Neetel Inside 文芸新都
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Roundabout
僕の”優しさ”

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 「すみません。」

 とぼとぼと静かに大学の中庭を進む僕の肩に長身の男の腕がぶつかった。低く、小さな擦り切れた謝罪の声が聞こえた。いえ、そう僕が小さく返答すると彼は見向きもせずに僕とは反対方向に音も立てずに静かに歩き去った。
 僕はあの男を知っていた。擦り傷だらけでぼろぼろのライダースジャケットに色あせて伸びきったジーンズ、随分と年季の入った作業用のブーツを履いたあの生徒を僕は知っていた。入学したての右も左も分からないあの頃に一度クラスの飲み会で会った。

 皆が年齢確認されまいかとビクついている中で彼は静かに佇み一人、酒を飲んでいた。彼の吐く紫煙は他の誰のモノよりも重々しく、他者に対してどこか違和感を感じているような外見であった。そんな彼に興味を持った僕は彼に話掛けようと思った。しかし、気付けば彼は飲み会が終わらぬ内にどこかへと消えていた。教室にいるところを見かけた際もいつもそうであった。彼の姿はどこにいても目立っていたのにも関わらず、消える時は誰にも気付かれない内に消えていた。

 彼と話をしたという仲間が一人いた。その者は彼をどこか変だと、普通の生徒ではないと形容していた。彼に特別おかしな部分があるようには見えはしなかったが、目付きが他の生徒とは少し違うことは僕自身も認識はしていたつもりであった。彼の堂々とした、むしろ図々しいまでのその態度とは裏腹に彼の放つ言葉はどれもぶしつけなまでに丁寧で、そのギャップが随分と際立っていたように思えた。

 僕は彼に一種の憧れを抱いていた。一人、中庭のベンチに座り静かに昼食のパンを頬張りつつ、退屈そうに本を眺める彼の姿をふと格好いいと感じてしまったことがあった。彼は孤独を主張も、悲観も、ましては問題視すらしていなかった。それを話の種に自身の不幸さを他人にひけらかす様なことは決してしなかったし、どんな人物が話掛けようがその硬い外見と閑静としたその口調を崩すことはなかった。
 対して僕は何かを貫いたことは一度も無かった。いつだって誰かの目を気にして、誰かの期待に応えようと必死になって、その癖ちっぽけな虚栄心ばかりが日に日に大きくなるばかりであった。Tと付き合うようになってからも、その前もそうだった。
 どこかで"優しくていい人"を演じていれば誰かがきっといつかは認めてくれる。そう、思っていたのかもしれない。僕がこの大学に進学をする前に、"彼女"を行かせてしまったあの時もきっと僕はいい人を演じたかったんだと思う。

 それの結果がどうだろう。
 
 色々な人との距離感を調整することに必死で、僕の弱い、汚い部分を見せない為だけに自分に嘘をついて、好きな人に好きと言ってもどこか罪悪感を感じ、別の女性に別れたいとも言い出せない。彼が僕の立場ならどうしたんだろう。彼が僕だったのなら、もしかすると僕の犯した間違いを犯さなかったのかもしれない。

 僕の気持ちは一体何なんだろう。僕は一体どうしたいんだろう。これだけたくさん嘘を付いて、自棄になって、他人に興味が無い振りをして、都合のいい時ばかりTの身体の温もりを求めて、どうしたのだろう。素直であるばかりではきっと生きてはいけない。そんなことは分かっているつもりだったのにどうして、こんなに色んな事柄を考えてしまうのだろうか。
 また、小さなため息が口から漏れた。重い気持ちを抑え付けた僕の目は彼の背中を捉えていた。僕の足は歩みを止めていた。振り返ることのない彼の背中は相も変わらず憎たらしい程真っ直ぐに見えた。
 どうして、一体全体どうして、僕のような人間が様々な仲間に囲まれながら訳の分からない悩みを抱えなくてはいけないのだろう。これは素直に、真っ直ぐ生きてこなかった僕に対する何らかの罰なのだろうか。それとも、Tに対して不誠実な気持ちで付き合い続けてきたことがそう感じさせるのだろうか。

 分からなかった。何もかも、僕には分からなかった。

 いつもの教室に着くと、いつも通りの席にいつもの仲間が座っていた。軽い挨拶を交わして僕は今朝の喫茶店の店員の女性の話をした。彼等はそんな小さなことを世界の一大ニュースかのように耳を傾けて質門を投げかけた。それに対する僕も僕だと僕は感じた。彼らが気に入る様に話を脚色し、あまり不自然に聞こえないように程々の無関心を装った。頭の中の疑問は口には決して出さずに笑顔を取り繕った。

 「ねえ。」

 聞き覚えのある声が耳に入った。Tはいつものように小奇麗な服を着て、じとりとした目で僕を捉えていた。口元では笑顔を作っている癖にその眼つきだけはそこにいた誰よりも鋭いものだった。ため息をつきたくなる気持ちを抑えて平常心を装いながら僕は彼女に顔を向けた。おはよう、と笑顔で彼女に声をかけた。話があると彼女は僕にそう言った。僕は授業があるじゃないかと諭すと彼女は不機嫌そうに教室から出て行った。

 いいのか、と仲間が僕に聞いた。どうしたんだと心配していた者もいた。大丈夫、何も無い。そう言った僕の目は去っていく彼女の揺れる後ろ髪を視界に捉えながら、別の少女の背中を思い出した。

 「嬉しい。」
 そう言った”彼女”は早足で僕から離れて行った。いつものあの笑顔を浮かべながら、僕は立ちつくし返答されることの無かった答えを待ち続けたのだった。少し遅かった、ただタイミングを逃してしまっただけなんだと、寒さの中僕は後悔した。
 これからが大切だと、無責任な者達は僕に言った。何を馬鹿なことを言うのか、現在そして未来に起こる事柄は過去と同じ程度の重要性を有している。ならば過去を無視した形でのそんなアドバイスは無意味だ。

 これは僕と”彼女”の文脈なのだ。「優しい人」を演じ、彼女の為だけに浪費された行為はきっと僕の口から語られることも無く、また同様にTとの関係を深く、誰かに語ることもきっと無い。そして、あの時彼女への歩みを止めていた僕の空っぽな親切心は腐ってどこかに落ちていくことを願うことしか僕には出来ないのだろう。そんな僕の二人の女性への思いは僕の身体のどこに沈んでいくのだろう。そして「優しい」僕は乾いていくのだろう、そう思った。

       

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