一章「隣に居るということ」

「別に何も変わらなくていい」
 携帯ゲームや登録サイトに縁のない俺に、何故か迷惑メールがやって来た。彼女――いや、元彼女以外からメールが来るなんて久しくなかったので、迷惑メールだとしても何となく嬉しかった。
 しかも何だ、その迷惑メール、一般的なものとは少し違った感じが窺え、どこか心理テストのようなものを含んでいる気がしたので、直感的に自分の考えを返信した。さて数時間後には何か返事が送られてくるかなと楽しみにしていたが、さすがは迷惑メール、俺の律儀な返信も華麗にスルーしたのか、一日経ってもレスポンスはなかった。
 まあ、正直メールの存在自体忘れてしまっていたが。
 そんな、六月の昼下がり。

「マリオってさ、マリオだけどマリオじゃないよね」
 カルボナーラを頬張りながら、幼馴染の由紀は真顔たっぷりに言い放つ。
 コイツは一体何を言っているんだろう。普段誰とも話さないせいで、ついに日本語能力が衰退してしまったのか。俺の金を浪費して、天井でプロペラが回っているイタ飯屋でカルボナーラを胃に収める暇があったら、日本語塾に通ったほうがいいんじゃないだろうか。
「駅前の進藤塾とかいいらしいぞ」
 俺は真摯に受け答える。
「バカじゃないの?」
 そして、抑揚のない声で否定されると心が痛む。
「マリオってのはいわゆるスーパースターの配管工じゃなくて、金池町に住んでる無精ひげで赤い帽子被ってていかにも配管工っぽい風貌してるけど実態は糞フリーターで糞パチンカスで糞ニートの糞男を指してるんだからね。勘違いしないで」
「俺の悪口ならネットに書いてくれ。今はそんな気分じゃない」
 由紀の言葉を右から左へ受け流し、俺は深く溜め息を吐く。
「何? マリオとあろう者が悩み事抱えてるって言うの?」
「あーそうだよ、深入りするな」
「ふーん。話変わるけど、アンタ加奈子ちゃんにパチンコやってることバレて別れたんだって?」
 話変わってねーから。
「お前には関係ないだろ。足を突っ込むな」
「それを言うなら首を突っ込むでしょ。んくっ」
 由紀はカルーアミルクを半分ほど嚥下して続ける。昼間だというのに。
「はあ、マリオってあだ名も皮肉なもんね。ゲームの中で活躍してるマリオは敵を倒して金を巻き上げつつ親玉を溶岩に突き落としてお姫様を助けちゃうんだから。ここにいるマリオとは大違い。あっちは英雄、こっちはてんで駄目人間。名前負けし過ぎにもほどがあるわ」
「言いたい放題だな。別に、俺は好んで呼ばれるようになったわけじゃない。周囲が勝手にそう呼ぶようになっただけだ」
「そりゃ、四六時中そんな格好してるんだからそう呼ぶでしょうよ」
 なるほど確かに俺の格好はマリオだ。尤もな意見。それは認める。赤いキャスケットに無精髭。私服OKの高校時代からこの格好を通してきてるから、今更たまたまこんな格好してるだけとは言えない。
「今日はたまたまこんな格好をしてるだけさ」
「いつもでしょ」
 仮に言ったとしてもこうやってあしらわれる。事実だから認めるしかない。
 俺は彼と比べられるのがコンプレックスだった。
 彼――二次元世界のマリオは、そこまでイケメンでもなくて髭も生えてておじさんなのに、その類稀なる運動能力によって極悪亀を倒し、姫を手中に収めた。外見ではなく中身が功を奏した結果だ。それは彼に不断の努力の結果が実を結んだものであり、ある意味では当然の結果とも言える。
 一方、俺。本名、上ノ原智志。大学中退した二五歳。
 自分で言うのもなんだが、顔は別に悪くはない。身長も一七八センチとそこそこ高いほうだ。モデル事務所みたいなところからスカウトされかけたこともある。だが髭面を見て数メートル引いて行った。髭を剃っている時ならば何とかなったかもしれないが、俺がそういう所に興味がないので結果は同じだったと思う。
 まあ、なんだ。説明も面倒なので結論付けると、彼と俺は真逆だってこと。
「ねえマリオ、いや、智志」
「ん?」
 ふと本名を呼ばれ、思わず由紀と目を合わせる。
「アンタはそれでもいいの? いっつも自分より勝る誰かと比べられて、嫌にならないの? 私だったら、そんなの絶対に嫌。誰かと比較される人生なんて絶対に嫌」
 若干マジな顔の由紀。もしくは、訝るような顔。由紀がこんな顔をしてる時はだいたい本気で俺の心配をしている時だが、別段焦らない。
「んー、そうだなー」
 プロペラのくるくる回っている天井を見上げながら呟く。
「どーでもいいかな」
「……今更後悔しても、間に合わないのよ?」
「だったら、最初から後悔しなければいい」
 由紀は目を細めるが、俺は頬杖をついたまま続ける。
「明日に希望を持たなけりゃ、過去を省みることなんてしなけりゃ、絶望することも後悔することもない。今まで通り、黒猫みたいにひょうひょうと生きていくさ」
 失敗しない、後悔しない、人生が良い。どこかのバンドマンもそう歌っていた。
 由紀は納得いかない、といった表情をしていたが、俺には関係ない。俺みたいな人間が気張って生きたところで、良いことが巡ってくるなんて奇跡は起きない。
 いつだって、そうだ。
 俺は、選ばれなかった人間だった。
 人生に必要なのは、運の強さではなく生まれ持った才能。
 俺は今まで、そう信じて生きてきた。
 身長もあるし、顔もそこそこだし、運動神経が悪いわけではない。勉強もそれなりに出来る。過大評価しすぎだと笑われてもいい。自分自身は、客観的に見ればそれなりに良く出来た人間だと思っていた。
 ところがなんだ、このザマは。
 受験に失敗したのを皮切りに、名前も良く知らない大学に入学し、彼女は出来たが別れてしまい、大学もついていけずに中退し、それから始めたアルバイトも三カ月おきに勤務先が変わっている。どう考えても負け組みの旅路をのらりくらりと歩み始めている。ちっぽけな矜持はまだ何とか平静を装っているが、きっと、いつ崩壊してもおかしくはない。ちょっと前までは、そんなことをよく考え、引きこもりがちになることも多かった。
 だけど最近は、そんなことはどうでもいいことだと考えるようになった。
 必要なのは才能ではなく、運の強さなんだと気付いてしまった。
「稀代の才能を持っていたとしても、環境に恵まれなければ宝の持ち腐れだ」
 俺は煙草に火をつけ、吹かしながら呟いた。
 土曜日の街路は老若男女がざわめき、活気で満ちている。着飾った人々、すれ違う雑踏。俺たち二人は行くあてもなく、X字の交差点をのんびり歩く。
「それが俺に該当するのかはさっぱり分からないけどな」
「環境に恵まれないのは、自分から求めようとしないからじゃないの?」
「違うな、天恵みたいなもんだよ。環境、居場所ってのは自分から手に入れるもんじゃなくて、自ずと与えられるものなんだ」
「じゃあ、マリオはこれからどうするの?」
「それが分かれば、苦労はしないな」
 自分に見合う居場所なんて、探そうとして見つかるもんじゃない。
 結局は全て、運任せ。
 無才の人間が、ふとしたきっかけで大富豪に成り上がることがある。
 金持ちの子が、親の倒産でストリートチルドレンに陥落する事だってある。
 善意の行動を取って、何の罪もなく殺される人がいる。
 悪意の行動を以って、飯にありつける人だっている。
 その人の素性なんて、人生には何ら関係ない。
 結局は全て、運任せ。
 そして俺はその運に、いわば神に見捨てられた人間の一個体。
 いつでも俺の隣では、悪魔がカードを引いている。
「神様は俺を選ばなかった。俺は、値踏みされた」
 タバコの煙がいつもと違う。ポケットに入れた箱を確認したが、いつもと変わらないメーカー。
「でも、もしかしたら何とかなるかもしれないじゃない」
「それはお前だから言える言葉だ」
 由紀を一瞥して、反論する。
 由紀は俺とは違う。今までの人生を考察する限り由紀は特に突出すべき点もなく、成績だって平凡だった。入学した大学も並より少し上程度だった。
 しかし彼女はそこで良い教授に恵まれ、良い就職先を紹介してもらい、今では立派な歯車として社会貢献している。言うなれば、由紀は神に選ばれた人間だ。
「成功者には何にも分かりはしない。負け犬の飯の味が、お前には分かるか?」
「分かるよ。生クリームの味がした」
「…………それはさっき食べたカルボナーラだな」
 どや顔で問いかけた俺が馬鹿らしく思えるほど、由紀はあっけらかんに答える。
「私は幼馴染の好として、割と本気でアンタのこと心配してるんだからね」
「そんな、心配するだけ無駄だよ」
 俺は湿った排水溝に煙草を押し込んだ。
 五月の終わりにも拘らず、そこらの街路樹では蝉が産声を上げている。ん、違うか。奴らは死ぬ直前の一週間に鳴き始めるから……産声ではないか。死ぬ間際の叫びみたいなもんか。何かあったな、そんな言葉。
「俺の生き方はもう決まってるんだ。どう足掻こうと、今更無駄さ」
「案外、行動したら変わるもんよ」
 はい無視した。この人無視しましたよ皆さん。俺がこう、決め顔で言うような台詞並べているときに限ってこの人華麗に無視してませんかね。
「あのマリオだって、最初から恵まれているわけじゃないでしょ? 彼は命を捨てて一国の姫を助け出したことによって、名声を得た。彼の生き様に倣うなら、行動することが人生を変える一番の近道じゃないかと思うんだけど、違う?」
「ぬぐ」
 由紀の言葉はいつも筋が通っているので、反証を挙げることは出来ない。
「彼はその気になれば幾つでも命を増やすことは出来るけど、私の横で歩いているマリオの命はたった一つだけ。死んだら終わりハイそこまでよ」
 由紀は前を向いたまま、微笑んで言う。
「人生の失敗は許されない。それを心配することが、何か悪いこと?」
「本当におせっかいだなお前は。お前と俺では生き方のベクトルが違うんだ、いいから放っといてくれ」
 俺は歩みを早める。
「お前は正のベクトル、俺は負のベクトル。交わったらお前まで消えてしまう」
 やがて隣を歩いていた由紀の気配は、雑踏に紛れて消えた。振り向くと、由紀は少し離れたところで笑っていた。気の強そうな瞳で、嘲るのではなく、まるで見守るように笑っていた。
 一体、何がしたいんだろうか。
 俺は背中越しに手を振った。
 空には雲一つなかったが、一雨来そうだな、とぼやいた。
 俺が住んでいるのは、割と都市部の近くにある住宅街の、片隅にあるアパートの一室。家賃はこの辺りではかなり安めの二五〇〇〇円で、しかも電化製品は一通り揃っていた。その代わり風呂は近くの銭湯になるが、この際文句は言えない。元々銭湯好きなので問題はなかった。しっかりとした造りの階段を上って二階の奥まで行くと、俺の部屋、三〇八号室がある。
「オッカエリー、マリオ、オッカエリー、マリオッコリー」
 玄関を開くと、かごに入れていたはずのオカメインコ、もといチャコが玄関マットの上に立って早速ご主人様をあだ名で呼んできた。あまつさえマリオッコリーなんていう架空のキャラクターの名前まで呼んでしまった。おかしいな、鍵は三重にしておいたはずなのに。
「ほーらチャコ、お前の部屋はここじゃないぞ。あっち、あっち」
「チャコチャン、チョーオナカスイター、スイター」
 あ、なるほど。腹が減ったからかごの鍵を開けて俺が帰るのを待っていたのか。なんて食への執念が強いインコなんだろうか。氷河期が来ても生き残れそうだ。
 そういえば、俺も由紀がカルボナーラがっついでいるのを見てただけで、まだ昼飯何にも食ってなかったっけ。なら丁度いい。
「よしよし、それじゃ一緒にお昼ご飯食べようねー」
「ヤダ」
 えっ?

          ◎

 ヤダと言いつつ俺の傍でペットフードにかぶりつくチャコはやはり可愛い。時折こっちを向いて静止した後、「ナニミテンダヨマリオ」と言いながら俺の顔にキックをかますのも可愛い。爪で起用に掴むから割と痛い。
 かくいう俺は、買い置きしてある惣菜パンを適当に二つ食べたところで、もう胃袋が満タンになってしまった。フリーター生活を始めてからと言うものの、一度の食事量は抑え目にしてあるので、これだけで満腹になってしまうと言うのは貧乏人にとってありがたいことこの上ない。
 そこら辺のソファに座って、近くにあったリモコンでテレビの電源を入れる。
 昼下がりのテレビなんて退屈なニュースかバラエティしかないが、部屋を支配する音がチャコスケが俺を罵倒する声だけと言うのも侘しいので仕方なくオンにした。多分芸能人であろう男が何かニュースを読んでいる。隣に立っているおかっぱ頭で高身長な女性は、確か、かなり有名な人で見覚えがあるが、誰だか分からない。俺は昔からテレビを殆ど見ていない。バラエティは尚更だったので、芸能人の顔なんて数えるほどしか覚えていない。別に、覚えていなくても生きていけるからいいんだが。
 そしていよいよやることがなくなり、俺はソファに埋もれる。テレビからは一分で目を逸らし、天井からぶら下がる電灯、の先で揺れている紐を眺める。
 ゆらゆら揺れる。子どもの頃、あれでシャドーボクシングなんかしたっけな。
 あの紐のように、俺の人生も揺らぎまくっているのかな、今。
 紐って言うか、先端についている重りみたいなものが、まさに俺の生き写しか。
 ちょっと紐を切っただけで、すぐに堕ちてしまう。堕ちた先にあるのは、果たして人生のリセットボタンか、電源ボタンか。言うまでもなく、俺に結わえ付けられている細い紐ってのは由紀のことだ。バイト先でも誰とも話さない故、最近まともに話した人間は彼女しかいないし、今だに面倒を見てくれるのも由紀だけ。この俺を社会とギリギリ繋げているのは紛れもなく由紀だ。
 両親は仕送りこそ送ってくれるものの、最近は全く話していない。そういえばこの間も手紙が届いていたが、結局返事書かないままだったっけ。いつか書こうと思っていたのに、忘れてしまっていた。……まあ、いいか。
 俺はソファからベッドに身を移し、チャコを眺めながら眠りにつく。
 チャコはテーブルの上に置いてあったアルミ缶を突付いて遊んでいる。それまだ開封してないんだけど、大丈夫かな。炭酸の感なのにそんなに激しく揺さぶったり激しく突付いたりして本当に大丈夫かな。大丈夫だよな。
「ブシャ――――ッッッ」
 全然大丈夫じゃなかった。あの野郎クチバシだけでアルミ缶に穴開けやがった。なかなかやるじゃないか。次はスチール缶に挑戦してもらおうかな。
 なんて巫山戯ている暇はなく、フローリングに広がったコーラを拭くために立ち上がる。きちんと拭いておかないと後でベタベタするから、面倒でも台拭きでやろう。というか、チャコは大丈夫か?
「ウマ――――ッッッ」
 いやうまーっじゃないから。インコってコーラ飲むのかよ。誰に似たんだ。
 こぼれたコーラにクレイジーなチャコは放っておいて、俺は乾いた布巾で床から拭き始める。そういえば最近掃除もしてなかった所為か、床にはコーラだけでなく埃も大漁に振り撒かれていた。このまま、心の底にあるちっぽけなプライド、『誇り』まで一緒に拭き取られてそうだな、とか笑いながら考えてしまう。
 ひとしきり笑い、息を吐いて、独りごちる。
「なーにやってんだろうな、俺」
 忘れようとしても、どうでもいい事だと考えようとしても、頭にへばりついて離れなかった。あの光景が――――少し前に由紀が言った言葉と、由紀の表情と、周りの風景が、まざまざと蘇る。
『マリオは一体、何のために生きているの?』
 その時は斜に構えた返事しかしていなかったが、今頃になってその言葉が深く突き刺さった。悪気のないその言葉が引き金になった。
『マリオハイッタイ、ナンノタメニイキテイルノ?』

 腐りかけた生卵を踏み潰すように、真っ赤に熟れたトマトを握り潰すように、逆さまのグラスから赤ワインがこぼれ落ちていくように。俺の心は静かに、それでも確かに鼓動を速くした。歯の根が合わない。汗をかいているわけでもないのに、外気とあまり変わらない気温の室内でさえ肌寒く感じる。寒いと感じた時には既に、さぶいぼが立っている。どーでもいいと思っていたはずのことが、どーでもよくなく見えてくる。でもそれはまやかしで、結局俺にとってはどーでもいいことに違いない。そう信じて今まで生きてきた。それで、今まで何とか壁を乗り越えて、その場しのぎのままここまでたどり着いた。俺の後ろにも前にも、道はない。
 何のために生きているのか。
 今の俺にとって、一番答えに詰まる質問だった。
 恐らく「どーでもいい」では済まされない。今、由紀にこのことを訊かれていたら、俺は答えることが出来なかっただろう。適当に答えたくはなかった。だからと言って金のために生きているわけでもないし、何か大きな野望があるわけでもない。自分でも、ここ最近何のために生きているのか、自分でも分からない。
 俺の生きる理由。バイトやパチンコに行って、金を稼ぐ理由。
 今考えたところで、それはきっと薄っぺらい理由にしかならない。
 例えば今まで視線を逸らしていたものを急に生きる理由だと定めても、きっと一週間で忘れてしまう。夢を抱いたことがないのに夢のために生きるとは、今から即興で考えた夢のために生きると言うことだ。そんな大して時間を要さないものが、人間一人の人生の最終目標となってもいいのだろうか。
 由紀が数時間前に言っていたことを思い出した。
『あのマリオだって、最初から恵まれているわけじゃないでしょ? 彼は命を捨てて一国の姫を助け出したことによって、名声を得た。彼の生き様に倣うなら、行動することが人生を変える一番の近道じゃないかと思うんだけど、違う?』
 由紀の言っていることは正しい。でも俺の生き方には合わないので、実践しようとは思えない。俺は自分から居場所を探すのではなく、居場所が出来るのを待つタイプ。今までずっとそうだった。
 でも、結局一度も居場所が与えられることはなかった。
 何故か? それは、“俺は神に選ばれなかったから”。
 由紀に対して「俺は神に選ばれなかった」とどや顔で言いつつ、心の中では「きっと神が居場所を与えてくれるはず」と何度も願っていた。何だこれは。矛盾し放題じゃないか。神に見捨てられた男が神を信じるなど、愚の骨頂だ。
 俺は今まで、何をしていた?
 どうしてこんな簡単な事に気付かなかった?
 途端に力が抜けて、俺はベッドの上に転がった。ちかちかと光る蛍光灯が眩しい。薄汚れた白光が目に沁みる。目を開けられなくなって、自ずと目蓋が下りる。息苦しい胸の中で、黒くどろどろしたものが、蹂躙するように渦巻いていった。
 俺は椅子に座っていた。
 豪奢な椅子だ。二人は座れそうなほど大きく、白い革と燻した金で装飾されている。それに座っている俺の格好も奇妙なくらい格式高い。就活の時に着るようなリクルートスーツとは比べ物にならないほど立派で、着心地の良いスーツを纏っている。ポール・スミスとか、その辺だろうか。靴も茶の革靴。ここまで来ると俺にはメーカーさえも思い浮かばない。
 目の前にはレースのクロスが敷かれたテーブル。俺から見て横長で、座っている椅子はテーブルの長い辺の真ん中にある。両隣りに一人ずつは座れそうだ。奥行きはそこまでなく、身を乗り出して手を伸ばしたら端っこまで届くと思う。
 テーブルの上には、何も置かれていない皿と、ナイフとフォークが一セット。今更気づいたが、俺は真っ白なナプキンを首に結んでいた。辺りにはテレビでしか見たことのない宮殿のような光景が広がっていて、タキシードに身を包んだ人々がウエイターにワインを注いでもらっていたり、革張りのメニューを指先でなぞったりしていた。みな、俺とはヒエラルキーの違う人間ばかりだ。
 頭がぼーっとしている。日曜日の昼下がりに河川敷で寝転んでいるような、妙に心地よい微睡が頭の中で漂っている。どうして自分がこんなところにいるのか、なぜこんな恰好をしているのか、考えてみるものの集中できない。まるで、他の誰かに思考回路を操作されているみたいだ。
 マリオネットのように、蛍光灯の紐のように、頭はふらふら揺れる。
 そうだ、俺は確かあのまま眠りについて、目を覚ましたら陽が落ち始めていて、パンを食べたというのに胃が猛烈に抗議するもんだから、何か食べに行こうと思い立った。それで部屋を出て、あてもなくぶらついて、ここへ来た。いや、ここへ来ようと思って来たのかは定かではないが、ここにこうして座っているということは、何かしらの経緯があったんだろう。その辺り、うまく思い出せない。
 それにしても、料理はまだ運ばれてこないんだろうか。腹が減って仕方がない。せっかくこんなにも贅沢なところへ来たのだから、持ってくるのが少しでも遅いと不満に思ってしまう。
 数分待っても、気配はない。
 嘆息し、文句の一つでも言ってやろうと俺は立ち上がった。

「まあ、そう焦らずにお待ちください」

 そう呼び止められた瞬間、もやがかかってはっきりしていなかった頭の中が晴れ渡り、意識がはっきりした。反射的に片手で頭を抱え込んだ。同時に周囲から人の気配はなくなって、あれだけあったテーブルは全て無人になった。ウエイターもどこにも見当たらない。
「料理というものはじっくり、じっくりと時間をかけて完成させるものです」
 声のした方向。テーブルを挟んで俺の対面にいる誰かを見やる。
「それはまるで人の生きる様のようで、人の手によって生み出され、人の手によって消えていく。面白い話ですね。一つの小さな料理にもそれが生み出されたドラマストーリーがあって、それを私たちは当たり前のように享受している。実はこれって凄いことなんですよ」
 黒のスーツに黒のワイシャツ、白のネクタイ。英国紳士を彷彿とさせるピアノブラックのハットからは、灰色の癖毛がはみ出している。猫を思わせる切れ長で柔らかさを孕んだ双眸は、片手で揺らすワイングラスを見つめている。中性的な顔立ちのその人は、声を聞いて男だと分かった。
 俺の視線に気付いたのか、“彼”はハットを取って口角を上げた。
「ハロ! やっぱりこういう格式高い恰好は嫌になりますね、まったく窮屈で仕方がありません。人はやっぱり着飾るのが好きですね! 貴方もそう思いませんか?」
「は、はあ……?」
 愛想よくテンション高めに話しかけてくるこの男は一体誰だと思いつつ、あまり向き合って人と話さない俺は、俯きながら首を傾げる。彼はさらに目を細め、グラスに注がれているワインを口にする。
「富、名声、力、と言ったステータスを人間は好みます。それは自己顕示欲によって生じますし、他人に負けたくないと言う嫉妬によっても生じます。これは人として生きていく上で避けられない性と言うか、誰もが一度は味わう感情ですね。誰もがお金持ちになりたい、有名になりたい、一国の王になりたいと思うはずです」
「はあ……いや、でも俺は別にそうなりたいとは……」
「思わないというより、何も考えていない、ですよね? 知っています」
 俺は息を呑んだ。彼はにこにこ笑ったまま続ける。
「生きるために働き、生きるためにお金を得て、生きるために食べて、生きるために出し、生きるために寝る。元来、人と言う生物はそんなものです。初めは誰も目的なんて持っていません。
 ですがある時、何らかのアクシデント、ハプニングによって、それらの一部はひっくり返ります。要するに、お金を得るために生きる金の亡者になったり、食べるために生きるグルメ人間になったりするのです。これらの良し悪しは別にして、彼らは生きるための明確な目的を持ったということになります。生きるために行っていることが生きる理由になる――行為と目的が逆転したケースです。形は多少異なりますが、人の生きる理由というのは、だいたいこうして生まれます」
 残りのワインを口に含み、十分に味わってから、彼は言葉を紡ぐ。
「料理が人の生き様のようだ、と言いましたよね。料理も最初は先人に教わり、材料も用意されたものを使って作りますが、そのうち自分一人で作りたいものを作るようになります。百人が百人、まったく同じ料理を作るなんてことはありません。自分の望みを込めた自分だけの国を作るように、かならずオリジナルのものが出来上がります。皆人、一国の主なのです。“cooking”にも『king』と書かれているでしょう?」
「料理が生き様で……みんな、国の主?」
 理解がほとんど追いつかなかったが、彼は微笑んで肯いた。
「しかしたった一人で国を作るのは困難です。手助けくれる人を探さなければなりませんし、邪魔をする人を退治することも必要でしょう。それに、建国するのに最も必要となるのは、自分のこと、王のことをよく理解してくれる伴侶の存在です。そしてその伴侶は、いつもすぐそばにいるはずです」
 彼はハットを被り直すと、白く細い指で、いつの間にか俺の両隣に置かれている椅子を指差した。
「その席は貴方の傍にいるべき人が座る席です。そしてもう片方の席には、どうかご注意ください」
「もう片方?」
「ええ。悪魔です。悪魔が座っているのです」
 声が強張る。
「悪魔は貴方が心を投げ出し、人生を棒に振ってしまうのを、血を滴らせたフォークと共に待ち望んでいます。悪魔はいつでも手ぐすねを引いています。貴方を陥れるために。貴方の、その心臓を手中に収めるために」
 俺は呆気にとられて、何も言葉にすることが出来なかった。狐につままれたような状態の俺を見て彼はしばらく微笑んでいたが、やがて彼は席を立った。
「忘れないでくださいね。生きていくのに、大切なもの、それを陥れるものがあるということ。そして、それらはいつでも隣に居るということを」
 そう言って、夕闇色のスーツを着た男は俺に背を向けた。
「お……おい、ちょっと待ってくれ!」
 俺は慌てて立ち上がり、手を伸ばして呼び止め――――


          ◎

「……お客さん?」
 ビクッ! とジャーキングと共に目が覚めた。
 息苦しさに頭を上げる。
 顔からは豚骨臭のする液体がぽたぽた垂れている。
 手元にはラーメンの器。食べかけのチャーシューと握りしめたままの箸。
「あれだったら、また作り直そうか? もう冷めてるよ」
 俺は一人ラーメン屋で、顔に背脂の欠片をつけたまま、沈黙した。
 世界が止まっているようだった。
 
 店を出ると、さーっとした静寂に包まれた。自分と、自分以外の世界とで切り離されたように視界が不明瞭で、車が横切る度、水しぶきが上がる。暗く、鉛のように重い空気を吸って、身体が少しだけ毒された気分になる。
 雨だ。雨が降っている。
 雨は嫌いだ。服が濡れるから。
 あいにく傘は持ち合わせていない。部屋を出た時は少し曇っているだけだったのに、ラーメン屋に長居したおかげで雲がぐんぐん発達し、こうしてバケツをひっくり返したような夕立を起こしたようだ。人々もこの事態を想定していなかったのか、通学鞄を傘にしたり、小さなおりたたみ傘の中に縮こまっている人で溢れ返っている。その中で俺は一人、ラーメン屋の軒下で口先のつまようじを揺らす。
 ラーメン屋で何をしていたのかはあまり覚えていない。
 どこか知らない場所で聞いたことは、全て覚えている。
「何だったんだありゃ。夢か?」
 夢、にしてはやけに現実的だった。明晰夢とでも言うのか。こんな経験は初めてだ。夢の事を憶えていることは多少あるが、まるでこの身で体験したかのようにリアルな夢は今まで見たことがない。それをまさか、ラーメン食べてる最中に見ることになるとは。俺らしいと言えば、俺らしいが。
 それにしてもこれだけの雨に打たれながら、傘もなしによく外を出歩こうと思うな、と感心した。雨は時間が過ぎるたびに調子付き、もはや滝としか形容できない量の雨が大通りを埋め尽くした。空も黒く、夜の様相。耳にはテレビの砂嵐よろしく耳障りなノイズが走る。半径一メートルより外の会話なら遮断されるレベルだ。
「はー、参ったなこりゃー」
 湿った右手をひらひらと振りながら平板に言う。
 よりによって一人で外に出たときに限ってこういう始末だ。雨も天恵に含むとするならば、果たして神様は俺が好きなのか、嫌いなのか。俺自身が困ってるんだから嫌いなんだろうな。
 段々と薄暗さに慣れてきた視界の中では、相変わらず傘を持っていない人が右往左往していた。スコールが打ち付けているというのに、皆忙しそうに走っている。どうせなら俺みたいに、止むまで待っておけば良いのに。
 俺みたいに、皆――――――止まっておけばいいのに。

「……………………」

 どうしても、頭から離れてはくれなかった。
 視界に広がる光景が社会における俺の立ち位置を示しているようで、こめかみの辺りが痛くなる。雨の中走り去っていく人々から、隔離されるように立っている俺。その間に出来たぽっかりとした空間を埋めるための雨のカーテンは、一体何を暗喩しているんだろうかと思うだけで、そこがまるで別世界であるかのような錯覚を感じた。雨音が少しだけ遠くなる。無意識に、聴覚よりも視覚のほうが優先されたような、不思議な感覚がする。
 空から落ちる水滴が一本の線となって、降り注いでいくのがはっきりと見えた。激しい雨の音はもう、弱く回る扇風機程度の音にしか感じられなかった。何が俺をそうさせたのかは分からない。
 分からないから、俺は一歩も動かずに、立ち止まっている。
 そんな俺に動きをもたらしたのは、携帯の振動だった。
「……電話か?」
 画面を開くと、非通知の番号だった。電話はおろかメールすら滅多に届かないこの携帯に、一体誰が電話をかけている?
 不思議に思い、通話ボタンを押す。
 耳に当てると、俺が喋りだすよりも先に聞き覚えのあるあの声が聞こえた。
『ハロ! 雨が強いですね、傘を持って来ていてよかったです』
 光景がありありと脳裏に浮かぶ。
 ハットを被って、洒脱な雰囲気を醸し出していた、あの男。
「お、お前、確か夢の中に出てきた……」
『貴方の夢の中に出てきたかどうかは知りませんが、私はあなたの事を知っています。でも名前を知っているわけではありません。それは貴方も同じこと』
 男はひょうひょうとした口調で続ける。
『電車でいつも見かける人がいます。バイト先でいつも見かける人がいます。パチンコ店でいつも見かける人がいます。ですがその人たちの名前までは分かりません。でも貴方はその人たちのことを知っています。その人がどの駅で降りるのか、何を食べるのか、僅かながらは分かっているはずです。そういった人は皆“知人”、』
 一呼吸置いて、
『貴方の人生を形作る一部分であり、同時にさほど必要でない人でもあります。しかしそれとは違い、貴方の人生には欠かせない存在となる人がいます。いつも隣に居る人は、そう、言うなれば“隣人”』
 電話越しでも笑顔が見えそうなほど、朗らかに言う。
『隣人、すなわち隣に居る人と言うのは、生きていく上、明日に向かって進んでいく上では必ず要る物なのです』
「いや、悪いが何言いたいのかよく分かん」
『そうですね。私が進言しなくても、それを教えてくれる人がいるはずです』
 彼はクスッと笑って、
『貴方にはまだ、声を聞くべき人がいます』
 そこで、音声が途切れた。何回か呼びかけても通話は切れていて、無機質な信号音だけが返事をした。
 ……一体何者なんだ、コイツは。
 そう、怪訝に思って顔をしかめた時のことだ。
 携帯がまた、震える。

『着信:甲斐田由紀』

          ◎

 俺たちは人気のない公園に来ていた。周りの道路には車が走っているが、生身の人間で、荷物も傘も持たずに歩いているのはおそらく俺たちぐらいだろう。
 雨の勢いはいつまで経っても衰えない。髪も服もずぶぬれで、髪から垂れ落ちる水滴を払う気も起きない。雨に打たれることにも慣れてしまった。お気に入りの赤い帽子は水を吸って黒くにじみ、歩くたびにスニーカーが水溜りを跳ね上げた。
 言葉が見つからなかった。冗談を言う気にもなれなかった。
 びしょぬれのジャケットのポケットに手を突っ込む。当たり前だがこんな雨では煙草を吸うことなどできないので、小さな子どもがアイスキャンディの棒をそうするように、つまようじを口でぶらぶら揺らす。こうすれば口を開くことはないし、口の寂しさも紛らわせる。こんなものは、苦肉の策だ。
 暗みの増した公園の中に、三人くらいは座れそうなベンチがあった。当然大雨にさらされて湿りに湿っているが、今更気にすることもない。
 お互い何を言うわけでもなく、俺たちは無言でベンチに腰掛ける。
 帽子を少し、深く被る。
「悪いね、こんな雨の中、付き合ってもらっちゃって」
 ふーっと息を吐きながら、いつもの明るい声で、由紀は言う。
「いやー、まさかこんな事になるとは思ってなくてね。こんな雨の日に暇してて、どこにでも来てくれそうな奴って、やっぱマリオくらいしかいないからさ。わざわざごめんね」
「お前が気にすることじゃねーよ、どうせ暇だったし」
 やっぱりね、と言いながら由紀は笑う。
「にしてもこんな早い時間にどうした? 『今からどこかで少し話せるか』って、別にメールとか電話でも良かったんじゃないのか?」
「あー、めんどくさいじゃない? 一々メール送ったりするの」
「ふーん、そういうもんか」
 俺は納得した振りをした。
「それだったらどっか店に入ろうぜ? このままじゃ風邪引いちまう。そうだ、この近くに美味い定食屋があるんだ。そこで飯でもつまみながら」
「……まだ、そんなにお腹空いてないから、いい」
「ヘルシーサラダだってあるし……そういえばお前、最近炭水化物抜くダイエットしてたよな? あれ実際は効果ないから、辞めたほうがいいぞ」
 由紀の肩がかすかに震える。雨のせいもあるだろうが、多分違う。
「どうしても嫌っつーんなら、サ店に行ってもいいぞ。そう言えばスター何とかコーヒーだっけ? 最近新作メニュー出したらしいって聞いたが」
「だから何だっていうのよ、いいって言ってるでしょ!」
「一体何があったんだよ」
 由紀は声を荒げたが、俺は頭をつかんで無理やり視線を合わせた。
「バレバレなんだよ。暇つぶしとかそういう類じゃねーだろ。こんな豪雨の中俺みたいなのをわざわざ呼び出すなんて、一体何があったら、お前みたいな生真面目な奴がそんな行動するんだ」
「生真面目だからって何よ! さっき言ったでしょ! 友達はまだみんな仕事してるだろうから、暇なのはあんたみたいなニートだけだって!」
「おいおい失敬だな。バイトならしてるぞ。週三だけど」
「今日が勤務日じゃないの知ってるから!」
「そうだな、お前いっつも会社帰りにウチのコンビニ寄るもんな」
「そんなこと今はどうでもいいでしょ! このクソマリオ!」
「人を呼び出しといてクソとは何だクソとは」
 由紀はまだ何か言いたそうに眉をひそめていたが、ため息と共に深く俯いた。
「……ダメ、今は喧嘩する気にもなれない」
「そりゃよかった。俺からすれば万々歳だ」
 もちろん嘘。
「話せないことなのなら、どうして俺を呼んだ? 俺みたいな失うもののない奴に話せないことなんかねーだろうに」
「……ホントなんでだろうね。どうして呼んだんだろうね」
「いやいや、俺はお前に聞いて……」
「自分の中で完結させるべきなんだよ。自分自身で解決しないといけないんだよ」
 由紀の言葉が、俺の声を遮る。もう、俺の言葉は届いていない。
「なんだろうね。調子乗ってたのかな、私。とりたてて成功してきたわけじゃないけど、それなりの会社に入れて、それなりの評価受けたから、有頂天になってたのかな。周りが良く見えてなかったのかな。分かんないよ、何が何だかもう」
「おい、落ち着けよ」
「おこがましいことだったのかな。私みたいな平凡な奴が、会議で意見を出すこと自体が、何か間違ったことだったのかな。粛粛と四〇年間、何かを咎めることなく働き続けるべきだったのかな。そしたらまだ、未来もあったの、かな」
 由紀の声は、途切れ途切れになっていた。
 雨は、いつまで経っても降りやまない。
「もう、どうしたらいいのか分からないよ。どうすべきなのかも分からないよ。全部なくなった、なくなった、なくなった、なくなった…………ねえ、智志」
 やめてくれ。
 由紀の言葉を聞いて、俺の脳裏に、何年か前の光景が過る。
「全部――――なくなっちゃった」
 気丈な笑顔は、涙でぼろぼろに濡れていた。
 雨が降っていても、それだけは鮮明に分かった。
 俺は目を細めて、由紀を見つめた。
 どうすることも出来ない。何もかもが突然すぎる。この間まで由紀は元気に会社で働いていたじゃないか。でも由紀は今、俺の隣で泣いている。普段は見せぬ涙を流しながら泣き腫らしている。
 それはあまりにも唐突過ぎて、言葉が見つからず、俺は黙って由紀の頭を撫ぜることしかできなかった。
 俺よりも数段は立派な由紀の、その由紀の頭が、泣くことで揺れている。
 雨が降っていて良かったと思ったが、俺にだって、分からない。
 こういう時、どうしたらいいんだ。
 俺は、どうしなければいけないんだ。
 分からない。
 分からない。

 このまま全てが雨に流れて消えればいいのにと、心から思った。
 ……………………
 ……………………………………


 一人、金池の町を歩いている。
 昨日の大雨とは打って変わって、雲一つない晴天が覗き見える。今年は夏が少し早番のようで、気温は八月中旬並みに高い。陽炎もちらほら見える。
 駅周辺は企業の本社や支社が多く、高層ビルが群れを成して立ち並んでいる。昼前の時間帯は外回りの営業マンがそこかしこを走っていて、やっぱり日本人は働きすぎなんじゃないか、みたいなグローバルなぼやきも浮かんでくる。さて、本日のお仕事が十七時から二十二時の五時間である俺は、彼らに比べて勝ち組と言えるだろうか、それとも。
 答えは、俺には分からない。
 だが、社会は俺を負け組だとみなした。
 煙草に火をつける。昨日の雨で開けたばかりのマルボロスイートがお釈迦になってしまったので、今朝わざわざ買いに走った。やっぱりこの煙草を吸わないとすっきりしない。この甘ったるい、煙草を。枕が違うとなかなか寝付けない人がいるように、俺は煙草が違うとどうも落ち着かないのだ。
 紫煙は風を受けてたなびき、空に昇る。
 由紀は結局会社をクビになった。朝起きて連絡してみたが、電源が入っていないのか、返事はない。
 昨日家まで送った時、由紀の取り繕った笑顔が妙に不自然だったのが気がかりだった。由紀のあんな顔は、今まで見たこともなかった。由紀とは保育園から親ぐるみでの腐れ縁だが、ああいった表情は今の今まで、一度も。
 気になって部屋まで訪ねたが、出かけていて留守だった。ますます胸が騒ぐ。
 ひょっとしたら町にいるかもしれない。町をうろついていれば、もしかしたら出くわすかもしれない。可能性は否定できない。
 だから俺は、こうして何の目的もなく、金池を歩いている。


     【六月十日】


「おや、いらっしゃい」
 しばらく出歩いてみたがまったく遭遇する気配がないので、いったん区切りをつけるために俺は行きつけのカフェに入った。平日の昼間なので客は少ない。俺を含めて四人くらい、と言ったところか。カウンターに座っている客は誰もいなかったので、俺はカウンターの左端を陣取った。
「さーて、今日のご注文は?」
「カフェラテの、クリームマシマシキャラメルカラメで」
 カフェテリア『次郎』の注文方法は相変わらず独特だ。いつも同じものしか飲まないので、割と饒舌で言えるようにはなったが。
「マスター、なんか今日機嫌が良くないか?」
「ん? そうかい? まあ、ちょっとね」
 やられたらやり返してやる、というセリフで有名になった俳優に非常に似ているマスター。今日はいつもより上機嫌だ。機嫌が良いのに越したことはないが、こういう時は鬼のようにトッピングするから地味に困る。
「はい、お待ちどうさん! サービスでヘーゼルナッツもマシマシしといたよ」
 言ったそばから差し出されたのが、白き地層が堆く積みあがったカフェラテである。目視で三十センチはある。これ、どうやったらカフェラテ本体にアタックできるんだよ。まあ、スプーンでクリームをもそもそ食べるしかないのだが。
「気をつけてくれよ、油断するとバランス崩して倒れるから」
「じゃあこんなに盛るなよ!」
 弄ぶようにマスターは笑う。駄目だ、こんなんじゃ踊らされる一方だ。
「話は変わるが、君こそ今日はいつもより目が死んでいる気がするね。いつもは濁った魚の目をしているが、今日は死んだ魚の目だ」
 言いようはかなり酷いが、マスターはかなり核心を突いてくる。
「あー……、まあ、色々な」
「なるほどね。深くは立ち入らないけど、早めに解決しておいたほうがいいよ。そうでなければ、手遅れになるかもしれないからね」
 洗ったカップを磨きながら、諭すように言う。
「手遅れって、具体的にどんな?」
「さあね、それは私には分からないよ。君なら良く分かるだろう? 彼女が今どういう気持ちで、どうしようとしているのかを」
「ちょっと待て、なんでマスターが由紀のこと――――」
「おや、あれは何かな」
 マスターが窓の外を見やったので、俺は後ろを振り向く。見ると、カフェから程遠くないビルの下に、人だかりができている。
 誰か、有名人でも来ているのか?
 少しだけ気になったので、マスターに断り、俺はカフェから外に出た。
 民衆は誰もが、空を見上げていた。
 そして、俺も彼らと同じように、空を仰ぐ――――――――





 それは、茹だるように暑い、六月のことだった。






 一章「隣に居るということ」


sage