コニーその6/七面鳥

文芸感想チーム・コニー班の七面鳥です。

今回は『世界樹の下で』と『七色ジュブナイル』の感想です。
1ヶ月遅れですが何とか完走となりました。



■『世界樹の下で』

非常によくできたSF作品。クオリティ高い、の一言で感想が終わってしまいそうです。

かつて大きな戦いがあり…――荒廃した地球に人類が見たものは「世界樹」と呼ばれる謎の超エネルギー体でした。
この世界樹の解釈と所有を巡り、自然の管理を目論む超文明派の「機械都市トーキョー」と、自然との共生を選択した脱文明派の「自然都市アイリュ」の対立は次第に激化。今なお続くトーキョーとアイリュとの争いの渦中で、世界樹と受胎的なコンタクトを果たしたよしこちゃんの運命やいかに?


・天気やサンドイッチなど

読んでいていろいろ巧いなと思うんですよね。例えば、機械都市トーキョーがいかに完成された管理社会であるのかが「お天気スケジュール」という単語だけで過不足無く説明されてます。
農耕・狩猟・漁業とあらゆる面で天気天候は人々の生活に多大な影響を与える要因で、古来より天候を予測することは支配者層にとって重大事だったわけで、それがすっかりスケジュール化しているという一事をもって、トーキョーの完全なる管理社会ぶりと自然に対する勝利(への意欲)が十分に伝わってくるのです。
逆に自然都市アイリュでよしこちゃんとイマちゃんは、特に機械であるはずのイマちゃんは何か感情らしきものに目覚めてしまうほど、“カーテンを開けるまで今日の天気が分からないこと”に強く心を揺さぶられています。見事な対比ですね。

また、トーキョーとアイリュの差を説明するのにサンドイッチの喩えが出てきます。ずばりBLTサンド。
「ベーコンとレタスとトマトとパンが離れ難く関わり合いを保っているからこそサンドイッチだ」と考えるのがアイリュ。「具材を個々別々に食べても結局は胃の中で一緒になるんだから理論的にはサンドイッチを食べたと言える」と考えるのがトーキョー。しかも、この場面では第2話のパンの伏線も活きてますね。是非あまり甘くないコーヒーと一緒にいただきたい。

他にも様々なアイコンが出てきますが、無駄のない構成ゆえ、そのすべてに意味のありそうな気がしてます。それも、二重三重に。例えば、化粧水は作中で複数の機能を果たしてますね。油断なりません。この漫画自体は様々な要素が結びついたアイリュ的構成なのです。


・エリートと平民

トーキョーにおけるエリートと平民の違いは、ARという能力はもちろんのこと、“来歴”の有無という点で決定的だと思います。
氷河期たち元帥は先代からその異名を受け継いでいます。つまり、歴史の文脈に自己を位置づけることができるのです。また、死後自分がどこへ還っていくのかを知っています。
他方、トーキョー都民たちはビートルズの『Eleanor Rigby』のごとく、自分がどこから来たのか(母親が誰なのか)、どこへ行くのか(死体再生工場?)を知りません。元帥たちの戦略ゆえでもありますが、そもそも来歴を持たない都民はどこにも行けない=今いる場所を離れることができないのです。

異なるようで似ているような構図を自然都市アイリュにも見出せます。
サンドイッチの説明で見たように、アイリュの民は各々が離れ難く結びついて生活をしています。経済は貨幣ではなく物々交換によって成り立っており、皆で協力しないと生きていけません。それゆえ、彼らもまた今いる場所を離れることができないでしょう。離れてしまっては生きる術がないからです。トーキョー都民と違い彼らは自らの来歴を知らないわけではないのですが、アイリュを離れることができるのは、あくまで相対的にエリートたるベンジャミンであり、ベンジャミンこそトーキョーの元帥たちと同じく先代(村の長の慰霊)から受け継いだ歴史性を有しているのです。

この自らの依って立つ“来歴”を持つかどうかが敵対する相手への憎しみの源泉になってます。トーキョー都民はそもそも敵対者を知らず、過去の争いの経緯を知るアイリュの民はトーキョーへの敵意むき出しです。
特に双方のエリートたちにとっては先代から継承してきた歴史が彼らの存在理由にも通じており、世界が2つあるという現状は、その存立の基盤を揺るがす状態でもあるわけです。だから、どうしても敵対する都市の存在を許すことができない。敵の存在を認めることは自身の継承してきた歴史を否定することだからです。


・善悪の彼岸

加えて別の理由があります。トーキョーとアイリュはどちらも世界樹の力を借りて大地を取り戻そうとしています。ただし、お互いにとって都合の良いかたちで。
双方とも自分たちが正しいという想いで行動しており、実際、どちらが正しいとも間違ってるとも言えません。何と言っても、元は世界樹の解釈を巡る対立だったのが、今では旧人類と新人類という“種”の存続をかけた闘いという段階に達しているからです。種の保存は生命にとっての自然な本能ですから、善いも悪いもないわけで。例えば、トーキョーの元帥たちは都民の記憶を改ざんしたりしてますが、それとて人間という種を守るためです。結果として、誰も悪い人間はいないのに、争いという悲劇が起きている。だから、単純に「悪い奴を倒せば解決!」というわけにはいかないのですね。そこがこの作品の難しいところです。


・よしこちゃんはいつからよしこちゃんか

この両者の対立をぴょんと飛び越えていけそうなのがトーキョーにもアイリュにも属さないよしこちゃん(と現在のイマちゃん)ということになりますね。
ストレートに解釈すれば、よしこちゃんが旧人類とも新人類とも異なる第三の種として覚醒したのは世界樹との接触によってということになるでしょう。他のキャラがどんどん鋭角になっている中でよしこちゃんはむしろ丸みを帯びてきているように見えます。言動も巫女らしくなってきている印象です。

しかし、私はそもそもよしこちゃんは生まれた時から今のよしこちゃんだったのでは?と睨んでいます。
なぜイマちゃんはコンピュータなのに「名前」を欲しがったりしたのか。個人的にはそれが一番の謎なのですが、実はよしこちゃんがトーキョーの想定する人間とは別種の「人間」であったのなら、そのよしこちゃんとずっと一緒にいるイマちゃんに“誤作動”が生じたとしても不思議ではありません。
トーキョーには毎年ひとりよしこちゃんのように外の世界に興味をもつ子供が生まれるそうですが、そこに世界樹の意志が介在しているとしたら?等々、興味は尽きません。


さて、ここまで概要をなぞるだけで何となく感想らしきものが仕上がってしまいました。それも作品のクオリティの高さゆえです。いや、恐ろしい。
最後にひとつだけ。トーマスファンとしてはアイリュの蒸気機関車「肺の痛み」号に顔があってほしかったです。



■『七色ジュブナイル』

青い雪を見たことをきっかけに「拡能(エクステンション)」という特殊能力に目覚めたサキ君とその仲間たちが、全人類の生まれ変わる「再誕祭」と「アセンション」(それが何なのかは現時点では不明)を目論む拡能者集団アルキオネと闘うサイキックバトル漫画。

この『七色ジュブナイル』、まず印象として感じたのは「ぎこちなさ」と「閉塞感」でした。いずれも主人公サキ君が青春真っ只中の高校生であることに関係すると思われます。


「ぎこちなさ」

とにかく登場人物たちの行動がぎこちなく感じます。特にサキ君。意中のクラスメイト井口さんに対する態度もそうだし、敵対する拡能者との闘いにおいてもそうだし。もっとスマートに振舞えないものかと見ていてやきもきします。
このサキ君のぎこちなさはいろいろな構図や画風の練習をしながら描いているかのような本作の描写と相まって、作品世界全体のぎこちなさにつながっていると感じられます。世界を構成する関節があっちこっち折れ曲がっているとでも言いましょうか。


「閉塞感」

これについては半径1.5km圏内で話が展開している、高校生の日常的な行動範囲にすべてが収まっている世界の狭さに関わります。
実際、登場人物の大半は同級生と近隣の中学と高校の生徒で、アルキオネの面々も多分近所に住んでる。事件はサキ君の住む街だけで起きてますからね。アルキオネが全人類!とか言ってもたしかに絵空事にしか聞こえません(人類って最大に見積もっても北海道くらいの印象)。この辺りは意図的に外部性を感じさせない構成になっているのかもしれません。


「青春時代」

ぎこちなさと閉塞感――要するに「不自由」ということですが、この全編に漂う不自由さは何も作品にとってマイナスというわけではなく、むしろ、本作が青春時代を描いているということを際立たせていると思います。ただし、それは大人が過去を振り返ったときに見る「青春時代」です。

現在進行形で青春時代を過ごすサキ君たちの主観において自分が不自由だという認識が描かれているわけではありません。多分、サキ君に「君は自由ですか?不自由ですか?」と問うたら「どちらかというと自由」って答えるんじゃないかと思います。
既に汚れてしまった大人である私七面鳥も記憶の糸を辿って「あの頃は良かったなぁ」なんて感慨に浸ることはありますが、今にして思うと「あの頃」の自分って振る舞いはぎこちなかったし世界(と世界観)は本当に狭かった。でも、当時はそんな風に感じていなかった。むしろ、大人になった今よりも「俺は自由だ!」と無邪気に信じることができていた。客観的には不自由な状態だったからこそ主観的には自由だった、そんな時期だったのかもしれません。

『七色ジュブナイル』は学生時代特有のノリの良い楽しさみたいなものをやや抑え気味に表現していて、それゆえ、ぎこちなさと閉塞感が前面に出ている感が強いです。つまりそれは、大人目線の、既に青春時代が終わってしまった人間の描く「青春時代」です。だから、この漫画を読むのは若干辛い。
そもそも学生生活なんて強制された共同生活という側面が少なからずあるため、それを思い出すときには多少なりとも記憶を加工・改変しないと辛い部分があるわけで、それが先の「俺は自由だ!」感だったりするわけですが、それとて大人目線で加工・改変された記憶に過ぎず、「輝かしい青春なんて記憶のまやかしで、本当はこんな牢獄にいたんだよ」という事実を突きつけてくるからです。
もし、この作品が映画だったら、より主人公たちに感情移入できて肯定感を抱きやすくなったかもしれません。その分、辛くなかったかもしれません。


「ジュブナイル」

ジュブナイルの本質は「(大人は知らない)子供だけが知っている世界の真実」を描く点にあると考えます。
大長編ドラえもんが好例です。のび太たちは世界が滅亡の危機にあることを知っているけど、パパママをはじめ大人は誰も信じてくれそうにない。だから、真実を知るのび太たちが世界を救うために旅に出るのです。

『七色ジュブナイル』には端から大人が出てきません。サキ君は一人暮らししてます。「子供だけが知っている世界の真実」を描いていますが、(大人は知らない)の部分が最初から抜け落ちています。それが外部性を感じさせない理由のひとつですが、ある意味徹底したジュブナイルと言えます。

ところが、最新更新分でサキ君の両親が、サキ君の夢の中でですが、登場しました。ということは、今後は大人の論理が作品世界に入ってくるかもしれません。「(子供は知らない)大人だけが知っている世界の真実」が描かれる可能性が出てきたわけです。この「(子供は知らない)大人だけが知っている世界の真実」を描きつつ、しかし、最後にはやっぱり「(大人は知らない)子供だけが知っている世界の真実」に戻って来るみたいな展開になると世界が多層化して深みが増すのかなと思いました。
そして、その暁には、不自由さを打ち破った青春真っただ中なサキ君の姿を見てみたいです。



以上、コニー6作品の感想を書かせていただきました。更新が遅くなり大変申し訳ありません。
このような素晴らしい企画に誘っていただき、主催のゴトケンさんには感謝しております。
じっくり読めば読むほど面白い作品ばかりで、今後の展開がよりいっそう楽しみになりました。
それでは、新都社に幸あれ!