Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
彼女を支配する世界

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 叩き壊された時計が、赤い絨毯の上に落ちている。かつて誰かが鎖をつけて大切に所有していたであろう、それは銀色の懐中時計だった。カチリと押せば蓋が開き、裏には思い出の写真が貼られている。しかしその時計にはもはや蓋などなく剥き出しで、文字盤は徹底的なまでに破壊されていた。短針も長針も弾けて折れて、歪みの水面の下にあるかのように時の文字は波打っていた。いつそれを壊したのかリザイングルナは憶えていない。もしくは最初から壊れていたのか。捨てたかどうかも定かではないが、捨てようと思わずにこうして片眼を覆いながら、もう片方の眼で凝視していることからすると、おそらく捨てても捨てても戻ってくるのだ。呪いというものはそういうものだ。しかし誰に呪われたのか憶えていない。眼を押さえながら、その五指にそれぞれ違った模様の動きが映った。それら全部がリザナの思惑とは別個の生き物であって、たった唯一の自由物である己自身を必死に蠢かせているようにも見える。だが結局のところ、リザナは苦痛を感じている。それだけのことだった。
 生命亡き幻影に過ぎない存在に『発作』があるというのもおかしな話だ。ちゃんと体裁を整えてやれば冗談にもなるかもしれない。仮初の肉体、生命ではなく精神を燃やして活動する蝋人形。設計図は同じでも建材がまるきり別物の身体が、耐え難い虹色の頭痛を持ち、その痛みが脈動するたびにその周囲だけが火花を打ったように『そこに確かにある』と実感が湧く。そんなわけはないのに。苦痛とは不思議なものだ。あまりにも激しい痛みがかえってリザナを冷静にさせる。指の隙間から涙のように脂が滴り、濡れた髪が神経のように額に貼りつく。浅い息だけが続く。
 痛みに適応するためには呼吸を意識することが最善だ。吸って、吸って、吐く。吸って、吸って、吐く。そのサイクルに意識を傾けていれば少しは気が紛れる。そう、大切なのは気を紛らせること。なんとしてでも痛みなどなかったものとして、その発動を認めないこと。否定すること。拒むこと。それが痛みとの徹底的に賢い付き合い方だ。問題は、気を紛らわせるにも限界があるということだ。リザナは開けた左眼だけで懐中時計を見つめている。壊されたその時計から、カチッ、カチッ、と針の進む音がするのを聞くたびに、リザナはこの発作に見舞われる。慣れてしまえばどうということもない。終わった後にはそう捉えることもできるが、いま、苦痛の中ではそんな虚勢も無価値だ。リザナはいま、救いを求めている。痛みから解放されることを望んでいる。鉄仮面のような顔をしながら、まるで少し我慢しているだけのように眉をひそめながら。耐え難い苦痛のなかで。
 なぜ壊れた時計の鳴る音で、痛みを感じるのか、それはリザナにはわからない。しかし痛みを受けたものは、絶対にその理由を探し出そうとする。その痛みが強ければ強いほど、「なぜ」という気持ちは抑えがたく、痛みよりも燃え上がる。だからリザナも、理由を探して原因の草原をかき分けた。探して、探して、探して、ついに見つけた。この身を苛む震えの正体を。リザナは眼を押さえ込んだまま、ぎゅっと一瞬だけ両眼を閉じて、また開いた。光霞む左眼が、弱々しく点る。
「わたしは誰かが憎いのだ」
 独り言はとてもいい。誰かがそばにいてくれる気がする。見えないだけで、感じないだけで。さも全身全霊の信頼を浴びせかけるにふさわしい相棒のように、その声はとても心地いい。
「でも、いったい」
 誰がこんなに憎いのか。
 そもそもリザナには記憶がない。生前があったのか、それとも最初から領主になるべく創られたのか、それもわからない。自分自身のルーツなど、道具には考える必要がない。フーファイターはパーツ・ホルダーでしかない。過去など無用。未来は皆無。戦うだけのポーカーゴーレム。感情などないはずなのに、死が全てを清算(かつて生きていたとして、だが)したというのに、それでもまだ震えが起こる。この身、この肉、この芯を吹き抜けていく冷風。ぞくぞくする殺意が吐き気を催させる。ズタズタにしてやりたい気分で胸がいっぱいなのに、誰をそうしてやればいいのかわからない。
 呼吸がどんどん薄くなる。心が削れて塵になる。
 震える指を髪に差し込む。のたうつ憎しみが眼の裏を打つ。
 この痛み。
 それを止める方法がたったひとつだけある。
 即効性のある解決法。絶対にリザナを裏切らない黄金律。それに縋れば救われる。
「勝負……」
 悪は無尽にこの蒸気船へと流れ着く。それを討つ。正面から撃ち砕き、神の御下に召されることもなくなるように。
 だが、それは義務だったはずだ。
 感情から為すべきと断じたことではなかった。自分は領主、領地に縛られるのは必然。感情などなくても、リザイングルナはこのゲームに参加する。理由も信念も何もかも要らない。この空っぽの胸の中にあるべきなのは、為すべきことを為すための回路だけ。
 そのはずなのに。
 バラストグールの魂を粉々に撃ち砕く、その勝負がリザナから苦痛を拭い取る。なかったことにしてくれる。勝負、勝負だ。
 勝負になれば、全て忘れられる。
 痛みも苦しみも悲しみも寂しさも忘れられる。
 感情という重荷が、為すべき義務に沈んでくれる。
 為すべきことを為しさえすれば、冷たい回路のままでいられる。 
 血のぬくみなんて、あったことさえ思い出さずに。
 誰にも打ち明けることができない、蒸気の王座で独り、彼女は震える。
 針のない時計の針が進む音がする。
 壊れた時間が、動き続ける。

       

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