Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 扉を開けると、そこにはいつもの玄関と、廊下があった。玄関先に靴が二足。父の大きな革靴と、母の小さな靴が左隅に綺麗に並べられている。右から奏汰、律花、父、母と必ず並べられている。いつからだろう。けれど白部家にとってそれは当たり前で、こうして摩擦を感じるようになっても、この並びだけは変わったことがなかった。
 律花はしばらく、玄関に足を踏み入れることを躊躇っていた。たった数日、されど数日。自分はこの家を逃げるように出ていった。父に反抗して、学校だって休んでしまった。今までそんな大それたことなんてしたことがなかったから、父がどんな反応をするのか、正直怖かった。
 見限られてしまうかもしれないという想いが、何よりも律花の心を縛っていた。
 たった一歩が、怖くてたまらなかった。
「律花」
 その声に、律花は振り返る。
 奏汰はぎこちなく笑って、律花の肩に手をかけると、諦めろ、と言った。でもそれはここ数年の嫌味じみたものではなくて、もっと、幼い頃に見たことのある穏やかな表情だった。
――一緒に怒られてやるから、諦めろ。
 ああ、と律花は声を漏らす。そういえば、私が何かしてしまった時、父や母に怒られる時、必ずそばに兄の姿があった。どうして忘れてしまっていたのだろう。
「ねえ」
 律花の声に、奏汰がなんだ、と言った。
「……昔みたいに、お兄ちゃんって、呼んでも、いいかな?」
 俯いたままぼそり、と律花は言った。恥ずかしくて、奏汰の顔を直視できない。服の裾をぎゅっと握りしめてしまう。落ち着かなくて体を揺らしてしまう。それくらい、律花にとってその一言は照れくさくて、勇気の要る一言だった。
 奏汰はしばらくもじもじと動く妹の姿を見ていたが、やがて呆れたように笑うと肩を竦め、彼女の頭を撫でながら、いいよ、と答えた。
 久しぶりの手の感触に、律花は心地よさを感じていた。
「律花!」
 びくり、と律花は体を硬直させてしまう。とても大きな声だった。ここ数年、そんな張り上げるような声を聞いた覚えがなかった。
 律花は恐る恐る、振り返って玄関の先に目を向ける。
 そこには、父と母の姿があった。
 いつも食卓で憮然としている父の表情が、ほんの少しだけ、怒りに満ちているのが律花には分かった。
 もしかしたら、父は普段からこんな風に微かに表情を変えていたのではないだろうか、と律花は彼の姿に怯えながら思った。
 何も見ていなかったのは、私も同じなのかもしれない。
 父は強い歩調で床を鳴らしながらやってくると、裸足のまま玄関を踏み越えて律花の前にやってくると、彼女の頬を強く打った。
 乾いた音と、無音。その後、滲むような痛みが頬に走る。
 打たれた頬に手をやりながら呆然とする律花を父はじっと見つめ、それから、彼女の体に腕を回すと、ぎゅう、と強く抱き締める。律花は抱き締められながら、自分の置かれた状況にひどく混乱していた。
 手を振り上げる父の姿なんて、想像したことがなかった。
 抱きしめられるなんて、予想すらしていなかった。
 冷たい目で見られて、終わるだけだと、思っていたのに。
「一体どこに行っていた」
 律花は何も言えなかった。何か言おうと思うのだが、喉がぎゅっと堰き止められていて何も出てこなかった。
「一体どこに行っていたんだ」
 二度、問いかけられて、律花はあ、と声を漏らした。蛇口を捻るようにして、言葉が生まれる。父の大きな胸に顔を埋めたまま、律花は、自然と湧いてきた一言を、絞りだすようにして、口にした。
「……ごめん、なさい」
 どうして今、自分は泣いているのだろう。
 どうして、父は抱きしめてくれているのだろう。
 父の匂いを嗅ぎながら、律花は堰を切って溢れだした涙を嗚咽と共に彼の背中に手を回す。ごめんなさい、ごめんなさい、と彼女は繰り返すように謝り続けた。
 耳元でギターの心地よい音が聞こえた。澄んだ、なんのエフェクトも掛かっていないクリーンサウンド。
 この音は、多分私だ。
 律花はそう思った。

   ・

 グリーンの制服に身を包み、律花は廊下を歩いていた。リノリウムの床を上履きで鳴らしながら歩く彼女の姿は、どこか嬉しそうにも見えた。
「白部、ちょっと頼んでもいいか?」
 ステップを踏むように歩く律花に怪訝な表情を浮かべながら、一人の教師が彼女に声をかけた。律花は振り向くと小さくお辞儀をして、今日は急いでるから無理です、と返事を返すとにっこり笑い、踵を返すとそのまま廊下奥の階段を降りて行ってしまった。
 断られた教師は呆然とした表情のまま、律花の消えていった廊下を眺めていた。
「白部さんが断るなんて珍しいね」
「それになんだかいつもより明るくなった気がする……」
 偶然その光景を見ていた生徒達が不思議そうに話していた。
 教師もまた、彼女の小さな変化に戸惑いながら、手にしていた書類をと廊下とを眺めていた。
 律花にとっては小さな変化だったかもしれないそれは、しかしこれまでの白部律花を知っている人間からすれば戸惑いを覚えるようなレベルのもので、彼女が何か変わったという噂は校内に広がった。
 様々な理由が噂される中で最も出たのは、恋人が出来たのではないかというものだった。だがそれを真に受けて尋ねた男子生徒どもはこぞってはぐらかされ、恋話に恋する年頃の女子生徒達は誤魔化され、気が付けば彼女の話術に乗って自身の愚痴や相談をさせられてしまっていた。
 品行方正、成績優秀。
 しかし余裕のある姿勢だった。
 何より、白部律花は今、とても楽しそうに笑うのだ。


 保健室を開けると、ベッドに横になっていた弦子が起き上がって手を振る。律花は彼女を見て困ったように顔をしかめると、横の丸椅子に座った。
「やあ律花ちゃん」
「本当に弦子、キャラ変わったよね」
「それはあなただって同じじゃない、ムーンマーガレットちゃん?」
 目を細めてからかうように笑う彼女に、律花は不機嫌そうに眉をひそめる。
「くたばればいいのに」
「いやあ、だってもうバレちゃったし、今更猫被る必要はないでしょう?」
 そういって弦子はくわえていたキャンディバーを手に取って律花に向ける。先についた黄色い飴玉は、彼女のお気に入りのレモン味だ。
 ブッキングの後、律花はキャップを外し、自分の顔を曝した。今更隠していてもしょうがないことのように思えたし、何より自分よりも目立ち、美味しい思いをする鳴海が許せなかったということもあった。
 まあ、そんなものは全部こじつけた理由に過ぎないのだが。
 その際二人をねぎらうようにして近づいてきたのが、ジョニー・ストロボと、目の前にいるレモンドロップスこと調沢弦子だった。
「本当にあの時はびっくりした」
「ごめんね、でも隠していたのは律花も一緒なんだから、オアイコってことでいいじゃない」
「良くないわよ! アンタは気づいていたんでしょ? おまけにお兄……兄までけしかけて……。今回の件で分かったけど、あなた、本当に性格悪いわ」
「あ、分かっちゃった?」
 悪びれもせずに笑う弦子を見て、律花は溜息を吐いた。
 ただ、それでも彼女を憎めないのは、多分、それが結果として自分を含めた人間にきっかけを与えたからなのだろう。律花は内に秘めた想いを吐き出し奏汰や家族と改めて会話をする機会を得た。鳴海は、今度こそ本当のプレイヤーとして覚醒することができた。
 一歩間違えばどうなっていたのか分からない。そんな状況の中、弦子は、レモンドロップスはその状況を仕組んだのだ。
「最近はお兄ちゃんって呼んでるんだ?」
「うるさいわね」
「おお、怖い怖い。でもいい顔してるよ、今」
 寝転がって足をばたつかせながら、弦子は律花にいたずらっぽく笑いかけるとそう言った。言われた律花は少し恥ずかしそうに顔を伏せて、それから怒った顔で彼女の額に一発デコピンをお見舞いする。
「痛っ!」
「今回の件は、これで許してあげる。どうせジョニー・ストロボのほうからもっと手痛い罰食らったんでしょ?」
「いったあ……。まあねー、もうオーパーツには戻れなくなっちゃった。わりと居心地良かったんだけどなあ、あそこ」
 目に涙を浮かべながら額を抑える弦子を眺めながら、律花は丸椅子からベッドの端に移る。
「……結局、あなたは何がしたかったの?」
 ずっと律花が気になっていたことだった。別にオーパーツの活動に準じるつもりもなく、レーベル脱退にも素直に応じた彼女は、今回一体何を得たのだろう。
 尋ねられて、弦子はうーん、と低う唸り、やがて口を開くと、プライベート・キングダム、と言った。
「プライベートキングダム?」
「聞いたこと無い? 当たり前の噂過ぎて最近はあまり話題に出ないから仕方ないのか」
 弦子は肩を竦める。
「最強、最凶、最恐。オーディエンスを従える権利と、一振りで相手をたやすくなぎ払う力を持つ唯一無二の、王の名を冠するにふさわしい【伝説の】プレイヤーが存在している。私達が必死で戦うあの場所も、王にとっては遊び場でしかない。そんなたった一人の王が座る、モッシュピットの最奥にあると噂される空間。プレイヤー達はその伝説上の場所をこう呼んでいる。深淵の遊び場プライベート・キングダムと……」
「ちょっと待ってよ、最強って、ラスト・ホリデイじゃないの?」
「もちろん、彼は最強よ。ただ、彼の名乗る最強はあくまでモッシュピット限定よ。そして彼がどうして最強を名乗るかといえば、プライベート・キングダムに至るためにそれが必要だと考えているからであり、そこへの到達を目的としているからよ」
「目、的……?」
 弦子は不敵な笑みを浮かべる。それは、無邪気な少女のそれとは違う、血に飢えているような、獣性を帯びた獰猛なものに思えて、律花は緊張する。
 彼女は、ただのプレイヤーじゃ、ない。
 律花の本能が、そう言っていた。
「ラスト・ホリデイは、唯一無二の王座を奪い取るつもりなのよ。このモッシュピットを内側から消し去るために、ね……」
「消し去る……?」
 弦子は起き上がると、唖然とする律花の横をすり抜けるようにして立ち上がり、保健室の扉に手をかける。
「ねえ、待って。そんなことを知っているって、あなたは一体……?」
 律花の言葉に弦子は微笑む。
「私ね、欲しいものがあるの。ちょっとやそっとじゃ手にはいらないおっきいやつ。私はそのためならなんだってやるつもりで、その道筋に君と鳴海クンがいたから、利用しただけ。ごめんね、律花ちゃん」
 そしてありがとう、と彼女は続けて言った。
「今回はとても大きな収穫だった。これからも期待してるよ。週末のロストマンとムーンマーガレットには、ね」
 扉がぴしゃり、と閉じられる。
 たった一人取り残された律花は、呆けた顔のまま、弦子の出て行った扉を見つめることしか出来なかった。


「さよなら律花ちゃん」
 それから数日して、弦子は学校をやめた。
 彼女の机に残った棒付きのキャンディ。そこに貼ってあった付箋の言葉を眺め、やがて握りつぶすと包み紙を破いて律花はキャンディを口に含む。
「……酸っぱ」
 濃厚なレモンの味が口いっぱいに広がる。
 この味が大好きだった彼女はもういない。
 律花が始めて友達になれると思えた彼女は、もういない。

   ・

「今日は遅いのか、律花?」
 朝食のトーストを口にしながら父は律花にそう尋ねる。律花は欠伸を一つしてから、焼きたてのトーストに苺のジャムを塗って齧りつく。
「うん、でも晩御飯までには帰ってくるつもり」
「そうか、なるべく暗くならないうちに帰ってきなさい」
 律花は頷くと、トーストの最後を飲み込み、椅子の横にかけてあった肩提げ鞄を手にリビングを出て行く。
 出て行ってから、思い出したように戻ってくると、律花は顔だけを廊下側から覗かせる。
「行ってきます、パパ、ママ」
「ああ」
「いってらっしゃい、律花」
 変わらず憮然としたままの父と、にっこりと笑って手を振る母の姿を見てから、律花は玄関へと向かう。玄関側の洗面所に立ち寄り、用意しておいた花束を手に取って、萎れていないか確認して抱えた。
「律花、もう行くのか?」
 振り返ると、丁度寝巻き姿の奏汰が階段から降りてきたところだった。大きく欠伸をしながら頭を掻く彼の姿を見て、律花はうん、と頷く。
「うん、お兄ちゃんも来る気になった?」
「いや、遠慮しておく。やり合って思ったけど、俺ちょっとアイツ苦手だ」
 苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる奏汰を見て律花はくすくす笑った。玄関前に腰を下ろして、おろしたての靴に足を通してから再び立ち上がると、ドアノブに手をかけた。
 手をかけてから、もう一度振り返ると、奏汰の姿を見て言った。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
 飛び出した扉の先は、晴天だった。曇り一つない青空を眺めながら、大分寒くなってきたな、と律花は首元に巻いたマフラーを巻き直しながら白い息を吐いた。唇は青くないだろうかと手鏡で確認しながら、律花は少し歩いた先にある停留所のベンチに座った。
 運行案内を見て行程を確認して、おそらく三十分もあれば着くだろうと踏んで、律花はバスを待つ。

 あれから律花達は長い話をした。今までのこと、そしてこれからのこと。
 そこに解決はなかったし、未だに白部家はちぐはぐで、不器用な生活を続けている。四人それぞれにそれぞれの考え方があって、それはこれから度々話し合わなくてはいけないもので、簡単に答えを出せるものではなかったのだ。
 けれどその会話が、家族をまたあの頃の食卓に引き戻してくれたように、律花は感じていた。
 果てしない会話の末、律花は、これからも父と母の自慢の娘であろうと決めた。しかしそれは家族のためではなく、自分のための決断だった。
 この先も多く求められることがきっとあるだろう。時には理不尽な障害だって出てくるかもしれない。それらを乗り越えるために、少なくともタフさは必要だと思った。
 ただ、それでも自分ではどうしようもないことに突き当たってしまうことがあるかもしれない。そんな、途方に暮れてしまうような躓き方をしてしまった時は、我慢せず誰かに頼ってみようと思った。
 そして最後に、これは単なる思いつきからだったのだが、家族の呼び方を、昔に戻してみた。自分を含めた四人ともそう呼ばれる度にどこか気恥ずかしさを感じるようだが、それで良いと思った。
「……コツさえ掴めば、宇宙も飛べる、か」
 律花は顔を上げる。道路を挟んで向かいに住宅街が見える。視線を少し上にずらすと、青々とした雲一つ無い空が広がっていて、そこに飛行機が横に長い白線を引いていた。
「飛べるかな」
 飛べるさ、と彼なら言うのだろう。脳裏で聞こえたその声に、律花はくすりと笑みをこぼした。

――私も、彼のように世界を一度壊してみようと思うのだ。
――小さくて構わない。私なりの破壊小さな一歩を。

 やがてバスがやってきた。
『○○病院行き』
 律花は表示された電光板の文字を確認してから、バスステップに足をかける。

 今日は鳴海に会いに行くつもりだ。

 週末限定のあの小さな破壊者ロストマンに、宣戦布告をするために。


       

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