2.


「河瀬さん……私には、できません」
「うーん……」
 咲子は伏し目がちにそう言い、彰人は困った表情を浮かべてつぶやいた。
 入社初日から四日が経ち、この日は週末、金曜日。すでに新入社員たちは他の社員と同じフロアにデスクが与えられ、小規模なシステム開発のシミュレーション――プログラムミング、テストを各自が実施するという実務に近い研修を行なっていた。
 咲子は新入社員の中で最も進捗が遅れていた。ほとんどの新入社員は大学在学中にプログラミングの講義を受講しているため、経験値が大きく違いすぎた。中には数人、咲子と同じように未経験者はいたが、それでも一番遅れているのは咲子の要領や取っかかりが悪いからだ。
 そんな咲子のためにと、三日目の朝からマンツーマンで指導を行うようになったのが彰人である。初日の件があったので咲子に彰人を付かせることに対して数人の社員、特に女性社員から反対意見が出たが、彰人の手は比較的空いていて、誰もが認める業務知識とスキルは指導員としては打ってつけだろう、という結論になった。
 最終的には咲子の意志が尊重されたため、こうして彰人と咲子のマンツーマンになっているということは咲子の望んだことでもあるのだ。というのも、あの日の『調教』の問題発言もすでに解決していたからだ。ボーカルシンセサイザーをより人間の声に近づけるため、あるいは曲全体のバランスの微調整を意味する専門用語で、翌日の朝一番に受信した社内メールでそう説明された。
「稲枝さん」
 彰人は手に持ったペンをくるくると回しながら、眉間に皺を寄せてやや厳しい表情を咲子に向けた。まるで親に叱られている子供のように、咲子はしゅんとうなだれた。
「できないことをやれって言っているわけじゃないんだ。たしかに、プログラミングが未経験でこの研修は難しいかもしれない。でも、ちゃんと考えればできる、答えはあるんだから。それに……わからない、ならともかく、できない、というのは受けつけられない。できない、というのは投げ出しているようなものだから。学生のときならそれでも良かったけど、もうそれは通用しないよ」
 予想以上に厳しい返事、けれど言っていることは正論だ。甘えた考えをしていた自分が恥ずかしく、同時に苛立ちさえ募らせ、咲子は黙り込んでしまう。
「とりあえず、まずはどこがわからないかを考えてみよう。そこが見つかれば、あとは調べるだけだ。もし調べても見つからないのなら、僕に聞いてくれたらいい。さあ、やってみよう」
「は、はい」
 彰人は責めるような口調から一転して、温かみを感じる優しい口調で続けた。咲子は救われた気持ちになってプログラミングの教本を開き、文章を目で追った。叩いてから引き上げる、こんな鞭と飴のやりとりが二日間、ずっと二人の間で繰り返されていた。
 咲子の理解力はともかくとして、彰人の教え方は理想的とも言えた。単純に記憶させるような詰め込みはせず理屈を順序立てて理解させる教え方で、口頭では専門用語を使わず日常的な単語で代用し、時には図を描いて説明をする。その一方、悩むべき問題、熟考する必要のある過程では助言を与えず、先ほどのような甘えた発言には厳しく指導する。
 特に生徒――咲子の意欲を上げる工夫が上手かった。
「……私、この仕事に向いていないんでしょうか……」
「向いていないんじゃない、慣れていないだけだよ。慣れてしまえば、ある程度できるようになる。でも今は、慣れることが大事なんじゃない。覚えて、理解することが大事なんだ。こんな研修問題、ポイントだけ押さえてしまえば簡単だよ? でもそれでは、似たような問題に当たったとき困ることになる。理解さえしておけば、その派生さえも解決することができる。今日一日、稲枝さんに教えていてわかったけど、稲枝さんは物事を覚えるだけじゃなくて、ちゃんと理解しようとしている。それはすごくいいことだよ。たしかに時間はかかるけど、その時間はぜったいに無駄じゃない」
 三日目の定時ごろに弱音を吐いたときの、この彰人の返事が咲子の心の支えだった。もちろん彰人の言葉の真偽はわからないが、二日間のマンツーマン指導は咲子が彰人に信頼を寄せるには十分すぎた。
(それにしても、ほんと、知らんぷりだなぁ)
 すでに勤務時間の大半を彰人と会話するようになっていたが、仕事の内容ばかりで歌のこと、動画投稿サイトのことについてはまったく触れていない。
 一度、咲子は小声でこっそりと聞いたことがあったが「勤務時間中は仕事に集中しなくちゃいけない」と冷たく叱られた。デスクの周りを好き放題している人がそんなことを言うものかと思ったが、仕事ができる人がそれを許されるのだろうか……と、理不尽なものを感じずにはいられなかった。
 デスクの上に積み重ねたプログラミングの教本を読んでいると、定時を伝えるチャイムが放送され、咲子は本を閉じた。
(今日もあまり進まなかった……)
 他の新入社員と比べると、およそ半分ぐらいの進捗率だった。まだ研修だから良いものの、これが本当の仕事だと思うとぞっとしてしまう。
 数人の新入社員はパソコンの電源を落とし、さっさと片付けてすぐにフロアから飛び出していった。ちらりと聞こえた話では今日はボウリングに行くらしい。咲子は誘われもしなかったが、むしろそのほうが気が楽なので安心していた。
 参考にしていたプログラミングの教本を棚に戻し終えると、彰人が自席に戻って仕事をしている姿が見えた。手が空いているとはいえまったく暇ではない、マンツーマンということは自分の仕事はストップしているのだ。
 定時後、残って仕事をする彰人を見て、咲子は申し訳ない気持ちになってしまうが、自分に手伝えることがあるとは思えない。これ以上邪魔にならないようにと、咲子はさっさとタイムカードを切った。
「……お疲れ様でした」
 長い平日だった。明日は休みということもあり、すでに気が抜けている咲子の声に張りはなかった。ふらふらといつも以上におぼつかない足取りだったが、普段よりも解放感に満ちている。学生のときも休日というのは嬉しいものだったが、今日以上に嬉しいと感じることはなかっただろう。
 社会人になって初めての休日は、あいかわらず引越しの片付けや食料品の買い込みなどはあったが、今夜の予定はすでに決めていた。それは入社初日の夜、彰人に教えてもらった動画投稿サイト、そこにアクセスして彰人が作った歌を聴くことだった。

 咲子は職場から歩いて十五分ほどのワンルームマンションに住んでいる。クローゼット付きの手狭な部屋には父親といっしょに組み立てたロフトベッド、小さな冷蔵庫とテーブル、そして文庫本が詰まった本棚があることで窮屈に感じられ、それに拍車をかけるようにダンボール箱が数箱、部屋の隅に積み重ねられている。住み始めてまだ一ヶ月も経っていないため生活感は希薄で、未だにドアを開けても我が家に帰ってきたという気分にはなれなかった。
 咲子は帰宅すると、メイクを落として夕食を作り始めた。ご飯を炊き、味噌汁を作り、おかずはお弁当を作ったときの残りなので昼食とほぼ変わりはなかったが、会社よりも落ち着いて食べることができるので格段においしく感じられた。
 食器を洗い、少しだけ引越しの片付けをして、シャワーを浴びて一段落着いたときには十時を少し過ぎていた。咲子はロフトベッドのデスクの上に置いている、開いたままのノートパソコンの電源を入れた。昨日までならとっくに寝ている時間、それでも起きていられるのが休日前の夜の良いところだ。
 咲子はまず、彰人とのネット電話の設定をすることにした。ネット電話のアプリケーションに自分のユーザー名『Saki』とパスワード『自分の生年月日の逆順』を入力し、ログイン。咲子が登録している連絡先は少なく、数人の友人だけで十人にも満たない。そこには異性の連絡先は入っておらず、彰人が初めての異性となる。特別意識する必要もないのだが、咲子は妙にそわそわしてしまう。
 まず連絡先の追加のためにユーザー名の検索を行った。受け取ったメモには『ユーザー名:ショウジン』と書かれている。メモを見る限り、この名前は動画投稿サイトで使っている名前と同じようだ。
 ユーザー名などのネット上で使う名前というものは一種の偽名なので、何かしら本人が意図してつけることが多い。咲子なら自分の名前の一文字目をローマ字読みに変えただけのシンプルなものだ。そのときの気まぐれで決めてしまうとつい忘れてしまいがちで、咲子も過去に何度かそれで再設定をする羽目になったので『Saki』に落ち着いた、という経緯があった。
(ショウジン……もしかして『彰人』の読み方を変えただけ?)
 だとしたら単純すぎる。人のことをどうこう言えるようなユーザー名ではなかったが、咲子はクスクスと笑ってしまう。
 連絡先の追加はこちらから申請をして相手から承諾を得なければならないので、検索するだけでは意味がない。つまり咲子の申請が彰人に気づかれない限りは連絡の取りようがないのだが、咲子は彰人なら家でもずっとパソコンを触っている、というイメージを抱いているため、帰宅さえしていればすぐに気づいてもらえるだろうと考えた。
 しかし検索の結果『ショウジン』というユーザー名は複数表示された。このネット電話は世界中で優に一千万人以上が利用しているのだ、もちろん日本だけに限定すればもっと少ないが、他に『ショウジン』がいてもおかしくなかった。咲子はそのことに気づかなかった自分と、気が回らなかった彰人を少し恨んだ。
 上から下にスクロールして彰人らしきユーザーを探した。検索結果に所在地が表示されるので都内のユーザーを注意深く見ていると、その中で一人だけユーザーが設定するプロフィールの画像に、あの日彰人に見せてもらったボーカルシンセサイザーのキャラクターを使っているユーザーがいた。
 これだけでは断定できるはずもないが、このユーザーが彰人である可能性は高い。しかし電話番号やメールアドレスを知らないので本人に確認することができない。月曜日まで待とうかとも考えたが、また週末までお預けになってしまうことは避けたかった。
 咲子は考えた末、メッセージに『私です』と一言だけ添えてショウジンに申請をした。この不明確な状態で本名を記載するのは危険である。ユーザー名の『Saki』で気づいてもらうしかなかった。これであとは待つだけだ、いつでも連絡が来てもいいように実家から持ってきたヘッドセットをノートパソコンの隣に置いた。
 次はいよいよ動画投稿サイトである。ブラウザを開き、彰人が書いた動画投稿サイトのサイト名を検索して検索結果の一ページ目、一番上のリンクをクリックする。すると、あの日に見せてもらったページとまったく同じものが表示された。
 あの日はしっかりと見ていなかったので、咲子は隅々まで見るようにした。まずそのページの書かれている総動画数に驚いた。一、十、百、千、万――一千万に届こうとしている。その隣には今日だけで増えた動画数が書かれていて、一万には届かないがそれでも相当な数だ。
(一人が一つの動画を作ったとしたら、何千人という人が今日一日でこんなに投稿したということになる……何だか、私の知らない世界だなぁ……)
 ふと思い出した。大学時代、ゼミや講義中にそのサイト名を聞いたことがあったような気がした。きっとここは有名なサイトなのだろう。自分が今まで知らなかっただけでほとんどの人が知っていて、今日街ですれ違った人の中にも動画を投稿した人がいたかもしれない。
(えっと、ここで検索したら出てくるんだよね……?)
 検索欄に『ショウジン』と打ち込み、検索ボタンをクリックする。すると小さなアイコンとタイトル、そして紹介文、他にもいろいろと書かれているそれらが一組となり、ずらりと縦一列に表示された。
(え、なにこれ、これが検索結果? ……これ全部、そうなの?)
 検索結果は百を超えていた。もちろんすべてが彰人の作った動画ではなく、偶然キーワードが一致しただけのまったく関係ない動画や、同じユーザー名が投稿した動画が表示されていた。これは彰人の指示が悪かった。彰人にとって動画投稿サイトは日常の延長だったが、咲子には未知の領域なのだ。彰人が十分に気を使う必要があった。
(えー、どうしよう……)
 彰人からのネット電話を待とうかとも考えたが、まだ帰宅していないかもしれないし、帰宅していたとしても確認されなければ同じことだ。そもそも申請を送ったユーザーが彰人とも限らない。
 このまま立ち往生というのも時間が無駄になってしまうので、咲子は適当にタイトルをクリックすると、偶然にもそれは彰人が作成した動画だった。
 けれど、ここでも問題は起きた。

(……どこで再生するんだろう)
 咲子は何度かネット上で動画を見たことがあったので、読み込みのあとに再生ボタンを押して視聴するというプロセスを知っていた。ところが、開いたページにはそもそも動画が見当たらなかった。
「うーん……ん?」
 ページの下部へスクロールすると『アカウント新規登録』と『ログイン画面へ』というリンクがあることに気づいた。どうやらアカウント――先ほどのネット電話でいうところのユーザーの登録をしなければならないようだ。これが彰人が言っていた『最低限の登録は必要』なのだろう。
 咲子は『アカウント新規登録』をクリックし、会員規約を読んだ。どうやら無料会員と有料会員があるらしい。有料会員の待遇の良さは規約を読んでわかったが、その待遇の良さがどう影響するのかわからなかったので無料会員の登録にすることにした。
 続いて登録するメールアドレスを入力する画面が表示された。これはネット電話のユーザーの新規作成と同じだ。ネット電話で使用しているメールアドレスを打ち込み、決定。これでサイトから確認メールが送信され、そこに記述されているリンクを辿って本登録を行う。
 あとはプロフィールとパスワードの設定だ。公開する、しないに限らず、咲子は最低限の情報しか入力をしない。ここでもユーザー名は「Saki」、パスワードも同じものを設定した。
 これで登録が終わったようだ。もう一度最初のページから先ほど再生できなかったページまで戻ると、中央に動画が表示されていた。咲子も知っている、ネット上の再生可能な動画だ。
 改めて見ると様々な情報が書かれている。動画説明欄には簡単な挨拶のあとに『今回もテンポの早い曲にしてみました』とショウジン――彰人が書いたと思われる文章があり、他には投稿された日時、登録タグと呼ばれるその動画を一言で表す紹介文のようなものがあった。
(登録タグというところの『いつものショウジン』……? 河瀬さんらしい曲ってことなのかな)
 再生ボタンにマウスポインタを合わせクリックしようとしたとき、その右に書かれていた再生回数に咲子は驚かされた。
(い、一万……!)
 彰人が作った動画の再生回数は優に一万回を超えていた。それよりもずっと少ない数のコメント、マイリストがあったが、それらが意味するところはわからない。
 再生ボタンを押すと、動画の再生が始まった。電子音のピコピコ、という音が小さく鳴り始める。知り合い、それも会社の先輩が作った動画がネット上で再生される。妙な緊張感で咲子はじっと見つめた。
 電子音は次第に大きくなり、他にも小さなノイズ音、耳に引っかかるような金属音が響き速度がどんどん増していく。咲子の緊張も高まり、今にも破裂しそうなほどに心臓が鳴っている。
 そして、歌が始まった。人間の声のようで、どこか機械的に感じる声――ボーカルシンセサイザーが歌い、時には低く、時には甲高くトーンを変えて感情を表現する。
 それは咲子の耳には入ったものの、少しも聴き取れずにすり抜けていった。早い。曲が、歌が、声が、どれもこれも早すぎる。早口言葉のような歌声は何を歌っているのか聴き取れなかったし、倍速再生のように早いテンポに頭と耳が追いつかない。肝心の動画はマンガやアニメのキャラクターが入り乱れて争っていて意味がわからない。その動画の中に歌詞が書かれているが、あまりにごちゃごちゃとしていてとても見辛い。
 それ以上に、動画の右から左に流れる様々な色、サイズの文字列。これが気になってしまい動画に集中できなかった。目に止まったものを読む限りでは称賛と非難の内容が半々ぐらいで、これがコメントと呼ばれるものだろうと咲子は思った。
 一番が終わったのか、ボーカルシンセサイザーの音は消えていた。咲子は間奏中に画面を少し上にスクロールした。適当に選んだ動画だったのでタイトルを確認していなかったのだ。
『誰も知らない二次元戦争』
 ようやく動画の意味がわかった気がした。どうやらそういう内容の曲らしい。
 その後、咲子はこの曲を二回聴いた。途中でコメントを非表示にする方法がわかり、動画に集中することはできたが、やはり今ひとつ良さがわからない。趣味の読書ほどではないが、絵や音楽でもそれなりに感情移入することはできる。それでも、彰人の曲には何も感じない。
 途方に暮れていると、動画説明欄に『前回作った曲はこちら』という文章のあとにリンクが書かれていることに気がついた。別の曲なら、と思いクリックして再生すると、次の曲はボーカルシンセサイザーの音がいくつにも重なって聴こえる不思議な曲で、まったく違う印象は受けたがやはりテンポや歌声が早すぎる。
(河瀬さんは私にこんな曲を歌わせようとしているの……? 無理、ぜったい無理。こんな早口、できるはずない)
 咲子は最初のページへ戻り、新着動画をさかのぼってボーカルシンセサイザーの曲を探すことにした。他の人が作った曲を聴きたかったからだ。全体的にそんな曲が多いのか、聴いた二曲が偶然そんな曲なのか、それが知りたかった。
 せっかくなので他の動画も最初の触りだけは見ることにした。彰人が言っていた通り、音楽を演奏したり、ダンスをしたり、ゲームで遊ぶ様子を映したりと、自由に動画が投稿されている。その中でもボーカルシンセサイザーの曲は多く、すぐに見つけることができた。早口な曲もあったが、スローテンポで絵本を読んでいる気分になれる動画が多くあった。これならしっかりと聴き取れ、加えて歌詞も読みやすいので頭に留まってくれた。
 ボーカルシンセサイザーの曲の多くは、全体を通して小説のように物語性を重視していて、例えるならミュージカルのようだ。読書が好きな咲子には聴き取りさえできればすんなりと感情移入することができた。
(……これは? 『歌わせていただきました』?)
 新着動画の中の、ある動画に目が止まった。それをクリックすると、普段なら投稿者による説明が書かれている動画説明欄に投稿者の自己紹介とその動画に対する感想、最後の一行に別のページへのリンクが貼られていた。
 彰人が言っていたことを思い出した。きっとこれがボーカルシンセサイザーの曲を人が歌っている動画で、この最後のリンクは元のボーカルシンセサイザーの動画のページなのだろう。そして彰人はこれと同じことを自分にさせたいのだ。
 咲子はその動画を再生し――歌い始めを聴いて、愕然とした。すぐに停止し、ボーカルシンセサイザーの曲を人が歌っている他の動画を探し、再生した。それを何度も何度も繰り返し、毎回同じ理由で愕然としてしまい、ついには打ちひしがれてしまった。
 咲子はそれら動画の、人の歌声にショックを受けていた。想像していたよりも遥かに上手いのだ。自由に投稿することができるサイトなので、てっきり下手でも騒いで楽しむ、ぐらいのものだと思っていたが、実際は違った。テレビで聴くような、アーティストさながらの歌声だったのだ。それも一曲だけではなく、咲子が見たすべての動画がそんな歌声なのだ。
(なんで……)
 あの日に感じた疑問が、咲子の中で再び生まれた。
(……なんで、私、なんだろう……)
 声が良い、と彰人には言われてはいたが、自分ではそうは思わない。彰人を除く第三者にも言われたことがない。ネット上にはこんなにも上手な歌を披露する人が多くいるではないか。なのに、なぜ彰人は自分を選んだのか。ちゃんとした答えがほしかった。このままでは疑ってしまう。彰人は、本当は声なんてどうでも良くて他に企んでいることがあるのでは、と。
 そのとき着信音が鳴った。携帯電話ではない、ネット電話の着信音だ。呼び出し元は先ほど申請を送ったユーザー、ショウジンだ。この受信に反応していいものか、咲子は悩んだ。彰人ではないかもしれない、という不安もあったが、何より彰人に不信感を抱いているからだ。
 少し考えてから、咲子はヘッドセットのプラグをノートパソコンに差し込み、通話ボタンを押して通話を開始した。
「……もしもし?」
『もしもし、河瀬だよ』
 このショウジンが彰人だった。ふっと緊張の糸が緩み、落ち込んでいることもあって目が潤んでしまいそうになった。
「はい、稲枝です……お疲れ様です」
『ごめん、他にも同じ名前のユーザーがいたよね、うっかりしていたよ』
「いえ、プロフィールの画像でわかりました」
『それなら良かった。ついに動画を見てくれたのかな? 僕の動画、わかった? 誰も知らない二次元戦争、という動画が最新なんだけど……』
「ああ、あの動画でしたか……はい、見ました。それと、タイトルは忘れましたが一つ前の動画も……あとは他の人の動画と、人がボーカルシンセサイザーの曲を歌っている動画も見ました」
『そんなに見てくれたのか! どうだった?』
「……河瀬さん、今思っていることを、正直に話してもいいですか?」
『う、うん……』
 咲子は深呼吸をした。このまま思っていることを吐き出してしまったら、どんなことを言ってしまうかわからない。ただでさえ感情が不安定なのだ、最悪、感極まって泣いてしまうかもしれない。言葉を選び、心に蓋をしなければならない。
「先ほども言いましたが、河瀬さんが作った動画、見させていただきました」
『ど、どうだった?』
「よくわかりませんでした……あんな早口、理解しかねます」
 やはり閲覧者からの感想は気になるのだろう、彰人が緊張していることが口調からわかった。コメントなどの顔が見えない相手ではなく、ネット電話越しに、しかも名前と顔を知っている相手からなのだ、その重みはまるで違う。しかし咲子には感想を言うことはできなかった。結局、よくわからなかったのだ。
『うん、最初は僕もそうだった。でも慣れてくると、あの早口が心地良い刺激になるんだけどね』
「無理ですよ、あんなの……」
『え……?』
「私……あんな早口で歌えませんよ……」
『そ、そりゃそうだ! 別にあんな早い曲を歌ってほしい、なんて言わない!』
 ようやく彰人は咲子の落ち込んでいることに気づき、取り繕うように叫んだ。
『あれはボーカルシンセサイザーだからこそできる歌い方なんだ。僕は稲枝さんにボーカルシンセサイザーになってほしいわけじゃない。それにもし歌ってくれるとなったら、最近作った僕の曲は早い曲ばかりだから、新作を考えるよ』
「新作……?」
 一曲を作る労力がどれほどのものか、咲子は想像することができない。ざっと考えるだけで作詞、作曲、編集、他にもあるかもしれない。そんな簡単にできるようなものでもないだろう。
「わざわざ新作にしなくても、昔作られた動画で、ゆっくりな曲を選べばいいんじゃないですか?」
『うーん、昔の曲は出来が悪いから、新しく作りたいかな』
 そう言われてしまうと咲子からは何も言うことができない。ともあれ、ひとまず一つの不安は解消したが、咲子にはもう一つ、解決させなければならないことがあった。
「あと、他の人の歌も聞きました……なんで、私なんですか?」
 それはボーカルシンセサイザーの曲を歌っている人たちについてだ。ネット上では、あれだけ多く歌う人がいて、しかも自分よりも圧倒的に上手い。なのに、彰人はなぜ自分を選んだのか。その疑問が解消されない限り、どれだけ彰人が頼み込んでも咲子は歌うつもりはなかった。
『え、どういう意味?』
「他の人、すっごく上手じゃないですか。まるで本物の歌手みたいに……私、歌なんて高校生のクラス別の合唱コンクール以来、まともに歌ったことないんですよ。自信ありません……」
『ん? 稲枝さん、勘違いしているね?』
「勘違い……?」
『僕は稲枝さんの声に惚れたと言ったけれど、歌については何も言っていないよ』
 彰人の言葉に咲子は我に返った。たしかにそうだ、褒めてもらったのは声だけで歌については何も評価されていない、聴かせたことなんてないのだから当たり前だ。咲子は自分の早とちりに恥ずかしくなりながらも、揚げ足を取られたことにわずかながら苛立ちを感じてしまう。
『不特定多数のユーザーが自由に動画をアップロードできる、と言ったけれど、温度差は人それぞれだよ。本当に趣味ぐらいの人もいれば、中にはプロを目指している人もいる。例えば毎日ボイストレーニングをしたり、体力作りのためにジョギングをしたり、カラオケに通って練習したり……マイクなどの機材を揃える人もいるだろう』
「すごいですね……」
『この温度差に引いてはいけないよ。興味があるもの、本気になれるものがたまたま、それだっただけなんだから。だから機材はともかくとして、稲枝さんは歌の技術や知識は他の人たちには到底及ばないと僕は思っている』
 紛れもない事実だったので咲子は落ち込まなかった。むしろ安易に慰めたりお世辞を言わない正直な意見を聞けて嬉しかったぐらいだ。
『僕も、いろんな人の歌声は聴いてきた。それがプロだったり、アマチュアだったり、ボーカルシンセサイザーだったり……でも、僕は稲枝さんの声がいいんだ』
「どうして、そこまで……」
『声に惚れた、としか言えない。それしかわからない。自分でももどかしいよ』
 前と同じ返事に、結局疑問は晴れないままだ。けれど、声を好きでいてくれることには違いない。完全にしこりが消えたわけでもなかったが、咲子の気持ちはすっきりした。
「河瀬さん」
 咲子は決めた。返事に一週間近くかかってしまったが、ようやく決まった。
「私……自分が、どれだけのことをできるかわかりませんが……私で良ければ、歌わせてください」
 声を好きだと言ってくれた彰人に、自分の声を使ってみたいと思った。咲子にも思惑はあったけれど、それは口にしない。わざわざ言うようなことではないからだ。
「……河瀬さん?」
 彰人からの返事がない。通話は繋がっているのでネット回線の不具合というわけではなさそうだ。
『……ああ、聞こえているよ。その、驚いてさ……ほんとに、承諾してもらえるとは思っていなかったから……』
「それは大袈裟ですよ」
『そんなことない。僕の作った曲を歌ってくれ、だなんて、誰だって怪しむに決まっているじゃないか。自分でも変なことを言っていると思うよ』
「私も最初は半信半疑でしたよ。でも河瀬さん、すごく一生懸命だったから……」
『なんだか恥ずかしいな。嬉しいよ、ありがとう』
 彰人の言葉が咲子に響いた。心から嬉しく思っている様子が伝わってきた。歌うことへの不安はないわけではなかったが、咲子はひとまず承諾して良かった、と思った。
『そうだ、一つ提案があるんだ』
 湿っぽくなった二人の雰囲気を元に戻すように、彰人は一際大きな声を出した。
「提案、ですか?」
『うん。もし良ければ、他の人の曲を歌ってみたらどうかな?』
「他の人、ですか?」
『新作を出すとは言ったけど、そう早くできるものじゃない。せっかくの稲枝さんのやる気に水を差すのもあれだし、僕自身、稲枝さんの歌を聴きたい』
「そうですか……? ですが、まだ少ししか聴いてなくって……他にどんな曲があるか、知りませんよ?」
『そう思って、おすすめの曲を選んできたよ』
 ネット電話の機能として備えられているチャットに、彰人からのメッセージとしてアドレスが書き込まれる。それをクリックすると動画投稿サイトの画面が表示された。
「これ、一回聴いてみて」
「わかりました、一旦、通話を切りますね」
『見終わったら通話、よろしく』
 ネット電話の通話を切り、動画を確認した。タイトルは『赤ずきんの幕間劇』。童話で有名なあの赤ずきんのことだろうか。再生回数は優に十万回を超え、その動画につけられているコメント、マイリストの数は彰人の曲を遥かに上回っている。
 彰人の曲よりも人気で有名な曲なのだろう。少しずつボーカルシンセサイザーの曲に魅力を感じ始めていた咲子は、わくわくしながら再生ボタンを押した。

◆ ◇ ◆ ◇

 動画が始まると、そこは大きな舞台。真っ赤な幕が閉じていて、それはブザーの音と共にゆっくりと開き、同時に大きな拍手が湧き上がる。そしてオルゴール調の前奏が流れて作詞、作曲、編集者の名前が表示されている後ろでは人形劇が始まっていた。
 赤ずきんとオオカミの出会い。
 オオカミがお婆さんを食べてしまう。
 赤ずきんがおばあさんの家に訪ねる。
 ベッドの中にいるのはオオカミで、赤ずきんも食べられてしまう。
 猟師が眠っているオオカミの腹を切り、赤ずきんとおばあさんを助ける。
 オオカミの腹に石を詰める赤ずきん、針と糸で縫いつけるお婆さん。
 オオカミは溺れ死んで、ハッピーエンド。
 ここでタイトルの『赤ずきんの幕間劇』が表示されると共に、舞台の幕が閉じた。

 ボーカルシンセサイザーの歌が始まった。歌っている、というよりも読み聞かせのように歌詞を唱えていく。それはやはり童話の赤ずきんを元にした曲で、童話は一つの舞台劇として演じられている、という世界観のようだ。
 小道具や衣装で散らかっている舞台裏、そこでオオカミにスポットが当たった。舞台の上では悪役のオオカミは、本当は気弱で自分に自信が持てない性格で、この日もちょっとしたミスで落ち込んでいた。
 舞台が終われば登場人物たちはそれぞれ自由に過ごす。家庭がある者はまっすぐ帰り、仲の良い登場人物たちは街の喧騒の中へ消えていく。一人ぼっちで寂しがり屋のオオカミだったが誰にも声をかけることができず、誰からも声をかけられることなく帰る、ずっとそんな日々を送っていた。
 ある日の舞台後、オオカミは初めて声をかけられた。振り返ると、そこにいたのは人気者の赤ずきん。いつも誰かと腕を組み、真っ先に夜の街へ消える赤ずきんがこの日、オオカミの前に一人でいた。
 高嶺の花だと思っていた赤ずきんが目の前にいる。オオカミは彼女にかける言葉を持っていないし考えもつかない。けれど赤ずきんはニコリと笑ってこう言った。
「今日は誰も遊んでくれないの。お暇なんでしょう? 私と遊んでちょうだいな」

 ここで間奏に入り、オルゴールの他に管楽器の音が加わって曲調が大きく膨らみを見せた。
 映像の人形劇は、赤ずきんがオオカミの手を握って街の中へと移動する。オオカミはただ引っ張られるだけ、最初は意気揚々としていた赤ずきんが、小さく肩を落とす。それを見たオオカミは大慌てで赤ずきんの背中を押して舞台の袖へ消えていく。
 舞台は暗転したのち、ごみごみしたとした商店街に変わって間奏が終わる。

 オオカミは街での遊び方を知らない。だから普段自分が遊んでいる小さな商店街に赤ずきんを招いた。
 いつもの駄菓子屋へ行き、おんぼろのゲームセンターに入り、小高い山の上に登り、そこから一望できる街の明かりを見せる。これがオオカミの夜の遊びだった。
 夜景を眺める二人。ふと赤ずきんはオオカミの顔を見て、微笑む。オオカミは嬉しくなって、赤ずきんに向かって笑う。
「あなたは普段、こんなことをしているの?」
 赤ずきんが恐る恐る、オオカミに問う。
「そうだよ。お腹が空いたら駄菓子屋、時間があったらゲームセンター。でもこの風景は毎日見ているよ。ぜんぜん飽きないんだ」
 オオカミは自信たっぷりに赤ずきんに答えた。そのときから、赤ずきんはオオカミに何も話しかけなくなった。オオカミは赤ずきんの様子の変化に困ってしまい、でもどうすることもできなくて黙ってしまう。
 二人の間に沈黙が流れたまま、夜が更けていった。

 再び間奏に入った。最初のようにオルゴールの音だけが響く。映像の中では朝日が顔を覗かせていた。
 赤ずきんはずっと繋いでいたオオカミの手を離した。そして、最初と同じ笑顔を浮かべてこう言った。
「また遊んでちょうだいな」
ここでも舞台は暗転。最初の舞台裏にシーンが戻り、間奏が終わる。

 オオカミは、最後に赤ずきんに言われた言葉がずっと頭から離れなかった。
その日から赤ずきんから声をかけられるのを待ち続けた。自分から声をかける勇気なんてなく、待ち続けるだけだった。
 そしてこの日の舞台後も、別の作品の登場人物と夜の街へ消えていく赤ずきんの背中を見送って、オオカミは一人、小高い山の上に登って夜の街を眺める。

 曲はオルゴールのネジが切れるようにテンポが遅くなり、完全に止まったところで暗転し、終わった。

◆ ◇ ◆ ◇

 咲子は聴き終わると同時に、ぶるりと身体が震え、自分の息が荒くなっていることに気づいた。これは好みに合った本を読み終えたときと同じ感覚だった。その世界観にどっぷりと浸かり、どれだけ逃げようとしても逃げ出せない、むしろこの心地良い息苦しさをもっと味わいたいと本能が望んでいる。彰人の曲よりもずっと人間の声に近く聞こえ、あたかも人が音読をしているようで、それが一層、咲子の心を奪った。
 彰人を待たせていることを忘れ、もう一度再生した。それが終わると、続けてもう一度再生。手が止まらない、もっとこの曲を知りたい、一つになりたい、そんな欲求に駆られて咲子は聴き続けた。
 もう何度再生したかわからなくなったころ、ネット電話の通話が入った。そこでようやく咲子は正気に戻る。彰人のことを忘れていた。慌てて動画を止めて、通話に出た。
「も、もしもし! すみません、忘れていました!」
『別にいいよ。で、どうだった? その様子だと気に入ってくれたのかな?』
「はい、すごくいいです! 私、この曲すごく好きです!」
『それなら良かった。人気な曲だし、それにテンポも遅い。これなら歌えるんじゃないかな?』
「そう思います。いえ、私、これを歌いたいです!」
『……そんなに?』
「だって、すごく悲しい話じゃないですか……オオカミは赤ずきんのお誘いを心待ちにしながら、赤ずきんの背中を見るだけしかできないんですよ?」
『まあそうだけど、また誰も遊んでくれない日があったら、そのときは誘ってもらえるんじゃないか?』
「いえ、そんなことありません……もう、赤ずきんは誘いませんよ」
『ど、どうして? 僕は期待しているよ、再び手を繋ぐことを』
「きっと男性はそう思うんでしょうね。でも女性はシビアですよ? 赤ずきんって、けっこう大人の遊びを嗜んでいると思うんです。毎晩、他の登場人物と夜に街に行くぐらいですから。もしかしたら、一晩限りのお付き合い……肌を重ねることもあったのかもしれません。それほどの女性が遊び慣れていないオオカミといっしょにいても、楽しいはずがありません」
『なかなか言うじゃないか……』
「あ、ええっと、これは私の想像ですからね? 私は赤ずきんのような経験、ありませんからね!」
『そんなムキになって否定すると逆に怪しいけど……たしかに、稲枝さんのキャラクターじゃないね』
「最初にオオカミを誘ったのは気まぐれ、好奇心だったんですよ。誰も遊ぶ相手がいないから、暇そうにしている相手を誘った。もしかしたら新しい刺激が与えられるかもしれない、ぐらいの気持ちだったんだと思います」
『なるほど……』
「ですが赤ずきんの期待は外れてしまいました。オオカミと遊んでも楽しくなかったんです。駄菓子屋よりも高級なお店、ゲームセンターよりも大人の社交場、小高い山よりもホテルの最上階……上を知ってしまうと、もうそれより下のことはつまらなくなっちゃいますからね。で、最後は社交辞令なんですよ。楽しくはなかったけれど、一晩付き合ってもらったわけだから、まあ差し障りのないことを言っておこう、と」
『それは男からすればとても残酷だぞ……』
「そうですね、すごく残酷です。赤ずきんは、オオカミの心に傷をつけた、と言ってもいいでしょうね」
『オオカミが勇気を出して赤ずきんに声をかけることができたなら、少しは希望もあったかもしれないな』
「可能性は低いですが、それもあるかもしれません。でも、それで断られてしまったら、間違いなく不幸になってしまいます。それならまだ、行動せずに一人きりのほうがいくらかマシですよ」
『悲しいな……僕はわずかな可能性に賭けたいと思うよ』
「それは聴いた人次第、でしょうね。小説や映画にある、見た人に結末を問いかける、みたいですね」
『……なるほど、なかなかおもしろい考察だった。さすが読書好きというだけのことはある』
 物語を語るうちに熱くなっていた咲子は、水をかけられたように冷静になった。
「……なんで読書が好きって知っているんですか? 言いましたっけ?」
『最初の自己紹介のときに言っていたじゃないか。読書が好きで、読んだあとの余韻に浸るのが好き、だっけ?』
「え、覚えていないって……」
『覚えていないのは名前と顔だよ。自己紹介の内容はぼんやりと覚えている』
 大失敗をした自己紹介を思い出し、きりきりと胸を締めつけられる気持ちだったが、あんな自己紹介でも覚えてもらっていたことに咲子は照れてしまう。
『となると、稲枝さんは歌う、というよりは語る感じにしたほうがいいかもしれない。語り部となって曲を朗読する……物語性の強い曲が合っているかもしれないね』
「それでいいんでしょうか……歌なのに、そんなふうにするというのは……」
『いいじゃないか。物真似をするぐらいなら歌わないほうがいい。もちろん元の曲へのリスペクトを忘れないようにね』
 そう言われて咲子は安心した。元の曲の良さを残しつつ自分だけの表現をする――不安はあったが、世界観に身体が沈んでいくあの感覚を自分が与える立場になる、ということが楽しみでしかたがなかった。
『じゃあ、収録する日を決めたいんだけど、いつが空いてる?』
「え、自宅で録音するんじゃないんですか? ヘッドセット、ありますよ?」
『それでもいいけど、どうせならこだわりたい。となるとカラオケが一番だろう、その曲はカラオケで配信されているからね。来週、いや、いろいろ準備が必要だから、再来週の土曜日とかどうかな?』
「えと、どっちも暇です!」
『歌詞はもちろん、雰囲気もしっかり覚えてもらいたいけど、できそう?』
「はい、読み込むことには自信があります!」
『よし、じゃあ決まりだ。場所は決まったら連絡する。おっと……もうこんな時間だ、そろそろ切ろうと思うけど、何かある?』
 時刻はすでに一時、日付が変わっていた。軽い興奮状態にあったのか、咲子は眠気をまったく感じていなかった。
「いえ、ありません。すみません、長々と……」
『僕が頼んだことだから気にしなくてもいいよ。それじゃ、お疲れさん』
 咲子がお疲れさまです、と言うよりも早く、ぷつりと通話が切れた。
 あっという間に決まってしまったが、彰人と、異性と二人きりでカラオケに行くことになってしまった。デートと言っても差し支えはないだろう、時間が経つにつれてその重大さに気づいた。
(どう、どうしよう……! 再来週の土曜日? うわー、何を着て行こう……そんなに気合を入れるほどじゃないのかな……? でも、一応二人きりなんだし……河瀬さんは、どういう気持ちなんだろう……違う、まずは歌、歌だ!)
 再来週のことなのに、咲子はすでに緊張していた。もちろん休日に彰人と共に過ごす他に、歌うことへの緊張もある。彰人にも言った通り、歌うなんて高校生の合唱コンクール以来だ。大学生のころに何度か友人たちとカラオケに行ったものの、終始聞き役に徹していた。
「あ……あー、あー」
 高く、低く、長く、短く、咲子はお腹に力を込め、吐き出すように声を出した。ボイストレーニングの方法なんて知らなかったが、居ても立ってもいられないのだ。見様見真似の、本当に効果があるのかどうかも疑わしいボイストレーニングだったが、咲子は一人で盛り上がっていく。
「あー、アー、アアー」
 曲のリズムに合わせ声を出す。慣れてきたら高低をつけて間奏の部分は鼻歌で流す。途中何度かあった赤ずきんとオオカミのセリフは声のトーンを変え、大げさにそれぞれを演じた。
 夢中になっていくのが自分でもわかったが、もう真夜中と呼べる時刻で近所迷惑だ。咲子は口を閉じて『赤ずきんの幕間劇』を再生した。
sage