210 ~シェアワールドアンソロジー~
3.「元獣医学部の見解」/作者:さぼてん
「飛行機で『お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか』って言われたときの歯医者の気持ちを考えようぜ」
「なんで?」
そう僕が問うと、天野は眉をしかめて言葉に詰まった。こういう何も考えずに言葉を発して理由を問われると口ごもる癖は大学の頃から何も変わってない。
三月三十一日、午後十二時。年度末の忙しさが際立って、どろりと 泥濘のような疲れを体に纏いながら僕は大学時代の友人と駅前のベンチに腰掛けている。
「そういや知ってる? 覆面ナイフの、殺人事件の」
「三日前に渋谷で無差別に、ってやつ?」
記憶を巡らせる。確か三日前……渋谷の大通りで、 覆面を被った男が、ナイフで通行人を無差別に斬りつけたという事件だ。まだ、犯人は捕まっていないらしい。
「そうそう。あれどう思う?」
「……同僚の友達が、あれは新都市のお偉いさんの 息子が臭いって言ってたな」
そう僕が答えると、天野は鼻で笑い、
「違うなぁ、犯人が誰かという問題じゃない」
「……どういうこと?」
「あの事件から得るものはあるかってことだよ」
「えっと、法律の改正とか?」
「これだから法学部の頭でっかちは嫌いなんだよ」
天野はそう言って塩を舐めたような顔を浮かべた。天野が求める解答がわからない。それどころか、彼は大学時代に教授から宇宙人と呼ばれるほどに突飛もないことを言い出す悪癖があった。そのあだ名が噂へと姿を変えて、街中で「宇宙人を見た」という噂が中高生の間で流行してしまったこともある。
「じゃあ獣医学部の天野さんはどうお考えなんでしょうか」皮肉を込めて聞いてみた。
「あのな、法律なんて秩序を保つためのものだろ。でもそれは社会の秩序だ。人間の秩序を守ることなんて出来ないんだよ」
「……どういうこと?」
「役所仕事だってことだよ。そいつがなんでナイフを振り回したかってことを法律は考えないじゃねぇか。それどころかメディアが面白がって報道して名前も初めて見るコメンテーターが『ちゃんと罰してほしいですね』なんて上っ面だけ口にする」
「じゃあなんでそいつがナイフを振り回したと思う?」
「振り回したくなったんじゃねぇの?」
「お前頭おかしいのか?」
話している途中で自分の発した話題への興味が失せるのも、天野の悪い癖だった。
「例えば、な。動物で例えるぞ」
急に天野が話題を続けた。
「動物?」
「そう。自然において“いじめ”って存在すると思うか?」
「……猿には例があったかな」
「その通り。だけど基本的には存在しない。ライオンがライオンを意味なく傷つけることは無いし、キリンがキリンを意味なく傷つけることは無い」
「それが?」
「だけど、ある条件を満たしたら動物が“生きる為、テリトリー確保以外の攻撃行為”を行うケースが現れる。ある条件とは何だと思う?」
「わからない」
天野は自慢げに間を開けて、人差し指を立てた。
「檻に入れるのさ」
「檻?」
「そう。例えば小動物を飼っていればよく聞く話だ。ハムスターを狭いケージで複数匹飼うと意味なく他のハムスターを攻撃する場合がある。猫も複数匹飼ったら喧嘩することあるだろ? 家という自分の居場所があるのに」
「あるな」
「あれはさ、狭い世界にいたから他のやつを攻撃にしちまうのさ。まぁストレスだな。人間だって同じだ」
「人間のいじめも?」
「そうそう。狭い世界に生きている人間ほど、他人を攻撃したがるんだよ」
「……今回の覆面ナイフの事件もそう?」
「そうさ。渋谷なんて小さな街に多くの人がいたら、そんなことだって起こるに決まってるんだよ」
「……獣医学部は言うことが違うね」
「動物から学べることは人間にとって一番大事な事だと俺は思ってるからね」
天野は奇人だったが、動物好きで有名だった。野良猫を見つけては保護して、猫を飼うためだけに倉庫を借りたことだってあるほどだ。
「じゃあ、天野」
「ん?」
「もし狭い世界で複数の生物がいる中で、誰も誰かを攻撃しない環境があったらその中にいる生物はどうなる?」
顎に手をやり、天野は空を見つめて沈黙した。そして答える。
「壊れるだろうな」
「壊れる……」
「人間だった場合なら精神崩壊って奴だ。人間は賢いけど弱い。だから食物連鎖から抜けだしたしな」
「壊れる、か」
脳裏に、昨日の課長の怒鳴り声が響く。海馬の奥底にふさぎ込んだはずの嫌な記憶がフラッシュバックし、胃を締め付けた。口の中が酸っぱくなり、耳の奥に違和感を感じる。
大学を卒業してからの僕は社会という世界に旅立つのだと高揚を抑えきれない心持ちだった、が、今となっては現実の社会は世界と呼ぶには程遠いオフィスと通勤路の檻だった。通勤路を往復し、オフィスで上司に怒鳴られ、帰宅したらすぐ寝る始末。たまの休日にはやることも無く、今日だって天野からの誘いが無ければずっと寝ているつもりだった。
「で、天野。今日は何の誘い?」
「願いを叶えるぞ」
「は?」
「俺はさ、絶滅危惧種の動物が心配なんだよ」
「だから?」
「でも、多いんだよな今。馬鹿みたいにビルとか建てちゃうし道路だって作っちゃうから絶滅しそうな動物はすごく多いんだよ。一つの流れ星じゃ足りない」
「ナガレボシ?」
間の抜けた声がこぼれてしまった。
「そう、流れ星」
「お前あれか? 動物に打つはずのワクチンとか自分に打っちゃってとうとう……」
「いやいやいや、だって神頼みするにしたって神様って暇じゃねぇだろ。知らないけど」
「だから流れ星?」
「そう。自然へのお願いは自然にするんだよ」
「これから流れ星を探しにいくってのか」
呆れてため息も出なかった。こんなことなら家でゆっくりとテレビでも見ながらビールを飲んでいるほうがよほど有意義だったと思う。
「いや、“行く”んじゃない。“来る”んだ」
「は?」
「今夜、しぶんぎ座流星群が来る。夜の八時ごろだ」
天野に流されるがままに、僕は夜まで天野と街で時間を潰した。ぶらぶらと店を回ったり、ファーストフードを食べたり、大学時代の思い出話に花咲かせたりと取止めの無い時間を過ごした。
午後の七時。また駅前のベンチに腰掛けている。三月の風は肌寒く、服の繊維と繊維の隙間を通って肌を刺す。空を見上げると同時に、携帯電話が震える。天野が、「電話だぞ」と釘を刺すように言ってきたため「わかってるよ」と口を尖らせて通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
「おいお前、今どこで何してる?」
昼に味わった胃の痛みを思い出す。課長だ。
「駅前におりまして、休日なので……」
嫌なじっとりとした汗が背中に滲み出ているのを感じながら、声が震えそうになるのをぐっと抑えた。
「馬鹿野郎。休日も出勤しねぇでお前明日仕事間に合うのか?」
「おそらく三月の中旬で大体は終わらせましたので、大丈夫かと……」
「本当だな?間に合わなかったらどうする?」
どうしてほしいのだ、と言葉を返したかったが
「……責任を取らせていただきます」
「抽象的だよなぁ。次の休日を返上してでも間に合わせるとか言えないのかお前」
刺のある言い方はより強くなっていく。刺どころか針と言ってもいいほどに課長の言葉の一つ一つが僕の胃を刺してくるようだった。
「すみません」
「あー、いいよお前の『すみません』は。どうせ謝れば何とかなると思ってんだろ?」
「いえ……」
気づくと、僕は下を向いていた。天野が僕の顔を覗いてきたため、顔を逸らす。
「あのな、社会人たるもの休日なんて無いんだよ。会社の歯車なんて常に仕事のことを考えてないといけない。駅前で何遊んでるか知らねぇけど、お前の普段の仕事ぶりなら休む暇なんて無いと俺思うんだけどなぁ」
「あ……ではこれから出勤して残っている案件を片付けます」
「いいよいいよ。どうせ今来てもやる気ねぇだろ?」
そう言われて一方的に通話を切られた。どっと疲労感が押し寄せてくる。おそらく課長の八つ当たりに付き合わされたのだと思うが、気分としては最悪だ。
「会社?」
天野がそう聞いてきたから、頷いた。
「壊れそうなのか」
「……もう壊れてるかもしれない」
枯渇したと言うべきか、情熱が消えきってしまった心の淀み。ストレスというものを臭いものに蓋をするように紛らわす毎日と、明日に怯える生き方。
そんな生活に対して、僕はもう限界を感じ始めていた。
「くるぞ流星群。グレビーシマウマ、ガラパゴスペンギン、コウノトリ……」
「流星群に願ったって、何も変わらねぇよ」
そう言って僕は胃の痛さに耐えていた。三月の肌寒さが次第に不快感に変わって僕の体の中に流れてくる。
しかし天野は明るい口ぶりでこう答えた。
「願いを願うんじゃねぇ。祈るんだよ」
「祈る?」
「そうだよ。この前アフリカに言ったときに思ったんだ。日本人は拝むけど、祈らねぇ」
「どう違うんだよ」
「拝むのは見返りを求めるけど、祈るのは心の在り方を示してるんだよ」
「……」
「俺は動物への敬意と感謝だ。お前は?」
「僕は………」
その瞬間。街のざわめきが空気を変えた。
辺りを見渡すと、皆が空を眺めている。どうしていいのかわからずに慌てていると、天野が強く僕の肩を叩いて空を指さした。
「おい!! 見ろよ!!!」
空に広がっていたのは、数多の光の線。灰色の街の上空には色を越えた美しさを帯びた星屑が満たしている。
流星群は程なくして消えた。子供の頃だけ使えた魔法にように心を震わせながらも過ぎ去っていく様と、その余韻に浸りながら天野と顔を見合わせた。
「動物、全部言えた?」
「言えねぇよ。すぐ終わっちまったもの」
「どうする?」
「流れ星で言えなかった動物は、俺が助ける」
そう言って天野は立ち上がり、
「お前はどうする?」
と訪ねてきた。僕は答える。
「壊れることはもう無いだろうから、足掻いてみるよ」
「本当にもう大丈夫なのか?」
僕は頷いた。
「星から見れば俺らの生きる世界なんて、すごくちっぽけだ」
檻から開放されたような気分のまま、僕は帰ることにする。