Neetel Inside 文芸新都
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 店を出ると、さーっとした静寂に包まれた。自分と、自分以外の世界とで切り離されたように視界が不明瞭で、車が横切る度、水しぶきが上がる。暗く、鉛のように重い空気を吸って、身体が少しだけ毒された気分になる。
 雨だ。雨が降っている。
 雨は嫌いだ。服が濡れるから。
 あいにく傘は持ち合わせていない。部屋を出た時は少し曇っているだけだったのに、ラーメン屋に長居したおかげで雲がぐんぐん発達し、こうしてバケツをひっくり返したような夕立を起こしたようだ。人々もこの事態を想定していなかったのか、通学鞄を傘にしたり、小さなおりたたみ傘の中に縮こまっている人で溢れ返っている。その中で俺は一人、ラーメン屋の軒下で口先のつまようじを揺らす。
 ラーメン屋で何をしていたのかはあまり覚えていない。
 どこか知らない場所で聞いたことは、全て覚えている。
「何だったんだありゃ。夢か?」
 夢、にしてはやけに現実的だった。明晰夢とでも言うのか。こんな経験は初めてだ。夢の事を憶えていることは多少あるが、まるでこの身で体験したかのようにリアルな夢は今まで見たことがない。それをまさか、ラーメン食べてる最中に見ることになるとは。俺らしいと言えば、俺らしいが。
 それにしてもこれだけの雨に打たれながら、傘もなしによく外を出歩こうと思うな、と感心した。雨は時間が過ぎるたびに調子付き、もはや滝としか形容できない量の雨が大通りを埋め尽くした。空も黒く、夜の様相。耳にはテレビの砂嵐よろしく耳障りなノイズが走る。半径一メートルより外の会話なら遮断されるレベルだ。
「はー、参ったなこりゃー」
 湿った右手をひらひらと振りながら平板に言う。
 よりによって一人で外に出たときに限ってこういう始末だ。雨も天恵に含むとするならば、果たして神様は俺が好きなのか、嫌いなのか。俺自身が困ってるんだから嫌いなんだろうな。
 段々と薄暗さに慣れてきた視界の中では、相変わらず傘を持っていない人が右往左往していた。スコールが打ち付けているというのに、皆忙しそうに走っている。どうせなら俺みたいに、止むまで待っておけば良いのに。
 俺みたいに、皆――――――止まっておけばいいのに。

「……………………」

 どうしても、頭から離れてはくれなかった。
 視界に広がる光景が社会における俺の立ち位置を示しているようで、こめかみの辺りが痛くなる。雨の中走り去っていく人々から、隔離されるように立っている俺。その間に出来たぽっかりとした空間を埋めるための雨のカーテンは、一体何を暗喩しているんだろうかと思うだけで、そこがまるで別世界であるかのような錯覚を感じた。雨音が少しだけ遠くなる。無意識に、聴覚よりも視覚のほうが優先されたような、不思議な感覚がする。
 空から落ちる水滴が一本の線となって、降り注いでいくのがはっきりと見えた。激しい雨の音はもう、弱く回る扇風機程度の音にしか感じられなかった。何が俺をそうさせたのかは分からない。
 分からないから、俺は一歩も動かずに、立ち止まっている。
 そんな俺に動きをもたらしたのは、携帯の振動だった。
「……電話か?」
 画面を開くと、非通知の番号だった。電話はおろかメールすら滅多に届かないこの携帯に、一体誰が電話をかけている?
 不思議に思い、通話ボタンを押す。
 耳に当てると、俺が喋りだすよりも先に聞き覚えのあるあの声が聞こえた。
『ハロ! 雨が強いですね、傘を持って来ていてよかったです』
 光景がありありと脳裏に浮かぶ。
 ハットを被って、洒脱な雰囲気を醸し出していた、あの男。
「お、お前、確か夢の中に出てきた……」
『貴方の夢の中に出てきたかどうかは知りませんが、私はあなたの事を知っています。でも名前を知っているわけではありません。それは貴方も同じこと』
 男はひょうひょうとした口調で続ける。
『電車でいつも見かける人がいます。バイト先でいつも見かける人がいます。パチンコ店でいつも見かける人がいます。ですがその人たちの名前までは分かりません。でも貴方はその人たちのことを知っています。その人がどの駅で降りるのか、何を食べるのか、僅かながらは分かっているはずです。そういった人は皆“知人”、』
 一呼吸置いて、
『貴方の人生を形作る一部分であり、同時にさほど必要でない人でもあります。しかしそれとは違い、貴方の人生には欠かせない存在となる人がいます。いつも隣に居る人は、そう、言うなれば“隣人”』
 電話越しでも笑顔が見えそうなほど、朗らかに言う。
『隣人、すなわち隣に居る人と言うのは、生きていく上、明日に向かって進んでいく上では必ず要る物なのです』
「いや、悪いが何言いたいのかよく分かん」
『そうですね。私が進言しなくても、それを教えてくれる人がいるはずです』
 彼はクスッと笑って、
『貴方にはまだ、声を聞くべき人がいます』
 そこで、音声が途切れた。何回か呼びかけても通話は切れていて、無機質な信号音だけが返事をした。
 ……一体何者なんだ、コイツは。
 そう、怪訝に思って顔をしかめた時のことだ。
 携帯がまた、震える。

『着信:甲斐田由紀』

       

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