Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      

夢のようなひと時というのはいつか終わるものだ。夢はいずれ覚める。しかしこれは現実である。
覚めない夢を起きて見続けるのも思春期の特権なのでこの時間をずっと続けようかとも思ったが、そこは社会人としての矜持がそれを許してくれない。
というか彼女の方から離れて行ってしまった。名残惜しさのせいで彼女の掌の上にいる感覚になる。

「うん。これでこの距離は私のものだから、ここにさえ誰も入れなければ大丈夫よ。私が許します」
その言葉を幕切れにして二人の距離は元に戻っていた。すぐ隣に彼女がまた腰かける。
彼女のおかげでひとまず大切な距離感だけは覚えられた気はするが、それにしてもやり方ってもんがあるだろう。

「やることもセリフもキザすぎだぞ、このお茶くみくみ子め」と思わず言ってしまった。少し後悔。
しかしこうも掌で転がされては、自分の余裕を見せつけておくというのも必要なのだ。これも仕方のないことである。

「やっと調子が出てきたねぇ、でも会社では敬語で話しなさいって言ってたでしょ?焦ってるからってそれはダメだよ」
それに自分より仕事が早い人にそれ言って悔しくないの?なんて追撃まで付けて優しく返してくれる。誰が焦っているか。
思うところはあったが俺は器の大きい男なので許してやることにする。百の反論を今押し込んだ。

「まぁ、その。なんと言いますか、少しすっきりしましたので。助かりました」と、一応言っておく。
モヤモヤが解消されたのは確かだ。それどころかドキドキしている。こういうところも思春期か。

「それだけ?もっとこう、大変感謝いたします。お礼に何でもして差し上げます~みたいなさ、そういうのが必要だと思うね」

「うるさい口だな、調子に乗りやがって。塞いでやろうか」
そう思って、口を口で塞ぐなんてロマンチック極まりない破廉恥な行為に出たところひょいと避けられてしまう。
何故なのか。もう一回くらいしてもいいのに、と少年じみた考えをしていると

「私お昼がまだだからさ、今日のところはこれでお預けです」
そういって彼女はすっと立ち上がってしまう。態勢が変わっただけで距離が少し離れてしまったような気分。
隣にはまだ彼女のぬくもりが残っているだろうか。バレないように手を置いてやろう。ぐへへ。

「それと部長が誕生日だからプレゼントを買ってあるって、冷蔵庫にあるから絶対忘れずに持って帰るようにってさ。愛されてるねぇ」
部長からの伝言を告げた彼女はそのまま階段へと向かってしまう。さっきのが別れの言葉のつもりなのだろうか。
折角今日はキザなことを言ってばかりだったんだから、もう少し綺麗な言葉で去ればいいのに。

しかし、そうか。部長も俺の誕生日を覚えていてくれたのか。本当に部下のことをよく見てくれる上司だ。
頭が上がらないとはこのことか。俺の方が背も高いしな。
誕生日プレゼントってなんだろうか、そう言えば今日ちゃんとした物を貰うのはこれが初めてになるのか。

彼女の誕生日のお祝いは、さらっと終わってしまったけれど、その分すとんと胸に落ちた。
おかげで胸のつっかえも取れて、幾ばくかは職場でも過ごしやすくなるだろう。
部長のプレゼントは一体何だろうか、冷蔵庫の中と言っていたからもしかしたらケーキかもしれないな。会社でケーキってどうなんだ。
母のメールを思い返す。親を何だと思っているか、もちろん大切な人達だ。
モヤモヤはもうなくなっていて、代わりに暖かさが胸を占めている。心地いい。


空を見上げてみれば、そこには無残にもちぎられた雲が流れていた。
あんな小さな雲でも太陽を覆うことができるらしい、なかなかやるじゃないか。
しばらく見上げていても鳥は飛んでいない。彼らがここまで高くを飛ぶことはそうない。
屋上はやっぱり風が強くて、彼らはきっと風に乗るだろうけれど、それは流されているのと変わりない。

鳥は自由に空を飛び、道なき道を行く。なんてのはただの馬鹿げた幻想だ。
彼らも重力には逆らえず、落ちたくないから風に乗るしかない。彼らは風の奴隷。

俺はそうはなりたくないと思った、今ならそうはならないと思った。
どこにも根拠はないけれど、身軽になった今ならば、あの大空も歩けると思ったんだ。
俺ならきっとどこまでも続くあの空を、自分で決めた道を空に描いて、大股で歩いてやれるんだ。

もちろん身軽になったなんて錯覚で、実際には今日も残業してしまいそうな仕事が残っているんだが。



しばらく空を眺めていると思ったより時間が過ぎていて、仕方がなくオフィスに戻る。
オフィスには既にほとんどの人が戻ってきていて、仕事を始めている人までいた。
自分もデスクに座って目の前の資料を手に取る。ふと横に視線を向けると、すぐ傍には同僚がいる。
普通の光景だ、普通の距離だ。今朝ならこの距離も気にかかったのかもしれないけれど、今なら大丈夫。
大切な距離には、ちゃんと大切な人しかいない。
今も心の中に彼女がいて、あの感触が唇に残っている。
この感覚が残っている限りは、窮屈さを感じることもきっとないだろう。

そう思って、やっと仕事に取り掛かった。今朝とは違って自然と集中できる気がする。
しかし俺の集中を阻害するものが傍にいた。何たる伏兵か。そういや飯食ってねぇ。
最後の敵は自分自身とはこのことか、急いでコンビニに向かうとしよう。これも仕方のないことだ。

       

表紙
Tweet

Neetsha