Neetel Inside 文芸新都
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こんな夜更けに三題噺かよ
三題噺3:帽子/ビュッフェ/ロータリー

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 その日パリイは雨だつた。マロニエの香りが雨粒に包まれ、重苦しいやうな、鈍なやうな心持であつた。私はヴアンセンヌの森からブーロウニユの森へと四里ばかりをひたすらに歩かうと思つてゐた。
 ブロンドの少年が走つてゐる。早足でも彼の後姿は捉へられさうであつたが、眼鏡の重さが邪魔であつた。私は眼鏡を外し、手許の布切れに包んでスーツの内ポケツトに差込んだ。少年は輪郭を柔らかくして、帽子屋のシヨウウインドウと融和した。

 「先立つ不孝をお許しください。」
手紙にはさう書いてあつた。日本から持つて来た唯一の日本語であつた。
「貴方の、そのニヒリズムに、ついに私は感染してしまつたのです。
 私は謂はば、空虚の妻となつたのです。

 貴方が私の家に下宿生として初めて来た日、大粒の雨が降つてゐたことを、今でも覚えているのです。私は、まだ顔も見ない貴方の為に、テエブルを拭いてゐました。
 そこへ、大きなトランクを提げた貴方が、ふらりと、瘋癲者のやうに玄関にあらはれました。蝙蝠傘から幾滴も雨水が垂れ、三和土に筋をつくつてゐました。私は母に云はれるまま、手拭を持つてきて貴方に差出すと、にんまりとお笑いになつて、『あゝ、ありがたう』と言ひました。覚えてゐますか。」

 眼鏡を外しても、網膜に張付いた文字列が私を縛り付けた。少年を見遣つても、耳無し芳一のやうに、言葉は彼の身体に恨みがましく焼き付ゐた。
「貴方は私を嫁にしました。それは私にとつて至上の喜びでありました。ただ、貴方はあの時に全て知つてゐたのですね。そして、それを貴方が受け止めて、否、父の罪を、この一家を半ば肩代はりして、私を迎へたのですね。」
 私は確かに知つてゐた。そして彼女の父親からある頼みを受けてもゐた。彼の今際の際に、私は彼女を一生連添ふと宣言した。彼女は果して悲しみの中に笑みを浮かべた。私も悲しみを圧殺して笑つてゐた。しかし、それは「演劇的営み」であつた。あの時、現実というエチュウドを演じてゐたのは、彼女だけだつたのだ。

 「父と母の関係は、私も固より知つてゐました。彼らの性的な交はりと云ふものを、私は少しもイメエジすることができなかつたのですから。父と母と私の囲む食卓は、今から思へば、酷く無機質であつたやうな気がします。それでも、貴方が来てから、父も貴方と何事か話すやうになりましたし、母も貴方を息子のやうに扱い、私はそれなりの家庭を手にすることが出来たのです。
 そして、父が死に、私は貴方と暮すことになりました。今まで、我が家の鎹となり、三人の共有物として扱はれてゐた貴方のことを、独占するに至つたのです。
 だのに、貴方は、もうその頃からと云ふもの、すつかりと生気を失つてしまつたやうでした。」

 少年を追ひかける内、シヤンゼリゼの大通りに差掛かつてゐた。セエヌの流れが見える。あの大きな流れを見てゐると、如何しやうも無く暴れ出したい心持になつて、大声で「巴里の屋根の下」を歌ひ始めたのだつた。

かんでればんたん すぶいゆままん

 大した場慣れもしてゐない、拙いフランス語であつたため、往来は私を笑つた。しかし、それでも構はなかつた。私は出鱈目に続きを歌ひながら、なほも少年を追ひ続けた。

 その内、雨粒で煙つた街並が、段々とベルナアル・ビユツフエの版画のやうに見えてきた。流れる雨がパリイの絵具を次々と洗い流して行く。さうして骨組だけになつた街路の向かうに見えたのが凱旋門であつた。
 ロータリーに結節されてゐる幾筋もの道路を纏める鎹、凱旋門はそんな威厳を保つてゐた。鎹としての相似形に在りながら、ここまでに矮小な、鎹にもなり切れなかつた存在としての私が、凱旋門を見てゐる私の眼の前に、ありありと浮かみ顕れた。

 「貴方の心は、父に吹き消された蝋燭のやうに、その像としての煤だけを私の胸に残して、がらんだうとしてゐたのですね。
 貴方は毎日、父に斡旋された大学講師の職務を淡々とこなし、寄道もせずに家に帰つて、私の解らないレコードを聴いてゐるだけの生活でした。私たち一家は貴方を鎹にして使つてゐた一方で、貴方の人間の鎹を少しづつ叩き壊してもゐたのですね。
 母亡き今、貴方をこの家に結び止める呪はしき鎹は私です。だうかこの鎹を破つて放たれて下さい。」

 性的不能であつた彼女の父に、私は就職先の斡旋を受けてゐた。そしてその代りに、彼女を幸せにするやうにと固く言質を取られてゐた。しかしながら、あのやうな奇妙極まり無い家庭に長らく居続けた私は、もうその精神の殆どを磨り減してゐたのだ。
 さうして訪れた無機質な生活。何一つ起伏の無い平坦な日常風景。或る日不意に縊れた彼女…………



 ブーロウニユの山毛欅の枝振りに、ロープに引掛かつた彼女の姿がオーヴァーラツプして、私は不意に走り出した。右も、左も、過ぎて行く光景全てがビユツフエの線になつた。今や、何も何も空虚である。私と云ふ外骨格の中に虚無の風が吹き荒れてゐる。蜂のやうに街路を蹴飛ばして進む。トロカデロに突き当つた。構はず走る。エツフエルの頂を目指して走る。最早周囲の光景は見えなくなつてゐた。ビユツフエの線は風に吹かれて瓦解し、幾本もの糸屑となつて空中に泳ぎ出した。さうして到頭、足場が崩れ落ちてゐつた。
 私は、パリイの雨粒と一緒にセエヌに溶けてゐつた。
□(2014.7.28)

       

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