Neetel Inside 文芸新都
表紙

金魚は吠えない
蟹とババ抜き

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 次に目を覚ましたときわたしは見知らぬ所にいました。最初そこが牢獄だと気づかなかったのは、海があったからです。
 月に照らされた白波がムカデみたいに蠢いていました。その光景はたくさんの棒のようなもので縦に区切られているのです。わたしは倒れそうになりながらも立ち上がり、ゆっくりと近づいていきました。
 近づけば近づくほどその棒が大きくなっていきます。やがてわたしは棒に顔面を思いっきりぶつけました。
 海はきれいだった。とてもきれいだった。
 わたしは自分もあのなかに入ろうと、棒と棒の間から滑り出ようとしたけれど無理でした。肩や鎖骨が引っかかってしまうのです。
 引っ込めようとしても無駄でした。わたしは「紙」をイメージして全身をキュッと縮めました。しかしいくら完璧な紙をイメージしても、棒は「あ、B5じゃん。通そー」などとわたしの脱出を許してはくれません。そんな策略に棒は引っかからないので、わたしは棒に引っかかるのでした。
 海に触れないわたしのがっかりは重量級ってなもんで、そのまま倒れこみながら後ろへ転がっていきました。ちょっと楽しかったのでもう一回したのは内緒です。
 とにかくわたしは、やがてここが牢獄であること、そして砂浜に建てられていることを知ったのです。
 牢獄は縦横一〇メートルほどの大きさで、新体操は出来そうでしたがバスケは出来そうにありません。ボーリングはがんばれば出来そうでした。
 床はただひたすら固いものでできています。掘って出ることは無理そうです。棒の間からは砂が少しだけ入ってきています。
 皮膚をくすぐる砂粒はざらざらで、わたしも砂であれば出入り自由であったのにと悔しく思います。
 牢獄には何もなく、しいていえばポケットに入っていたトランプくらいのものでした。しかしやる相手などいるわけがなく、一人でやる遊びについても無知であったわたしには、五三枚の絵柄を鑑賞することしか能がありませんでした。
 許せないのは、ジョーカーの姿勢です。立っているのだか踊っているのだかわからないそのポーズに、わたしはこうガツンと何か言ってやりたくなるのでした。好きなのはスペードの八で、理由はなんでだか説明できそうにありません。
 そうしてわたしは今日と明日が溶けきって、明日のことが昨日のように感じられるほど、ふにゃふにゃとした時間のなかに溺れていきました。
 海の色はいつも暗く、月はいつも満月だったのを覚えています。わたしに友だちができたときも、潮騒の音はいつもと同じ音色を立てていました。
 スペードのいくつかが風にさらわれ、拾おうと手を伸ばしたとき、棒と棒の間に何かが動いているのを発見したのです。
 蟹でした。
 赤くて大きな甲羅が、そのわずかな隙間に引っかかっているようでした。
 蟹は、わたしの方へ、牢獄の方へ、来ようとしている。わたしは思わず、がんばれと口にしていました。
 そのときは蟹がわたしを食べに来ようとしているなど、これっぽちも思いませんでした。
 たくさんの足で床をひっかきながら、ジリジリと牢獄のなかへ入ってきています。そしてようやく身体を滑らせ、罪人が一人と一匹になったとき、わたしは感動しました。
 感動だったのでしょうか。よくわかりません。とにかくわたしは、彼とトランプがしたいと思っていました。ババ抜きでもなんでもいいから、トランプを。
 幸いなことに蟹は目と手を持っていました。わたしがカードを配っている間、蟹はじっと立っていました。もしくは座っていたと思います。
 配り終えたわたしは、さっそく揃っている数字を捨てていきました。あまりに熱中していたため、肝心なことに気づきませんでした。
 そう、蟹の手は鋭利だったのです。ハサミだから、ちょっきんとされてしまうのです。
 蟹はトランプができない。
 わたしはその事実に愕然としました。すでにハートの三が無残にも切り刻まれていました。
 何か方法を考える必要がありました。ここで身につけたトランプテクニックを披露しないまま朽ち果てるのは嫌だったのです。
 どうにかして蟹にトランプを仕込まなくてはならない。
 カードを切り刻むという反則行為をした蟹は反省するでもなく、ぶくぶく泡を吹きながらわたしのことを凝視しています。
 俺は人間にはしたがわねー、と言っているようでわたしはドキマギしてしまうのです。
 見れば見るほど蟹のフォルムは魅力的です。
 これが恋なんでしょうか。いいえ、食欲です。
 わたしは蟹が食べたかった。でもトランプもしたかった。
 よだれが滴る淡い音で、わたしは目を覚ましました。
 いま一番すべきことは何か。ババ抜きだ。この蟹に勝利し、そして食す。わたしは本分を見失っていたのです。
 まずはトランプは切り刻むものではなく、掴むものだと教えなくては。
 わたしは指でチョキを作り、そのままトランプを掴みました。
「カニカニ!」
 独自に編み出したカニカニ語も駆使し、徹底的にババ抜きのルールを教えることにしたのです。
 なんということでしょう。
 最初は泡を吹くだけだった蟹も、手札をおうぎの形で持つまでに成長したのです。
 わたしはさっそくババ抜きを始めることにしました。
 配るなり、蟹はペアになった数字を即座に切り捨てていく。わたしが配り終えるころには、蟹は身動きひとつせず自分の手札を見つめていました。
 トランプの背中が語りかけてくる重圧に、わたしは負けそうになりながらも手札を整理。
 かくして残ったカードは、わたし九に対し、蟹は四。もちろんジョーカーはわたしの手もとにあります。
 一対一匹のババ抜きにおいて、これはもう敗北も決したというもの。
 しかしツキはわたしを見捨てませんでした。最初の引きで、蟹はわたしのジョーカーを抜いたのです。
 蟹はちらっと見るなり、リフレシャッフルをしました。そしてまたわたしの前にトランプの背をつきだしたのです。
 さぞや動揺していると思いきや、蟹はひどく冷静でした。わたしが一枚一枚なぶるように指を動かしても、蟹はまったく表情を変えません。そもそも表情筋があるのかどうかわからない状況に、さすがのわたしも焦ったのか、またもやババはわたしのところへ戻ってきてしまいました。
 どうやら自分でも気づかないうちにモンスターを作りあげてしまった。
 気づいたらわたしは笑っていました。
 わたしがトランプに求めていたのは、こんな熱い試合だったのです。
 そこからわたしは善戦しました。
 気づいたらわたしの手もとには二枚。蟹には一枚。蟹がジョーカーを引かなければ、わたしは負けます。
 しかし、もはやそれでもよかった。わたしには何故だか負けることがわかっていたような気がします。蟹のハサミがスペードの八に伸びたとき、わたしはゆっくりと目を閉じました。
 終わった。終わったのだ。
 敗者は食べられる。具体的にそんな取り決めはありませんでしたが、わたしたちの間には言葉を超えたものがありました。
 しかし、いつまで経ってもわたしの身体には何の痛みも入らない。
 わたしは恐る恐る目を開けました。
 そこにはトランプを配っている蟹がいたのです。
 もう一戦しよう。蟹はそう言っているのです。
 わたしはその高貴な姿勢に、ドギマギしました。今度こそ、それは恋に他ならなかったわけです。そしてわたしは再びのババ抜きで圧勝し、蟹をむさぼり食いました。

       

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