Neetel Inside 文芸新都
表紙

トゥモロー@メール
五章「闇が訪れてくるまでに」

見開き   最大化      

 いくら頑張ったところで、病院の窓から見える風景は変わらない。
 僕がそう気付いたのは、何も最近のことじゃない。身体を悪くして入院してからもう三年が経とうとしている。入院して三日目くらいにはその事実に気付いていた。
 こういう話を聞いたことがある。病室に二人の男がいて、ベッドはカーテンで隔たれている。片方の男は窓から外を見れるが、片方は見られない。だから見られる男はその風景をもう一人の男に伝え続けた。男はそれを喜んだけど、やはり自分の目で見てみたかった。窓を見れる男がある夜、病状が悪化した。もう一人の男はナースコールを押そうとして考えた。この男が死ねば、自分が窓から外の風景を見られるかもしれない。命よりも自分の欲を優先した男が、ナースコールを追うことはなかった。もう一人の男は間もなく死んだ。カーテンがなくなり、彼は念願の窓の外の風景を見られることになった。男は窓を見て愕然とした。打ちっぱなしのコンクリートが見えるだけであった。
 知らずに楽しんでいたほうが良いことがある。知らないほうが幸せだったこともある。
 こんなことになるなら、窓なんかないほうが良かったんだ。
「この間、変なメールが届いたんだ。明日生まれ変われたらどうなりたいかって。面白かったから、返信した」
「それで、なんて返したの?」
 姉ちゃんは、花瓶の花の水切りをしていた。
「生きたい。生きて外をまた走り回りたいって送ろうとしたら、最初の『生きたい』だけで送っちゃった」
「相変わらず抜けてるわね、圭太は」
 姉ちゃんはクスッと笑う。僕もつられて笑う。
「手術の日程決まったら、教えてくれるって。成功すれば、退院できるんだよ、圭太」
「もうその話は何回も聞いたよ。その手術を出来る人が少なくて、なかなか日にちが合わないんでしょ?」
「うん、そうなの……」
 伏し目がちになりながら、姉ちゃんは時計を見てハッと立ち上がる。
「あっ、もうこんな時間! ごめんね圭太、姉ちゃん仕事に戻らなくちゃいけないから、またね」
「うん、ありがとう、由紀姉ちゃん」
 僕はベッドから身体を少しだけ起こして、病室を出て行く姉ちゃんを見送った。
 姉ちゃんは最近社会人ってものになったらしくて、以前のように頻繁に見舞いに来ることはなくなった。社会人というのは忙しいんだって医者の先生が言っていたから、僕は少しだけ寂しくなった。
 病室でひとりきりというのは、思った以上に孤独だ。
 僕と同じくらいの歳の患者さんはいるんだろうけど、なかなか会わせてはもらえない。医者の先生や看護師さんが健診に来る度に色々話をしてくれるけど、いつまでもいてくれるわけじゃない。先生たちも社会人なんだから、仕方のない事だと割りきった。
 それにつけても、時間は余る。
 姉ちゃんの持ってきてくれた本を読んでも、ゲームをしても、気が晴れない。
 まだ外で走り回れていた頃はドッジボールとかサッカーをしていたから、その頃の記憶を刻みつけられたまま、こうしてほとんど動けない三年間を過ごしてきた。
 足を悪くしているわけじゃないから病院内なら保護者付きで歩けるけど、どうしてなのか、外に出ることは許されない。他の人は車椅子なんかで庭を散歩しているみたいだけど、僕は許されなかった。場合によっては病室からも出ることも許されなかった。
 だから時間が余れば、こうして窓から外の風景を眺めることしか出来ない。
 窓からは隣のビルの屋上が見えた。殺風景なところで、雨ざらしのコンクリートと貯水タンクくらいしか見えない。たまに用務員さんみたいな人が掃除に来るけど、それだけだ。
 だけど僕はこうして、窓の外を眺めることが多かった。
 どうしてかというと、隣のビルで、由紀姉ちゃんが働いてるからだ。
 お見舞いに来れない時は昼時になると屋上に来て、僕に向かって手を振ってくれる。そして同じ時間にごはんを食べるのだ。
 声が届かないので、食べ終わると姉ちゃんは手を振りながら去っていく。
 その瞬間がいつも寂しかったから窓の外を見るのをやめようと思ったけど、見ないのはもっと寂しかった。
 それ以外の時間にビルの屋上を見ても、変わり映えはしない。
 時間が過ぎていくのを待つことしか出来なかった。
 友達と遊んだりしていると時間の流れが早く感じて、もう少しだけでも一日が長ければいいのに、と思っていたけど、今の僕は相反する思いを抱いている。
 時計の針を見てると狂いそうだった。処刑方法の一つに「罪人の身体に水滴を落とし続ける」というものがあるらしいけど、同じことを繰り返すのをひたすら経験するというのは、想像以上に苦痛なものだ。
 ベッドのそばのテーブルに置きっぱなしになった雑誌を手に取る。
『就職氷河期! 新卒の首切り! 史上最大級の不景気か』
『またも空き巣被害 金池町で多発中』
『特集:今このお菓子屋がブーム! ~甘味処「グラッチェ」~』
 良いニュースも、悪いニュースもあるけど、目につくのはやっぱり悪いニュースばかりだ。就職氷河期? 新卒? どういう意味なのかは分からないけど、不景気が悪いことなのは知っている。空き巣は言うまでもない、犯罪だ。しばらくこの病院から出ていないので、空き巣が多発しているなんて実感はない。よっぽど悪い人なことに違いはないだろうけど。グラッチェというお店は知っている。時々由紀姉ちゃんがケーキを買ってきてくれる。なごみロールというロールケーキが、とても美味しいのだ。
 最近は日すがら、こうやって雑誌を使って暇をつぶしている。漫画を読むより時間を長く使えて、ゲームをするよりも世の中のことをよく知ることが出来る。携帯があればそれで暇つぶしになるかもしれないけど、働き手が姉ちゃんだけなので僕はまだ持っていない。姉ちゃんは買ってくれるとは言っていた。でも僕は入院費の事を考えて断った。こうして雑誌と向き合うだけでも、楽しいと思えるものだ。
 そんな時、あるひとつの記事に目がとまった。
『奇跡の作品!? ある大学生の描いた作品、未公開ながら専門家に好評 本人には連絡つかず』
「未公開だった、奇跡の作品……」
 胸が高鳴った。要するに、無名の大学生の描いた作品が、専門家によって高く評価されたということだ。
 それくらいのことなら、津々浦々で起きているかもしれない。しかしこの場合は少し状況が違っていた。
「本人には連絡が取れず、作者不詳で展覧会に飾られることに……!?」
 なんと、描いた本人はとうの昔に大学を辞めていて、連絡先が分からず連絡を取ろうにも取れないとの事だった。
 そんなことが実際に起こりうるのかと、僕は幾ばくか興奮した。少し胸が苦しくなったので、ゆっくりと深呼吸した。
 最近運動をしなくなってからというものの、絵を描くということに興味が湧き始めていた。
 足が動かない人でも、手が不自由な人でも、果てには目が見えない人だって、絵を描くことは出来る。どれだけ言葉が話せなくても、色彩感覚が常人より狂っていても、その絵が評価される可能性はある。これからどれくらいの間病院にいるのかも分からないから、動く必要のない趣味を持ちたいとは思っていた。
「絵を描く、かあ……」
 ベッドの傍らには姉ちゃんの買ってきたものを置いてあって、その中には色鉛筆とスケッチブックも入っていた。
 僕はおもむろにその二つを取り出して、布団の上に置く。
 どうせ時間があるのだから、絵を描いてみよう。そう決意した。
 しかし、どうも分からない。
「一体、どんな絵を描けばいいんだろう?」
 絵を描く人――画家なんかは、どういった気持ちで絵を描いているんだろう。まさか、適当にカンバスへ絵の具を塗りたくっているわけではないだろう。喜びとか、美しさとか、悲惨さとか、人が描く絵には何かしらのテーマがあるはずだ。ならば、僕は一体どんな絵を描けばいいのだろう。
 まったくもって分からない。僕はもう一度雑誌を開いて、その名前の無い画家の描いた絵を眺めた。
「何を描いていいか分からないから、とりあえずこれを写してみよう」
 何をするにも、まずは真似事から始めたほうがいいという話を聞いたことがある。
 僕は色鉛筆の中から良さげな色を手にすると、スケッチブックに走らせた。
 不思議と時間は、あっという間に過ぎていった。

       

表紙
Tweet

Neetsha