稲妻の嘘
真嶋慶のこと
ガキの頃、俺は弱虫だった。
それもそんじょそこらの弱虫じゃない、高台のお屋敷に住んでる真嶋の家の一人息子は棒で突けば怯み、毛虫を投げつければ飛びあがり、一発鼻っ柱を殴るふりでもしてみせれば街中に響き渡る大音声で泣き喚く。
そう言われていたし、実際そうだった。俺はいまでも虫ケラが大の苦手だ。なさけねぇ話だが、俺は根っこの部分が弱虫のままらしい。どこまでやってもそればかりは変わらなかった。
俺は弱虫だ。
いまでもそうだ。
そんな俺でも、弱虫のままでいたかったわけじゃない。
たとえ街で一番蔑まれている男の子だって、意地もあれば「いつか見返してやる」ぐらいの気持ちを持たないでもない。それが誰もいない裏路地をとぼとぼ一人で歩いていて、たまたま誰にも出くわさないで十字路を渡り抜けられた時だけだったとしても。どうせ学校に行きゃあ近所の貧乏くせぇ悪ガキどもにどつかれて、いまこの瞬間を許してくれるなら素っ裸になって走り回ったっていいって思いをさせられるのに、一晩寝りゃあまたぞろお得意の「いつか」の夢を見始めるんだから、俺もかなり頭の悪いガキだったわけだ。そんな「いつか」は、結局来なかったってのによ。
そう、俺はバカだった。それも底抜けのバカ。
だから、ありえもしない夢をいくつも見てきたし、いつか俺だってクラスのヒーローになって、誰かの一番になれるんだと思ってた。
同じクラスのいつも明るくて冗談ばっか言ってて、ジャングルジムのてっぺんに誰よりも先に登り詰めて青空みたいに笑ってるやつに、俺もいつかなりたいと思ってた。そうしたらもうびくびく怯えながら学校から帰ることもないし、寂しい思いなんて二度としなくて済むんだと思った。
だけどそのために、俺はどれほど努力と幸運を積まなければならなかったんだろう。
結局やらずに終わった俺の夢、だけどもし挑んだとしても叶ってくれたとは思えない。俺には何かが欠けている。幸せになるための何かが。
だから――
俺は、強くなろうと思った。
一人でどこまでも戦い続ければ、何かが変わると思った。
誰にも頼らず、誰をも信じないことだけが、俺を強くしてくれると思った。
そんなやり方で誰かと握手できるわけもないのに、強くなければ誰も俺と手を繋いでなんてくれないと思った。
だから、強くなるしかなかった。
あの校庭のジャングルジムの上で、あいつはいつも楽しそうに笑っていた。
いまの俺が高く遠く積み上げてきたものは、そんなキレイなものじゃない。
何か美しいものに向かって突っ走っていくのと、どこか耐え難い何かから遠ざかるために逃げ続けるのは、違う。
俺は確かに一番になった。誰にも負けないほど強くなった。
欲しいものは奪う。気に喰わないものはぶち壊す。
そうして誰も彼も二度と立ち上がれなくしてやれば、最後まで立ち続けていたこの俺だけがナンバーワンというわけだ。
それで、何が残る?
誰がそばにいてくれる?
気がついた時。
俺には何も無かった。
掌は崩れた砂で一杯だ。
もう二度と味わいたくないと思った土塊の味だけが口一杯に広がってる。
真っ赤な夕陽に炙られながら、眩しくて誰の顔も見えない逆光の中、俺は影絵みたいにひとりぼっちだった。
結局。
俺は弱かった。
だから、その弱さを誰よりも見たくなかった。消してしまいたかった。世界は、出来得るものならかき消してしまいたいもので一杯だ。
俺はそれを消すために、俺の弱さを拒むために勝ち続けた。
一つ勝つたびに、一つ弱さを忘れた気がした。一歩でもいい、自分自身の真実から逃げ延びたかった。そのためだけに戦い続けた。
誰かの一番になりたかった。
俺が俺でいられる場所が欲しかった。
だけどたぶんもう、俺は充々分に手遅れだ。
何もかもが遅すぎて、取り返す作戦一個も思いつかない。
突かれたら殴り返しても駄目だ。毛虫の代わりに鼠を投げ返しても無理だ。
強いというのは、そんなもんじゃなくって――いつだって、俺には足りない何か。
目を閉じて、耳を塞げば、いまでもきっと思い出せる。
俺の心の中にしかもうない、あのジャングルジムの上で、あいつはいまも笑ってる。バカバカしいと鼻で笑って背を向けりゃあいいものを。
心の中の俺は、
いまでもあいつを、見上げたままだ。
○
「慶様、ずいぶん古いお話が好きなんですね?」
「うるせえ」
慶は本を閉じた。