コロッケ/遊歩道/人工
目黒はさんまだ。なぜかって? ……そんなことは知らない。風に訊け。
とは言いながら、私の中では、目黒はコロッケなのである。
坂の多い目黒の街をガラガラと共に歩く私は、おそらく何処からどう見たってパンキッシュだった。私がガラガラと呼ぶのは東急ハンズで一万なにがし円はたいて買った、黒光りするスーツケース。キャスターは四つ、二泊から三泊サイズで、手軽に中の物を取り出せるようにと小さなファスナーが上のほうに付いている。東急ハンズの自社生産商品らしく、機能性とデザイン性がおおよそ7:3(当社調べ)で、私にはちょうど良かった。
ガラガラ……ガラガラ……ガッコン……ガラガラ……ガラガラ……私は闊歩していた。ガラガラは躍動していた。道ゆく人は私を見た。「平日の真っ昼間にスーツケース引いて目黒かよ」と、すれ違う視線。「スーツケースではありません。ガラガラと呼ばんかい」と返す私のパンク魂。
目指す施設は目黒寄生虫館。このアーケードを抜けて、目黒通りを真っ直ぐ歩く。よくわからない川と、山手通りを越えた先に、寄生虫たちのサンクチュアリがあるはずだ。
アーケードにはタイルが敷き詰められており、縦横の凸凹にのせてガラガラの四つの車輪は交響していた。それは私の耳にのみ心地良く、坂の傾斜も手伝って一層奇妙なハーモニーを通わせていた。いよいよ私は目黒区民に嫌われていた。
行き交う人とできるだけ目を合わせないように歩いた。「私はここにいるよ」という自己主張はガラガラが請け負ってくれた。ゴロロロロロ……と、それは凄まじく効力を発揮した。ベビーカーの中の子供が泣いた。母親に睨まれた。
ふっと目を上げると、アーケードのちょうど半分を過ぎたあたりだった。四、五メートル前方の、アーケードの庇を支えている柱に奇妙な看板を見つけた。
「肉」
ゴー! ゴー! マッソー! リ・ン・グに……私は頭の中で流れ始めた軽快なブラスの音色と串田アキラの歌声を必死にかき消そうと頭を抱えながら左右に振っていた。
「何してんの」
「肉」のちょうど真向かいから出てきたのは、三角巾のおばさんだった。正義超人ではなかった。むしろ、ビジュアル的には悪行超人に近かった。……いや、フィクションだから、さ。いいだろ、そういうことで。
私は、買わされた三百円のコロッケとスーツケースとで、両手が塞がってしまった。朝ご飯はほとんど食べていなかったのだから、まあ悪くは無いのであるが、それにしても今日最初に口に運ぶものが脂ぎったコロッケというのは、五月の三十度近い気温の中ではある種の苦行だった。
しなびた林檎のような気持ちで、目黒新橋という煮え切らない名前の橋から階段を降りて川べりの遊歩道に出た。本当は突っ切って向かわなくてはならないのだけれど、これから挑まんとするコロッケに対するサムシングとして、釣り合いを求めた先が流水だったのかもしれない。なんのこっちゃ。
アーケードよりも目の粗い地面を滑っていたガラガラは、一本の桜の木の下で、ふとその緩いグルーヴを止めた。把手が収納され私の椅子になった。「ぐぬぬ」という痛みに悶える声が聞こえた気もするが、おあいにくさま。高校の陸上部で長距離走者だった頃から体重はずっと五十キロを少しか超えたあたりに留まっている。そんなもんでぺしゃんこになっているようでは東急ハンズの名が廃ろう。
ねっとりとしたコロッケを食べ終えると、もと来た階段を上って、また寄生虫館への道を歩き始めた。山手通りを横切り、途中、ヤマハ音楽振興会の建物を見て、つい「わかれうた」を口ずさむなどのハプニングはあったが、そのあたりは頼れる相棒のこと。ガラガラがその独特なグルーヴ感でもって私の歌声を消してくれていた。これで「鼻つまみ」から「変質者」へのクラスチェンジは行われずに済んだのであった。晴れた昼間の目黒でガラガラで「わかれうた」と来ると、もう満貫である。お縄を頂戴するしか無い。
目黒寄生虫館は、それ自体が意図せざるレベルにおいて寄生虫と共存してしまっているような、そんな重厚で歴史ある建築物だという期待があったのだが、スラリと伸びたビルディングだった。ダンディな老教授を思わせた。
館内には線虫や回虫が、ホルマリン漬けになって壜の中で眠っている。と、私はその一角に、ある髭の博士の肖像を見つけた。
ヨハネス・フィビゲル
1926年、寄生虫を用いて人口癌の発生に成功したという功績から、ノーベル生理学・医学賞が与えられました。しかし、現在は彼の提唱した寄生虫発癌説は誤りだと考えられています。
キャプションを読み終え、隣の肖像に目を移した。フィビゲル博士のものよりはやや小さかったが、何となく見慣れた顔である。モノクロ写真の中で、透明度の振り切れた真っ白い髭を蓄えている。日本人だった。
山極勝三郎
兎の耳にコールタールを塗布し続けて人口癌の発生に成功した、日本の人口癌研究のパイオニア。フィビゲルと同時期にノーベル賞の最有力とされていたが、フィビゲルの受賞もあり、幻となった。
――いつの世にも、「なんとなく不幸」な人って、居るもんだねえ。
帰り道、私はガラガラに訊いてみた。
――「唯ぼんやりとした不安」で死んだ小説家も居たっけね……だいいち、この世の中でちゃんとした感情なんて持てないのかも知れないね。みんながみんな、「なんとなく」の気分の中で生きているのかも知れないよ。
「生き物でもないくせに」と言ってやろうかとも思ったが、ガラガラは黙ってガラガラ鳴り始めたので、私も黙って引いていた。
目黒はコロッケ、遊歩道、人工で満貫だ。なぜかって? ……そんなことは知らない。風に訊け。
折よく川から来た風が、目黒の体感温度を下げる。