Neetel Inside 文芸新都
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 それからは毎日のように絵を描くようになった。
 姉ちゃんには申し訳ないと思ったけどごはんもすぐに食べるようにして、できるだけ全ての時間を、絵を描くことに費やした。朝は早くに起きてすぐに鉛筆を手にとった。夜は眠気が運ばれてくるまでひたすらスケッチブックに描き込んだ。一時期は食事も摂らずに描いていたけど、そのことで少し先生に咎められて反省した。でも気付いたら箸を茶碗の上に置いて、スケッチブックに向かってしまうことが多々あった。
 絵はひどい出来だった。ろくに練習などしてこなかったので、模写なんて到底出来なかった。何日もかけて、得体のしれない物体が並ぶ紙を次々と生み出していった。姉ちゃんはよく描けていると言ってくれたけど、それがお世辞であるということは自分自身が一番良く分かっていたので、度々反発するようになった。
 姉ちゃんは、僕がへこんだりしないように優しい言葉をかけることが多かった。幼いころはそうでもなかった気がするのだけど、ある日を境にそうなった。今は、どこか遠くへ行ってしまったという一番上の姉ちゃんに変わって僕の面倒を見ているから、自責の念があるんだと考えていた。
 そういう考えが、僕は嫌いだった。
 由紀姉ちゃんの、唯一嫌いな点だった。
 甘やかしすぎるのだ。残された家族だからといって、僕に対して甘すぎる。友達と喧嘩をして僕が明らかに悪かった時でも、姉ちゃんが僕を叱責することはなかった。何かと理由をつけて僕に非がないことを教えられてきたけど、僕はそれが欺瞞だと気付くまでに成長してしまった。長く入院して色んな雑誌を読んだおかげで、そこらの中学生より知識や教養があるとは思っていた。姉ちゃんはそれに気付いていないのだ。
 だから僕が下手くそな絵を描いても、上手い上手いとお世辞を吐く。
 今日だって、そうだ。
 見舞いに来てくれた時、僕は相変わらず模写を続けていた。
 絵の出来は、変わり映えしなかった。
 それでも姉ちゃんは、こう言ったのだ。
「段々、上手くなってるね。この調子だよ」
 僕はその言葉を聞いた瞬間、全身の血液が頭に集まってくるような、奇妙な感覚を覚えた。
 途端、僕は無意識に姉ちゃんに向かって色鉛筆を投げつけ、大声で叫んだ。
 なんでそんな言葉をかけるんだ。上手くなってないのは自分で分かってるんだ。嘘なんてつかなくていいんだ。嘘をつく姉ちゃんは嫌いだ。帰ってくれ。顔も見たくない。もう見舞いにも来なくていい。僕のことは放っておいてくれ。
 それ以外にもたくさんの罵声を浴びせた気がする。
 消し去りたかった記憶のようで、詳しくは覚えていない。
 駆けつけた看護師に宥められても、僕は言葉を吐くのを辞めなかったという。
 由紀姉ちゃんは何度も、ごめんねごめんねと謝りながら、病室を出て行った。
 そして今になって、それを思い返して、僕は少しばつの悪い気分になって、窓の外を眺めた。
 ぱっと見では、何を描いたのか分からないスケッチブックが視界の隅に落ちている。これ以上あの絵の模写を続けるのは難しいと僕は思った。もう絵を描くことには慣れてきたから、模写じゃなくて、違う何かを描こう。
 そう考えていた時、病室に医者の先生がやって来て、こう言った。
「気分が晴れないなら、屋上で絵を描いたら、どうだい?」

 結果から言うと、先生の提案は大成功だった。
 僕はこの日から、時間は限定されながらも車椅子に乗って一人で屋上に行くことを許された。僕の病室が屋上のすぐ近くだから、行き来が一人でも出来たからというのもある。
 まず、それだけでも筆舌に尽くしがたい物があった。狭い病室から外の空間に出ることが出来たというだけでも沈んでいた心が晴れ晴れしたし、何と言ってもしばらく目の当たりにしていなかった大空が、一番の喜びだった。
 ところどころに雲を散りばめながら、青い空が頭上に広がっている。病院の屋上は隣のビルよりも少しだけ高く、この街でも有数の高層建造物だったので、街を一望することも出来た。さすがに夜間は屋上には出られなかったけど、もしもこれたなら最高の夜景が見られるだろうなと思っていた。
 だけど、見られなくても十分だった。
 こうして青空の下で過ごしているだけで、たまらなく幸せだったからだ。
 同時に、僕の描きたいものは決まった。
「青空と、この街の風景を描こう」
 金池町は近年、地方都市化というものが進んで、どんどんビルが立ったり田んぼがなくなっているらしい。そんな街の風景を忘れてしまわないように、大好きなこの街の風景を失くさないように、このスケッチブックに閉じ込めてしまおう。
 僕は固く決心し、心躍る気分で色鉛筆を手に取った。
 その日初めて描き上げた絵は、今まで描いてきたどの絵よりも。
 ずっとずっと強く、僕の心に焼き付けられた。

     ○

 その日も僕は絵を描くために、屋上へやって来ていた。
 今日はなんだか調子が良くて、いつもよりも大分速く描き上げることが出来た。相変わらずお世辞にも上手いとは言えないけど、描いているだけで楽しくなれたからそれで良かった。
 一人で絵を描くという行為はひどく孤独なものに思えるかもしれないけど、僕にとって絵とは自分の世界を、見聞を広めてくれる世の中との媒体のようなものだった。
 ある絵の中にはアドバルーンが描かれている。街を歩く人はそれを見ているかもしれない。
 ある絵の中には鳥の群れが描かれている。もしかしたら誰かがそれに餌付けをしたかもしれない。
 街の中にある確かな変化は、僕のスケッチブックの中に息づいていた。それだけでも、嬉しくてたまらなかった。
 鼻歌を歌いたくなる思いになりながら、僕は病室に戻ることにした。
 自分の病室がある廊下に差し掛かるかというところで、僕は病室の前に誰かがいるのに気付いた。
 医者の先生と、由紀姉ちゃんが話し込んでいるようだった。
 あの日以来、由紀姉ちゃんはめっきりお見舞いには来なくなった。僕は少し寂しい気分になったけど、その分姉ちゃんは仕事に専念できるんだと自分を説き伏せていた。
 久しぶりに姉ちゃんが、お見舞いに来てくれたんだ。
 あの日のことをずっと謝りたいと思っていた僕は、先生と姉ちゃんが話し終わるのを見計らった。
 そして、言葉が出なくなった。

「どうしても駄目ですか……先生」
「そうだねえ……。いくら由紀さんの頼みとあっても、これ以上はさすがに……」
 医者の先生は、悩ましげに俯いていた。
「以前から言っていたことだけど、弟さんの病気を治すには莫大な治療費が要るんだ。しかもその先生は前払いしか受け付けていなくてね……。日本で治せる人はその人位のものだから、これ以上入院費さえ払うことが出来なければ、弟さんが治る見込みは限りなくゼロに近いんだよ。だから、半ば強制的に退院してもらうことにもなりかねない」
「お金があれば……大丈夫なんですか……?」
「それは私が保証しよう。私も昔難病を患って、その先生に助けていただいたからね」
「分かりました。何とかして、お金は工面します。なので、よろしくお願いします」

 話の全ては聞き取れなかったけど、余計な知識と教養がある所為で理解できた。
 僕の治療にも入院費にも、とんでもない額の費用がかかり、姉ちゃんはたった一人でそれを工面してきた。
 だけどそれにも限界が来て、治療費を払えなければ僕は強制的に退院させられるということだった。
 それがどういうことなのか、嫌でも分かった。
 話を盗み聞きしていたのを悟られないように、僕は精一杯笑顔を取り繕って、病室に戻った。由紀姉ちゃんはもう帰った後だった。僕は先生にお願いして、しばらく病室に一人で絵を描きたいと言った。
 窓の外から見える空は、一転、曇り模様になっていた。
 僕は泣いた。
 いろんな理由の混ざった涙を、流した。

       

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