Neetel Inside ニートノベル
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「これは貸しよ!貸しだからね!」
 淫魔さんは不機嫌さを隠そうともせずに言った。
 僕は黙って、淫魔さんの三歩後ろを歩く。時刻は午後六時。風が強かったためか、昼時に灰色だった空は嘘のように晴れ、今は夕焼けが仙台の街を照らしている。
「すいません。本当にありがとうございました」
「ありがとうだけじゃ足りないわよ!」淫魔さんは歩幅を広げて、僕を置き去りにするように早足で歩く。「ちゃんとした見返りは後で必ず請求するとして、とりあえず、これからアーケードでかまぼこ奢ってよね!」
 淫魔さんはぷりぷりと怒りながら……そしてお尻をぷりぷりと振りながら、ファッションショーのモデルのように歩く。今日は普段のビキニではなく、日中に人間界で活動する時用のスーツを着ている。加えて、歩きにくそうな高めのヒールを難なく履きこなしている。
 僕たちは、ちょうど河合さんの家から二人で帰って来たところだった。
 河合さんの家を訪れた理由は、もちろん、菓子折りをもって謝りに行くためではない。彼女たちの事件に対する記憶を完全に抹消するためだ。他のふた家族についても、同様の作業を済ませている。
「まったく、無駄にエネルギー消費しちゃったわよ」
淫魔さんは心底不愉快そうに言った。
「……やっぱり、エネルギーを使わなきゃ出来ないことだったんですね」僕はためらいがちに尋ねた。「と言うことは、淫魔さんから悪魔さんに献上する分の生命エネルギーが目減りしたってことですかね?」
「当たり前でしょ!記憶の完全消去に加えて、あんたの過去の性行履歴から被害者を追跡するのにどれだけエネルギーを使ったと思ってるの?これからは心を入れ替えて、今までの倍以上の勢いで働いてもらうからね」
 淫魔さんは突きつけるように言った。自分のミスであることは明らかであるから、僕は黙って彼女の要求を呑むしかなかった。
 淫魔さんによると、僕がセックスをすることで生命エネルギーを対象から得ると同時に、僕の生命エネルギーも微量ながら対象に残るらしい。そのわずかなエネルギーを道しるべにして、淫魔さんは目標の三家庭すべての位置を特定したのだ。
 それからは問題の記憶を消去するだけだった。被害者三人が僕に会った日からの数日間のすべての記憶を完全に抹消した。事件に無関係の記憶まで消してしまったものの、金曜日から数えてたかだか三日間の記憶が無くなったところで、日常生活に支障はきたさないというのが淫魔さんの意見だった。
「あの、それから」最終的に河合さんの記憶を消す段階になって、僕は追加でもう一つ頼んだ。「彼女の、その、僕に対する想い……恋愛感情も消してください」
「は?嫌よ、そんなの。面倒くさい」と淫魔さんは即座に拒否したものの、結果としては僕の言った通りにしてくれた。
 これで、河合さんは、僕のお姉さんに対する非道はおろか、彼女が僕を好きだったことさえ覚えていないのだ。
 内心むなしく感じながらも、感傷に浸る時間は無かった。淫魔さんの命令で、記憶を消した全員から出来るだけ生命エネルギーを吸収しなければならなかったからだ。だから僕は、河合千夏さん、春奈さん、そしてその両親……当然、父親も含まれる……、そしてもちろんその他二家族ともセックスをした。そこに、エッチな感情を持ち合わせる余裕はなかった。自然には勃起さえしなかったところを、淫魔さんの魔力で無理やり勃たせられたのだ。
生命エネルギーの受け渡しに必要なのは、供給者が性的に興奮している状態で両者の体の一部を結合させることだ。だから、本来であれば魔力で男性陣を性的に興奮させた状態にしつつ、僕が彼らの耳にでも指を突っ込めば受け渡しは完了したはずだったものの、僕への罰として、各家庭の男性陣の肛門にイチモツを突っ込むはめになった。
 正直に言えば、予想外に嫌悪感も不快感も抱かなかった。
 やはり、河合さんから告白されて、自首する猶予も与えてもらって、それでもなお自らの保身のために行動してしまった自分に、どうしようもなく嫌気がさしたからだろうか。
 淫魔さんにかまぼこをご馳走して別れてから、僕はまっすぐ家には帰らなかった。何か用事があったわけでは、もちろんない。しかし、何か特別理由があったわけでもない。もしかしたら、ただブラブラと歩きたかっただけかもしれない。
 僕は雑踏の中を、すれ違う人たちの肩を避けもせずに歩いた。ぶつかった人たちがいぶかしむような視線を向けてくる。ある人は躊躇いもせずに睨んでくる。
 そうだ。これでいい。こうしているうちに、その辺の不良かヤクザにでもからまれるだろう。ひょっとしたらボコボコにのされた挙句財布を取られるかもしれない。それこそが目的なのだ。出来るだけ無残にやられて、出来るだけ惨めになりたい。
「おい、てめー。待てよ、コラ」
 しばらくもしないうちに、いかにもヤンキーと言った出で立ちの男が掴みかかってきた。その横には、これまたいかにもギャルという感じの女が、妙に鼻にかかった声で「やっちゃえ~」と男を煽っている。
「どこ見て歩いてんだ、コラ」
 詰め寄る男の前で、僕は何も言わずにへらへらとしていた。
 こいつらは、間違いなく人間のクズだ。しかし、河合さんたちに僕がした仕打ちを考えると、僕はこいつら以下のクズ野郎だ。
 僕の態度が気に食わなかったのか、すぐに男は僕を殴り飛ばした。痛い。頭がガンガンして鼻血が出ている。僕が盛大に転げたために、僕たちの周りだけ人々が迂回して歩いている。ダイエーの前の売り子さんたちが、心底迷惑そうに僕の方を見ている。
 男が僕の顔に唾を吐きかけた。
 ああ、惨めだ。いい気分だ。僕は、許されないような悪いことをした最低の人間だ。罰せられて当然だ。そして同時に、僕は可哀想だ。
 僕は、抱いていた罪の意識が、徐々に違うものへと変質していくのを感じていた。最初はただ「罪」でしかなかったものが、僕が可愛そうであるための「条件」へと、僕の脳内で都合よく書き換えられているのだ。
 だが、まだだ。まだ惨めさが足りない。
 僕はふらつく足取りで、しかし確かに自分の顔をヤンキーの前へと突き出した。
「なんだあ、てめー。もういっぺん殴られたいのか、コラ」
 僕は垂れてきた鼻血をすすって、男の顔目がけて吐き出した。男の顔が怒りでみるみるうちに変色していく。これは、ひょっとしたら殺人事件になるかもしれない。被害者はもちろん、僕だ。
 男が僕の喉元を片手で締め上げる。僕の体を持ち上げそうな勢いだ。そうしてもう一方の手を大きく振りかぶった。男の怒りはマックスに達しているらしく、歯ぎしりさえ聞こえてくる。周囲からは悲鳴が聞こえ始める。
「やめてください!」
 どこからか、声が聞こえたと思うが早いが、僕は何者かに体が突き飛ばされるのを感じた。聞き覚えのある声だ。はっとして顔を上げると、僕とヤンキーの間に女性が立ちふさがっていた。女性は震えながら、しかし僕を断固として守ろうとしている。
「うちの子に何をするんですか!」女性の声は裏返っていた。「警察を呼びますよ!」
 女性の声に同調するように、周囲からヤジが飛び始めた。すると、自分たちに不利だと感じたらしいヤンキーカップルは、巻き舌で聞き取りにくい捨て台詞を吐いてさって言った。彼らが去った後、通りには女性を称える拍手が鳴り響いた。
「大丈夫?立てる、進ちゃん?」
 女性は心底僕を気遣うように、ゆっくりと僕を起き上がらせた。
「ありがとうございます」
僕は顔を上げて彼女のほうを見た。
女性は、僕の母ではなかった。
「……友恵のお母さん」
 僕を守ってくれたのは、斉藤友恵の母だった。中学の卒業式でちらりと顔を見て以来、もう三か月は会っていなかった。
「本当に大変だったわね、まったく」友恵の母は鼻にかかった声で言った。「おばちゃんも泣きそうなぐらい怖かったのよ」
 未だに震えながら、涙目で話す友恵の母に、僕は何と言っていいのかわからなかった。泣きたかったのは、僕のほうだからだ。
 しばらく何も出来ずにいると、ようやく気を取り直した友恵の母が、僕の顔の怪我に気付いて小さく悲鳴を上げた。
「大けがしてるじゃない!」
「いや、大したことないです」僕は慌てて言った。「本当、別に、鼻血が出ただけなんで」
「嘘おっしゃい!傷もついてるじゃない」
 言うが早いが、彼女は僕の手を取るとずかずかと歩き始めた。僕の手を握る彼女は、ひょっとしたらヤンキーと相対していた時よりも力がこもっていたかもしれない。
 僕が何を言う暇もないうちに、友恵の母は僕を車に連れ込むとそのまま発車した。僕が何を言うでもなく黙っているうちに、車は再び停車した。時間にして二十分もしないうちに、僕は友恵の家の前にいた。
「気が動転してたから、ちょっとスピード出し過ぎたわね」友恵の母はようやく笑顔を取り戻した。「久しぶりにあがってちょうだい。手当をしなきゃならないし。おうちには連絡しておくから」
 僕は「はあ」と気の抜けた返事をして、友恵の母に続いて家に入った。
 友恵の家に来るのは本当に久しぶりだった。僕が思い出せる限りでは、小学校の卒業記念パーティに呼ばれて来たのが最後のはずだ。思春期に入ったとたん、何となくお互いの家まで行くのが気恥ずかしくなって、中学時代には全く訪れた記憶が無い。
 玄関を抜けてリビングへと案内された僕は、室内の変わり様に驚いた。家具の配置こそ以前来た時と同じものの、全体的に飾り付けが大人っぽく、そして女性らしくなっている。加えて、立てかけられたいくつかの写真には、友恵と一緒に僕の知らない人たちが写っている。
「ちょっとかけて待っててね。今、お茶用意するわ」
「あ、お構いなく。ありがとうございます」
 以前よりも大人として僕を扱ってくれる友恵の母に、僕はぎこちなく対応する。考えてみれば、高校に入ってからいつも誰かとセックスをするために出歩いていた僕は、友達の家に行くこと自体めったになかった。
「あんまり変わってないでしょう」
 友恵の母が、キッチンのほうからお盆を持ってきた。その上には湯呑が二つと急須が一つ。彼女は、僕と自分の二人分お茶を注いで、一つを僕の前に置いた。
 僕はお礼を言って、差し出された湯呑に手を伸ばした。
 ぬるい。たぶん友恵の母がわざと冷ましたのだ。これから梅雨明けで、日増しに暑くなっている中での配慮だろう。僕の反応に気付いたのか、彼女は「まだ麦茶用意してなくって」と申し訳なさそうに言った。
 いつもそうだった。僕の記憶の中で、友恵の母と言えばやさしく、おしとやかで、逆に怒るのが苦手であるような女性だった。団地育ちの僕は、何か問題を起こせば多くの親御さんからかわるがわる怒鳴られていた。しかし友恵の母だけは、まず子供の話を最後まで聞いて、後のことはそれから一緒に考えようというタイプだった。
「進ちゃん、友恵と喧嘩したでしょう」
お茶をすする僕を見つめながら、友恵の母は口を開いた。湯呑越しに僕を覗く目からは、僕を試しているような感じがした。
僕が黙ってうなずくと、友恵の母は「やっぱり」と言って勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「どうして……?」
 僕は思わず尋ねた。しかし、口をついて出た「どうして」の先に続く言葉は、自分でもわからなかった。たぶん、聞きたいことが多すぎたのだ。
「友恵のことは何でもわかるわよ」友恵の母はお茶菓子の包みを開けながら答える。「なんてったって、わたしはあの子の母親なんですから」
 よくわからない彼女の返答に、僕は内心パニックになっていた。
 彼女はいったいどこまで知っているのだろう?ひょっとして、僕が、友恵に無理やりフェラチオをさせたことを聞いているのだろうか。それとも僕と喧嘩したとだけ、友恵から聞かされているのだろうか。あるいは、僕の挙動を不信に思って鎌をかけてみたのかもしれない。
 友恵の母はお茶をすすって、ほっと息を吐いた。
「嘘よ」友恵の母は笑って言った。「本当は年を取るごとにわからなくなってるわ……あの子のこと。昔は、美味しいものを食べたから嬉しい、先生に怒られたから悲しい、友達と喧嘩したから怒っているで済んだのにね。でも今回は別よ。おばちゃんは、ああ、これは絶対進くんと喧嘩したんだなって確証があったわ。友恵が進くん以外のことでここまで悩むことないもの」
「そう……なんですか」
 僕は自信無く言った。
「そうよ。友恵はあれで結構面倒臭がりだから、許せない相手には時間を使わないのよ。許せないと思ったら、もう絶交よ。だから、例え許すのに時間がかかったとしても、許そうという気持ちがある時は許す時なの。そして、今までの友恵の人生で時間をかける相手は、進ちゃんだけなのよ……なぜなら、例えどんな酷い仕打ちをされたとしても、友恵は進ちゃんのことだけは許す気があるから」
 友恵の母は、諭すように言った。
 どきっと、僕は心臓が大きく鳴るのを感じた。
「正直今回、進ちゃんと友恵が何について喧嘩したのかは聞いてないわ。でも友恵は、もしも相手を許せないなら、悩まないのよ。だって、嫌なら嫌で、もうこれから一生その相手と関わらなければいいんだもの。でも、誰にでも、嫌なことをされてでも許したい相手がいるものなのよ」
 僕は答えなかった。何となく、友恵の母に意見するのは不遜であるように感じたからだ。
 僕の反応を善しと取ったのか悪しと取ったのか知れないが、友恵の母は仕切り直すように言った。
「そうだ。進ちゃんに見せたいものがあるのよ」
 友恵の母は満面の笑みを浮かべながら、いそいそとテレビの周囲を漁り始めた。何を見せようと言うのか、しばらくの間僕はいぶかしんでいたが、彼女は数分もしないうちに一枚のDVDを取り出した。ディスクには「友恵五歳の誕生会」とラベリングされている。
「これ見るのも久しぶりよね」友恵の母はDVDをプレイヤーに挿入しながら言う。「いつもは友恵が邪魔して最後まで見れなかったからね。今がチャンスよ」
 彼女が話し始めると同時に、映像もスタートした。古いビデオをDVD化したからか、雑音と共に砂嵐が入り混じっている。しかし、三十秒もするとまともに見られるようになった。
 DVDは僕の記憶通りに進行していく。最初は友恵だけが大写しになって、五歳になった感想を言う。それから、集まった友恵の友人たちが順繰り自己紹介していく。自己紹介と同時に、一人一人が友恵のために出し物をする。僕の出し物は、おもちゃ屋で購入した簡単なマジックだった。この年になって改めて安っぽい仕掛けのマジックを見るのは、なんだかむず痒いような、恥ずかしいものがあったが、それでも僕に拍手を送っている友恵他一同の感動した顔を見ることで何とかこらえられた。
 映像が切り替わった。友恵が五本の蝋燭が刺さったバースデイケーキに向かっている。部屋中の灯りが消され画面が一瞬暗くなったが、カメラはすぐに蝋燭の光にフォーカスした。僕を含めた友恵の幼馴染は、ケーキを食べるのが待ちきれないと言う表情をしている。
「友恵ちゃん、お誕生日おめでとう!」
 掛け声とともに、画面の友恵が蝋燭の火を吹き消す。一度では吹き消しきれず、二度、三度にわたって吹き消すのを、どうやらカメラ役らしい友恵の父が笑っているのが聞こえる。
 僕がしたことを、友恵の両親が知ったらどう思うだろう。最愛の娘に対して、幼馴染であることを利用して近づいた上に、催眠術をかけて陰茎をその唇に加えさせたとしったとしたら、彼らはどう思うだろう。怒り狂って僕を八つ裂きにするのだろうか。それとも法に訴えて、多額の慰謝料を請求するのだろうか。
 僕はちらり、と友恵の母の顔を見た。画面を見つめていた友恵の母は、一瞬僕の方を向いたものの、すぐにビデオのほうへ視線を戻した。顔には、優しげな微笑みを浮かべている。僕も彼女にならって、再び画面へと向かった。
 あっと僕は小さく悲鳴を上げた。
 ビデオはちょうど、友恵が僕の恥を暴露する場面に差し掛かっていた。画面が切り替わると同時に気が付いた僕は、すぐに目をそむけた。スピーカーから聞こえる音声だけが、僕の耳に響いていた。
「すすむちゃんのおちんちんがね、おっきくなってたの!ぞうさんみたいに、ぱおーんってなってたの!」
 恐る恐る目を開くと、画面の中で友恵と同じく五歳の僕が、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。目にはいっぱいの涙を浮かべている。過去の自分だとわかっていながらも、僕はなんだか気の毒になった。
 五歳当時の僕が、勃起していたことの意味など知る由もない。もちろん友恵だってそうだ。幼稚園児だった友恵とお風呂に入った程度で性的に興奮するとは思えないから、僕の勃起はなんらかの生理的反応だったんだろう。それでも、単純に自分のプライベートな部分が普段と違う形状をしていたことを、皆の前で指摘されたのがたまらなく恥ずかしかったのだ。
 駄目だ。もうこれ以上、見ていられない。
 僕は自分の頬が熱くほてっているのを感じながら、すっとリモコンに手を伸ばした。しかし僕がリモコンをつかむと同時に、友恵の母が僕の拳を覆うようにして、僕の動きを止めた。顔を上げると、友恵の母は相変わらずの微笑を浮かべたまま、僕に映像を見るように促した。
 ビデオは、友恵の暴露によって傷ついた僕を慰める場面になっていた。すっかり落ち込んでしまったようで、涙をぽろぽろと零し、周囲の声にも耳を貸そうとしていない。
 思わず僕はリモコンを取り落して、がしゃん、という音でハッと我に返った。友恵の母はとっくに僕の手を抑えるのを止めていた。彼女は、まるでリモコンが音を立てたことにさえ気が付いていないという風に、食い入るように画面を見つめている。
 この場面を見るのは初めてだった。いつも友恵が暴露するあたりでテープを止めていたから、それ以降の映像を見るなんてことは今まで起こりえなかったのだ。
 おだてるようにして何とか僕を元気づけようとしている誕生会の参加者たちを無視するように、五歳の僕はついに声を上げて泣き出した。ビデオからは、友恵の両親が「困ったね」と子供たちに隠れて相談しているのが聞こえてくる。
 その時、友恵がすくっと立ち上がって僕の方へと歩み寄った。
 友恵は、号泣モードに入っている僕を抱きしめて、よしよしと頭を撫でた。泣きはらして真っ赤になった瞼を開きながら、幼い僕は友恵のほうへ振り返った。テレビ画面いっぱいに、友恵と僕が向かい合うシーンが映し出されている。
「すすむちゃん、なかないで」友恵が、彼女の母と同じように優しい声で言った。「ちんちんがおおきくなっちゃっても、ともえ、すすむちゃんのことだいすきだよ!」
 そして友恵は、僕の頬にそっとキスをした。
 僕は一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 画面に映る五歳の僕も同様に茫然とした顔を浮かべていたものの、すぐに何かを納得したような表情をして、自分の唇を友恵にゆだねた。それはほんの数秒だった。二人の唇が、触れるか触れないかというところで、ひゅーひゅーとはやし立てるような声があがって、二人は急いで離れた。そうして、友恵はハッと気づいたようにカメラのほうを見るが早いが、「止めて!」と声を上げて、カメラに掴みかかった。
 映像はそこで途切れた。
 プレイヤーが音もなく止まった。真っ青に染まったテレビ画面には、トップに戻るかどうかというメッセージが浮かんでいる。
 僕はふと、友恵の母のほうを見た。にやにやと笑いながら、僕にハンカチを差し出している。何を考えるでもなく、彼女の手からハンカチをとって、それから僕は自分が涙を流していることに気が付いた。
 はらはらと、滝のように涙が流れていた。まるで、気づかなかった僕自身がどうかしているみたいだった。
 なぜ涙がこぼれたのだろう。理由は、きっといくつもあるに違いない。友恵に対する罪悪感を持ちながら、幼く無垢な彼女の姿を見て自分の罪に気が付いたからか。あるいは、昔とは変わってしまった、穢れた僕自身を自覚して諸行無常の理を悟ったからか。はたまた、現在自分が感じている罪を、ビデオに映る友恵が許してくれた気がしたからか。
 声を上げて嗚咽する僕の背中を、友恵の母が優しく撫でる。その手は、優しさにあふれているかのように温かに感じられた。
「大丈夫よ、進ちゃん」僕を慰めるというよりは戒めるように、しかし優しい口調で友恵の母は言った。「友恵は進ちゃんのことを許すわよ。あの子は、許してくれる。わかるのよ。なんたって、あたしはあの子の母親だもの。そりゃあ、もちろんわからないこともあるけど、わかる時は何だってわかるわ。友恵はね、進ちゃんのことを許す。ただ、それには少し時間がかかるかもしれない。でも、ひょっとしたら、進ちゃんの行動によっては、それは速まるかもしれない」
 友恵の母は、僕の背中をリズムに乗せて叩いた。
 止めどなく流れる涙と共に、胸のつかえが取れたような気がした。
 しばらく泣きはらしてから、ようやく落ち着いた僕は、友恵の家を離れることにした。目元には、まだ赤く涙の後が残っている。
「もう行くの?友恵に会わなくて大丈夫?」
「はい」僕は振り返って、玄関越しに友恵の母を見つめた。「先にやらなくちゃいけないことが出来たので」
「そう。じゃあ、それまで友恵のことは任せて。あたしだって、これでも友恵の母親なんだから」
 胸を張って告げる友恵の母は、何故かとても頼もしく見えた。
「ありがとうございます」
 僕は深く頭を下げて、それから改めて斉藤家を後にした。
 僕は一歩一歩、そしてまっすぐと自宅へと進んでいく。その足取りは、今日一日のいつよりも軽い。憑き物が落ちたという表現は、まさに今日の僕にこそふさわしい。
 淫魔と歩いていた時の夕日はいつの間にかなくなり、代わりに真ん丸の月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。何となく、僕の気持ちをよりすっきりとさせてくれるような気がした。
 よし。僕は淫魔を辞めよう。
 頭上の月に向かって宣言するように、僕は固く決心した。

       

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Neetsha