Neetel Inside 文芸新都
表紙

匿名で官能小説企画
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 君は僕を良く知っている。でも、僕は君のことを良く知らない。
 君の名前を僕は知らない。そして、君も僕の名前を知らない。
 ここはとても息苦しくて、目を開けることも出来ない。暗闇の中に手を伸ばしても、壁に遮られるばかり。
 ある時、僕はこの甘い地獄から、誰かの手によって助け出された。
 でもその時、君は泣いていた。あの人も、泣いていた。
 ねえ、君はどうしてそんなに悲しんでいるの? 何か、悲しいことでもあったの?
「ごめんね、ごめんね……」
 ああ、もう、その言葉は聞き飽きたよ。一体何に謝っているのか、僕に教えてよ。
 ねえ――――

     ▽

 最近、不思議な夢ばかりを見るようになった。
 僕は水泳が苦手ではない、むしろ得意なほうなのだが、そんな僕が海で溺れてしまう夢。そして、命からがら救出されるのだけど、誰も僕が助かったことを喜んでくれはしない。手を差し伸べてくれるのは、近くにいた親友ではなく、見知らぬ誰かだった。
 そうして視界は闇に閉じて、夢から醒める。
 初夏だというのに、最近は熱帯夜のように蒸し暑い。手元の温度計を見ると、三十七度を指していた。流石に何かの間違いかと思って目を凝らして見ると、二十七度。それでも、十分に暑かった。
 悪夢を見た後のように、身体が重い。実際悪夢なのかもしれない。
 僕は布団代わりのタオルケットを退けて、のそりと起き上がる。弱い偏頭痛なのか、頭の右の方が痛い。こんなことは今までなかったから、きっと、疲れているんだと思う。
 六月四日、土曜日の朝。
 窓の外では、止みそうにない雨が降り注いでいる。この梅雨の時期、特に今朝のように湿度の高い頃合は、肺が強く締め付けられるような感覚に襲われる。ガムテープで締め上げられたように、とても息苦しい。まだ頭の中枢が、うまく起動していない気がする。視野もなんとなく靄がかかったままで、角膜に薄いフィルターがかけられているような気分だった。
 僕は立ち上がって洗面台に向かい、温めの水で顔を洗う。鏡に映る虚ろな顔を見るたび、心を削がれる思いになる。寝起きの自分の顔は、造形が崩れたかと思うほど滑稽だ。
 ふと、流しの水が詰まっていることに気付く。見ると、何か人形のようなものが奥に詰まっていた。
 取り出してみると、それは小さな女の子のフィギュアのようだった。僕にこのような系統の嗜好はないので、恐らく、少し前に来た彼女の残していったものが、いつの間にか落っこちていたんだろう。
 彼女は昔から人形遊びが好きだった。中学二年の頃に付き合い始めたのでもう三年になるけど、その当時から、そして今も彼女は人形遊びに夢中になっている。
 この人形もそんな彼女の遊びに尽力した物の一つのようで、元々は綺麗な人形だったのかもしれないが、色はくすみ、瞳も深く閉じられている。それにしても、人形の目が閉じるなんて聞いたことがない。珍しい人形もあるものだ。
 僕はわずかに逡巡したが、後で彼女が困ったら悪いだろうと思って、洗面台の傍に立てかけておいた。
 時計の短針は、七時を越え始めている。そろそろ準備しなければ、学校に間に合わない。今日は特別講座が八時からあるのを忘れるところだった。
 目に付いたパンを食べて適当に準備を済ませると、僕は静かに家を出た。
 思っていたよりも、雨は弱い。降りつけると言うよりは小雨で、かすかに衣類が水気を含む程度だった。傘を差すか差さまいか一瞬悩んだが、この程度なら別に濡れても構わない。
 水溜りの隙間を縫うようにして、僕は学校へと歩いた。

「弘くん。今日、遊びに行ってもいい?」
 教室について席に座るなり、件の彼女――由奈が前席から身を乗り出して話しかけてきた。
「ああ、構わないけど……またどうして、いきなり?」
「んー? 恋人の家へ遊びに行くのに、何か理由が必要かな?」
「いや、そう言われると反論できないけど……」 
「よし決まり! じゃ、また後でねー」
 由奈は昔から遊び好き、遊び上手なところはあったが、自分から出向くなんて事は珍しいことだった。由奈が好きな人形も彼女の部屋に行けば山ほどあるが、僕の部屋には一つもない。強いて言えば、あのぼろぼろの人形が一人、洗面所で水浸しのまま放置されている。特に娯楽も何もない僕の部屋まで来て、一体何がしたいというのか。
 理由を訊ねようにも、由奈は基本遠投タイプ――自分の言いたいことをまくし立てたら後は知らん振りするタイプなので、現に今も、用件だけ伝えて明確な理由は示さないまま、女子のグループに紛れ込んでいった。もう何年も付き合っているのに、彼女の中での僕は一体どんな位置づけになっているんだろうか。
 倦怠期か、なんてぼやいていると、近くの席に座っていた友人の恵一が、悪そうな笑みを浮かべて僕に近寄ってきた。
「……何だよその顔は、恵一」
「何だもアナコンダもあったもんか弘樹! 羨ましい奴め! このこの!」
 そういってせっついて来る恵一。普段から笑みばかり浮かべている(というより、元の顔がそんな顔)恵一だが、今日はいつにも増して口角を吊り上げている。一体、何があったんだろうか。
「落ち着け恵一。一体全体どうしたって言うんだ」
「全くお前は本当に鈍感だな弘樹。年頃の女子が、雨降りの土曜日の午後に、彼氏の家に行っていいか訊いたってことはだな! それはつまり……あれだ! そういうことだ!」
「なんだもったいぶって……端的に言えよ」
「こんな公共の場で言えることじゃないから遠まわしに言ってるんだろうが!」
 全く言っている意味が理解できないけれども、まあ、その時なったらきっと分かるだろうと思って、僕はその後の言葉を全て聞き流した。
 程なくして、授業が始まる。しかし特別とは名ばかり、実際は平日に行った授業の復習のようなものなので、予習復習を欠かさずに施行している僕にとっては、まるで意味のない授業といっても過言ではない。
 というわけで、僕は適当に授業に参加しながら、合間合間で舟を漕ぎ続けた。

     ■

 とても長いトンネルのような場所に、僕はいる。
 辺りには重苦しくどろりとした空気が満ちていて、水の中に立っているかのような感覚だった。水には一定の流れがあって、時々身体を持っていかれそうになる。
 自分の身体に触れると、何も身に着けていないようだった。一瞬誰かに見られてしまったらと案じたが、これは夢であることが鮮明に判断できていたので、対して心配はしなかった。
 周囲をぶらついてみる。手探りなのでかなり把握するのに時間がかかったが、どうやら僕は広めの部屋の中に閉じ込められているようだった。光も射さない部屋というのはどういう意識の表れなのかと考えてみたが、その方面の知識は対して持ち合わせていなかったので、考えるだけ無駄だった。
 直後、僕はある一つの違和感に気がついた。

     ▽

 はっ、と目が覚める。
 本日最後の授業が、チャイムと共に終わりを告げていた。額を乗せていた手の甲が、汗でじっとりと湿っている。
 結局三回の授業で計三回も変な夢を見たが、どれも内容は全く同じで、それに全く同じ場所で終わっていた。何より、「これは夢だ」と認識できたのがもっとも奇妙だった。
 静謐に落ちていた教室が一気に活気で溢れ返る。いつもグループで集まっている男子や女子は、適当にメンバーを集めてあっという間に駆け出していった。皆、考えていることは同じなのだろう。
「弘樹ー。俺今日ちょっと用事あるから、先に帰るぞー」
 そう言ったのは、相変わらず気持ち悪い笑顔の恵一。何か面白いことでもあったのだろうか。今日は本当におかしい。あの夢といい、いつもとは噛み合っている歯車が違う気がする、今日は。
「じゃ、私たちも帰ろっか、弘樹」

 由奈のわがままによって、今日はバスで帰ることになった。雨の日はそこまで気温は高くないはずなのだが、今日は例外的に暑い。バスの車内に入った途端、やんわりと冷えた空気が汗に触れて、少しさぶいぼが立った。
 休日の昼間なのでそこそこ人が多いかなと思っていたが、本日は雨模様。外出は控えめの人が多いらしく、バスの中はひっそりと静まり返っていて、妙に物寂しい気分がした。
「まるで貸切みたいだねー」
 無邪気に乗り込んで、真ん中あたりの座席に座る由奈。僕はこんな日も仕事に励む運転手さんに一礼しながら、由奈の隣に座り込む。バスは再び走り出す。目的地は終点なので、所要時間は十分と少しと言った所。電車よりも少し騒々しい揺れが、むしろ心地よい。
 無機質なアナウンスの声と、窓を打ち付けるささやかな雨音が耳に木霊する。
 眠気を誘う車内空間は、まるでどこかの境界に佇んでいるような、不思議な空気に満ちている。
 あれほど元気だった由奈も、気がつけば僕の肩に頭を乗せて寝息を立てていた。
 僕は茫と光る天井の照明を眺めながら、やがて来る睡魔に身を任せることにした。
 重力に従って、目蓋が落ちる。
 周囲の雑音が次第に姿を消していって、すうっと――――

     ■

 次に目を開けた時、僕はまた、あの場所にいた。
 目の前に見慣れた闇が広がり、あの妙な息苦しさも顕在していた。無論、衣服が何一つない事実も同じだった。
 だが今回は、あのときに感じた違和感を、はっきりと体感することが出来た。
 夢が醒めることも、なかった。
 僕はそれを確かめるために、肺の中にある空気を出来るだけ吐いてしまう。
 そして、口と鼻を塞いで、息を止める。
 現実世界ならば、苦しくなって手を離すのが当たり前だ、だけど、
「…………」
 この奇妙な世界においては、呼吸をしなくても平気だった。いや、“呼吸をしなくても苦しくない”というより、“元々呼吸をする必要がない”と言うべきかも知れない。
 むしろ、呼吸をするほうがどこか息苦しかった。
 それにしても、ここは一体どこなのだろうか。夢は現実で印象深く捉えたものが空想として現れる、といった話を聞いた事はあるけれども、僕は別に暗闇に興味は抱いていないし、暗い場所で何か印象的な事件が起きたわけでもなかった。
 だったら一体、何故?
 当然答えは分からないまま、僕は暗闇の中に立ち尽くした。

     ▽

 自分の意思で、目蓋を開く。
 まばらな雨の音は、もう聞こえない。
 バスの駆動音も、控えめになっていた。速度は緩やかで、次の停留所が終点であることを、変わらない声のアナウンスが教えてくれた。
 隣に顔を向けると、由奈はまだ夢の世界に落ちたままだった。その寝息も驚くほど静かで、胸のあたりが動いていなければ、まるで死んでいるかのようにも錯覚する。
 世界は息を引き取ってしまったように、恐ろしいほど静かだった。外界からのありとあらゆる音が遮断されて、静寂だけが僕の聴覚を雲霞の勢いで埋め尽くす。世界が輪郭をなくして、溶けだしていく。頭上に垂れ下がっている吊革がぐにゃりと歪に曲がって、まるで人の手のような形をして――――――――
「…………弘くん?」
 由奈の声が聞こえて、我に帰る。
 気づけばバスはとっくに終点に到着していて、どうやらうなされていたらしい僕を、由奈が、そして僕の身を案じたらしい運転手までもが覗き込んでいた。
「大丈夫? なんだか、苦しそうだったけど」
「……え、あ、ああ。うん、心配無用」
 僕は自力で起き上がり、両手を広げてなんともないそぶりを見せる。
「本当に? 弘くん、そういうところ抜けてるから怖い」
「大丈夫だって。現にこうやって歩いてるだろう?」
「歩けなかったらそれはそれで問題だと思うんだけど……」
 いつも通りの掛け合いを交わしながら、僕たちは運転手に一礼してバスを降りる。
 雨はもう気にならない程度に弱くなっていたので、傘は差さずに、そのまま僕の部屋のあるマンションへと向かった。

「久しぶりだねー、弘くんの部屋に来るの」
 部屋に入るなり、靴を脱ぎ散らかして僕のプライベートルームを闊歩する由奈。プライベートなんてあったもんじゃない。
 僕はファッションやインテリアなどにはかなり疎い方なので、部屋はごくシンプルにモノクロ系統の家具があるだけ。申し訳程度に名前も知らない観葉植物があるけど、観葉という割には一度もまじまじと見たことがない。実家にあったから、持ってきた程度の付き合いだ。
 流石にこんな殺風景な部屋だと僕でも気が引けてくるが、そんなことはお構いなしに由奈はベッドにどかりと座り込む。
「何か飲みたいもの、ある?」
「弘くんが淹れてくれるなら何でもいいでーす」
「はいはい、そりゃありがたい」
 ちょうど昨日買った未開封のカルピスが冷蔵庫に入っていたので、それを二つのコップに注いでリビングまで持っていく。
「はいどうぞ、お待たせいたしました」
「うむうむ、苦しゅうない」
 二人して一気に飲み干すと、早速第一の沈黙がやって来た。
 何度も言うけど、僕の部屋には大人数で遊べるような大衆娯楽は一切存在しない。漫画がなければゲームも、小説だってない。テレビは一応あるけど、こんな時間帯に面白いテレビ番組なんてあるのだろうか。
「……………………」
 由奈の隣に座ったまま、幾許かの時間が過ぎる。
 仕方無しにつけたテレビ番組を、隣の由奈はどうやら楽しそうに観ている。時々僕に向けて話題を振って来るので、それに対しては僕もちゃんと話が広がるように答える。だけど、由奈の言葉は上手いこと耳には入ってこない。
 何故だろう。
 考えてもどうせ分からないので、僕はもう一度カルピスを飲んだ。
 由奈が部屋に来て、三十分ほどが過ぎただろうか。途中から見始めたテレビ番組――内容を見るにサスペンスだろうか――もいよいよ佳境を迎えたようで、由奈が犯人と思われる名前を何度も呟いている。結局、犯人はその名前の持ち主ではなかった。
 スタッフロールが流れる。
 番組の製作者の名前が、生みの親の名前が流れる。
「あーあ、予想外れちゃったー」
「そりゃ残念だったね、次回の挑戦をお待ちしています」
 僕はベッドから立ち上がって、自分のコップを流しに片付ける。
 さて、ブラウン管のエンターテインメントは終了した。由奈も自分からリモコンでテレビの電源を落としている。これからどうしたものか。外を見ると暗めの曇り空ではあったが、雨はもう降っていなかった。いつも通り、二人で出かけるのが得策かな。
「由奈、これからどうしようか。雨も止んだみたいだし、外出でもする?」
 しばらく待っても、返事はない。
 何事かと後ろを振り向くと、由奈はベッドの上に座ってはいなかった。この部屋は部屋の都合でこの流し台からは居住空間の大部分が死角になる。まあ、要するに僕が立ち上がった隙に部屋の隅に隠れて、驚かせようって魂胆だろう。ここは大人しく、イタズラ好きの由奈の罠にまんまと引っかかることにする。
「…………由奈?」
 わざとらしく、それでいて自然な感じに弱弱しい声を上げる。そろりそろりと忍び足で居間に戻る。白壁が打ちっぱなしの部屋の中、その奥にあるベッドの上には、誰もいない。
 と、その時。予想通り、後ろから肩に手を置かれた。
「なんだよ由奈、そこにいたのか――――」
 そこで僕は、ようやく違和感に気が入った。
「ねえ、弘くん……」
 僕の肩に置かれていた手が、徐々に下の方へ、ずり下がって行く。
 耳元にささやかれる由奈の声は、いつものそれより、甘みを増しているように聞こえた。
「…………しよ」

     ■

 暗黒は相変わらず、突然僕の目の前に現れる。
 前回までは特に気にしてはいなかったが、ある奇妙な点に、ようやく気がついた。
 服を着ていないのはいつものことだが、注意して自分の身体を触ってみると、腰の辺りに鎖のようなものが装着されていた。ベルトのようなものの上に、目には見えない鎖が繋がれている。歩き回っても影響がないほどに長く、歩いても音を立てないので気に留めなかったのだろう。
 状況をまとめると、僕はそこそこ広い部屋の中に、鎖で繋がれている。まるで犬を飼うように。しかも、服は何一つ、下着さえも着ていない。空気は水のように重く、呼吸をしなくても支障はない。
 「――」がサスペンスの犯人を外して笑っていたけど、僕も人のことは言えない。自分の今置かれている状況が把握できていないのだから。
 それにしても、「――」がいきなりあんなことを言い出すなんて、思いもよらなかった。そこから数分間ほどの記憶はないのだが、次に目を覚ましたとき、僕はきっと「――」と一緒に、ベッドの上にいる。僕たちがそんなことをしていいのか分からないけれども、彼女が望むなら、僕はそれをするだろう。




 ――――数分間の、記憶がない? 次の目を覚ましたとき?
 僕は今、何の話をしていたんだ?目を覚ましたら、当然僕は「――」に後ろから抱き疲れた状況下にあるはずじゃないのか? いや、それ以前に、
 僕はいつ、眠った?

     ▽

「んっ…………」
 頬を染める由奈の乳房に軽く顔を埋めて、僕は唇と指先で乳白色の柔らかい感触を確かめる。
 まだ雨で少し濡れたままの彼女の肌は、しっとりと僕を受け入れた。由奈は僕の身体に両手をやって、徐々に息を荒げる。淡い桜色の突起を優しく噛むと、小さく声を上げて、顔を仰け反らせた。
 僕はその柔らかな膨らみを撫でながら、ゆっくりと顔を離す。
 由奈の顔は赤みを増し、目元が上気していた。互いに何を言うこともなく、僕は彼女の唇と自分の唇を重ねる。由奈もそれを求めていたかのように、柔らかい唇で僕にキスを繰り返した。
 僕はキスをしながら、空いたもう片方の手の指先を彼女の中にそっと入れる。由奈は唇が重なったままで、小さくて甘い吐息を漏らす。とても温かい彼女の中が、滑りながら僕の指に絡みつく。そのままゆっくりと指を動かしていくと、由奈は小動物ライクな声を上げて喘いだ。
「あっ……、弘……くんっ…………」
 耳元に荒くなった声が漏れる。その甘い声が、僕の心のそこから、熱いものを引き出した。
 僕の弱く抱きしめていた由奈の腕を放し、無防備の彼女を上から見下ろす。せっかく乾きかけていた身体は、汗でじっとりと湿っていた。僕は、そんな彼女の身体を、胸から順に愛撫して行く。
 少し身体に触れただけで、ぴくぴくと身体を震わせる由奈。彼女の人形のような肌を十分に撫で終わると、僕は少し休めていた片方の指を、また動かし始める。
「んんっ…………!」
 はっきりとした声を上げる由奈。一応ここはマンションなので、隣りに聞こえては色々と迷惑なことがあるかもしれない。僕は一度だけ彼女の唇に人差し指を添えると、再び由奈の中で指先を泳がせてゆく。熱い感触が、人差し指を締め付ける。由奈は口を押さえ、肩で呼吸を繰り返していた。
 少しして僕は彼女から手を離し、顔を彼女の入り口へと、近づける。
 漏れた息が少し当たっただけで、由奈は敏感に反応して、小さな嬌声を上げた。僕は甘くとろけた坩堝と化している彼女の部位に、そっとキスをする。滑りを持ったわずかな愛液が、糸を引いて落ちた。僕は自分の中に、熱く滾る何かが込み上げてくるのを覚えた。
 僕は本能のままにあの暗闇にいるときと同じ格好になって、由奈の入り口にそっと自分のものを当てる。
「由奈……いい?」
「あっ…………、う、うん…………んっ!」
 僕は彼女の返事とほぼ同時に、導かれるままに彼女の中へと入った。
 深い深い奥までたどり着くと、彼女は可愛くて、美しい声を上げた。僕は一度中から引き抜いて、再び奥深くへと突き進む。
 その度に、由奈は身体を仰け反らせて声を上げた。甘い甘い悦びの声が、部屋の中に響いた。
 本能を抑えきれなくなった僕は、徐々に動きを速くしながら、自分の中で燃え滾るものを、彼女の中にありったけ注いでいった――――――――

     ■

「やあ、こんにちは。君に会いに来たよ」
「貴方は一体誰? どうやってここまでやって来たの?」
「僕も良く分からない。ただ僕は君に会うためだけに幾多もの困難を乗り越えて、ここまでやって来た。何故ならそれが僕の役割だから」
「貴方の名前は?」
「分からない」
「それじゃあ、私の名前は?」
「それも分からない」
「何も知らない貴方が、どうしてここまでやって来たの?」
「どうしてだろうね。僕にも分からない」
「それじゃあ訊くけど、貴方は一体何を知っているの?」
「少しばかりの記憶かな」
「記憶、って?」
「それが分かれば苦労しないんだけどね」
「訳が分からない。でも私、そういう不思議な人、好き」
「奇遇だね、僕もだよ」

     ▽

 気がつくと、辺りは夜色に染まっていた。
 あれからのことはほとんど覚えていない。ただ、最低限の処置を由奈に施して、それから色々と喋って、そして何度も、彼女と繋がった。僕と由奈は一日で、何回も一つになった。
 頭がぼうっとして、上手く働かない。陽が落ちる前に由奈を家まで送って行って、帰り際に近所のコンビニでコーヒーとサンドイッチを買って家に帰り、それをのんびりと食べて、つい、うとうとしてしまった。
 行為の最後の方は、もう記憶が抜け落ちていた。何をどうしたのかも覚えていない。そこまで激しい何かをしたわけでもないのに、記憶が奪われたように、思い出せない。思い出したら思い出したで恥ずかしくなってしまうので、これ以上は考えないようにするけども。
 テレビの電源を押しても、明かりは灯らなかった。代わりに膨大な量の砂嵐が、特有の音と共に部屋になだれ込んできた。僕はすぐさま消そうと思ったが、何故か手が動かなかった。
 むしろ、いつもなら耐え切れないだろうこの雑音が、心地よいようにも感じた。今ならこの音が、如何なるものよりも好きだと言えそうだった。自分でも何故か分からなかった。僕の細胞が、その音を好んでいた。
 時計を見やる。短針は頂上を当に越えている。そりゃあ、何も映らないはずだ。
 僕は心地よい雑音を聴きながら、部屋の明かりを消す。
 直後、この世の絶頂とも思える快感が、体中を駆け巡った。
「――――――――!」
 まるで、甘い甘い夢の中を漂っているような、不思議な感覚。これほどまで心地よい感触は、今まで生きてきた中で一度も感じたことがないかもしれない。身体がとろけそうになる錯覚を感じた。部屋の空気と一体化してしまいそうになって、自然と口元が綻んだ。
 でも僕は、それが「過去に一度だけ感じたことがあるもの」だということに、気がついた。
 そう、これは――――

     ■

 暗闇の中には、僕に良く似た人物が立っていた。
 空気も、部屋の広さも、鎖も何もかも同じのままで、目の前に、僕そのものとしか言いようがないくらい似た男が、目を瞑ったまま立っていた。良く観察すると、目は癒着しているようにも見えた。
 普通暗がりの中では相手の顔など観察できないものだろうけど、この時ばかりは彼の顔が鮮明に視界に映し出された。
 僕と全く同じ格好――――生まれたままの姿で立っている、男。
 物言わぬ無防備の人間は、天井から糸で吊り下げられているかのように、だらしなく直立している。
 僕は何の危機感も持たず、ゆっくりと、彼の元に近づいた。三十センチほどの至近距離になっても、彼は一向に動きを見せようとしない。
 そして、やはり目は固く閉じられたままだった。
 空気がうねっているのが、肌を通して伝わってくる。もうかれこれ五回ほどここにやってきた気がするけど、未だにここがどこなのか分からない。ここまで意識と感覚がはっきりしている夢なんて今まで見たことがなかった。そう考えると、もしかしたらこれは夢ではないのかもしれない。白昼夢のような、非現実的な現象なのかもしれない。
 と、ここまで考察を重ねたところで、僕はまたもある一つの違和感に気が付いた、が、
 その直後。

 不意に眼前の彼の両腕がぬらりと持ち上がり、
 滑った手の平が、僕の首に絡みついた。

「………………!?」
 金属が磁石にくっつくように、彼の両手が凄まじい速度で僕の首に張り付いた。
 僕は咄嗟に振りほどこうと力の限り掴んだが、彼の手はがっちりと僕の首を捕らえて離さなかった。まるで頑丈な鍵をかけたかのように、びくともしない。
 両手に込められる力が、次第に強くなる。漸進的に、息苦しさが増して行く。
 僕に似た男は無表情のまま、僕の首をきつく締め付けて離さなかった。
 ――――殺される!?
 脳裏にふと、そんな言葉が過る。
 しかし、それはどう考えてもありえない事だった。
 僕はついさっき部屋に戻ってきて、コーヒーを飲み、甘い夢に誘われた夢の中に落ちたはずだ。仮にここがその夢の世界だというのならば、ここまではっきりと意識が――――そして息苦しさがあるのは明らかに異常だった。
 だとしたら、一体ここは……?
 考えが及ばないまま、気管が潰されてゆく。弱い息が漏れて歯が震え、口の端から唾液が糸を引いて垂れ落ちる。意識がかすれ、視界がぼんやりと滲み始める。
 夢にしては、現実性が強すぎる。
 僕が、疑問に思ったのを、察したのか。

 次の瞬間、
 黙りこくったままだった彼が、
 ゆっくりと口を開いた。




「こんにちは、もう一人の、僕」

 その言葉を聞いて、僕の中でバラバラになっていたピースが、一枚の絵になった。同時に、目の前の世界が――――暗闇に包まれていた部屋が、鮮明な赤色で塗りつぶされた。
 一瞬で、全てを理解した。
 彼は、もう一人の僕だ。でも僕は、もう一人の彼ではない。
 言うなれば、彼は「僕から生まれたもう一人の僕」。
 全ての異常現象に、合点がいった。
 何故、僕は最近不思議な夢ばかりを見ていたのか。
 何故、このような暗闇でもう一人の自分と対話していたのか。
 そして――――ここは、どこなのか。

 全ては、この僕への“贖罪”だったのだ。

 最期に、僕は彼の本当の姿をこの目で見ようと、首を巡らせた。
 視界にかすかに映ったのは、僕にそっくりな面立ちをした男が、まだ「開いていない眼」で、僕のことを睨みつけている姿だった。

     ▽ ▽▽

「なあなあ、あの話もう聞いたか?」
 恵一が後ろからかけられた声に振り向くと、そこにはクラス一の情報通である男子、久永が、神妙な面持ちで唾を飲み込んでいた。
 手に持っていたミルクティーを飲み干すと、恵一は彼の方を向いて座りなおす。
「あの話って……弘樹、それに川内由奈のことか?」
「そうなんだよ。あいつ、妊娠してたらしいじゃん。で、それを孕ませたのが弘樹だって話。ここまではクラスのほとんどが知ってることなんだけどさ、」
 メガネをかけた男子は、囁くような声で続ける。
「今、二人は自宅謹慎になってるって言われてるじゃん。でもさ、実のところ、二人とも自殺したって聞いてるぜ」
「!? それは……本当の話だろうな!?」
「俺が嘘つくわけねーじゃん」
 確かに、久永があからさまなデマを広めたということは、今まで一度もなかった。
 恵一が続きを放すように促すと、久永は表情をさらに曇らせる。
 そして語るは、
「川内は中絶手術みたいなのしたらしいんだけどさ。まだ二週間も経ってないのに“既に胎児の形をしていた”らしくてさ。それがショックで投身自殺したって情報だ。そして弘樹なんだが……実際のところ、あいつはどこにも姿を見せていないらしい。川内の見舞いに行ってなければ、マンションの自室にも戻ってきてないって聞く。これはあくまで俺の推論にすぎないんだが……」
「……なんだ、勿体ぶるなよ」
「……弘樹の自室には、あいつの来ていた制服が脱ぎ散らかされたままだった。そして、川内の身ごもった赤ん坊は、すでに人間の形をしていた。こんなこと漫画の世界でしかありえないとは思うけどさ。もしかしたら、弘樹は――――――――」

     ■■■   ■■

 君は僕を良く知っている。僕は君のことを良く知っている。
 君の名前を僕は知っている。そして、君も僕の名前を知っている。
 ここはとても息苦しくて、目を開けることも出来ない。暗闇の中に手を伸ばしても、壁に遮られるばかり。溺れてしまいそうになるけど、死ぬことはない。
 ある時、僕はこの甘い地獄から、白い服を着た誰かによって助け出された。
 でもその時、君は泣いていた。“あの人”も、泣いていた。
 ねえ、君はどうしてそんなに悲しんでいるの? 何か、悲しいことでもあったの?
「ごめんね、ごめんね……許して……」
 ああ、もう、その言葉は聞き飽きたよ。一体何に謝っているのか、僕に教えてよ。


 ねえ――――“由奈”。
 君は今、何に、謝っているの?

       

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