この街に越してきて、もう2年以上の月日が経とうとしていた。大学院進学と共にこちらに下宿を構えて一人暮らしを始めたものの、未だに働くことはせずに奨学金という名の負債を抱えながら大学院に進学した。大学院で僕が何の研究をしているのか、なんて話はごく一部の変人にしか伝わらないだろうからここでは割合する。そんな研究の内容も学外に出れば「で?」の一言で片付けられてしまうようなものばかりであるし、ましてや一般企業に勤めたとしても今までやってきたようなことが最大限に生かせるような学問ではない。確かに研究は面白いし、僕の時間が幾らそれに費やされようと特に後悔の念が湧き出てくるでもない。いくら赤の他人に僕の研究は無意味だと嘲笑されようとも、僕の思考だけは彼等のそれよりもずっと遠くへ、速く到達出来る自信があった。
そんな自信と自嘲が混ざり合った矛盾した感性を持った僕は存外にこの街のことが気に入っていた。事実、文系の院に関してはこの街はこの国において最も高いレベルとバリエーションの広さを保っていると言っても過言では無く、僕自身が学部卒業後にこの街の学校の大学院に進むことを決意したことも容易なことだった。
だが、これで二回目になるこの日だけはどうも好きになれなかった。その一日は流星群がよく見えると、たくさんの人間がこの街にやって来る。中途半端に整備された町並みはそんな人達を迎える為に作られたのだろう。
確かに僕はこの街を決して嫌ってはいなかった。
しかし、非科学的な幽霊やら宇宙人やらの噂を真に受けるような人達には心底嫌気がしたし、そんな噂の蔓延るミステリアスな街という雰囲気を流星群とセットにして観光客を呼び込むその街の姿勢自体は全く好きになれそうになかった。
僕は二丁目のとある神社のすぐ傍のアパートに住んでいる。比較的新都駅にも学校にも近く、家賃も安い為同じ学校の院生がここに住んでいると聞いたことがあるが、学部の違いから別段興味が湧くこともなかった。そして、この神社は曰く付きの場所であった。入学したてのあの頃、研究室にて同期の者達に聞かされた。
『二丁目の神社には女の幽霊がでる』
そう彼らは僕に言った。正直に言おう。僕も初めは怖気づいた。何歳になろうと、お化けと歯医者は怖いのだ。だが、幽霊なんてもんの正体は所詮至極呆気無く、どうしようもないモノなのだ。
「おっ、榊原君、来たね。待ってたよ、一杯付き合ってよ。」
目的地である神社の目の前で止まると、女の声がした。彼女の名は木下小雪29歳、僕の住むアパートの大家でもある。彼女は祭壇にちょこんと座り、その横にはビールの空き缶と共に青いプラスチックのバケツの中には大量の氷と一緒に蓋の空いたワインが無造作に突っ込んであった。溜息が出てしまった。またこの人は日が暮れない内から飲んで。
「冬人くうん、そんな溜息ばっかついてたら幸せが逃げちゃうよ。」
呑気に笑いながら、彼女は僕の目を見据えた。そう言った彼女の目はいつも真摯で、真直ぐなものだった。
「大丈夫ですよ。俺、無事に修論も通って博士後期も行けることになったんで。」
そう、僕の方は何もかも順調に進んでいるように思えた。
「しゅうろん?時々冬人君って言ってることよく分からないよね。」
木下さんはそう呂律の回っていない口調で質素な茶飲み用のマグカップにワインを注いだ。
「まあ、要は試験に合格して進学出来るようになったっていうことです。」
ほほお、そう彼女はマグカップをクイと上に傾けた。その傍らで僕はジャケットの内ポケットに手を運ばせた。茶色の封筒、何を隠そう、中身は2か月分の家賃である。
「木下さん、遅れましたが先月と今月分の家賃です。遅れてすみません。」
そう言って僕は彼女に封筒を差し出す。普段は銀行から引き落とされるのだが、奨学金を出してもらっている組織の経理のシステムが少々変わっただかなんだかで先月分の家賃が払えなかったのだ。
「おっ、律儀だねえ。冬人君は。ありがとう。」
そう言った彼女の言葉は大人びた少女のそれのように聞こえた。それじゃあ、と僕の手から封筒を抜き取りそこから一枚のお札を出し彼女は僕を指差した。
「冬人くん、これでちょっとそこまで一っ走りしてきてくれないかな。君の分のお酒もこれで買っておいで。お祝いしよっか。」
「わかりました、ありがとうございます。」
年上からの好意は基本的に遠慮することなく受け取ることが僕の処世術の一つとして身に沁み込んでいるのだ。振り返り、彼女に背を向けると酒のつまみの注文を受けた。それに生返事で返すと彼女はまたマグカップにワインを注いだ。
幽霊なんてのやつの正体はあのアパートに越してから数か月してすぐにわかった。正体は木下雪乃自身が月見酒と称して一人夜更けに飲んでいるその姿だということが。結局のところ、そんな噂話のオチは大したことなくて、人から人へと話が伝染する度に脚色されていくようなものだと実感していた。
僕も勤勉な大学院生である前に一人の男であり、木下小雪という女性は魅力的だと感じてはいた。きまぐれに誘われる野外の晩酌に淡い期待をしたことも幾度となくあった。しかし、現実はそう甘くはない。彼女はとてつもなく酒に強い。酔い潰れてどうにかなったりはしないし、彼女も僕のことを異性として意識しているかは非常に疑わしい部分がある。きっと彼女にとって僕は生意気な「弟」のような存在であると数回の晩酌で気付き始めてはいた。
まあいいさ、そう自分を慰める言葉をお経のように念じながら僕はすぐ近くのコンビニに足を踏みいれた。
『っらしゃいませえ』
気の抜けた、ずさんな歓迎の言葉が聞こえた。その店員はただレジに立ち、何かするでもなく、ただそこに存在していた。そしてその顔は決して僕に向けられることは無く、ただ彼の目の前の棚に向けられていた。僕は注文通りの品と、ウイスキーのボトルを一本籠に入れてレジに向かった。
時が止まった、そんな感じたことのない感覚を味わった。
その店員は思ったよりも長身で、ぼそぼそと放つその言葉はうまく聞き取れなかった。コンビニの制服であるエプロンの下には深緑の長そでのTシャツが見え隠れしていたがそれはシミだらけで、しかも、長く着ているのか、よれよれのものだった。そして何より不自然に感じたのは彼の髪の色だった。フケだらけの黒髪には塗料の様な、青い何かが付着しているのが見え隠れした。
『5800円になりま…す』
妙に空いたその間に彼の目は僕のいれたウイスキーのボトルをじっと見据えていた。違和感を感じながらも僕は恐る恐る木下さんに渡された一万円を手渡した。彼は首を傾げながらもレジに金額を入力し、お釣りの4200円も領収書もしっかりと渡してくれた。
流石に気味が悪いと思った僕もそそくさと商品を受け取り店を立ち去った。
だが彼の目は物欲しげに僕の買ったウイスキーをただ一直線に見据えているような気がしてならなかった。
「遅いよお。」
速足で歩いて戻る頃には木下さんはもうポリバケツにいれたワインを飲みほしてしまっていた。
「木下さん、相変わらず飲むの速いね。」
彼女にお釣りと、戦利品のビニール袋を手渡すと彼女は子供のように袋の中のものを穿り出した。
「今日は冬人君もいるからじゃんじゃん行くよ。」
そう彼女は機嫌よく袋からビールを取り出し、ワインを再びポリバケツに突っ込んだ。
だが僕は知っていた、決して彼女が上機嫌ではないということを。こうやって僕をおだてて晩酌に付き合わされるのはいつも彼女が落ち込んでいる時だけだと。
「で、今日はどうしたんですか。」
そう僕は話題を切り出す。僕はきっと彼女のモノにはなれない、だが愚痴を聞くくらいなら家賃滞納の罰としては安すぎるくらいだった。沈黙が流れた。ほんの少し、木下さんがいつもより綺麗に見えてしまった。ぼんやりと空を捉えるその黒い瞳を覗き込みたい欲望に駆られながら僕は彼女の返答を待った。
「妹がね、結婚したの。」
それはもう随分と前に聞いたような気がする。そう話が掴めない顔をしていると慌てて彼女は補足した。
「一番下のね。大学出てから1年も経ってないのにもうゴールインだってさ。」
「私は大学出てないし、高校卒業してすぐ就職して、頑張って働いて、いつかは好きに生きてやろうってお金貯めて今に至るんだけどさ。なんか、人と違う生き方だからって言われてもさ、こうピンと来なくてボサっとしてたら2人いる妹は両方結婚しちゃって、私は何で一人なんだろうって。」
彼女は、包み隠さず一気にその思いを打ち明けた。
彼女とは数回の晩酌の際に愚痴を聞くことも多々あったが僕は彼女のことを本当に理解しているとは考え難かった。確かに彼女はいい加減な性格のように勘違いされることもあるが実際はそんなことは無いと思っていた。金銭に関しては非常に厳しい割に、情に弱く、そこに付け入られて苦い思いをしたこともあるだろう。
だが、彼女は真面目過ぎるということだけは僕にも分かった。
彼女は僕の住んでいる他に数件アパートを所持していると聞いたことがあった。きっとその裏には僕なんかの想像を絶するような努力があったに違いないのだ。それは誰にでも出来ることではない。
だが、「好きに生きる」なんていう曖昧な目標を掲げ努力を費やしてきたにも関わらずいざ、行動に移した時には「好きなこと」が無かったことに気付いてしまったのだと、勝手に思っていた。恋愛に関してもそうだろう。彼女のようにそれなりの経済力を持った、風貌も決して悪くない女性を世間の男性が放っておくわけがないのだ。
だが、きっとそれもうまく行かなかったのだろう。恋愛なんていうものは一方的な価値観の押し付け合いだ。男はその身体から得られる快楽と財布に興味が移っていき、彼女の求めるような男性には巡りあえなかったのだろう。
「冬人君、聞いてる?」
そう言った彼女の声はとても澄んでいた。
「聞いてますよ。ただ、難しいなと思って。」
そう、これは難しい問題なのだ。
世間の女を見る目が無いだとか、あなたは自分の生き方があるなんていう一般論は不気味な程正論で、嫌気がさすほど無責任だ。僕は彼女のことを事細やかに知っているわけではない。しかしここでそんな言葉を掛けるのは彼女の生真面目な性格に対して失礼だと、そう思った。
「冬人君は優しいな。でもモテないでしょう。」
図星だった。今まで複数の女性に好意を寄せられたことなんか一度もないし、これからも無いんだろうというそういう気がしていた。がくりと肩を落としていると木下さんが続けた。
「だけど、冬人君って何かに一直線でそういうのは素直に格好良いと思うよ。」
そう言った彼女は僕の頭を撫でていた。それは存外心地良くて、反応に困った。それに照れ臭かった。
「もう、やめてくださいよ。子供じゃないんだし。」
僕は彼女の手を振りほどき、手にあった缶ビールを一気に喉に流し込んだ。
「それに僕は木下さんと違ってまだ一度もちゃんと働いたことも無いんですよ。だから木下さんみたいな人は少しだけですけど、憧れます。」
本心だった。その言葉に下心は無かった。あなたなら大丈夫なんて無責任な言葉は決して吐く気になれなかった。
だが、それでも彼女の生真面目な性格故の悩みに真面目に答えようとした僕の意図さえ伝われば、それで十分だと僕は思った。
僕の意図が伝わったのかは分からない、だが彼女はただ悪戯好きな少女のような笑い声で僕に酒を勧め、気付けば辺りは暗く街灯の光だけを頼りに酒を注いでいた。
元々僕はそんな強い方ではない。けれど、こんな寂しがり屋で生真面目な幽霊に勧められて飲む酒もそう悪くはないんじゃないのか、そう僕は感じた。幽霊に、宇宙人、そんな馬鹿なものはきっと存在はしない。新しく出来た新都駅のように見かけばかりが立派で、きっと中身は大したものではない。
そう木下小雪滅茶苦茶な日本語を聞き流しながらグラスを傾けた僕の視界の端に、すらりとした綺麗な女性を捉えた。その細々しい、孤独な女性はただ空を見上げていた。僕と木下さんの起こす騒音など気にならないという姿勢が痛い程伝わってきた。
きっと彼女もここに星を見に来たのだろう。酔いが回りぼんやりとした視界が回り、呂律が回らなくなってもまだ、その女性はただじっと空を見つめていた。
そこのお姉さん、流星群はまだ来ませんよ。