Neetel Inside ニートノベル
表紙

つい出来心で淫魔になってしまった。
その五「愛と罪と決別と」

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 田所君。
 ああ、瞳さんじゃないですか。どうしたんです、こんなところで?
 ほら、大学を辞めることにしたから、退学届を出して来たのよ。
 ええっ、瞳さん大学辞めちゃうんですか!まだ入ったばかりなのに。
 そうなのよ。でも、他に大事なことが出来たから。
 へえ、大変ですね。
 あら、大変だなんて、ずいぶんな言い草じゃない。
 そうですか?気に障ったなら謝ります。すいません。
 別に謝らなくてもいいけど、他人事みたいな言い方は感心しないわ。
 すいません。でも、瞳さんとはこないだ知り合ったばかり、と言うか一度お会いしただけですよね?正直ちょっとプライベートなところまではわからないんですけど……。
 何を言うの。知り合った日数と愛情の深さは必ずしも一致しないでしょ。合コンで意気投合したカップルと十年来の仇だったら、カップルのほうが仲良しのはずよ。
 まあ、それはそうかもしれませんけど。
 そういうこと。さあ、それじゃあ行きましょうか。
 えっ、行くってどこへ?
 決まってるじゃない。あたしの家よ。
 瞳さんのご自宅ですか?なんでまた。
 とぼけないで。結婚の報告に行くんでしょ。
 結婚?誰と誰が結婚するんです?
 あたしとあなた。黒崎瞳と田所進よ。
 えっ?
 ひょっとして忘れちゃってた?
 忘れちゃったも何も、僕は瞳さんと交際したことはないはずなんですけど。
 何言ってるのよ。交際よりももっと重要な既成事実があるじゃない。
 既成事実?
「見なさい」
瞳さんは大きく膨らんだお腹を撫でながら言った。
「あなたの子よ」
     *
 嫌な夢を見た。
妊娠した瞳さんに結婚を迫られる夢だ。
僕はゆっくり起き上がると、目覚まし時計を確認した。月曜日、時刻は六時半。設定したアラームよりも三十分早く目覚めてしまった。もちろん、今しがた見たばかりの夢のせいであることは疑いようがない。
うんざりした気持ちのまま、僕はベッドから芋虫のように這い出て窓を開けた。一瞬、そよ風が吹いて、寝汗で全身ぐっしょりとしていた僕はひんやりと心地よい空気を感じた。
しかしそれもあっという間のことで、後からやって来たうだるような湿気と熱気から逃げるべく、僕は居間へと向かった。
 居間の戸を開けると、当然のように両親がいた。父はすでに朝食を取り終えてコーヒーを飲みながら新聞を読み、母に至っては僕の弁当を作っている。
「おはよう」
「おう、おはよう」父がにこやかに言った。「早いんだな、今日は。」
 理由を説明する気などまるでない僕は「ちょっとね」と言って話を打ち切った。父のほうも特に気にするわけでもなく、新聞のほうに視線を戻した。
「あ、ちょっと、進」母がキッチンに向かいながら、振り向くことなく声を上げた。「今日で東京は梅雨明けだって。仙台も今週中には開けるらしいから、そろそろ自転車通学に戻しなさい」
「わかった」
 僕は短く答えて席についた。例年通り梅雨の間だけバス通学にしていたのだが、今年は雨の日が少なかったためにあまり利用しなかった。定期券代を払った母親が知ると不機嫌になるから言わないが、僕は存在すらすっかり忘れていたぐらいだ。
 僕はトーストにマーガリンを塗りながら、先週末のことを思い出す。
 金曜日。僕は偶然会った酔っ払い女子大生たちに同行し、彼女たちをその晩のターゲットにした。うまいこと一人の家へとお邪魔した僕は、入念な記憶調整の末ついに三人とセックスをした。そうしてあろうことか、そのうちの一名に中出ししてしまったのだ。
 思い返せば思い返すほど、どうしてあんなことをしてしまったんだという後悔の気持ちが湧き上がってくる。冷静に考えれば、せっかく頑張って三人の記憶を操作したのに、わざわざ彼女の体内に精子というその場に男性がいた動かぬ証拠を残すなど愚かにもほどがある。ひょっとしたら、彼女たちの呼気に含まれるアルコールで僕も少し酔っぱらって、判断を誤ってしまったのかもしれない。
 それにしても、瞳さんは大丈夫だったのだろうか。僕が瞳さんに中出しする前に、既に何度か射精しているから、あまり濃い精子が出たとは考えにくい。その後彼女の股から精液が溢れ出したのを確認しているし、ゆかりさんと春奈さんが吸い出していたのも考慮すると僕の精子が瞳さんの子宮内で着床する可能性はかなり低いのではないだろうか。射精数によって濃度が減ると言うのは、僕の予想でしかないが。
「父さん」僕は何の気なしに口を開いた。「赤ちゃんって、セックスしたら一発で出来るもんなの?」
 ぶはっ、と父が飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。同時に父の手にある新聞がコーヒー色に染まる。さらにその背後では、弁当を作る母の手の動きがぴたっと止まった。
 やばい。つい、よく考えずにNGな質問をしてしまった。
「いやあ、実は僕の友達の彼女が『生理が来ない』って言ってるらしくってさ。仲のいい友達だから、親身に聞いてあげてたんだけど、正直そんなこと言われてもよくわからなかったから、つい質問しちゃったよ。ごめん、変なこと聞いて。答えにくかったら、保健の先生にでも聞くから、気にしないで」
 僕は気まずい雰囲気を払拭するべく、慌てて話を付け足した。
「おお、そうか!友達の話じゃあ仕方ないな!」
 何が仕方ないのかさっぱりわからない。
 父はしどろもどろになっているらしい。
「ちょっと、お父さん」母が見かねた様子でぴしゃりと口をはさんだ。「もう進も高校生になったのよ。こういう話はこれから大事になってくるんだから、父親としてしっかり答えてあげて」
「う、うん、そうだな。父親として……」父はもごもごしながら言った。「でも、実は父さん、童貞だからよくわかんないな!」
 衝撃の発言だった。
 地球が爆発したかと思った。
 糞みたいな冗談だ。
 僕はしばらく反応出来ずに茫然としていたものの、母が強い口調で父親に注意し始めたところではっと我に返った。どうも父は、子供の前で性的な話題をするのが苦手なタイプらしい。
「まあ、そんなに簡単に出来るもんじゃあないだろう!」ややあって、父は再度口を開いた。「もちろん、その人の体質にも寄るけど、うちはお前が出来るまで三年近くかかってるからな。そんなポコポコ妊娠するんだったら、お前は今頃大学生だよ。深く気にするようなもんじゃないだろう!」
「お父さん!いい加減に……」
「ああ、母さん、わかってるわかってる。真面目にね」さっきまで卵焼きを切っていた包丁を振り上げながら怒りの形相を向ける母を、父は冷や汗をかきながらなだめた。「まあ、高校生カップルがそういうことをするなとは言わない。でもセックスするなら避妊は絶対だな。ノーコンドーム、ノーセックス。これは基本だな」
「ノーコンドーム、ノーセックス……」
「進、聞きなさい」母が真剣な顔をして言った。「セックスをするっていうことは、大きな責任が伴うのよ。進の言う通り、赤ん坊が出来るかもしれない。それは誰かが新しく生まれるその子を守って、育ててあげなきゃならないっていうこと。子供が大人になるまで、面倒を見なきゃならないってことなのよ。進はその子を育てるために、学校を辞めて働きに出る覚悟がある?女の子の両親に頭を下げて、結婚を申し込む度胸はある?まだ若い進の人生を、自分のためじゃなく家族のために使う勇気は?」
 僕は答えられず押し黙った。答えが無かったからじゃなく、答えが明らかだったからだ。僕にはこれからの人生をふいにしてまで、女の子に尽くそうという気概は無い。
 僕と母の間に挟まれながら気まずそうにしていた父は、残っていたコーヒーを飲みほして席を立った。読んでいた新聞も丁寧にたたんだものの、コーヒー塗れの新聞に今更誰かが手に取ることはなさそうだった。
「じゃあ、父さんは会社にいくけど」父はえへん、と咳払いして言った。「なんにせよ、子供じゃあ解決出来ない問題なんだよ。その、望まない妊娠っていうのはさ。だから、今回は友達の話だから進には直接関係ないんだろうけど、もしものことがあったら恥ずかしがらずに父さん母さんに相談してほしい。ひょっとしたら進の望むようには、いかないかもしれない。それでも、父さんたちは最大限努力してベストな結果が出るようにする。なぜなら」
 僕は顔を上げた。
「なぜなら、父さんたちは進に対して責任を取る覚悟があるからだ」
 父がにこりと微笑んだ。
 久しぶりに父のことをかっこいいと思った瞬間だった。
「そうよ、進」母はキッチンに向かい直ってから言った。「でもお父さん、パジャマから着替えてから出社してちょうだいね。会社までスーツを持っていくのは恥ずかしいから」
 最後までしまらない父だった。

 学校についてからも、僕はしばらく瞳さんについて考えていた。両親と話したおかげで、彼女が妊娠しているかもしれないという恐怖は薄れた。しかし、まだ大学に入ったばかりだろう彼女が退学して母親になる道を歩むという考えが、僕の頭から離れなかったのだ。
「おい、進ちゃん。大丈夫か、浮かない顔して」
 昼休みに入ったところで、背後から声がかかった。
 声の主は遠藤真だった。僕や友恵と同じ公営団地出身の幼馴染で、幼稚園では一緒だったものの小学校で一旦別れ、高校から再度同じ学校に通うことになったのだ。そのために真は僕の周囲で唯一、幼稚園時代の呼び名である「進ちゃん」を使っているレアな男なのだ。
「午前中の授業、ずっと心ここにあらずってな感じだったぜ」真は書生風の丸眼鏡を持ち上げながら言った。「ひょっとして、恋か?」
「そうだったらいいんだけどな」
「だったら何だよ。友ちゃんと喧嘩でもしたか?」
 真は僕から少し離れたところにある、空いた机のほうを顎でしゃくった。ちなみに「友ちゃん」というのも、言うまでもなく昔の友恵のあだ名である。
 僕はちらり、と友恵の席を見た。
 今日、友恵は学校を休んだ。担任によると体調不良らしく、長引くかもしれないとのことだ。先週の金曜、友恵が雨でずぶぬれになっているのは知っているから、ひょっとしたら本当に風邪を引いたという可能性もある。しかし、もちろん僕は友恵が単に体調不良だけで欠席したなどとは信じていない。
「なんにもないよ」
僕はさらりと嘘をついた。
真はしばらくいぶかしむような視線を僕に向けていたものの、問いただすつもりはないらしく「まあ、いいさ」と言って再度眼鏡を持ち上げた。
「なんにしても、あんまり暗い顔してると、幸運が逃げていくぜ。俺なんか、いつ如何なる時でもニコニコと愛嬌をふりまいているから、どうやら幸運の女神に愛されてしまったらしい」
 真はにやりとして言うと、そのまま制服の懐に手を突っ込むと、チケットのようなものを取り出して僕に突きつけた。
「なんだよ、それ」
「聞いて驚け」真は声を大にして言った。「仙台四十八手、宮本カスミちゃんとの握手券だ」
 真が言い終わると同時に、クラス全体にどよめきが広がり、すぐさまその手のアイドルのファンらしい男子女子が真の周りをぐるりと取り囲んだ。真のほうはこうなることを予想していたらしく、得意げにチケットを見せびらかしている。
「仙台四十八手は知ってるんだけどさ」僕はためらいがちに言った。「その、宮本カスミってのはどの子だっけ?ほら、例によって大人数のアイドルグループだから、あんまり一人一人までは把握してなくってさ」
 僕が恐る恐る尋ねると、真の周囲にいた人間が全員ぐるりと僕のほうを、信じられないという目つきで見た。僕はひるんで、逃げるように視線を外した。
「信じられない」
「空前絶後だ」
「次期センター候補筆頭と言われるカスミちゃんを知らないだなんて」
 まるで宇宙人と遭遇したかのような対応だった。
 僕はじりじりと後ずさって、きょろきょろと逃げ道を探した。
 すると、廊下から河合千夏さんが手招きをしている。
 僕は念のために自分の顔を指差して確認すると、河合さんはこくり、とうなずいた。どうやら待ち人は僕らしい。
「笑う門には福来る」真が仰々しく言った。「掴め、己の幸運を。どうやらそなたの目の前まで来ているらしい。俺は、俺とカスミちゃんとの愛を育む」
 偉そうにしている真をしり目に「悪い、ちょっと用事が出来た」と一言告げてから、僕は河合さんのほうに向かった。
「グッドラック」
 真が僕の背中に向けて言った。
「どうしたの、河合さん」
 僕は少し上ずった声で尋ねた。
 河合さんが僕に直接、それも周りに皆がいる教室で話しかけてくるのは、これが初めてだ。何か頼みごとなら、これを機会にお近づきになれれば最高だ。
「あの、さ」河合さんは話しづらそうに、ちらちらと周囲を見ながら言った。「その、ここじゃなんだから、良ければ屋上で話さない?」
 一瞬、時間が止まったように感じた。
 すぐにあちらこちらから、ひゅーひゅーとはやし立てる声と、ひそひそと何か噂をしているような声が聞こえ始めた。真に至っては、天に向けた親指を僕にかざして「グッド」の意を伝えている。
 これは、そういうことなのか?
 あの、憧れの河合千夏さんが、僕に告白しようとしているのか?
 僕は顔が火のように熱くなるのを感じながら「そうだね」と答えて、ぎくしゃくとした動きで廊下へでた。
「じゃあ、お、屋上へ……」
 僕は教室から顔を出したクラスメイトたちの無数の視線を背中に感じながら、河合さんと二人で逃げるように屋上へと向かった

       

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Neetsha