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 時計は8時を指している。天使としての最後の生活、この短針が一周する
ころにはすでにボクはこの世界にいないだろう。あれだけ退屈に感じてい
たこの教室もかけがえのないもののように思えてしまうから不思議だ。

 神の社に呼ばれたあの日、崩れ去ってしまったボクの世界。思い出の中
だけでもきれいであってほしいと言う思いとは裏腹にボクの内に潜む炎が
それを許さない。
 平穏が焦げついていく。


「アーエル君、おはよう」
 教室で授業開始を待つボクの目の前に現れる女の顔。ハミエルであった。

「おはようハミエルさん。今日も元気だね」
「だって、アーエル君笑ってるんだもん。私も自然と元気になっちゃうよ」

 ハミエルの言葉に首を傾げるボク。
 笑顔? 不適切な表情だ。悲壮や怨嗟。感情を押さえたばかりに対極に位
置するものが表出したのであろうか。なんとも面倒なことだ。

「いい天気だからそのせいかな」
「なにそれ、おもしろーい」
 早く視界から出てくれないだろうか。誤魔化す言葉も、真顔もあまり長
くは持ちそうにはない……いや、ここでこそ笑顔か。ボクは普段どんな表
情をしていたんだろう。
 無意識でできていたことができない困惑。それを表情に出せないボクを
よそにハミエルは楽しそうに笑う。

「もうそろそろ鐘が鳴るみたいだし、行くね。じゃあまた、アーエル君」
「うん、またね」
 手を振るハミエル。ボクは彼女を見送り息をつく。思考は空まわるばか
りであるが心は意外なほどに乾いている。感情の波、それが今は引いてい
るだけのこと。ことを起こすときにはいやでも感情は沸き立つであろう。
それがどんなに醜いものであっても。


 教室に羊皮紙の束を抱えたカシエルが現れる。皆は教壇へ立ったカシエ
ルに注目し心なしか空気が引き締まる。けれどもその一方でカシエルから
目をそらすボク。緊張が走る。
 神の継承式のことを知っていたカシエルである。当然ボクが神に選ばれな
かったことも知っているだろう。一介の天使では継承式が行われたことも
まだ知らないはずであるが、継承式の結果は神に近しい者であれば知るこ
とのできる事実である。神の懐刀であるカシエル。ボクの担任でもある彼
がボクが神に選ばれなかったことを知らないはずがないのである。後ろ暗
い所のあるボクはいやが応にも委縮してしまう。

「時間だ。授業を始める」
 ボクの緊張をよそにカシエルは定刻通り授業を始める。あれ? 疑問に思
うボクであったが考えてみればこの堅物教師が授業時間を押してまでボク
に話しかけてくるわけがなかった。継承式の話題に触れるとしても授業後、
そして無駄を嫌うカシエルのことだ。こちらから継承式の話題でも振らな
い限りおそらく継承式のことには触れることもないであろう。

 ボクの予想通りカシエルによる授業は進んでいく。授業中当てられるこ
とはあったがカシエルから特別言葉もなかった。

 そして。

「今日はここまでだ」
 鐘とともに終わるカシエルの授業。そのままカシエルは教室から出て行っ
てしまう。教室がざわめきだす。
 こうなってしまうと少し拍子抜けな気もするが……不測の事態は無いに
こしたことはない、そのはずなのだが。ボクの心に影が差す。

 こうして何事もなく鳴る終業の鐘。クラスメイト達は次々、教室を後に
しボクもその波に乗る。
 最後の学校だというのに変わり映えしない景色。相変わらずボクの周りは
騒がしい。

「アーエル君、じゃあまたね」
「うん、また明日」
 手を振るクラスメイト達を見送り最後の日常の余韻に浸るボク。ここま
で来たらもう後戻りはできない。後は目の前、神の社へと踏み出すだけ。
 傾き始めた夕日が神の住まうこの塔を照らし、影がボクの方へと倒れ掛
かってくる。しばらくその場で佇んだボクは顔を上げると一歩を踏み出す。

 もうボクには何もない。あるのはボクの心を焼き続けるこの炎だけ。



 神の気配のする社の中は不気味なほど静かにボクを歓迎した。