Neetel Inside 文芸新都
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 俺は椅子に座っていた。
 豪奢な椅子だ。二人は座れそうなほど大きく、白い革と燻した金で装飾されている。それに座っている俺の格好も奇妙なくらい格式高い。就活の時に着るようなリクルートスーツとは比べ物にならないほど立派で、着心地の良いスーツを纏っている。ポール・スミスとか、その辺だろうか。靴も茶の革靴。ここまで来ると俺にはメーカーさえも思い浮かばない。
 目の前にはレースのクロスが敷かれたテーブル。俺から見て横長で、座っている椅子はテーブルの長い辺の真ん中にある。両隣りに一人ずつは座れそうだ。奥行きはそこまでなく、身を乗り出して手を伸ばしたら端っこまで届くと思う。
 テーブルの上には、何も置かれていない皿と、ナイフとフォークが一セット。今更気づいたが、俺は真っ白なナプキンを首に結んでいた。辺りにはテレビでしか見たことのない宮殿のような光景が広がっていて、タキシードに身を包んだ人々がウエイターにワインを注いでもらっていたり、革張りのメニューを指先でなぞったりしていた。みな、俺とはヒエラルキーの違う人間ばかりだ。
 頭がぼーっとしている。日曜日の昼下がりに河川敷で寝転んでいるような、妙に心地よい微睡が頭の中で漂っている。どうして自分がこんなところにいるのか、なぜこんな恰好をしているのか、考えてみるものの集中できない。まるで、他の誰かに思考回路を操作されているみたいだ。
 マリオネットのように、蛍光灯の紐のように、頭はふらふら揺れる。
 そうだ、俺は確かあのまま眠りについて、目を覚ましたら陽が落ち始めていて、パンを食べたというのに胃が猛烈に抗議するもんだから、何か食べに行こうと思い立った。それで部屋を出て、あてもなくぶらついて、ここへ来た。いや、ここへ来ようと思って来たのかは定かではないが、ここにこうして座っているということは、何かしらの経緯があったんだろう。その辺り、うまく思い出せない。
 それにしても、料理はまだ運ばれてこないんだろうか。腹が減って仕方がない。せっかくこんなにも贅沢なところへ来たのだから、持ってくるのが少しでも遅いと不満に思ってしまう。
 数分待っても、気配はない。
 嘆息し、文句の一つでも言ってやろうと俺は立ち上がった。

「まあ、そう焦らずにお待ちください」

 そう呼び止められた瞬間、もやがかかってはっきりしていなかった頭の中が晴れ渡り、意識がはっきりした。反射的に片手で頭を抱え込んだ。同時に周囲から人の気配はなくなって、あれだけあったテーブルは全て無人になった。ウエイターもどこにも見当たらない。
「料理というものはじっくり、じっくりと時間をかけて完成させるものです」
 声のした方向。テーブルを挟んで俺の対面にいる誰かを見やる。
「それはまるで人の生きる様のようで、人の手によって生み出され、人の手によって消えていく。面白い話ですね。一つの小さな料理にもそれが生み出されたドラマストーリーがあって、それを私たちは当たり前のように享受している。実はこれって凄いことなんですよ」
 黒のスーツに黒のワイシャツ、白のネクタイ。英国紳士を彷彿とさせるピアノブラックのハットからは、灰色の癖毛がはみ出している。猫を思わせる切れ長で柔らかさを孕んだ双眸は、片手で揺らすワイングラスを見つめている。中性的な顔立ちのその人は、声を聞いて男だと分かった。
 俺の視線に気付いたのか、“彼”はハットを取って口角を上げた。
「ハロ! やっぱりこういう格式高い恰好は嫌になりますね、まったく窮屈で仕方がありません。人はやっぱり着飾るのが好きですね! 貴方もそう思いませんか?」
「は、はあ……?」
 愛想よくテンション高めに話しかけてくるこの男は一体誰だと思いつつ、あまり向き合って人と話さない俺は、俯きながら首を傾げる。彼はさらに目を細め、グラスに注がれているワインを口にする。
「富、名声、力、と言ったステータスを人間は好みます。それは自己顕示欲によって生じますし、他人に負けたくないと言う嫉妬によっても生じます。これは人として生きていく上で避けられない性と言うか、誰もが一度は味わう感情ですね。誰もがお金持ちになりたい、有名になりたい、一国の王になりたいと思うはずです」
「はあ……いや、でも俺は別にそうなりたいとは……」
「思わないというより、何も考えていない、ですよね? 知っています」
 俺は息を呑んだ。彼はにこにこ笑ったまま続ける。
「生きるために働き、生きるためにお金を得て、生きるために食べて、生きるために出し、生きるために寝る。元来、人と言う生物はそんなものです。初めは誰も目的なんて持っていません。
 ですがある時、何らかのアクシデント、ハプニングによって、それらの一部はひっくり返ります。要するに、お金を得るために生きる金の亡者になったり、食べるために生きるグルメ人間になったりするのです。これらの良し悪しは別にして、彼らは生きるための明確な目的を持ったということになります。生きるために行っていることが生きる理由になる――行為と目的が逆転したケースです。形は多少異なりますが、人の生きる理由というのは、だいたいこうして生まれます」
 残りのワインを口に含み、十分に味わってから、彼は言葉を紡ぐ。
「料理が人の生き様のようだ、と言いましたよね。料理も最初は先人に教わり、材料も用意されたものを使って作りますが、そのうち自分一人で作りたいものを作るようになります。百人が百人、まったく同じ料理を作るなんてことはありません。自分の望みを込めた自分だけの国を作るように、かならずオリジナルのものが出来上がります。皆人、一国の主なのです。“cooking”にも『king』と書かれているでしょう?」
「料理が生き様で……みんな、国の主?」
 理解がほとんど追いつかなかったが、彼は微笑んで肯いた。
「しかしたった一人で国を作るのは困難です。手助けくれる人を探さなければなりませんし、邪魔をする人を退治することも必要でしょう。それに、建国するのに最も必要となるのは、自分のこと、王のことをよく理解してくれる伴侶の存在です。そしてその伴侶は、いつもすぐそばにいるはずです」
 彼はハットを被り直すと、白く細い指で、いつの間にか俺の両隣に置かれている椅子を指差した。
「その席は貴方の傍にいるべき人が座る席です。そしてもう片方の席には、どうかご注意ください」
「もう片方?」
「ええ。悪魔です。悪魔が座っているのです」
 声が強張る。
「悪魔は貴方が心を投げ出し、人生を棒に振ってしまうのを、血を滴らせたフォークと共に待ち望んでいます。悪魔はいつでも手ぐすねを引いています。貴方を陥れるために。貴方の、その心臓を手中に収めるために」
 俺は呆気にとられて、何も言葉にすることが出来なかった。狐につままれたような状態の俺を見て彼はしばらく微笑んでいたが、やがて彼は席を立った。
「忘れないでくださいね。生きていくのに、大切なもの、それを陥れるものがあるということ。そして、それらはいつでも隣に居るということを」
 そう言って、夕闇色のスーツを着た男は俺に背を向けた。
「お……おい、ちょっと待ってくれ!」
 俺は慌てて立ち上がり、手を伸ばして呼び止め――――


          ◎

「……お客さん?」
 ビクッ! とジャーキングと共に目が覚めた。
 息苦しさに頭を上げる。
 顔からは豚骨臭のする液体がぽたぽた垂れている。
 手元にはラーメンの器。食べかけのチャーシューと握りしめたままの箸。
「あれだったら、また作り直そうか? もう冷めてるよ」
 俺は一人ラーメン屋で、顔に背脂の欠片をつけたまま、沈黙した。
 世界が止まっているようだった。
 

       

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