Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
狼煙になった男

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 革靴の底が浸水している。一歩ずつ進む度にびちゃり、びちゃりと音が濡れ、気分は最悪に近い。ため息も雨にまぎれてよく見えない。はやく乾けばいいのに。
 午後の裏路地は静かだった。曇り空をぶち抜き損なった陽射しが淡い白光をバラ撒いている。砕けたガラス溜まりのなかにいるようだ。ひとけはなく、どこを見てもシャッターが降りている。その先、いまシャッターにぶつかって派手な音を鳴らし、べったりと真紅の液体を垂れ流している男が、影のようにするりと路地裏に逃げ込むところだった。彼女はそれを追った。ほつれひとつないコートの白を灰色に這わせながら。
 死にかけの男は追われている。
 彼女は、その追跡者だ。
 濡れた革靴のやる気のない足音が、とうとう男を追い詰めた
 その男は壁に手をつき、袋小路をどこまでも見上げながら、最後の悪あがきに思いを廻らせている、そんな後ろ姿をしていた。
 どこにも逃げ場などないのに、と追跡者の女は思う。お前のどこに羽がある? わたしには見えない。
 追跡者は男とたっぷり距離を取り、ポケットに突っ込んでいた手を外に出した。その手には銀色の塗膜でべっとり覆われた拳銃が握られている。装填はたっぷり六発、いつでも銃爪を引けば弾丸は刃となる。
 女はそれをためらうことなく男の背中、背骨のど真ん中に構えた。男の肩がわずかにこわばる。わずかに首を反らし、おぞましい眼で追跡者を振り向く。
 追跡者は言った。
「ここまでだったね」
 そう、ここまでなのだ。どこへいこうと、どれだけ逃げようと、いつかは追いつかれ、ケリがつく。死と同じように。そして彼女はその死を運んできたのだ、遠路はるばる。追跡の果てに。
「そんなものを俺に向けるな」
 男は吐き捨てるように言った。
「見たくもない」
「そんなこと言ったって、わたしはこれからあなたを撃つのだから仕方がない」
「撃つ、俺を、なぜ」
 問い返され、女は理由を答えた。
「きみは悪魔に魂を売った。悪魔にさえなっても構わないと思うほどの夢を抱いた。それこそ罪、赦されない。わからないのかな? ――夢はいつだって叶わず終わる」
「蜘蛛の糸みたいに、振り払えば簡単にちぎれるって?」
 男はくつくつと笑った。そして咳込んだ。男の足元、うず高く積もった埃の層に真新しい血の塗装が落ちた。
「そうだな、夢は叶わない。俺はここで死ぬんだろう。ずいぶん血も吐いたしたくさん走った。おまけにこれだ……」
 男はドッと袋小路の終わりに背中を預けた。そして午後の優しい陽射しのなかで、その顔が追跡者の金色の眼にもはっきり見えた。そのひび割れた灰色の肌が。頬から芽生えたべつの眼球が。伸びた歯は唇を傷つけ突き破りさえし、耳の渦は終わりが見えないほど捻れている。醜い男だ、魂と同じように――
「もうだめみたいだね」と追跡者は右手の拳銃を振ってみせた。
「そこまで汚染されていたら、もう戻れない。きみが何を望んだのかは知らないけど、きみはすっかり悪魔にとりつかれつつある。もう聞こえてくるのはもうひとりの自分が囁く甘い声だけ。きみはそれに逆らえず、刃対えず、敗れて最後の意識さえも失う。あとには一匹の獣が残って、どうしようもない罪悪をばら撒く。こう言ってあげよう」
 追跡者はにっこりと微笑んだ。慈愛さえも浮かべて。
「きみなんか、生まれてきたのが間違いだ」
「……間違い?」
「そうだよ。間違い。どんな夢を見てしまったのか知らないけど、なにもせず、ただ歩いて行くだけの道を選べばよかったものを……」
「俺は、ただ……」
「ただ、なに? 自分にどんな権利があれば、その魂を呪われたテーブルに置いてもいいと思った? それだけは、絶対にしてはならないこと。最低の裏切りだというのに」
 男は、何度も荒い息を吐いた。そばで嗅げばそれはもはや人ではなく、獣のにおいで茶色く汚れていただろう。
「俺が間違っていたっていうのか? なら、俺はどうすればよかった。こんな人生に生まれ、こんな魂に生まれ、そうして希望にしがみつき、最後にはそれを罪だと呼ばれて殺される。罪だと? もしこれが罪だというなら、おい呼べよ、神様っていうやつを。俺はまだあいつのしくじりを成敗してない」
「神の御心は見えず、試してもならない」
「だが俺は試したぜ、そして手に入れた」
 男は掌を差し出した。汚れたコートの裾がはためき、追跡者は顔をそむける。
 その掌には、眼球が埋め込まれていた。少女じみた金色の瞳が手裂のなかから、不思議そうに追跡者を見つめていた。
 男は震えるもう片方の手で、眼球のある手首を抑えた。
「俺には見える、俺の描いた夢が。俺の望んだことが。この眼から、はっきりと。あまりにも確かに――」
「……見えるだけで、どうするっていうの? 結局、それは叶わない。どんな世界がその眼に見えていようと、目の前にいるわたしが壁になる」
「そうだな、しかし、忘れてしまうよりはいい」
 男は笑いながら、何度も壁に後頭部を打ちつけた。痙攣したように笑い、震える膝で身体を支える。
「欲しいものを忘れてしまえというのなら、やっぱりあんたはどこまでいっても俺の敵だな」
「お生憎様、最初からだよ。わたしはあなたの壁。突き崩せないもの」
 再び追跡者は、獲物に向かって拳銃を構えた。
「あなたはもう人間じゃない。悪意に汚染された怪物だ」
「だからどうした、俺にはなにもできない。誰かひとりだって傷つけることはない。なのに俺を裁くのか? それでどうしようっていうんだ?」
「どうもしない、ただあなたは、赦されない存在ってだけ」
「赦されるさ!」
 男は誰も触れたことがない宝物を見つけたようにあかるく叫んだ。
「赦される! 俺は見逃してもらえるんだ!」
「……どうやって?」
「かんたんだ」
 男が追跡者の顔を指差す。拳銃と罪指の視線が交錯する。
「あんたが俺を、赦せばいい」
「……なにを言い出すかと思えば」
 追跡者はため息をつく。
「わたしがあなたを赦す? 大切なものを『いらない』と反故にし続けてきた愚かなあなたを、どうして赦せるっていうの?」
「俺はべつにお前から何かを……」咳き込み、血を吐き。
「……奪ったわけじゃない」
「たとえそうだとしても――」
「悪魔がなんだ? いけないことがそんなにダメか? ズルく生きちゃダメなのか、誰かより先んじたいと思ってはいけないのか。自分だけの道を歩きたい、誰にも邪魔されたくない、そんな気持ちがお前にはないっていうのか?」
 追跡者は何も言わない。表情さえも変えない。
「どうして誰かの言いなりにならなきゃいけない? 顔も名前も知らない誰かにいつまで縛られなくちゃいけない? そんなやつらが俺に何をしてくれた? 俺にはなにもない、俺にはなにもない――だが、俺には欲しいものがあった。それだけを望んだ。お前にはわかってもらえないかもしれないが、だからどうした、俺だってお前のことなんざようわからん。だが、いいか、俺はお前を否定したりしないぞ。否定なんかしてやるものか」
「……血迷い言を」
「ああ、迷っているさ! この身体に流れる血がいつも俺を迷わせる……あとは進むだけだと教えてくれる……」
 ごっぽぉ、と男はまた血塊を吐き出した。とうとう膝を突き、終末の咳を繰り返す。
 だが、その眼だけは追跡者を見上げていた。肌と同じように、悪意に染まった灰色の眼光。煤けた鉄の色。
「なにをためらってる?」
 男は笑った。
「助けてくれよ、なあ」
「……バカじゃないの」
「なにを恐れてるんだ?」
 男は手を差し伸ばす。掌の眼が誘うように目尻を垂らしている。
「迷うことはないぜ、なあ。いったい誰に命令されて俺を追い込んだりしてるんだ。それはお前にとって本当に大切なことか? そんな夢のない話、書き換えたいとは思わないのか? どうした、俺の手を取れ……そうすれば、お前の物語が始まるぞ」
「うるさい……」悪魔め。
「うるさいよ」
「なあ」
「うるさい!」
 拳銃の銃爪は思ったよりも軽かった。はあ、はあ、とやけに自分の呼吸が大きく聞こえる。いつの間にかびっしょりと背中を濡らしている、これは雨? それにしては、熱い――
 地面には、男が転がっていた。胸を撃ち抜かれ、そこから血潮が噴き出している。指の増えた手で、軽く傷口に手を当てながら、空を見上げていた。
「教えてやろうか」血で掠れた声。
「お前は本当は、俺になりたいのさ」
 男は二叉に裂けた赤い舌でのたまう。
「ああ、そうさ……こんなみじめで……汚れて……血まみれの……いまにも死ぬこの俺が、お前は羨ましくてしょうがないんだ。なぜって、俺は俺を信じてる……」
 むっくりと男は起き上がり、見えない糸に引っ張りあげられたかのように立ち直った。両手だけぶらりと垂れ下げて、そこだけ鉛をくくりつけられているようだった。
 男は追跡者を見る。
 灰色に崩れた顔のなかで、その眼だけが輝いている。
「ただ俺を信じる、それだけのことができないがために、お前はそんなにもぶざまだ」
「……ぶざ、ま……」
「俺はたしかに悪魔に魂を売り渡した。カラダのなかが悪意でいっぱいだ、吐きそうだよ、気分悪ィ」
 ぷつ、ぷつ、と男の首筋が泡立つ。その度に男の身体が小刻みに揺れる。次第に間隔が狭まっていき、男は沸騰しているようなざまになっていった。肉と肉の隙間から煙が噴き出し、いよいよ崩壊しかかっていた。
 それでも男は舌を動かす。霧を吐き出しながら。
「だが――こんな程度で、済むのなら――この程度の苦しみで、夢が見れるなら――」
 もはや彼女が銃爪を引く必要はない。撃たれたように男は何度も跳ねた。その度に身体から灰色の飛沫が散った。壁際にぶつかり、ずるずると滑り落ちていく、それでも男は笑っていた。
「俺は、何度でも同じことを」
「…………してやる、って?」
 最後のセリフを女が引き継いだ時、もう男はどこにもいなかった。
 あとには破裂した肉体の灰色の残滓が路地裏を汚しているだけ。男が着ていた汚れたコートがしわくちゃになって落ちている。
 そこに――雨が降り始めた。
 弱い水圧がやがて何者かになろうとした男だったものを洗い流し始めた。
 かつて追跡者だった女は、それを見ていた。大切な何かを失ったような空虚な表情で。
 そして最後に残った男の眼球だったものの名残を踏み潰すと、意味もなく

 ぱんぱんぱんぱんぱん

 四方に発砲を繰り返してから、空っぽの拳銃を放り投げた。振り返り、コートのポケットに手を差し込み、歩き始める。
 革靴の底にたまった泥水が、乾かない。

       

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