黒鉄くん、とりあえずスプレイで逃げて! どこでもいいから緊急回避!』
『わかっ……て……る』
 鋼は方向も定めずにスプレイをぶっ放した。だが壁に衝突すればそれだけでもう障壁が割れかねなかったので、さほど距離を稼げずに停止せざるを得なかった。壁際ギリギリで氷殻が停止する。冷気で壁面に薄く霜が張った。
 アタマを押さえて、片目を見開く。
 ヤシマは、鋼から星七つ分ほどの距離を隔てて飛んでいる。逆さになって腕を組み、ニタニタ笑っている。いや、逆さになっているのは自分の方かもしれない。たった数秒で上下もわからなくなってしまった。
 やられた。
『いったいなにが……』
『あいつ、始まってすぐにテレポートして後ろからキスショットしてきたんだよ。しかも一番効く背面上段から容赦なし』
『先手必勝は、向こうも考えてたってことか……うぐっ……』
『大丈夫? どこか痛む?』
『問題ねえ』
 問題はあった。両目の奥がひどく熱い。視界の縁を白い稲妻のようなものが脈打つ度に頭痛と吐き気がした。唾を飲み込んで誤魔化す。
 ただでさえさっきテストを終えての連戦状態。1ラウンド限定とはいえ、3分持つかどうか危うい。今にも障壁が一層どころか二層まとめて砕けそうだ。
『障壁だけど、パイロとかパンチぐらいなら何度か受け止めきれると思う。でもキスショットはこっちからも向こうからも駄目。障壁同士が触れ合ったら、アウトだと思って』
『わかった。……どうすればいい?』
『とりあえず基本に忠実に。左(パイロ)で揺さぶって右(エレキ)を当てる。黒鉄くんの黒でも超至近距離なら当たるよ。バチッと決めちゃって』
『ああ』
 呼び寄せた白と黒を障壁の前で構え、敵の薄ら笑いを見上げ、鋼は思う。
 ――余裕ぶってすぐに倒さなかったことを後悔しなければいいけどな?
 目を細め、狙い澄まし、剣崎八洲を守る氷殻めがけてパイロの連打を放つ――!



 燃え盛る火球が三発、四発、五発、瞬きすれば当たる速度でヤシマへと襲い掛かる。獰猛な炎のショートパンチは見てからかわすには速すぎる。鋼は確信した。
 全弾命中、もらった。
 が、
 空気が叩かれるサウンドエフェクトとリボンのような気流の筋を残して、ヤシマがスプレイでバックダッシュした。くん、と軌道をL字に曲げて危険区域から離脱。外れた火球が壁面へ次々と飲み込まれ爆発した。
『黒鉄くんっ!』
 言われるまでもない。いつまでもお試し期間が続くとは鋼も思っていなかった。ヤシマの白(ひだり)から『こっちが本場だ』とでも言わんばかりに五発六発七発と火球が放たれる。その弾道は計算し尽くされ、鋼が上下左右どこへ逃げても必ず一発はかする軌道に乗っていた。鋼は歯軋りする。
 悔しいが、やはり、ブラックボクシングの経験では自分はヤシマに到底及ばない。いまの『左の差し合い』で鋼にはそれがよくわかった。ヤシマは見かけ以上に冷静なやつだ。戦いながらアタマも休めずに動ける男だ。
 あのバックダッシュがそれを物語っている。
 ヤシマがこっちの火球を回避できたのはマグレでもなんでもない。あのバックダッシュで、自分の後退速度と火球の進行速度を一瞬で合わせたのだ。当然、同じ速度で動けば火球は止まって見えただろう。その間に回避できるポイントを見抜いて離脱したのだ。
 向こうが上だ、実力では。
 が、それならそれで、やり方はある。
『バックダッシュ!』
 ルイの声と同時に背面加速。覚えさせてもらった技を早速に猿真似する。が、火球と同じ速度に一瞬で達するのは並大抵の神経では出来ることではない。まだ鋼には荷が重かった。火球は少し動くが鈍くなっただけで鋼を諦めようとはしない。なんとか弾幕の薄いところから離脱を――
 だが、間に合わない。
 二発、もらった。
 目が覚めるような爆発。
 轟音で耳がやられそうになる。障壁に亀裂が走り、そこから痛みがダイレクトに脳を揺さぶる。膝が震えた。耐える。
 顔を上げる。
 ヤシマは、笑っている。
「くっそがあッ!!」
 鋼は白(ひだり)で火球の弾幕を張り、黒(みぎ)をその中に紛れ込ませるように突撃させた。ヤシマもスプレイで微速ダッシュを繰り返しながら、同じように弾幕を張り黒を出撃させる。お互いの火球同士がぶつかり合って爆炎を上げ、テストルーム全体が微弱な振動に包まれる。立ち込める黒煙の中に、鋼の氷殻が埋もれていく。
 本格的な弾幕戦の始まりだった。


 ここで、ブラックボクシングについて簡単におさらいしよう。
 チェスの駒のように、カードの役のように、ブラックボクサーの能力には種類と限りがある。
 グローブを見えない力で本物の手のように操るサイコキネシス。
 白(ひだり)の掌から火球を撃ち出すパイロキネシス。
 黒(みぎ)の拳をレールガンのごとく撃ちこむエレキキネシス。
 ボクサーの周囲を守る直径2mの氷殻を作り出すアイスキネシス。
 風を操作し、宙に浮くボクサーの足となるスプレイを噴射するエアロキネシス。
 瞬時に移動できるが、エレキキネシスの残弾と使用回数が直結しているシフトキネシス。
 ブラックボクシングは、究極的にはこの六つの組み合わせから、相手の氷殻を砕く一手を弾き出せれば勝ちとなる。
「――――!」
 針で細を穿つ弾幕戦の最中、鋼もヤシマも、火球で相手の氷殻を割ろうとは考えていない。雷撃で砕こうと考えている。エレキの威力はパイロとは比べ物にならない。どれほど鈍い当たり方をしても氷殻の耐久値を半分以上は削れる。芯を撃てば一つ下の層まで砕けかねない。
 だからこそ、相手の黒だけは臆病なほどに警戒し、パイロの弾幕を突破されないようにしておかなければならない。そして自分の黒だけは弾幕を突破させ、相手へ辿り着かせたい。
 どちらも、そのライン取りに苦しんでいた。
 しかも鋼の黒に至っては、相変わらずの不調で思った通りに動いてくれず、まんまと火球の餌食にされることがもう三度もあった。そのたびに鋼はグローブホルダーに手を伸ばして新しい黒をマウントさせていく。
 黒の4番が戦線に突っ込んでいったところで、ルイからの忠告があった。
『忘れてないと思うけど、白(ひだり)は換えが利かないから注意してね』
『ああ』
 ブラックボクシングでは、黒は何度でも精神(スタミナ)が持つ限り破壊されてもホルダーから新しい黒を充填(マウント)できる。が、白だけは途中での補充が利かない。これはルールというよりも、ブラックボックスをどんなアイスピースで叩いても同じ出力、同じ結果、同じ答えしか戻ってこないためだ。少なくともこれまで精製されてきたピースでは、白のリマウントが出来るものは確認されていない。
 このことについて、研究員たちはこんな風に言っている。
「神様のやつも、お話作りのイロハってのがようやく分かってきたらしいな」
 洒落では済まない。
 こんな地下で来る日も来る日も説明のできない超常現象に関わっているだけでも気狂い沙汰なのだ。その上、神だのなんだのの意思が働いているとしか思えない事柄に出くわせばいよいよ病院送りになってもおかしくない精神状態が形成されていく。事実、年に何人かは研究員たちの中で発狂するものが出てくる。考え抜く才能があるばかりに、答えの出ない疑問に飲み込まれて、これまで何人もの天才が消えていった。
 だが、いまの鋼にはそんなことに思いを馳せている余裕がない。
 ヤシマがまだ黒の2番を前線に送っているのに対し、もう鋼は4番まで回してしまった。グローブをマウントさせるのもタダではない。そのたびに神経が削られアタマの中にかかった霧が濃くなっていく。失神するまでマウントを繰り返したことはないが、恐らく黒の6番の出番は回って来ないだろう。
 ルイに助けを乞おうとして、やめた。
 ちょっと思いついたことがあった。
「…………」
 見てろ、と思う。絶え間ない弾幕の中、黒をギクシャクさせながらも左右に振って、相手を霍乱させつつ、火球を撃つタイミングを計る。
 今。
 鋼は、火球を撃った。ヤシマが応戦してカウンターパイロを放ってくる。それでいい。
 火球の裏に、黒を追わせる。周囲は黒煙が絶えず立ち込めていて視界が晴れない。
 二つの火球が衝突、爆発した。一瞬だけ周囲のモノトーンが逆になる。
 その瞬間、間髪入れずに鋼は黒(みぎ)を撃発(トリガー)した。
 金色の曳光を引いて黒の拳が電撃的軌道に乗った。その動きは目標補足をトチった小型ミサイルにそっくりだ。大切なものをどこにしまったか思い出せない子供のように半狂乱に陥った黒の拳が瞬間を切り裂いてヤシマに迫る。もう、火球でガードするのは間に合わない。
 鋼が珍しく、にやりと笑った。
 が、その笑みが凍りつく。
 ヤシマの白(ひだり)が、自身側の黒の2番をパイロで撃ち落していた。突然の自殺点(オウンゴール)に鋼の表情が変わるには時間があと一秒足りなかったが、しかし筋肉まで到達できなくとも神経だけは理解していた。
 ヤシマが切り返したのだということは。
 燃え尽きた黒が落ち始める前に、驚くほど白いヤシマの指先がグローブホルダーを弾いていた。
 閃光。
 電離した電子を周囲にばら撒いて、イオンが焼けるにおいを残し、稲妻の拳が斜めに落ちた。

 ――光が、晴れる。

 鋼は笑った。
 大したものだと思った。ヤシマは無事だった。あの一瞬で、黒の3番をマウントして鋼のエレキにぶつけてガードしたのだ。閃光の余波ぐらいは喰らったかもしれないが、それでも直撃は回避された。それはそっくりそのままだった。ヤシマは知らないかもしれない、だが鋼はよく知っている。
 ボクシングでは拳を手で振り払う動作のことを、『パリング』と呼ぶ。
 鋼の雷撃は、ヤシマの黒でパリングされたのだ。
 もう悔しがる気にもなれなかった。
 惚れ惚れするほど見事な切り返しだった。
 ヤシマを見る。ヤシマの顔色が変わっていた。朝起きたら自分が違う人間になっていた時のような顔をしていた。その面構えを見ると、どうやらこっちも素人同然にしてはなかなか悪くない一手を打ってみせたらしい。
 そんなことをのん気に考えていたのが間違いだった。
 途切れた弾幕の張り合い、それをヤシマが一瞬早く再開した。ぼうっと火球が空気を貪婪にかっ喰らって、燃え盛る。鋼の白は回避も応戦もできなかった。
 爆発。炎上。
 鋼の、たったひとつの白が燃えて落ちていく。鋼はそれを呆然と見下ろしていた。
『マウントっ!!』
 アタマの中の少女の声に操られる傀儡のごとく、鋼の指先がグローブホルダーに触れた。が、滑った。黒の5番が木の葉のように落ちていく。
 間の悪いことに、スプレイが切れた。すんすん、すん、としばらくエアの噴射は鋼を支えていたが、地面スレスレで最後の意地を見せて落下速度を殺し切った後は、ウンともスンとも言わなくなった。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
『黒鉄くん――!』
 もうアタマの中の声に答える余裕が、ない。
 鋼はその場に跪いて、頭(こうべ)を垂れた。
 神経質なまでに白い床に、少し汚れた汗がぽたぽたと滴って染みを作った。
 顔が上げられない。
 立ち上がることができない。
 ダウンだった。
 それを見て、ヤシマの顔に凄絶な笑みが浮かぶ。
 ――勝った。




 アッパースプレイで軽く上昇。残った仕事は簡単だ。しゃがみ込んだ敵の氷殻を急転直下のキスショットでギリギリかすめてクラッシュアウト、再上昇して勝利の雄叫びと喝采の双拳を突き立てる。それで終わりだ。
 ぶわああああっと不退転のスプレイを残量度外視でぶっ放し、身が切れそうな風切音の中、ヤシマは流れ星のように落ちていく。どんどん大きく迫ってくる敵を視界に入れながら、ヤシマは何も考えていなかった。真っ白だった。闘っている時だけは、空白のままでいられた。綺麗な熱気の中に浸っていられた。それを奪われてからは、どんどんと自分の中にどす黒い何かが溜まっていった。自分ではどうすることもできなかった。理屈はなんの支えにもなってくれず、正論は少しもヤシマのことを思いやってはくれなかった。自分の務めを奪われたヤシマのことは、ヤシマ自身でカタをつけるしかなかった。
 だから、いま、ヤシマはここにいる。
 ――あと一秒もせずに鋼の氷殻と接触する。
 ヤシマは、少しだけ落下軌道を上方に修正した。これで万一、氷殻を二層ごとぶち破ってもしゃがんでいる鋼の身体を傷つけることはない。最初から殺すつもりなどない。そんなことをすれば最後の居場所すらも失ってしまう。それは嫌だった。自分の手で捨てられないくらいには、ヤシマはここでの人生を気に入っていた。
 自分の勝ちを焼き付けようとするかのように、ヤシマは目を限界一杯まで見開く。
 いろいろ驚かされもしたが、これで決まりだ、黒鉄鋼。
 所詮、おまえは、俺の『代わり』であって、『つなぎ』なんだ。そのことを二度と忘れないように、脳に刻んでおいてやる――忘れるな。
 誰が『上』かということを。




 接触寸前、鋼と目が合った。




 衝撃は、訪れなかった。
 ヤシマのキスショットは虚空に突っ込んだ。
 意識が状況を理解し損なった。ヤシマの氷殻は再上昇せず、そのまま白い床に激突した。目をつぶって階段を下り切った時のような想定外の衝撃に氷殻は寒気がするような亀裂を走らせ、そのままバウンドして宙に跳ね返った。
 何が起こったのかわからなかった。
 確実に、自分は鋼との衝突コースに乗っていたはずだ。
 砕けるのは、俺じゃなく、やつの氷でなければならないはずだ。
 それが、どうして。
 目まぐるしく回転する視界の中、ヤシマの片目がうずくまった鋼の姿を捉えた。
 鋼はさっきと寸分違わず、ヒザをつき両手を支えにしたまま、動かなかった。顔だけが、こちらを斜に構えて向いている。
 鋼は、そのままの姿だった。
 氷殻はどこにもなかった。砕けて散らばってすらいなかった。
 消えていた。
 当たり前のことだが、練習にしろ本番にしろ、やり合っている最中に氷殻を切る馬鹿はいない。だが一応、ルール上では『氷殻が砕けるか、戦闘不能にならなければ負けではない』ことになってはいる。
 だからといって、この戦闘区域のど真ん中で、こっちのキスショットが髪の毛もさらうような距離を通過するその時に、氷殻を消してまで闘い続ける馬鹿がいるか。
 そいつは。
 ヤシマの遥か下、十三メートルの床に満身創痍でへたばりこんでいた。
 一瞬、ヤシマの心に理解不能な敗北感がよぎった。氷殻がないやつをどうやって『倒した』とみなせばいい? ひょっとしてこれは『詰み』なんじゃないか? よくよく考えればそんなことはない。生身の人間を戦闘不能になんていくらでも出来る。なぜならこっちは超能力者で、向こうは力を使い果たしたもはやただの人間なのだから。黒でも白でもひとつ飛ばして頚動脈をゆっくりと押し潰してやれば30秒もかからずに失神するはずだ。
 だが、ヤシマがそれをすることはなかった。
 視界の端で、黒いものが蠢くのが見えた。
 そっちを見る。
 上方、3メートル。
 ひらひらと黒い手袋が大気に巻かれて落ちてきていた。
 透明人間がはめて見せたかのように、手袋が膨らむ。
 その甲には、金字で『5』と印されていた。
 鋼の落とした黒の5番だった。
 気づいた時にはもう遅い。
 エレキをトリガーするまでもなく、不調の鋼の黒とはいえ、ほぼゼロ距離では外すことの方が難しかった。
 だが、偶然ながらも、その時だけは芯を捉えた。

 めきぃっ

 鋼の絞りに絞った最後の一撃、渾身の打ち下ろしの右(チョッピング・ライト)が、
 ど真ん中、
 ヤシマの氷殻、その一層を情け容赦なくぶち抜いた。
 二層にまで拳が刺さった。
 声も出ない。
 そのまま床とグローブに挟み込まれて、ひとたまりもなく、ヤシマの氷殻が悲鳴のような音を立てて粉々に砕け散った。
 失神して鼻血を出したヤシマが、どさりと床に転がった。伸ばした手の指先が、ぴくぴくと震えている。
 うずくまったまま、鋼の左目がそれを捉える。目を瞑る。大の字になる。
 左拳を突き上げる。
 誰かが歓声を上げている。
 ブザーが鳴った。






 たかがスパーのはずだった。



       

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Neetsha