Neetel Inside 文芸新都
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 ある日の夜、一人で考えた。
 僕がこれ以上治療を受けられなくなると、病気が悪化して、死に至る。今はそうなってしまわないように、毎日の注射とか点滴で、それを先延ばしにしているんだと思う。三年間続いてきたことだ。これが治療だと思ったことはなかった。治療というのはあくまで病気を治す行為だ。僕に施されているこれは、あくまで「延命作業」に過ぎない。
 僕はこれからも、その延命作業をいつまでも、続けていくのだろうか。
 そう考えると、ゆきねえちゃんにお世辞を言われた時と同じような、不快な気分になった。
 自然論みたいな、そんな論文を雑誌で読んだことがある。
 人が病気にかかって死んでいくのもまた自然の摂理の一つであり、食物連鎖を構成する上ではそれを阻害することを許されない、と書いていた。動物だって傷を癒やす術は持っているだろうけど、病気を治す手段は持ち合わせていないだろう。例外はいるかもしれないけど、多くの生き物はきっとそうだ。
 恐らくそれは自然の中で生きる掟であり、病気が蔓延するということはすなわち朱の絶滅を意味するんだと思う。
 そして、人間という生き物はそれに真っ向から逆らう、唯一の生き物。
 このままだと死んでしまうかもしれない。
 そこで死を受け入れていこうとするのは、動物の本能。
 そこで死を迎え入れず延命していくのは、人間の本能。
 僕が陥っている状況は、まさに後者のそれだ。
 僕はそれをひどく嫌った。死を受け入れないというのは、逆説的に生きているということを否定しているような気がして、嫌な気持ちになった。死はどんな生き物にも平等に与えられるのだから、平等に受け入れるべきだ。人間だけがそれに抗おうとするのは、どこかおかしい。
 だからといって、病気の人がみんな死を受け入れろとは言わない。
 現実問題、僕も死という現実を目の当たりにしてからというものの、震えが止まらない。最近、点滴や注射の回数が減ってきたのも、今まで禁じられていた屋上に出してくれるようになったのも、何か理由があっての行為のように思えてきた。少し前まではそれも「病状が良くなってきたからかもしれない」と明るく考えられていただろうけど、今はその反対としか思うことしかできなくなっていた。
 約束を破って、僕はこっそり、夜の屋上へ行く。
 黒の絵の具で塗りつぶしたように暗い。さっきまで雨が降っていたようで、空気がとても湿って、澄んでいた。空の星が見えない代わりに眼下では色とりどりの明かりが輝いている。
 少し遠くに見える赤い光の群れは、屋台横丁のものかもしれない。 
 何の気なしに車椅子をこぎ、屋上の端までやってきた。そこで、一つの考えがよぎる。
 ――このまま飛び降りて死んでしまえば、僕も由紀姉ちゃんも救われるかもしれない。
 姉ちゃんは恐らく、働いて得た給料を僕の入院費につぎ込んでいるのだろう。それならば僕が死んでしまえば、悲しむかもしれないけど姉ちゃんの負担は軽くなる。姉ちゃんはひどく塞ぎこむかもしれないけど、それで少しでも変化が訪れるのなら、延命作業みたいな変わり映えしない、それこそ窓から見える風景よりこうして屋上から見える風景のような、変化のある方がいいかもしれない。
「僕が死ぬことで、何か変化が生まれるほうがいいんだ」
 空を見上げて呟いた、その時だった。

「貴方の考え方が間違っていると、大口で否定するつもりはありません」

 突然聞こえたその声。
 僕は慌てて周りを見渡してみたけど、闇に包まれているせいでその声の主を見つけることは出来なかった。
「もう夜になりますが、ハロ! また雨が降りそうなので、屋内に戻ったほうが良いですよ。このまま外にいてベンチに座り込んでいたり、女の子を連れて走ったりすると、間違いなく風邪を引きます」
「一体、誰ですか? なんで、こんなところにいるんですか? 僕に何か用でも?」
「積もる質問はあるでしょう。でもお答えはできません。貴方が解決すべき問題はそんなことではないからです」
 その、どこかひょうひょうとした声の主は、饒舌に言った。
「貴方はその命を絶つことで延命というメビウスの輪を解き、日常に変化を持たせると言いましたね。しかしそれで本当に変化が生まれるでしょうか。生まれたとしても、それは良い変化でしょうか、悪い変化でしょうか」
「両方……じゃないのかな。僕が死ぬのは悪い変化だろうけど、姉ちゃんの負担が減るのは良い変化だ」
「確かに貴方視点ではそうです。ではそれをあなたのお姉さん、由紀さんの視点で考えるとどうでしょうか。由紀さんは貴方の治療を続けてもらうために今日まで働いてきました。生きがいのようなものです。しかし貴方が死んでしまえば治療費を払う必要はなくなる。そこで、やったーもう治療費を払わなくていいんだ自由だー、という気持ちになるでしょうか? いいえ、なれるわけがありません」
 僕は二の句が告げなかった。
 なぜこの人が姉ちゃんの名前を知っているかなんて、尋ねる気にもなれなかった。
「貴方は生きなくてはならないのです。おこがましいようですが、貴方が死んだところで良い変化は起こりません。それは誰にとってもそうです。死とは悲しいものです。良い変化を生む場合もありますが、多くが悲しみ、憎悪、絶望……悪い変化を生んでしまいます」
 声の主――――少し声の高い男は、咳払いして続ける。
「しかしそれでも、この世には死を選ぶ人がいます。多くの場合は他人のことを顧みず、己の欲求のままに死んでいます。死して周りに迷惑をかけようがかけまいが構わないという人々ですね。悲しいことですが、かなりの数を占めています。
 そして――それとは正反対の人々もいます」
「正反対の、人々?」
「ええ」男はふふっと笑いながら。「他人の事ばかりを考えて、自分のことはなおざりになっている人々です。貴方のお姉さんのように無償の愛を提供する、現代では非常に稀有な存在。そんな人々は往々にして愛すべき人を助けるために――――守るために、死を選択します。僕はそれをとても尊く、美しい行為だと思います」
 確かに、由紀姉ちゃんは僕をいつも助けてくれていた。
 だけど。
「それが何か、関係しているんですか?」
「さあ。僕は貴方の道標とはなりますが、答えは提供しません。オードブルを差し出すことは出来ても、メインディッシュを提供するだなんておこがましいことは出来ません。答えを見つけ出すのは、貴方自身です。それでは」
 男は一回だけ、靴の底か何かで足元を打ち鳴らして。
「貴方に素敵な明日が訪れるよう、願っております」
 それきり、声は聞こえなくなった。
 しばらく狐につままれたように唖然としていたが、暗闇に慣れた目で辺りを見渡しても、僕以外には誰もいなかった。
 小さな雨粒が、ひとつ、鼻の頭を打った。
「……幻聴?」
 俄には信じられなかった。幻聴なんて、今まで経験したことも、話に聞いたこともない。だけど、状況的にそう思わざるを得ない。僕は納得がいかなかったけど、雨が降りそうだった、あと先生に見つかるのも嫌だったので、病室に戻ることにした。
 ぎい、と音を立てながら車椅子をこぐ。
 幻聴かどうかはわからないけど、つまり彼はこう言いたかったのだろう。
 由紀姉ちゃんは僕のために尽くしてくれている。
 だからその姉ちゃんを悲しませないためにも、僕は生き続けなければならない。
 考えてみれば、当たり前のことだ。どうして今まで、こんな簡単なことを考えつかなかったんだろう。いや、内心分かっていた。分からないふりをしていた。あの妙なメールに対して、『生きたい』と返信したことを思い出した。
 僕は、生きたい。
 生きて、僕を今まで助けてくれた由紀姉ちゃんに、恩返しをしたい。
 僕は改めて、そう決意した。
 雨の降りしきる、暑い暑い夜のことだった。


       

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