Neetel Inside ニートノベル
表紙

つい出来心で淫魔になってしまった。
その五「愛と罪と決別と」

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 田所君。
 ああ、瞳さんじゃないですか。どうしたんです、こんなところで?
 ほら、大学を辞めることにしたから、退学届を出して来たのよ。
 ええっ、瞳さん大学辞めちゃうんですか!まだ入ったばかりなのに。
 そうなのよ。でも、他に大事なことが出来たから。
 へえ、大変ですね。
 あら、大変だなんて、ずいぶんな言い草じゃない。
 そうですか?気に障ったなら謝ります。すいません。
 別に謝らなくてもいいけど、他人事みたいな言い方は感心しないわ。
 すいません。でも、瞳さんとはこないだ知り合ったばかり、と言うか一度お会いしただけですよね?正直ちょっとプライベートなところまではわからないんですけど……。
 何を言うの。知り合った日数と愛情の深さは必ずしも一致しないでしょ。合コンで意気投合したカップルと十年来の仇だったら、カップルのほうが仲良しのはずよ。
 まあ、それはそうかもしれませんけど。
 そういうこと。さあ、それじゃあ行きましょうか。
 えっ、行くってどこへ?
 決まってるじゃない。あたしの家よ。
 瞳さんのご自宅ですか?なんでまた。
 とぼけないで。結婚の報告に行くんでしょ。
 結婚?誰と誰が結婚するんです?
 あたしとあなた。黒崎瞳と田所進よ。
 えっ?
 ひょっとして忘れちゃってた?
 忘れちゃったも何も、僕は瞳さんと交際したことはないはずなんですけど。
 何言ってるのよ。交際よりももっと重要な既成事実があるじゃない。
 既成事実?
「見なさい」
瞳さんは大きく膨らんだお腹を撫でながら言った。
「あなたの子よ」
     *
 嫌な夢を見た。
妊娠した瞳さんに結婚を迫られる夢だ。
僕はゆっくり起き上がると、目覚まし時計を確認した。月曜日、時刻は六時半。設定したアラームよりも三十分早く目覚めてしまった。もちろん、今しがた見たばかりの夢のせいであることは疑いようがない。
うんざりした気持ちのまま、僕はベッドから芋虫のように這い出て窓を開けた。一瞬、そよ風が吹いて、寝汗で全身ぐっしょりとしていた僕はひんやりと心地よい空気を感じた。
しかしそれもあっという間のことで、後からやって来たうだるような湿気と熱気から逃げるべく、僕は居間へと向かった。
 居間の戸を開けると、当然のように両親がいた。父はすでに朝食を取り終えてコーヒーを飲みながら新聞を読み、母に至っては僕の弁当を作っている。
「おはよう」
「おう、おはよう」父がにこやかに言った。「早いんだな、今日は。」
 理由を説明する気などまるでない僕は「ちょっとね」と言って話を打ち切った。父のほうも特に気にするわけでもなく、新聞のほうに視線を戻した。
「あ、ちょっと、進」母がキッチンに向かいながら、振り向くことなく声を上げた。「今日で東京は梅雨明けだって。仙台も今週中には開けるらしいから、そろそろ自転車通学に戻しなさい」
「わかった」
 僕は短く答えて席についた。例年通り梅雨の間だけバス通学にしていたのだが、今年は雨の日が少なかったためにあまり利用しなかった。定期券代を払った母親が知ると不機嫌になるから言わないが、僕は存在すらすっかり忘れていたぐらいだ。
 僕はトーストにマーガリンを塗りながら、先週末のことを思い出す。
 金曜日。僕は偶然会った酔っ払い女子大生たちに同行し、彼女たちをその晩のターゲットにした。うまいこと一人の家へとお邪魔した僕は、入念な記憶調整の末ついに三人とセックスをした。そうしてあろうことか、そのうちの一名に中出ししてしまったのだ。
 思い返せば思い返すほど、どうしてあんなことをしてしまったんだという後悔の気持ちが湧き上がってくる。冷静に考えれば、せっかく頑張って三人の記憶を操作したのに、わざわざ彼女の体内に精子というその場に男性がいた動かぬ証拠を残すなど愚かにもほどがある。ひょっとしたら、彼女たちの呼気に含まれるアルコールで僕も少し酔っぱらって、判断を誤ってしまったのかもしれない。
 それにしても、瞳さんは大丈夫だったのだろうか。僕が瞳さんに中出しする前に、既に何度か射精しているから、あまり濃い精子が出たとは考えにくい。その後彼女の股から精液が溢れ出したのを確認しているし、ゆかりさんと春奈さんが吸い出していたのも考慮すると僕の精子が瞳さんの子宮内で着床する可能性はかなり低いのではないだろうか。射精数によって濃度が減ると言うのは、僕の予想でしかないが。
「父さん」僕は何の気なしに口を開いた。「赤ちゃんって、セックスしたら一発で出来るもんなの?」
 ぶはっ、と父が飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。同時に父の手にある新聞がコーヒー色に染まる。さらにその背後では、弁当を作る母の手の動きがぴたっと止まった。
 やばい。つい、よく考えずにNGな質問をしてしまった。
「いやあ、実は僕の友達の彼女が『生理が来ない』って言ってるらしくってさ。仲のいい友達だから、親身に聞いてあげてたんだけど、正直そんなこと言われてもよくわからなかったから、つい質問しちゃったよ。ごめん、変なこと聞いて。答えにくかったら、保健の先生にでも聞くから、気にしないで」
 僕は気まずい雰囲気を払拭するべく、慌てて話を付け足した。
「おお、そうか!友達の話じゃあ仕方ないな!」
 何が仕方ないのかさっぱりわからない。
 父はしどろもどろになっているらしい。
「ちょっと、お父さん」母が見かねた様子でぴしゃりと口をはさんだ。「もう進も高校生になったのよ。こういう話はこれから大事になってくるんだから、父親としてしっかり答えてあげて」
「う、うん、そうだな。父親として……」父はもごもごしながら言った。「でも、実は父さん、童貞だからよくわかんないな!」
 衝撃の発言だった。
 地球が爆発したかと思った。
 糞みたいな冗談だ。
 僕はしばらく反応出来ずに茫然としていたものの、母が強い口調で父親に注意し始めたところではっと我に返った。どうも父は、子供の前で性的な話題をするのが苦手なタイプらしい。
「まあ、そんなに簡単に出来るもんじゃあないだろう!」ややあって、父は再度口を開いた。「もちろん、その人の体質にも寄るけど、うちはお前が出来るまで三年近くかかってるからな。そんなポコポコ妊娠するんだったら、お前は今頃大学生だよ。深く気にするようなもんじゃないだろう!」
「お父さん!いい加減に……」
「ああ、母さん、わかってるわかってる。真面目にね」さっきまで卵焼きを切っていた包丁を振り上げながら怒りの形相を向ける母を、父は冷や汗をかきながらなだめた。「まあ、高校生カップルがそういうことをするなとは言わない。でもセックスするなら避妊は絶対だな。ノーコンドーム、ノーセックス。これは基本だな」
「ノーコンドーム、ノーセックス……」
「進、聞きなさい」母が真剣な顔をして言った。「セックスをするっていうことは、大きな責任が伴うのよ。進の言う通り、赤ん坊が出来るかもしれない。それは誰かが新しく生まれるその子を守って、育ててあげなきゃならないっていうこと。子供が大人になるまで、面倒を見なきゃならないってことなのよ。進はその子を育てるために、学校を辞めて働きに出る覚悟がある?女の子の両親に頭を下げて、結婚を申し込む度胸はある?まだ若い進の人生を、自分のためじゃなく家族のために使う勇気は?」
 僕は答えられず押し黙った。答えが無かったからじゃなく、答えが明らかだったからだ。僕にはこれからの人生をふいにしてまで、女の子に尽くそうという気概は無い。
 僕と母の間に挟まれながら気まずそうにしていた父は、残っていたコーヒーを飲みほして席を立った。読んでいた新聞も丁寧にたたんだものの、コーヒー塗れの新聞に今更誰かが手に取ることはなさそうだった。
「じゃあ、父さんは会社にいくけど」父はえへん、と咳払いして言った。「なんにせよ、子供じゃあ解決出来ない問題なんだよ。その、望まない妊娠っていうのはさ。だから、今回は友達の話だから進には直接関係ないんだろうけど、もしものことがあったら恥ずかしがらずに父さん母さんに相談してほしい。ひょっとしたら進の望むようには、いかないかもしれない。それでも、父さんたちは最大限努力してベストな結果が出るようにする。なぜなら」
 僕は顔を上げた。
「なぜなら、父さんたちは進に対して責任を取る覚悟があるからだ」
 父がにこりと微笑んだ。
 久しぶりに父のことをかっこいいと思った瞬間だった。
「そうよ、進」母はキッチンに向かい直ってから言った。「でもお父さん、パジャマから着替えてから出社してちょうだいね。会社までスーツを持っていくのは恥ずかしいから」
 最後までしまらない父だった。

 学校についてからも、僕はしばらく瞳さんについて考えていた。両親と話したおかげで、彼女が妊娠しているかもしれないという恐怖は薄れた。しかし、まだ大学に入ったばかりだろう彼女が退学して母親になる道を歩むという考えが、僕の頭から離れなかったのだ。
「おい、進ちゃん。大丈夫か、浮かない顔して」
 昼休みに入ったところで、背後から声がかかった。
 声の主は遠藤真だった。僕や友恵と同じ公営団地出身の幼馴染で、幼稚園では一緒だったものの小学校で一旦別れ、高校から再度同じ学校に通うことになったのだ。そのために真は僕の周囲で唯一、幼稚園時代の呼び名である「進ちゃん」を使っているレアな男なのだ。
「午前中の授業、ずっと心ここにあらずってな感じだったぜ」真は書生風の丸眼鏡を持ち上げながら言った。「ひょっとして、恋か?」
「そうだったらいいんだけどな」
「だったら何だよ。友ちゃんと喧嘩でもしたか?」
 真は僕から少し離れたところにある、空いた机のほうを顎でしゃくった。ちなみに「友ちゃん」というのも、言うまでもなく昔の友恵のあだ名である。
 僕はちらり、と友恵の席を見た。
 今日、友恵は学校を休んだ。担任によると体調不良らしく、長引くかもしれないとのことだ。先週の金曜、友恵が雨でずぶぬれになっているのは知っているから、ひょっとしたら本当に風邪を引いたという可能性もある。しかし、もちろん僕は友恵が単に体調不良だけで欠席したなどとは信じていない。
「なんにもないよ」
僕はさらりと嘘をついた。
真はしばらくいぶかしむような視線を僕に向けていたものの、問いただすつもりはないらしく「まあ、いいさ」と言って再度眼鏡を持ち上げた。
「なんにしても、あんまり暗い顔してると、幸運が逃げていくぜ。俺なんか、いつ如何なる時でもニコニコと愛嬌をふりまいているから、どうやら幸運の女神に愛されてしまったらしい」
 真はにやりとして言うと、そのまま制服の懐に手を突っ込むと、チケットのようなものを取り出して僕に突きつけた。
「なんだよ、それ」
「聞いて驚け」真は声を大にして言った。「仙台四十八手、宮本カスミちゃんとの握手券だ」
 真が言い終わると同時に、クラス全体にどよめきが広がり、すぐさまその手のアイドルのファンらしい男子女子が真の周りをぐるりと取り囲んだ。真のほうはこうなることを予想していたらしく、得意げにチケットを見せびらかしている。
「仙台四十八手は知ってるんだけどさ」僕はためらいがちに言った。「その、宮本カスミってのはどの子だっけ?ほら、例によって大人数のアイドルグループだから、あんまり一人一人までは把握してなくってさ」
 僕が恐る恐る尋ねると、真の周囲にいた人間が全員ぐるりと僕のほうを、信じられないという目つきで見た。僕はひるんで、逃げるように視線を外した。
「信じられない」
「空前絶後だ」
「次期センター候補筆頭と言われるカスミちゃんを知らないだなんて」
 まるで宇宙人と遭遇したかのような対応だった。
 僕はじりじりと後ずさって、きょろきょろと逃げ道を探した。
 すると、廊下から河合千夏さんが手招きをしている。
 僕は念のために自分の顔を指差して確認すると、河合さんはこくり、とうなずいた。どうやら待ち人は僕らしい。
「笑う門には福来る」真が仰々しく言った。「掴め、己の幸運を。どうやらそなたの目の前まで来ているらしい。俺は、俺とカスミちゃんとの愛を育む」
 偉そうにしている真をしり目に「悪い、ちょっと用事が出来た」と一言告げてから、僕は河合さんのほうに向かった。
「グッドラック」
 真が僕の背中に向けて言った。
「どうしたの、河合さん」
 僕は少し上ずった声で尋ねた。
 河合さんが僕に直接、それも周りに皆がいる教室で話しかけてくるのは、これが初めてだ。何か頼みごとなら、これを機会にお近づきになれれば最高だ。
「あの、さ」河合さんは話しづらそうに、ちらちらと周囲を見ながら言った。「その、ここじゃなんだから、良ければ屋上で話さない?」
 一瞬、時間が止まったように感じた。
 すぐにあちらこちらから、ひゅーひゅーとはやし立てる声と、ひそひそと何か噂をしているような声が聞こえ始めた。真に至っては、天に向けた親指を僕にかざして「グッド」の意を伝えている。
 これは、そういうことなのか?
 あの、憧れの河合千夏さんが、僕に告白しようとしているのか?
 僕は顔が火のように熱くなるのを感じながら「そうだね」と答えて、ぎくしゃくとした動きで廊下へでた。
「じゃあ、お、屋上へ……」
 僕は教室から顔を出したクラスメイトたちの無数の視線を背中に感じながら、河合さんと二人で逃げるように屋上へと向かった

     

 午前中まで降っていた雨のせいか、普段なら賑わうはずの屋上には人っ子一人いなかった。もう雨自体は上がっているものの、あちこちに水たまりが出来ているし、雲の様子を見る限りまたいつ降り出すかわからない。天気予報によると、今日は曇り時々雨だという話だ。
 屋上に着くが早いが河合さんはきょろきょろと周囲を確認して、念を押すように階段へと続く扉を閉めた。どうやら、よっぽど内密の話らしい。僕は彼女の態度から会話の内容を勝手に推測して、一人心の中でドキドキしていた。
「ごめんね、お昼時に呼び出しちゃって」
 河合さんは本当に申し訳なさそうに言った。
 謝る姿もまた、スポーツ少女らしくさっぱりしていると言うか、とにかく河合さんらしい美しさで、僕は猛烈に興奮し始めていた。
「いいんだよ、別に」僕は出来るだけ平然を装った。「それで、話って言うのは?わざわざ誰もいない屋上まで来たってことは、よっぽど大事なことなんだろうけど」
 そう。今、この屋上には僕と河合さんの二人っきりなのだ。このシチュエーションだけで僕はご飯三倍はいける。彼女の用事が済んだら、催眠術をかけて屋上で青姦するのもいいかもしれない。いや、ひょっとしてこれが告白だとしたら、催眠術無しでセックス出来るということもありうる。
「実はちょっと言いづらい話なんだけどさ。あたし自身、まだちょっと頭の生理がついてなくって。だから支離滅裂になっちゃうかもしれないんだけど」
河合さんは目を伏せた。
「大丈夫。ちゃんと最後まで聞くから」
「……うん、ありがとう。じゃあ単刀直入に聞く」河合さんが顔を上げた。迷いのない、まっすぐに相手を射るような鋭い目つきをしていた。「田所、先週の金曜日の夜、どこで、何してた?」
 は?と、僕は困惑を露わにした。
 僕は河合さんが何を尋ねてきたのか理解出来ず、思わず質問をオウム返しに尋ね返した。しかし、彼女は「その通り」と頷くだけだった。
 金曜日の出来事と言えば、記憶に新しいというより忘れたくても忘れられない、僕が国分町に繰り出した挙句瞳さんに中出しをした日だ。しかし、どうしてまた河合さんがそんなことを尋ねてくるんだろう?
「金曜日は家にいたはずだよ」僕は自分のアリバイ工作通りに答えた。「よく覚えてはないけど」
 僕の答えを聞いた河合さんは、じっと僕の目を見据えた。後ろめたい気持ちがあった僕は、たまらず視線を逸らした。僕の嘘が見透かされるような気がしたからだ。
 しばらくの沈黙の後、河合さんは心底残念そうにため息をついた。
「金曜日なんだけどさ」河合さんが淡々と話し始めた。「うちの姉が事件に巻き込まれたんだよ」
「事件?」僕は顔を上げた。「事件って、どんな?」
「不法侵入と婦女暴行」
 河合さんはさらりと、しかし忌々しげに答えた。
 じわり、と僕は全身に汗がにじむのを感じた。
「事件が起こったのは、姉の友達の家。金曜日、サークルの飲み会で遅くなったから、一人暮らしの友達の家に泊まることにしたの」
 僕の体は金縛りにあったように動かなくなった。心音が速まり、口の中が急速に乾いていく。
 まさか、そんなはずはない。
「それで、翌朝気が付くと、姉を含めた被害者三人は全裸でベッドの上にいたの。どうも誰かとエッチをした後のような状態だったんだけど、三人とも身に覚えがなかったから、すぐに警察に通報したわけ。
 警察が来て、すぐに現場検証と三人の事情聴取が始まったんだけど、姉以外の二人は金曜日だいぶ酔っぱらっていたから、帰宅後のことはおろか帰宅途中のことも覚えていなかったのよ。もちろん、姉も家に帰ってからの記憶はあいまいだったの。
 ただし、三人とも共通の記憶として、国分町で偶然会った一人の男の子と合流して、家まで帰るのを手伝ってもらったらしいのよ。そして、唯一帰宅後の記憶があった姉だけが、その少年が友達のアパートから出ていくのを見たって証言したわけ。ちなみに姉の名前は春奈って言うんだけど」
 はっと息を飲むのをすんでのところでこらえた僕は、あくまで平静を装って相槌を打った。さっきまでの冷や汗は今や滝のような勢いで、僕の顎から滴り落ちている。
 春奈さんと河合さんが実の姉妹だったなんて。
「でも、河合さんのお姉さんが、その男の子が帰るのを見届けているんだったら、その子は白だよね」僕は耐えきれずに、自身の容疑を逸らした。「何か、三人そろって悪い夢でも見たんじゃないの?酔っぱらっていたんだったら、それこそ悪ふざけで三人裸になって寝たのかもしれないし」
「そうね、その通り。何かの間違いかもしれないと三人は思ったのよ」
 彼女の言葉に、僕は内心胸をなで下ろした。
 大丈夫。僕のアリバイは完璧だ。
「だったら……」
「だから、三人は警察に通報して、管理会社に頼んで監視カメラの映像を見ることにしたのよ」
 僕は背筋が凍るのを感じて、絶句した。
 河合さんは構わずに話し続ける。
「運よく、そのアパートは女子大生専用で、高いセキュリティ性を謳っていて、玄関とエレベータ、それから各階全ての廊下に監視カメラが設けられていたの。これでようやく事件解決かと思うじゃない。でもカメラの映像を見ると、三人に付き添っている男の子の姿がぼやけていて、人相がハッキリしなかったの。
 いや、むしろその少年の顔はさておき、問題はその後の行動なのよ。確かに彼は姉の証言通り、少年は一度姉に見送られながら部屋を出るわけ。でも、少年は帰らずに再び部屋に戻ってしまうのよ。そうしてそれから、その少年は帰ることなくそのまま部屋に留まっていたわけ。
 ここで問題になったのが、姉の行動と少年の行先なの。だって、一旦部屋を出たその少年をもう一度入れ直す必要性が無いじゃない。忘れ物をしたのかもって?だったら、荷物を取ったら出ていくでしょ。
 それに少年の行先よ。監視カメラには、その後少年が帰る映像が収められていなかったのよ。おかしいじゃない。部屋にいたはずの人間が、ものの数時間で跡形もなく消えてしまうなんて。
その部屋はアパートの三階にあって、もちろんベランダには非常口があるけどそれが使われた形跡はなかったらしいから、考えられる手段としてはベランダのフェンスを使って、三階から一階まで下りて行くことぐらい。でも、それだとベランダを出る時に、出て行った本人は窓を閉めることが出来ないでしょ。ところが、窓は完全に鍵がかけられていた。単独犯では不可能な話よ」
 しまった。指紋を残さないように、換気扇を使って外へ出たことが裏目に出た。
 内心気が気ではない僕の気持ちを知ってか知らずか、河合さんは声のトーンを少し落として再び話し始める。
「まっさきに疑われたのはあたしの姉よ。その少年を手引きしたんじゃないかって。もちろん姉に心当たりはまるで無いけど、現場に残された証拠はどう見ても姉が共犯者であることを物語っていたわ。じゃあ三人は何をされたのかって、それは言わずとも明らかだった。三人はその少年に、寝ている間にレイプされたってわけ。隣の部屋の住人から、深夜に男女の喘ぐ声が聞こえていたという証言も出ているわ。
 その少年の素性は明らかじゃあ無いけど、現場には彼の物と思われる髪の毛と指紋、それから検査の結果、三人のうち一人の体からは少年の体液が検出されたの。さらに、これは三人の共通認識なんだけど、少年は自身を『田所』と名乗ったそうなのよ」
 自分の名字を聞いて僕がびくっと震えたのを、河合さんは見逃さなかった。
 駄目だ。完全に疑われている。
 万事休すだ。
「河合さ……」
「ところがよ!」僕の言葉をさえぎって、河合さんは、本当に憎々しげに言った。「ところがその、姉の友人のひとり……体から犯人の体液を検出された人……が、事件を公にするのを嫌がったのよ。その人の家は旧庄屋で世間の評価を非常に重んじる家柄らしくて、話を聞いた彼女の両親が『娘が傷物にされたことを公表するぐらいだったら、なかったことにしたほうがマシだ』と主張したわけ。それで、三人の家の間で今回のことは内密にしようと合意したの。レイプは親告罪だから、これで事件として立件されることはなくなったわけ。
 ここで問題になるのは、じゃあ一体、本当のところはどうだったのかってことよ。もちろん、全ての証拠は姉が共犯者であることを示しているわ。姉は『自分は何も知らない。田所君がやったのよ。自分は本当に知らない』と繰り返し主張したけれど、監視カメラの映像の前では無力だった。そうして姉は共犯者であることを疑われたまま友人たちとは絶交、うちの両親とも全く口を利かずに部屋に閉じこもってる状態。散々警察に問い詰められた挙句、実の親にすら信じてもらえなかった姉はもうノイローゼになっちゃって。ちょっとでも声をかけようとするとヒステリーに叫んでは『田所君が悪いのよ!』って連呼する有様よ。大学も、今週中に母親が退学届を出しに行くらしいわ。
 でも、あたしは姉の無実を信じていた。
 すぐさま友人知人、出来るだけ多くの人に『田所君』を探してもらうよう連絡したの。今までバレーであちこち練習試合に行ってたから顔は広いほうで、仙台市内であたしの知り合いがいない学校はないのよ。それで必死になって調べてもらった結果、わかったの。市内に田所という名字を持つ高校生は、あんただけなのよ」
 河合さんはすっと僕の顔を指差した。まるで拳銃を突きつけられたような気分だった。
 僕は血の気が引くのを感じながら、何か僕の無実を証明できる妙案はないかと考えた。しかし、打開策を出すには彼女の推理は完璧過ぎたし、現場にDNAが残っているなら逃れようがない。そもそも僕は無実ですらない。チェックメイトもいいところだ。
 口を開けたまま何も言えずにいる僕を、河合さんは軽蔑どころか憎悪を秘めたまなざしを向けて、しかしその目を閉じた。
「一晩あげる」河合さんは疲れを隠さずに言った。「明日の朝一で、警察に行って自首してきて。それで姉の無実を証明出来る。明日になっても何も行動を起こさないようなら、あたしから警察に通報する。他の家の事情で警察が動かなったとしたら、あたしがレイプされたことにして何としてでも警察署まであんたを引っ張り出す。そこで改めて、三人への暴行事件も認めさせるわ」
 そう言って、河合さんは僕と目を合わせることなく階段へと向かった。
 僕はまだ動けずに固まっていた。蛇に睨まれた蛙は、蛇が去った後も恐怖でしばらく動けないらしい。
 背後で、きい、と不快な金属音がした。恐らく河合さんが扉を開けたのだ。
 僕は振り返らなかった。たぶん、河合さんも振り返ってはいない。
「一晩じっくり考えるといいわ」
 河合さんが言った。その声は、先ほどから変わらずに凛とした強さと潔癖さを感じさせたものの、少し震えていた。
「それが、あんたのことを好きだったあたしからの最後の情けよ」
 がっこん、と音を立てて扉が閉まった。
 僕は緊張の糸が切れたようで、力なくその場にへたり込んだ。まだ、何かを考えるような余裕はない。河合さんに突き付けられた事実と一晩という時間制限が、僕の頭の中でぐるぐると巡っている。
 僕を好きだった、とも河合さんは言った。
 なんてこった。告白と告発をいっぺんに、それも同一人物からされるだなんて。
 今日と言う日は、間違いなく僕の人生最悪の日リストのトップに上り詰めた。
 昼休み終了の直前まで、僕はそのまま屋上に残っていた。そうして、しばらくして授業開始五分前を知らせる予鈴が校内に響いたところで、僕はすっくと立ち上がった。
「淫魔さん」僕は誰もいない空間に向かって呼びかけた。「聞こえますか?」
「何の用よ」
 振り返ると、足元にいくつかある水たまりの一つから、淫魔さんが上半身だけを覗かせていた。水たまりの下はコンクリートのはずだが、何か魔術の類なのだろう。理屈は全くわからないものの、僕は驚くこともしなかった。
「何よ、突然呼び出して。今、ちょうどシャワーを浴びていたところだったのに」
「すいません」
 僕はストレートに言った。
「ちょっと助けて欲しいんですけど」

     

「これは貸しよ!貸しだからね!」
 淫魔さんは不機嫌さを隠そうともせずに言った。
 僕は黙って、淫魔さんの三歩後ろを歩く。時刻は午後六時。風が強かったためか、昼時に灰色だった空は嘘のように晴れ、今は夕焼けが仙台の街を照らしている。
「すいません。本当にありがとうございました」
「ありがとうだけじゃ足りないわよ!」淫魔さんは歩幅を広げて、僕を置き去りにするように早足で歩く。「ちゃんとした見返りは後で必ず請求するとして、とりあえず、これからアーケードでかまぼこ奢ってよね!」
 淫魔さんはぷりぷりと怒りながら……そしてお尻をぷりぷりと振りながら、ファッションショーのモデルのように歩く。今日は普段のビキニではなく、日中に人間界で活動する時用のスーツを着ている。加えて、歩きにくそうな高めのヒールを難なく履きこなしている。
 僕たちは、ちょうど河合さんの家から二人で帰って来たところだった。
 河合さんの家を訪れた理由は、もちろん、菓子折りをもって謝りに行くためではない。彼女たちの事件に対する記憶を完全に抹消するためだ。他のふた家族についても、同様の作業を済ませている。
「まったく、無駄にエネルギー消費しちゃったわよ」
淫魔さんは心底不愉快そうに言った。
「……やっぱり、エネルギーを使わなきゃ出来ないことだったんですね」僕はためらいがちに尋ねた。「と言うことは、淫魔さんから悪魔さんに献上する分の生命エネルギーが目減りしたってことですかね?」
「当たり前でしょ!記憶の完全消去に加えて、あんたの過去の性行履歴から被害者を追跡するのにどれだけエネルギーを使ったと思ってるの?これからは心を入れ替えて、今までの倍以上の勢いで働いてもらうからね」
 淫魔さんは突きつけるように言った。自分のミスであることは明らかであるから、僕は黙って彼女の要求を呑むしかなかった。
 淫魔さんによると、僕がセックスをすることで生命エネルギーを対象から得ると同時に、僕の生命エネルギーも微量ながら対象に残るらしい。そのわずかなエネルギーを道しるべにして、淫魔さんは目標の三家庭すべての位置を特定したのだ。
 それからは問題の記憶を消去するだけだった。被害者三人が僕に会った日からの数日間のすべての記憶を完全に抹消した。事件に無関係の記憶まで消してしまったものの、金曜日から数えてたかだか三日間の記憶が無くなったところで、日常生活に支障はきたさないというのが淫魔さんの意見だった。
「あの、それから」最終的に河合さんの記憶を消す段階になって、僕は追加でもう一つ頼んだ。「彼女の、その、僕に対する想い……恋愛感情も消してください」
「は?嫌よ、そんなの。面倒くさい」と淫魔さんは即座に拒否したものの、結果としては僕の言った通りにしてくれた。
 これで、河合さんは、僕のお姉さんに対する非道はおろか、彼女が僕を好きだったことさえ覚えていないのだ。
 内心むなしく感じながらも、感傷に浸る時間は無かった。淫魔さんの命令で、記憶を消した全員から出来るだけ生命エネルギーを吸収しなければならなかったからだ。だから僕は、河合千夏さん、春奈さん、そしてその両親……当然、父親も含まれる……、そしてもちろんその他二家族ともセックスをした。そこに、エッチな感情を持ち合わせる余裕はなかった。自然には勃起さえしなかったところを、淫魔さんの魔力で無理やり勃たせられたのだ。
生命エネルギーの受け渡しに必要なのは、供給者が性的に興奮している状態で両者の体の一部を結合させることだ。だから、本来であれば魔力で男性陣を性的に興奮させた状態にしつつ、僕が彼らの耳にでも指を突っ込めば受け渡しは完了したはずだったものの、僕への罰として、各家庭の男性陣の肛門にイチモツを突っ込むはめになった。
 正直に言えば、予想外に嫌悪感も不快感も抱かなかった。
 やはり、河合さんから告白されて、自首する猶予も与えてもらって、それでもなお自らの保身のために行動してしまった自分に、どうしようもなく嫌気がさしたからだろうか。
 淫魔さんにかまぼこをご馳走して別れてから、僕はまっすぐ家には帰らなかった。何か用事があったわけでは、もちろんない。しかし、何か特別理由があったわけでもない。もしかしたら、ただブラブラと歩きたかっただけかもしれない。
 僕は雑踏の中を、すれ違う人たちの肩を避けもせずに歩いた。ぶつかった人たちがいぶかしむような視線を向けてくる。ある人は躊躇いもせずに睨んでくる。
 そうだ。これでいい。こうしているうちに、その辺の不良かヤクザにでもからまれるだろう。ひょっとしたらボコボコにのされた挙句財布を取られるかもしれない。それこそが目的なのだ。出来るだけ無残にやられて、出来るだけ惨めになりたい。
「おい、てめー。待てよ、コラ」
 しばらくもしないうちに、いかにもヤンキーと言った出で立ちの男が掴みかかってきた。その横には、これまたいかにもギャルという感じの女が、妙に鼻にかかった声で「やっちゃえ~」と男を煽っている。
「どこ見て歩いてんだ、コラ」
 詰め寄る男の前で、僕は何も言わずにへらへらとしていた。
 こいつらは、間違いなく人間のクズだ。しかし、河合さんたちに僕がした仕打ちを考えると、僕はこいつら以下のクズ野郎だ。
 僕の態度が気に食わなかったのか、すぐに男は僕を殴り飛ばした。痛い。頭がガンガンして鼻血が出ている。僕が盛大に転げたために、僕たちの周りだけ人々が迂回して歩いている。ダイエーの前の売り子さんたちが、心底迷惑そうに僕の方を見ている。
 男が僕の顔に唾を吐きかけた。
 ああ、惨めだ。いい気分だ。僕は、許されないような悪いことをした最低の人間だ。罰せられて当然だ。そして同時に、僕は可哀想だ。
 僕は、抱いていた罪の意識が、徐々に違うものへと変質していくのを感じていた。最初はただ「罪」でしかなかったものが、僕が可愛そうであるための「条件」へと、僕の脳内で都合よく書き換えられているのだ。
 だが、まだだ。まだ惨めさが足りない。
 僕はふらつく足取りで、しかし確かに自分の顔をヤンキーの前へと突き出した。
「なんだあ、てめー。もういっぺん殴られたいのか、コラ」
 僕は垂れてきた鼻血をすすって、男の顔目がけて吐き出した。男の顔が怒りでみるみるうちに変色していく。これは、ひょっとしたら殺人事件になるかもしれない。被害者はもちろん、僕だ。
 男が僕の喉元を片手で締め上げる。僕の体を持ち上げそうな勢いだ。そうしてもう一方の手を大きく振りかぶった。男の怒りはマックスに達しているらしく、歯ぎしりさえ聞こえてくる。周囲からは悲鳴が聞こえ始める。
「やめてください!」
 どこからか、声が聞こえたと思うが早いが、僕は何者かに体が突き飛ばされるのを感じた。聞き覚えのある声だ。はっとして顔を上げると、僕とヤンキーの間に女性が立ちふさがっていた。女性は震えながら、しかし僕を断固として守ろうとしている。
「うちの子に何をするんですか!」女性の声は裏返っていた。「警察を呼びますよ!」
 女性の声に同調するように、周囲からヤジが飛び始めた。すると、自分たちに不利だと感じたらしいヤンキーカップルは、巻き舌で聞き取りにくい捨て台詞を吐いてさって言った。彼らが去った後、通りには女性を称える拍手が鳴り響いた。
「大丈夫?立てる、進ちゃん?」
 女性は心底僕を気遣うように、ゆっくりと僕を起き上がらせた。
「ありがとうございます」
僕は顔を上げて彼女のほうを見た。
女性は、僕の母ではなかった。
「……友恵のお母さん」
 僕を守ってくれたのは、斉藤友恵の母だった。中学の卒業式でちらりと顔を見て以来、もう三か月は会っていなかった。
「本当に大変だったわね、まったく」友恵の母は鼻にかかった声で言った。「おばちゃんも泣きそうなぐらい怖かったのよ」
 未だに震えながら、涙目で話す友恵の母に、僕は何と言っていいのかわからなかった。泣きたかったのは、僕のほうだからだ。
 しばらく何も出来ずにいると、ようやく気を取り直した友恵の母が、僕の顔の怪我に気付いて小さく悲鳴を上げた。
「大けがしてるじゃない!」
「いや、大したことないです」僕は慌てて言った。「本当、別に、鼻血が出ただけなんで」
「嘘おっしゃい!傷もついてるじゃない」
 言うが早いが、彼女は僕の手を取るとずかずかと歩き始めた。僕の手を握る彼女は、ひょっとしたらヤンキーと相対していた時よりも力がこもっていたかもしれない。
 僕が何を言う暇もないうちに、友恵の母は僕を車に連れ込むとそのまま発車した。僕が何を言うでもなく黙っているうちに、車は再び停車した。時間にして二十分もしないうちに、僕は友恵の家の前にいた。
「気が動転してたから、ちょっとスピード出し過ぎたわね」友恵の母はようやく笑顔を取り戻した。「久しぶりにあがってちょうだい。手当をしなきゃならないし。おうちには連絡しておくから」
 僕は「はあ」と気の抜けた返事をして、友恵の母に続いて家に入った。
 友恵の家に来るのは本当に久しぶりだった。僕が思い出せる限りでは、小学校の卒業記念パーティに呼ばれて来たのが最後のはずだ。思春期に入ったとたん、何となくお互いの家まで行くのが気恥ずかしくなって、中学時代には全く訪れた記憶が無い。
 玄関を抜けてリビングへと案内された僕は、室内の変わり様に驚いた。家具の配置こそ以前来た時と同じものの、全体的に飾り付けが大人っぽく、そして女性らしくなっている。加えて、立てかけられたいくつかの写真には、友恵と一緒に僕の知らない人たちが写っている。
「ちょっとかけて待っててね。今、お茶用意するわ」
「あ、お構いなく。ありがとうございます」
 以前よりも大人として僕を扱ってくれる友恵の母に、僕はぎこちなく対応する。考えてみれば、高校に入ってからいつも誰かとセックスをするために出歩いていた僕は、友達の家に行くこと自体めったになかった。
「あんまり変わってないでしょう」
 友恵の母が、キッチンのほうからお盆を持ってきた。その上には湯呑が二つと急須が一つ。彼女は、僕と自分の二人分お茶を注いで、一つを僕の前に置いた。
 僕はお礼を言って、差し出された湯呑に手を伸ばした。
 ぬるい。たぶん友恵の母がわざと冷ましたのだ。これから梅雨明けで、日増しに暑くなっている中での配慮だろう。僕の反応に気付いたのか、彼女は「まだ麦茶用意してなくって」と申し訳なさそうに言った。
 いつもそうだった。僕の記憶の中で、友恵の母と言えばやさしく、おしとやかで、逆に怒るのが苦手であるような女性だった。団地育ちの僕は、何か問題を起こせば多くの親御さんからかわるがわる怒鳴られていた。しかし友恵の母だけは、まず子供の話を最後まで聞いて、後のことはそれから一緒に考えようというタイプだった。
「進ちゃん、友恵と喧嘩したでしょう」
お茶をすする僕を見つめながら、友恵の母は口を開いた。湯呑越しに僕を覗く目からは、僕を試しているような感じがした。
僕が黙ってうなずくと、友恵の母は「やっぱり」と言って勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「どうして……?」
 僕は思わず尋ねた。しかし、口をついて出た「どうして」の先に続く言葉は、自分でもわからなかった。たぶん、聞きたいことが多すぎたのだ。
「友恵のことは何でもわかるわよ」友恵の母はお茶菓子の包みを開けながら答える。「なんてったって、わたしはあの子の母親なんですから」
 よくわからない彼女の返答に、僕は内心パニックになっていた。
 彼女はいったいどこまで知っているのだろう?ひょっとして、僕が、友恵に無理やりフェラチオをさせたことを聞いているのだろうか。それとも僕と喧嘩したとだけ、友恵から聞かされているのだろうか。あるいは、僕の挙動を不信に思って鎌をかけてみたのかもしれない。
 友恵の母はお茶をすすって、ほっと息を吐いた。
「嘘よ」友恵の母は笑って言った。「本当は年を取るごとにわからなくなってるわ……あの子のこと。昔は、美味しいものを食べたから嬉しい、先生に怒られたから悲しい、友達と喧嘩したから怒っているで済んだのにね。でも今回は別よ。おばちゃんは、ああ、これは絶対進くんと喧嘩したんだなって確証があったわ。友恵が進くん以外のことでここまで悩むことないもの」
「そう……なんですか」
 僕は自信無く言った。
「そうよ。友恵はあれで結構面倒臭がりだから、許せない相手には時間を使わないのよ。許せないと思ったら、もう絶交よ。だから、例え許すのに時間がかかったとしても、許そうという気持ちがある時は許す時なの。そして、今までの友恵の人生で時間をかける相手は、進ちゃんだけなのよ……なぜなら、例えどんな酷い仕打ちをされたとしても、友恵は進ちゃんのことだけは許す気があるから」
 友恵の母は、諭すように言った。
 どきっと、僕は心臓が大きく鳴るのを感じた。
「正直今回、進ちゃんと友恵が何について喧嘩したのかは聞いてないわ。でも友恵は、もしも相手を許せないなら、悩まないのよ。だって、嫌なら嫌で、もうこれから一生その相手と関わらなければいいんだもの。でも、誰にでも、嫌なことをされてでも許したい相手がいるものなのよ」
 僕は答えなかった。何となく、友恵の母に意見するのは不遜であるように感じたからだ。
 僕の反応を善しと取ったのか悪しと取ったのか知れないが、友恵の母は仕切り直すように言った。
「そうだ。進ちゃんに見せたいものがあるのよ」
 友恵の母は満面の笑みを浮かべながら、いそいそとテレビの周囲を漁り始めた。何を見せようと言うのか、しばらくの間僕はいぶかしんでいたが、彼女は数分もしないうちに一枚のDVDを取り出した。ディスクには「友恵五歳の誕生会」とラベリングされている。
「これ見るのも久しぶりよね」友恵の母はDVDをプレイヤーに挿入しながら言う。「いつもは友恵が邪魔して最後まで見れなかったからね。今がチャンスよ」
 彼女が話し始めると同時に、映像もスタートした。古いビデオをDVD化したからか、雑音と共に砂嵐が入り混じっている。しかし、三十秒もするとまともに見られるようになった。
 DVDは僕の記憶通りに進行していく。最初は友恵だけが大写しになって、五歳になった感想を言う。それから、集まった友恵の友人たちが順繰り自己紹介していく。自己紹介と同時に、一人一人が友恵のために出し物をする。僕の出し物は、おもちゃ屋で購入した簡単なマジックだった。この年になって改めて安っぽい仕掛けのマジックを見るのは、なんだかむず痒いような、恥ずかしいものがあったが、それでも僕に拍手を送っている友恵他一同の感動した顔を見ることで何とかこらえられた。
 映像が切り替わった。友恵が五本の蝋燭が刺さったバースデイケーキに向かっている。部屋中の灯りが消され画面が一瞬暗くなったが、カメラはすぐに蝋燭の光にフォーカスした。僕を含めた友恵の幼馴染は、ケーキを食べるのが待ちきれないと言う表情をしている。
「友恵ちゃん、お誕生日おめでとう!」
 掛け声とともに、画面の友恵が蝋燭の火を吹き消す。一度では吹き消しきれず、二度、三度にわたって吹き消すのを、どうやらカメラ役らしい友恵の父が笑っているのが聞こえる。
 僕がしたことを、友恵の両親が知ったらどう思うだろう。最愛の娘に対して、幼馴染であることを利用して近づいた上に、催眠術をかけて陰茎をその唇に加えさせたとしったとしたら、彼らはどう思うだろう。怒り狂って僕を八つ裂きにするのだろうか。それとも法に訴えて、多額の慰謝料を請求するのだろうか。
 僕はちらり、と友恵の母の顔を見た。画面を見つめていた友恵の母は、一瞬僕の方を向いたものの、すぐにビデオのほうへ視線を戻した。顔には、優しげな微笑みを浮かべている。僕も彼女にならって、再び画面へと向かった。
 あっと僕は小さく悲鳴を上げた。
 ビデオはちょうど、友恵が僕の恥を暴露する場面に差し掛かっていた。画面が切り替わると同時に気が付いた僕は、すぐに目をそむけた。スピーカーから聞こえる音声だけが、僕の耳に響いていた。
「すすむちゃんのおちんちんがね、おっきくなってたの!ぞうさんみたいに、ぱおーんってなってたの!」
 恐る恐る目を開くと、画面の中で友恵と同じく五歳の僕が、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。目にはいっぱいの涙を浮かべている。過去の自分だとわかっていながらも、僕はなんだか気の毒になった。
 五歳当時の僕が、勃起していたことの意味など知る由もない。もちろん友恵だってそうだ。幼稚園児だった友恵とお風呂に入った程度で性的に興奮するとは思えないから、僕の勃起はなんらかの生理的反応だったんだろう。それでも、単純に自分のプライベートな部分が普段と違う形状をしていたことを、皆の前で指摘されたのがたまらなく恥ずかしかったのだ。
 駄目だ。もうこれ以上、見ていられない。
 僕は自分の頬が熱くほてっているのを感じながら、すっとリモコンに手を伸ばした。しかし僕がリモコンをつかむと同時に、友恵の母が僕の拳を覆うようにして、僕の動きを止めた。顔を上げると、友恵の母は相変わらずの微笑を浮かべたまま、僕に映像を見るように促した。
 ビデオは、友恵の暴露によって傷ついた僕を慰める場面になっていた。すっかり落ち込んでしまったようで、涙をぽろぽろと零し、周囲の声にも耳を貸そうとしていない。
 思わず僕はリモコンを取り落して、がしゃん、という音でハッと我に返った。友恵の母はとっくに僕の手を抑えるのを止めていた。彼女は、まるでリモコンが音を立てたことにさえ気が付いていないという風に、食い入るように画面を見つめている。
 この場面を見るのは初めてだった。いつも友恵が暴露するあたりでテープを止めていたから、それ以降の映像を見るなんてことは今まで起こりえなかったのだ。
 おだてるようにして何とか僕を元気づけようとしている誕生会の参加者たちを無視するように、五歳の僕はついに声を上げて泣き出した。ビデオからは、友恵の両親が「困ったね」と子供たちに隠れて相談しているのが聞こえてくる。
 その時、友恵がすくっと立ち上がって僕の方へと歩み寄った。
 友恵は、号泣モードに入っている僕を抱きしめて、よしよしと頭を撫でた。泣きはらして真っ赤になった瞼を開きながら、幼い僕は友恵のほうへ振り返った。テレビ画面いっぱいに、友恵と僕が向かい合うシーンが映し出されている。
「すすむちゃん、なかないで」友恵が、彼女の母と同じように優しい声で言った。「ちんちんがおおきくなっちゃっても、ともえ、すすむちゃんのことだいすきだよ!」
 そして友恵は、僕の頬にそっとキスをした。
 僕は一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 画面に映る五歳の僕も同様に茫然とした顔を浮かべていたものの、すぐに何かを納得したような表情をして、自分の唇を友恵にゆだねた。それはほんの数秒だった。二人の唇が、触れるか触れないかというところで、ひゅーひゅーとはやし立てるような声があがって、二人は急いで離れた。そうして、友恵はハッと気づいたようにカメラのほうを見るが早いが、「止めて!」と声を上げて、カメラに掴みかかった。
 映像はそこで途切れた。
 プレイヤーが音もなく止まった。真っ青に染まったテレビ画面には、トップに戻るかどうかというメッセージが浮かんでいる。
 僕はふと、友恵の母のほうを見た。にやにやと笑いながら、僕にハンカチを差し出している。何を考えるでもなく、彼女の手からハンカチをとって、それから僕は自分が涙を流していることに気が付いた。
 はらはらと、滝のように涙が流れていた。まるで、気づかなかった僕自身がどうかしているみたいだった。
 なぜ涙がこぼれたのだろう。理由は、きっといくつもあるに違いない。友恵に対する罪悪感を持ちながら、幼く無垢な彼女の姿を見て自分の罪に気が付いたからか。あるいは、昔とは変わってしまった、穢れた僕自身を自覚して諸行無常の理を悟ったからか。はたまた、現在自分が感じている罪を、ビデオに映る友恵が許してくれた気がしたからか。
 声を上げて嗚咽する僕の背中を、友恵の母が優しく撫でる。その手は、優しさにあふれているかのように温かに感じられた。
「大丈夫よ、進ちゃん」僕を慰めるというよりは戒めるように、しかし優しい口調で友恵の母は言った。「友恵は進ちゃんのことを許すわよ。あの子は、許してくれる。わかるのよ。なんたって、あたしはあの子の母親だもの。そりゃあ、もちろんわからないこともあるけど、わかる時は何だってわかるわ。友恵はね、進ちゃんのことを許す。ただ、それには少し時間がかかるかもしれない。でも、ひょっとしたら、進ちゃんの行動によっては、それは速まるかもしれない」
 友恵の母は、僕の背中をリズムに乗せて叩いた。
 止めどなく流れる涙と共に、胸のつかえが取れたような気がした。
 しばらく泣きはらしてから、ようやく落ち着いた僕は、友恵の家を離れることにした。目元には、まだ赤く涙の後が残っている。
「もう行くの?友恵に会わなくて大丈夫?」
「はい」僕は振り返って、玄関越しに友恵の母を見つめた。「先にやらなくちゃいけないことが出来たので」
「そう。じゃあ、それまで友恵のことは任せて。あたしだって、これでも友恵の母親なんだから」
 胸を張って告げる友恵の母は、何故かとても頼もしく見えた。
「ありがとうございます」
 僕は深く頭を下げて、それから改めて斉藤家を後にした。
 僕は一歩一歩、そしてまっすぐと自宅へと進んでいく。その足取りは、今日一日のいつよりも軽い。憑き物が落ちたという表現は、まさに今日の僕にこそふさわしい。
 淫魔と歩いていた時の夕日はいつの間にかなくなり、代わりに真ん丸の月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。何となく、僕の気持ちをよりすっきりとさせてくれるような気がした。
 よし。僕は淫魔を辞めよう。
 頭上の月に向かって宣言するように、僕は固く決心した。

       

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