Neetel Inside 文芸新都
表紙

ぼっち企画
光のどけき、春の日に/くろと

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     ■

 俺の隣には、悪魔が棲んでいる。
「ねえねえ、スズメってどんな形してると思う?」
 その悪魔は、見かけこそ三つ編みの女子生徒の姿をしているが、授業中には俺の睡眠を妨げ、時には息もつかせぬ間隔で頭の疑問符を手当たり次第に俺に投げつけてくる。たとえば、昼休みに俺が机で自家製の弁当を食べている、今。
「わたしはね、あかいろしてると思うんだ。どんないろかは知らないけど、チュンチュン鳴いてて元気だからきっとあかいろだよね?」
 こう言った風に、思ったことをため込むことなく俺に蓄積する。返事をする義理はないので完全に無視を決めているが、これ以上耳元でやたらめったら騒がれると寝ても覚めても幻聴に苛まれそうで、俺の将来が心配だ。
「あ、でもスズメがあかいろだったら変だね。空って、あおいろなんでしょう? あかとあおは一緒に見ると気持ち悪いって聞いたから、もしかしたらスズメはあかいろじゃないのかなあ? もしかしたら、空があおくないのかも!」
 隣人は生まれてから一度も、視界に光を映したことが無いと言う。だからと言って俺に同情の余地などない。感覚の障害を持っているのなら普通の学校に来るなと何度も言い咎めたが、その度に同じような逃げ文句で返される。なのでもう、反論する気も起きなかった。
「それとね、それとねー」
 今日も俺に安息の時間はない。
 いい加減、俺が苛立っていることにも気付いてほしい。

 不運なことに俺と悪魔は近所に住んでいるため、帰るときは大体奴を見つけてしまう。見つからないように慎重に帰宅するのだが、めくらな所為でよっぽど耳が良いのか、俺が少し後ろを歩いているだけで、俺の名前を呼びながら振り向く。幾度となく逃げようかと考えたが、俺の行く通学路は舗装されている場所が少なく、工事中の部分もあるので、下手に走って帰ろうものなら転倒して大怪我、なんてことも考えられなくはないので、いつも溜め息を吐きながら帰る羽目になる。
「空って時間が経ったらいろが変わるんでしょー? 見てみたいなー、わたし」
 悪魔が戯言を頭上に飛ばしている。
 そういえばこの悪魔も、偶には俺の面白い遊び道具になったりする。今日みたいな帰り道で、少し大きめの石を明後日の方向に放り投げて鉄柵に当ててやれば、悪魔は驚いた顔をしてその方向に歩いていくのだ。
「ねえねえ、今なんか変な音しなかった?」
 ある方向に投げれば、今度は別の方向に投げる。あっちに行ったりこっちに行ったりする悪魔の姿はとてもとても滑稽で、俺のストレッサーな日々の解消に役立っていた。
 石を投げる。
 音に反応して、悪魔がその方向に歩く。
 俺は一人で笑っていた。

 俺は世界一不幸だと言っていいのかもしれない。俺と悪魔は同じ文系の日本史選択補助世界史コースで、行く教室行く教室で奴と鉢合わせになることが多かった。気づかれなければこれ幸いといつも頃合を見計らって先に移動教室へ向かっていたが、俺が転寝している間に、悪魔はいつの間にか俺の隣に座っている。いつも授業が始まる寸前に起きてしまうので、今更移動するわけにもいかない。
「戦国武将ってかっこいいよねー。わたし、武田勝頼が特に大好き」
 悪魔は長篠の合戦で惜敗を喫した武将が好きという悪魔らしい性癖を持っている。
 さすがに授業中は大声で話しかけてくるなんてことはないが、タイミングがあればすぐに耳打ちしてくるので、こちらとしても授業に集中できないので困っている。悪魔の囁きを、授業に集中することによって何とか振り切っているが、今日みたいに、教師が早めに教材を片付け始めた時は面倒なことになる。
「それでは、後は自習をしていてください。私は出張に行ってきます」
 隣人が悪魔ならば、日本史担当のハゲは死神だろうか。
「自習って、どんないろしてるんだろうねー?」
 俄にざわつき始める教室内に悪魔の声も混じる。
 俺は瞼の裏の世界に浸ることで、それを回避することにした。

 帰路に棲む悪魔は、いつもより顔を綻ばせていた。
「今日ねー、みかちゃんがお菓子くれたんだよ! 帰ったら食べてみようかなー」
 どうやら友達の女子から手作りのお菓子を貰ったらしい。身体障碍者の悪魔が一般人からお菓子を貰うなんてこと、断じて許されるわけがない。
 俺は悪魔の目の前に立つと、嬉しそうに持つその両手から歌詞の入った袋をぶんどった。悪魔は初め、あっけにとられた顔をしていたが、意味を取り違えたのかすぐに元通り満面の笑みを浮かべた。
「あっ、食べたかったら食べてもいいよ! 後で感想教えてね!」
 悪魔は言う。とんでもない。悪魔が一度触れた食べ物など、天使による浄化でもなければ汚染されて俺まで悪魔になってしまうかもしれない。俺は悪魔に悟られぬよう、歌詞の入った袋をその辺の用水路に捨てた。
 悪魔のくせに生意気だ。
 ぶうん、と言う虫の羽音が、耳を劈いた。

「お弁当、忘れちゃった」
 今日の悪魔の三十六言目は、非常にどうでもいい報告だった。ありったけの罵詈雑言で非難してやりたいところだったが、生憎そんなことをするだけの余裕はなかった。今日は昼休み用事があって、悪魔の妄言を聞かずに済む。これほど喜ばしいことはない。俺は準備もほどほどに席を立ち、教室の外へと出た。
「……あれ? わたし、机の中にお弁当入れてたっけ? んん?」
 三十七言目には、弁当を持ってきて机の中に入れていることさえ忘れていたらしい。悪魔は記憶能力が皆無。俺の無駄な知識がまた一つ増えてしまった。
 俺は悪魔から逃れられてとても開放的な気分だった。少し迷いながらも購買に向かって焼肉弁当とうぐいすパンを買い、久しぶりに静かな昼飯を摂ることができた。

 ある日の放課後、悪魔は蛍光灯がちらつく教室で、一人座っていた。
 よく見ると、自分の机を手当たり次第雑巾で磨いている。綺麗好きな悪魔だなんて、意外を超えてむしろ気持ち悪ささえ感じる。磨き終わったかと思えば今度は教室の後ろの生徒ロッカーを、それも自分以外の生徒のところを手探りで漁りはじめた。綺麗好きなうえに、盗人でもあったとは、救いようのない悪魔だ。これでもまた明日、猛々しく登校してくるのだろう。
 小一時間で盗みを終えて、安堵の表情を浮かべる悪魔。学校の平和のためにも、悪魔の行為を止めるべきだろう。生徒の安全のためにも俺は立ち上がる決心をした。
 それと俺は少しだけ、早起きをするようになった。


 ある日、悪魔は儀式にかけられた。
 民もおそらく、鬱憤が溜まっていたのだろう。
 それは、とても凄惨な儀式だった。
 悪魔は、学校に来るのを辞めた。


 俺に平穏な日々が戻ってきた。隣は空席。
 これで俺はきっと幸せな日々を送れるだろうと、不確かに思った。
 ある日、嫌疑がかけられた。
 ある日、日本史のテキストが無くなった。
 ある日、弁当に虫が入っていた。
 授業中もよく居眠りをするようになって、次第に授業についていけなくなってしまった。教師にも頻繁に叱責を喰らい、周囲に人影がなくなるのをありありと感じていた。自由に溢れた帰り道は危険に溢れている。毎日立て看板や穴の位置が微妙に変わっていく。目を瞑って歩こうものなら、誰かに言ってもらうまで気付くことは出来ないに違いない。毎日変わるのだから、覚えることができないからだ。
 自分のロッカーから、物がなくなることが多くなった。元々どこかに置いてきて忘れることは多かったが、それにしては量が多すぎる気がした。以前悪魔の事を盗人と呼んでいたが、今となっては仕方がない。俺は断腸の思いで他人のロッカーやごみ箱、掃除用具入れから、次の日必要な教科書や問題集を引きずり出した。全て、偶然にも俺の名前が書かれているものだった。
 学校に通ううちに、俺はこう思うようになった。
 きっと俺には、悪魔が憑りついている。悪魔があれだけ俺に執拗にかかわってきた所為だ。悪魔はこれだけの迷惑行為を俺にかけておきながら、自分は学校に来ないでのうのうと暮らしているのだろう。はらわたが煮えくり返る思いになった。しかし、それはすぐに拠り所のない涙に姿を変えて、汚れた鞄に滴り落ちた。
 悪魔の所為だ。
 すべて悪魔の為した所業だ。
 だから、全ての責任を悪魔は被る義務がある。
 俺は悪魔の棲みかを訪ねた。
 悪魔は俺の復讐心も知らずに、愚かにも俺を招き入れた。
「…………来てくれて、ありがとう」
 あまつさえ悪魔は俺に謝辞を述べている。俺は笑おうとしたが、顔が引き攣ってどうしようもなかった。
 悪魔は言う。
「お母さんから、聞いてるよ。大変だよね。苦しいけど、頑張って」
 俺は、涙が零れ落ちるのを止めることはできなかった。
「君は、とても強いから。わたしなんかより、とても強いから。大丈夫、大丈夫。きっとすぐに楽になれるから、大丈夫。元気を出して」
 悪魔は何よりも優しく、温かい。
 悪魔に関する最後の無駄知識が、蓄積された。
 俺は何も言えなかった。
 言うことが出来なかった。
 今までも、今も、これからも。

 俺は学校を辞めて、家に引きこもり始めた。
 親は何も言わなかった。家にいてもやることは特にないので、元々趣味だった絵を描き続けることにした。昔と違って絵を描くという行為に対する別の観点が生まれたのか、黄色い空に赤い羽根を持った雀の絵を描くなど、一般的に見れば異常としか思えない絵を描くようになった。自分の思った色をそのまま描けばいい。そう思うようになった。
 時々「彼女」の家を訪ねた。
 訪ねては描いた絵を何枚か持っていき、彼女の部屋に置いて帰った。
 彼女は俺の絵を大事そうに壁に飾っていた。その絵の持つ魅力を存分に伝えたかったが、残念ながら、俺はその手段を持ち合わせてはいなかった。
 だけど、これだけで十分な気がした。
「ありがとう。とてもうれしいよ」
 俺が絵を持っていけば、彼女は笑顔を見せる。
 その顔を見ると、俺もなんだか救われた気がする。
 少しだけ、光ある未来が垣間見えてきた、錯覚がした。


 程なく、彼女は息を引き取った。
 末期、だったらしい。
 何が、かは知らないが。


 馬鹿じゃねーの。俺は声にならない言葉を吐き出した。
 馬鹿じゃねーの。もう少し時間があればと、何度も悔やんだ。
 馬鹿じゃねーの。妬んでいた自分を、激しく責めた。


 俺は生まれてから一度も、この口から言葉を発したことがない。
 俺はおそらく、それをとても羨んでいた。悪魔が――――彼女が楽しそうに俺に話しかけてくるのを嫌がりながらも、心底それに応じたいと思っていた。それが叶わない願いだったから、必要以上に神経質になって、いつの間にか嫌悪感を抱くようになったのかもしれない。
 日々がフラッシュバックする。
 彼女のために、安全な帰り道を教えたことがあった。
 虐めの一環で渡されたお菓子と虫が入った袋を投げ捨てたこともあった。
 弁当を忘れた彼女のために、自分の弁当を忍ばせたこともあった。
 故意に隠された彼女の教材を朝早くに元に戻したこともあった。
 移動教室の際、あいつの居場所をいつも同じ場所に陣取ることもあった。
 悪魔は孤独だった。
 俺はそれを、ついには守れなかった。
 俺も孤独だったからだ。
 一人ぼっちな奴が、はたして一人ぼっちな奴を守れるのだろうか。俺に勇気がもう少しでもあれば、彼女は学校を辞めることもなく、最期の日まで、悪魔は笑顔で、隣で囁き続けてくれていたのだろうか。俺が居場所になり続けていれば、あいつの拠り所になり続けていれば、あいつがいなくなる日も、悲しまずに済んだだろうか。もう少し早く学校を辞めていれば、一日でも、一時間でも、一秒でも、あいつの陽気で天真爛漫で、思わずあくびが出てしまいそうな馬鹿な声を聴けただろうか。
 俺は障害を自覚したその日から、心の中で唱え続けていた。
 孤独な人間を、孤独なままにしていてはいけない。
 世界中から嫌われても、一人から愛されれば、きっと救われるのだから。

 俺みたいな奴でも、あいつを救う、その一人になれたのだろうか。
 もしくは、なれていただろうか。
 その答えは、もう、どこにもいない。
 ただ、俺は少しだけ、救われたような気持ちになっていた。
 彼女の葬式の時。
 彼女は俺の描いた、一面に花の咲いた絵を抱いて、眠っていた。


 一人、あの、夕暮れの帰路を歩く。
 工事は少し前に終わり、道は綺麗に舗装されている。
 もう、石のぶつかる音を鳴らすこともない。
 それでも俺は、ひときわ大きい石ころを一つ、拾い上げて遠くへ投げた。
 線路沿いの鉄柵に当たり、自然には響かない、金属音が響く。
 そうすればまた、会えそうな気がしたからだ。


「ねえねえ、」

 俺の隣に棲んでいた、あの悪魔に。

       

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Neetsha