Neetel Inside 文芸新都
表紙

旅支度は朝食の後で
銀狼の婚約時計

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 砂漠の村から出て、一週間以上東へと向かい、漸く青年は地獄のような砂漠から抜け出す事に成功したものも束の間。今度は大きく広がる森林の中へと突入した。不眠気味で眠そうに眼をこする青年、名をウォルターと言う。おおよそ見た目は15、6であろうか。この世界に於けるクローランと呼ばれる種族の青年で、額に着けたゴーグルもさながら犬の様な耳が強くその色を主張していた。
 ウォルターが前回旅をしていた砂漠と違い、森林は新鮮な空気と、豊富な食料。そして味の良いモンスターも多く、食事に不便する事は無かった。
 毒物を持っている食料やモンスターは砂漠に比べてかなり多くいたが、それにしたってある程度のサバイバル知識を持っていれば、砂漠とは天と地の差。完全に楽園である。
 そうして歩いている内に、沢山の大きな建物の姿をウォルターは確認した。漸く街と呼べる街にたどり着けたのだった。
「今度は……しばらくは長居しようかな」
 数週間もまともな生活を送れなかったのは非常に痛かった。何よりお金もだいぶ無くなってきた頃で、バウンティハンターの協会ギルドがあればそこでお金を稼ぐことも出来るし、これだけ大きい街ならば短期バイトの募集も多いだろう。
 意気揚々と砂漠の村とは大きく違う、豪華で立派な巨大な門の下に辿り着くと早速と門番に話し掛けた。
「すみません、旅をしているものなのですが、宜しければここで暫く滞在したいと思っています」
 門番はウォルターの容姿を確認すると、少し驚いたような表情をするが、突っ込むこともなく己の職務を全うすべく、身分証の開示を要求してきた。滞在日数は一週間に設定した。旅人証明書という、滞在期間限定の身分証を受け取り門を後にする。
街の中に入れば、そこは驚く程繁栄した様子が伺えた。並ぶ建物の奥には立派な城が構えられており、ここは城下町であることが伺え、この森に囲まれた街は一つの国であることも指し示す。
 街道は活気に溢れ、可愛らしいモニュメントの付いた噴水を軸にして子供が走り、出店のホットドック屋、そして一見古風なケーキ屋、パン屋などから香ばしい香りが溢れ、街中の人々は皆充実した顔を見せている。
 また、この街には様々な人種が溢れている。 先日お世話になったイスピスを始め、自分の種族、クローランやカータル、ボアルにラビ、その他諸々の種族がサラダボールになっている。
 生い茂る森林のせいか、初めは閉鎖された街かともウォルターは思ったが、こうして中に入ってみると、それはもう随分と発展した街である。
 当然の様にバウンティハンターの協会もあり、ほっと息を撫で下してウォルターは適当な宿を探すことにした。結果、小洒落た宿より古臭い壊れそうな宿をウォルターは選び、宿の中に入った。
 理由は漠然としているが、安い可能性が高いの一言に尽きた。ただ、外に値段表なんて便利なものすら付いていなかった為、結局の所確認しなければならない。看板にはクルーズとだけ書かれていたが、薄汚れてrがlに見え、ハンモックのつり紐の意味のクルーズと間違えるところである。宿屋だけに気の利いたシャレだとウォルターは苦笑いした。
 中に入るなり、カウンターに自分と同じくらいであろう、細身で三本のヒゲが可愛らしく生えた金色の髪を肩まで伸ばしたカータルの少女が番をしており、その後ろに値段表が掛けてあった。
「120クルス……、こんなに安い宿は初めてだ」
 思いがけずウォルターが思いを口にすると、店番の少女は不機嫌そうに尋ねる。
「あなたなんなのよ、冷やかしにしては悪質ね」
「いや、僕は旅人で、ここにチェックインしたいと思っている」
「……あら、でもあなたまだ子供よね」
「まあ、そうだけどね」
 ウォルターは背中に背負った大きなバッグから、門で受け取った証明書を少女に見せる。
「本当だ! いいなぁ、そんな歳で旅人なんて……、私なんかここの店番で一生を終えてしまう気がするわ」
「まあ、良いものでもないよ。僕は目的があるからまだいいけど、旅先で面白くない事の方が多い」
「そっか、まあそういうならそうなのかな。さて、チェックインだったわね」
「ああ、名前はウォルター・ブレア。君の名前は?」
「わたしの名前? 聞いてどうするのよ」
「世話になる人の名前くらい聞いておきたいんだ」
「あら、殊勲ね。私はリネットよ。リネット=クルーズよ」
 ウォルターはリネットに一礼すると、2階の部屋のカギを受け取り、階段を駆け上がる。
やや薄汚れた扉を開けると、まあ六畳はあるであろう立派な部屋がそこにあった。
 勿論ベッドなんて気の利いたものは無く、寝具と簡単なテーブルがあるだけだが、それにしたってこの安さなら三畳程度の独房を想像していた程で、ウォルター自身まるで文句は無かった。
 大きなリュックを部屋の隅に置き、荷物は刀と銃と財布だけ。あとは38口径の銃弾がフルムーンクリップのローダーにセットされた物がいくつか入ったショルダーバッグだ。かなりの蛇足だが、このバッグは黒くて反りがあるのでウォルターはウィンナーと呼んでいる。
 ショルダーバッグの中の弾薬を再度確認すると、狩猟で相当つかった為か、予想以上にその数を減らしていた。
 帰って来た時にすぐリローディングできるよう、ハンドロードの道具である雷管、薬莢、ガンパウダー、ダイ、プライマー等をリュックから取り出し、適当に並べておくと、ウォルターは外に出て、部屋の鍵を閉めた。
 カウンターを横目にリネットに軽く手を振ると、宿屋、クルーズから外へと飛び出し。今回のお目当てであるバウンティハンターの協会へと向かう。
 途中にあったパン屋の横にそびえる建物がそれであり、可愛らしいモニュメントの立っていた噴水の目の前だ。ウォルターは途中で気づいたが、今は丁度正午でギルドは昼食を撮っている時間である。
 建物の目の前まで来たまではいいが、この時間帯に入るのはマナー的によろしくない。一応窓口は開いているのだが、基本的に受付は一人で切り盛りしている場合が多く、人の食事を邪魔することはとてもじゃないが、雰囲気の良いものではなかった。要するに基本的にある程度ベテランであればこの時間は避けるのが普通なのである。
「これなら宿で弾薬作りしていた方が正解だったな……」
 ウォルターは呟きながらも宿屋に戻る気は余り無かった。そんな事は夜にいくらでも時間が作れるし、なにより長く人気の無い森の中で、モンスターやゴロツキの危険性に対して、過度に緊張を保ち続けていたのが、さっきまでの話であって、漸く落ち着いて空を眺めていられるような状況下に立つことが出来たからだ。
 ウォルターはゆっくりと噴水近くのベンチに深く腰掛けると、大きなため息をついて空を眺めた。
 5分位そうした頃だろうか。ウォルターの近くにいつの間に小さな訪問者が訪れた。
 小さな犬の様な耳をぴょこんと頭に携えた10かそこらの少年だろうか。手入れをしていないボサボサの頭髪に、服装はやや薄汚れており、この街の貧困層の少年と伺える。ウォルターの袖をグイグイと引張り、己の存在を主張する。
「どうしたんだい?」
 ウォルターがその少年に問いかけると。少年は嬉々として答える。
「お兄さん旅人でしょ? 良い物があるんだ、買わない? 上等な魔道具だよ」
 そう言うと、少年が懐から一つ、腕時計のようなものを取り出した。時計の魔道具というからには、魔法石で動くクォーツ式の時計か。それに合う魔法石は数が少なく、魔道具というその実それ自体にいまいち価値がないものだった。
 むしろウォルターが着用している魔道具ではない、特殊な機械時計の方が技術的にも装飾品としても圧倒的に値打ちがある。壊れやすさが問題ではあるが、過去道中で助けたキャラバンの掘り出し物がそれだ。詳しくはないが、トゥールビヨンという特殊な機構を持った狂いの少ない時計だ。宿に置いてきたリュックにも幾つか、もう使っていない古びた安物の機械時計が数点取っといてある事も含め、ウォルターがその時計を購入する必要はそこまでは無かった。
「悪いけど、それは僕には必要のない物だな。特にその魔道具は余り価値がない物なんだ。中に組み込まれた魔法石自体は値段になるから、魔道具屋や貿易商に売ればそれなりにお金にはなると思うよ、そうだな……150クルスは固いんじゃないかな。時計含めて180クルスというとこだと思うけど」
「えー、1000は行くと思ったんだけどな。しょうがないなぁ、じゃあマケにマケて80でどう? 近くの質屋に持っていったら話も聞いてくれなく……」
 少年は終える前に背後の影に気づき、後ろを振り返った。人物は長身で細身の男で、歳は20代行ってない程度だろうか。ウォルターのような旅人を思わせる、大きな肩掛けのバッグを背負っていて、肉食人種、ボアルを思わせる、美しいプラチナブロンドをなびかせた目つきの鋭い男だった。恐らくは素の表情でも刃の様な眼力を持つであろうが、ウォルター並びに少年の目に映るその男の目付きは怒りのソレであった。
 男は言葉を発さずに冷酷な目線を少年に浴びせる。少年はすっとぼけた面で男をただ眺めていただけだが、ウォルターはまずいとばかりに諌めようと、まず軽く何があったかを尋ねることにした。
「ちょっとまってください。もしかして、この子がスリを行ったとか何かでしょうか?」
 男はしばらく考えた後、ハッとした表情に変わる。またひとしきり考えたあと、いきなり高い位置にあったその頭をウォルターの身長付近までおろし始めた。
 何事かとウォルターは身構えたが、よくよく見ればこれは謝罪の形か何かなのか。そうして漸くその男は言葉を発した。
「良かったら、その時計の魔法石を譲ってくれないか? 値段は言い値で構わない」
 思いがけない一言にウォルターが困惑する中、少年は嬉々としてウォルターの手中にあったその時計をぶんどる。
「毎度毎度、1000クルスでどうかな!」
 男は緊張の効いた表情をほんのすこしばかり柔らかく見せると、懐から旅人には似合わないビニール牛革の高級そうな財布を出して、そこから100クルス札を10枚と少し、無造作に取り出し少年に差し出した。
 その時計が盗品か盗品でないのかはよくわからないが、取り敢えず少年に何らかの危害が加わる訳でないことを理解したウォルターはほっと一息ついた。
 男は腰のポーチから通常とは逆側に反ったハーピーナイフを取り出すと、片手でそれを開き、時計の裏蓋に引っ掛けて抉じ開けると、魔法石だけ取り出して、再び丁寧に裏蓋をはめ込むと、少年に時計を手渡した。
「この時計は大切なものだろう、簡単に売ってしまったは駄目だ」
 男がそう言うと、少年は悲しげに少し下を向く。手に持つ時計の裏蓋にはウォルターの目線でディアサンと掘られている部分が伺え、ハッとする。
「……うん、でもお兄さん。ありがとう。これでお母さんの薬が沢山買えるよ。ありがとう」
 言うと、少年は札束を握りしめてホットドッグ屋の路地を曲がり走り抜けた。
「隣、借りるよ」
 男がウォルターの隣に座ると、先ほど取り出した魔法石を、リュックから取り出した小物箱に丁寧にしまっていた。左手に光っている高級そうなクォーツの時計の為の予備だろうか。
 ウォルターはこの男に興味が出てきたので話しかけることにした。
「いやぁ、びっくりしましたよ」
「何がだい?」
「いえ、僕はてっきりあの子が盗品を旅人の僕に売り付けて、その盗品を売っている現場をあなたが見つけてしまったのかと思ってね」
「そうか、君は旅人だったのか。通りでこの街に馴染んでいる様子はない」
 はっきりと物を言われてウォルターは苦笑いをする。そんなウォルターを気にせず男は続けた。
「そもそもあの子は質屋にこれを売りに行ったという。この街で盗品を売るならば普通質屋に持っていくことはない。身分証が必要になるからな。盗品とわかれば我々警備兵が黙ってはいないよ」
「あなたはこの街の警察だったのですか。となると、今の子供をすごい形相で見ていたのは……」
「まあ、それもあるが……そんなに悪い顔をしていたかい? 俺は」
 渋い顔を向ける男の顔をウォルターがしばらく見つめると、思わず吹き出してしまう。

     

「ふふ、あなたは面白い人ですね。名前をお聞きしてもいいですか? 僕はウォルターです」
「面白いとは心外だな。俺はいつでも大真面目なんだけどね。名前はリュカと言う、呼び捨てで結構だよ」
「それはお断りします。で、こんな日中にリュカさんは仕事中ではないんですか?」
「いや何、簡単な話さ。職務放棄だよ。実を言うと俺はそこのバウンティハンターの協会に用があってね。かく言う俺も旅人としてデビューをしようと思ってるんだ」
「今の仕事に不満があるんですか?」
「大有りだね。ここの政治を任された先代の王の息子に従属しなければならないと思うと吐き気がする程だ。今の子供もみたろう? 先代の王が降りてから、日も浅い為にここらは辛うじて中流家庭が多く並ぶが、税金の値上げ、大多数個人へのどうでもいい税金の取り締まりの強化、学費面の大きな負担その他諸々と。元来の貧困層へのダメージは口じゃ言い表せない。というのも、貿易商や旅人に媚び始め、国の資産を食い潰す一方であるからだ。持っている富裕層は儲けるだけ儲けて住みやすい国外へ移住し、元より持たざる貧困層には苦痛を強いているのが現状だ。ああ、説明が難しいな、つまり見栄か娯楽か、必要のない設備の強化の為に富裕層や他国へ、金をばらまく一方で国の資産が枯渇しているんだよ。その被害を受けているのが下々の国民だ。今や貧困層の平均収入では安易に結婚することもままならないよ」
 寡黙とは言わないが、出会った先程は妙に口数の少なかった男が、愚痴の一つでここまで饒舌になるというのはよっぽど頭の飛んだ国王なのだろう、とウォルターは感じる。人見知り、というのも有るのかもしれないが。
「っと、悪かったね。こんな愚痴に付き合わせて」
「いえいえ、まあでも僕の経験ですが、どの国に行ってもそういった問題は結構抱えているものです。案外他国も宛になりませんよ」
「まあね、それはわかっているつもりだが、もとよりここは俺の故郷というわけでもない。何れにせよ出ていくつもりではあったんだ。一つだけ心残りがあるのが問題なんだが……」
 リュカの言葉が途切れる。何事だろうと思い、ウォルターはリュカの顔を見ると、呆けた様子で目の前のパン屋で買い物をしている少女を眺めていた。
 よく見ればウォルターも見知った人物で、それがリネットである事が伺えた。リュカは気付いたようにウォルターに顔を戻すと。
「なあ、ウォルター。あの娘の経営する宿屋はとても良心的な値段なんだ。少しボロではあるが、それにしたってボランティアと言える値段だね。聞くところによると自分が食えるだけで結構だという話だけどね」
「面白い偶然ですが、彼女の宿を予約させていただいていますよ」
「そうか、あの娘はとても良い娘なんだけどね。最近の増税等でとうとう赤字を食っているのが現状なんだ。それでも値段を下げずにやっているみたいだけどね。今の状況じゃ改修も出来ない。あの立て付けの悪い扉や窓、腐ってそうな壁や狭い間取りじゃ値段を上げることもできない。心残りというのはそれで、なんとか助けてあげたいんだ」
「そうですね……一緒に旅に連れて行ってあげるのはどうですか? 彼女、旅をしたいと僕に話をしてきましたよ」
 ウォルターがそう提案するも、リュカは首を捻って考えるだけだった。それが駄目な理由でもあるのだろうか、とウォルターもまた首を捻って考えてみるが、一向に答えは浮かんでこなかった。
 ふと気づくと、二人に気づいたリネットがベンチの前に立っていた。二人の組み合わせに不思議そうな表情を浮かべながら話し掛ける。
「あら、リュカにウォルターさん。こんなところで、友達にでもなったの?」
 丁度いい機会だとばかりにウォルターはリネットに提案することにした。
「そんな感じかな、ところでクルーズさん。リュカさんが旅に出ることを打診してるらしいんだが、良かったら君もついていったらどうだい?」
 言うと、リュカは顔を真っ赤にしてウォルターの肩を引っ掴んだ。
「ちょ、ちょっと待てよ! リネットだって色々事情があるだろうし、そんな提案したらまずいだろ! そもそも俺が女ならいざしらず……」
「連れて行ってもらえるなら私は行きたいけどなぁ。小さい頃からよく見知ってる顔出し、他人って訳でもないんだし……」
 じゃあいいじゃない? と、ウォルターはリュカに両手を開いて見せるが、リュカは腕を組んだまま考え込むばっかりだった。
 ひとしきりかんがえたあと、リュカはリネットの方を向き直す。
「しかし、リネット。君を懇意にしてくれている資産家もいるじゃあないか。うまく玉の輿に乗れるかはわからないが、無闇に決断するのも良くないと思うんだ」
「いやよ、あんなロリコン男。結婚するならもっと若い人がいいし、成金のイスピス男なんて私は絶対嫌よ」
「だが、リネット。このままでは君もあの宿を売ったとしても生活は出来ない。スラムで身売りする君の姿なんて絶対にゴメンだぞ」
「あなたは……私を助けてくれないの? あの男の物になればいいと、本当にそう考えているの?」
 強気だったリネットは急にしおらしくリュカに問いかけるが、リュカは応えることが出来ずにうなだれているだけだった。しきりに左手の時計を指でなぞっていたが、それ以上彼が動く様子もない。
 リネットは一つ、大きなため息をつくと、後ろに振り返り。
「わかったわ、リュカ。あなたが望むことだものね。あなたの言うとおりにすることにするね」
 それでもリュカは答えない。半ば蚊帳の外だが、横で見ているウォルターからしてもなかなか情けない様子だった。
 リネットが噴水広場から去ると、リュカはがっくりとうなだれた。
 いい加減ウォルターもそれを見かねる。
「リュカさん、今の様子からきっとあなたは彼女に恋をしてるのかもしれませんがねぇ。今のはまずかったんじゃあないでしょうか?」
「リネットは妹みたいなものだ。その彼女が幸せになるんだったら俺は我慢するさ」
「何に対しての我慢ですか? その言葉が全て物語ってる気がするんですがね。まあ、今日あったばかりの人の恋路に干渉する僕も如何かとは思いますが」
 リュカは何も答えなかった。もうこの話はやめるか、とウォルターはやれやれと深いため息をつき、左手に付けた時計を見る。
「リュカさん、僕はハンター協会に行きますが、あなたはどうしますか?」
「あ、ああ。俺も行こう」
 我に返ったようにリュカは顔を身体を起こすと、立ち上がる。ウォルターも腰を上げて、二人でバウンティハンター協会へと向かい、こじゃれた鈴付きの扉を開くと、可愛らしい鈴の音と共に三時を告げる魔道具の鳩時計の音色が出迎えてくれた。
 リュカは窓口でギルド員登録の申請をし、その最中にウォルターはターゲットのリストを手に取り、ロビーの椅子で適当にページをペラペラと捲っていた。この国の付近には貿易商や旅人を狙ったゴロツキが多数住んでいるようで、賞金首には困らないことをウォルターは確認すると、そっとリストを閉じた。
 その頃にはリュカも登録を終えたようで、ウォルターのすぐ傍で待機していた。リストを本棚に戻すとウォルターは尋ねる。
「ところで、リュカさんは武器とかそういったものは大丈夫なんですか? 腕に覚えはありますか?」
「ああ、警護兵の装備はそれなりに金を掛けていてね。オートマチックのハンドガンを二丁ほどくすねてある。これなら扱いにも慣れているしね」
 法に準ずる仕事をしている割には良い根性をしている。ともウォルターは考えていたが、同時にそういう男からも知れないな。とも思い、それに関して突っ込むのは止めにした。
「取りあえず、このまま外に出ましょうよ。さくっとお金稼いでみましょう」
「そうか、人を撃った事がないが、大丈夫かな」
「そうですね、腕に自信がおありでしたら、願わくば足と手を狙ってください。それが出来ないならばやっぱり殺すしかないでしょうね」
 ウォルターは軽く脅してみたものの、リュカは動じる様子も無く、軽い足取りで協会の外へ出て、噴水広場を抜けるとすぐ門へと辿り着く。職務的な問題もあるのか、案外肝も据わっているようで、旅人の適正はそれなりにあるのかもしれないとウォルターは安心した。
 門を抜けると、相変わらずも青く茂った森林が壁のように連なっており、そこを二人で歩く。賞金首を探す、とはいえまあ、この国に来る間の道中であってすらいない以上、そう簡単にも会う物でもない。ついでと言ってはなんだが、この間にリネットへの食料提供も含めて狩猟をする事にした。無害な食用モンスターを見かけると、ウォルターはリュカを手引いて、茂みに隠れる。
「狩猟くらいはした事ありますよね」
「あの、数匹のウサギを狙ってみろ。という事か?」
「ええ、体温めるためにもやりましょう。僕が右側行きますからね。一、二の三でいいですか?」
 リュカが頷くと腰からハンドガンを取り出し、軽くスライドをして弾薬が装填されていることを確認する。ウォルターも腰のホルダーからオートマチックリボルバーを抜き、素早く打てるように撃鉄を起こして準備をしておいた。
「ほう、ウォルターの得物は骨董品か」
「まあ、趣味みたいなもんです。では、いきますよ」
 一、二の三とウォルターがカウントすると、二人は一斉に銃を構えた。
 ウォルターがまず一羽の兎を仕留めると、リュカは既に二羽目の兎の射殺に取り掛かっており、ウォルターも負けじと次の兎に銃を構え、照準器を覗き込むと、発砲する。
 結果としてリュカが三羽、ウォルターが二羽という成績にて終わる。
「さすがに訓練している人はうまいですね」
 言いながらウォルターは銃を二つに折り曲げると、八発の弾薬がヒンジによって押し出され、それを手で受け止める。
 薬莢のみとなった二発を適当にショルダーバッグに詰めると、新しい二発の銃弾加え、八発分の弾薬を装填しなおした。折りたたんだ銃を元に戻すと、ガチリと小気味の良い音を響かせる。
「まあ、得意な方ではあった。人相手になったらどうなるかはわからないけどね。ウォルターもその歳でそれだけ正確に撃てるのはやっぱり凄いな」
 言いながらリュカが銃を収める姿の背後にウォルターは違和感を覚えた。無駄に多い茂る木々の闇の奥の人影にウォルターのピントがあわさってくる。
「リュカさん、伏せて!」
 大声を放ちながらウォルターが伏せると、リュカも反射的に頭を伏せる。
 二人で無い別の誰かの、乾いた銃砲の音が森に響いた。
 リュカもすぐに後ろを向きなおすと、髭をこさえた山賊らしき大柄な山男が古臭いカービンを構えていた。
 リュカはとっさにその場を離れ、すぐにホルダーから再び銃を取り出す。
 大柄な男も弾を装填すべく、レバーを引きながら森の奥へと隠れる。
 一旦退こうと、ウォルターはリュカの方へと走り、背中合わせになって二人前方に銃を構える。
「どうです? ウォルターさん」
「そうだな……こう、実際に命が掛かってくると、なかなかストレスがハードだな」
 ふふっと、目の前に集中しながらもウォルターが笑うと、リュカの銃撃音。ウォルターがとっさに振り返ると、リュカの目の前に現れた山男の右肩に命中し、手に持っていた猟銃を落とす。
「やったか!?」
 リュカは一旦安心してハンドガンを下す。だが、ウォルターは謎の違和感を感じる。記憶を辿れば奴が持っていたのは古式のカービンであって、形こそ似てはいるがショットガンではない。
「リュカさん、まだです!」
 ウォルターは再びリュカに背中を合わせ、前方に銃を構えると、リュカもそれに従った。
 偶然にも隠れていた山賊はウォルターの目の前にいたようで、カービンを構えた先ほどの男が立っていた。
「俺の前にもまた別の山賊がいるぞ、得物はちゃっちいソードオフだ」
 ウォルターの後ろから、リュカの報告が聞こえた。つまり、盗賊は三人か、それ以上居て、今二人は挟み撃ちにされそうになったという事だ。
「僕の前にはさっきの騎銃持ちがいます」
 お互いにトリガーを引くだけの状態となり、戦況は一旦膠着した。一旦避けるか、このまま相打ち覚悟でトリガーを引くか。
 森の中で四人の男が一筋の冷たい汗を流す。
 同時に一発の発砲音が森林に鳴り響いた。

     

 音に反応してウォルターも思わずトリガーを引くと、山賊の肩に黒い穴が開き、そのまま肩と左横腹から鮮血を吹き出し、前のめりに倒れる。同時にリュカがいる背後からも銃声が響いた。
 ウォルターはそのまま後ろを振り向き銃を構えると、ウォルターと同じようにリュカも銃声に反応して射撃を行ったのか、山賊の足と右横腹から血が噴き出ているのが伺えた。
 山賊二人の横腹から鮮血が噴き出ていたのを考えると、もう一人射撃手がいる。二人はそう考えて、山賊が血を吹き出していた腹の方向目がけて銃を構えた。
 犯人は目の前にいた。ファーの様に羽根を体中に纏っていることから、ラズクァイアという種族である事がウォルターには伺える。容姿はやや特異で、闇に溶け込むような漆黒の髪に、その羽根の色もラズクァイアの血統によって違いはあるが、それは黒い髪に準ずる様に、漆黒の色を見せていた。手に握ったリボルバーは構えておらず、広げる様に手のひらを見せてウォルター達に近づく。
「やあやあ、ウォルター君。こんな雑魚相手に何を苦労しているんだ」
「あなたは……」
 見知った顔にウォルターは驚愕する。勿論リュカはその人物が誰かわからず、一人困惑を続けた。
「ウォルター、君の知り合いか? 歳は君より上の様に見えるが」
「ええ、この人はヴィルヘルム=エーデルシュタインと言う、僕が訪れた国で領主をやっていた人ですがね。僕が紹介して今はギルド員ですよ。腐れ縁って奴で時々こうしてバッタリあっちゃうんですよね」
「なるほど、没落貴族という奴か」
 どストレートに放ったリュカの言葉をウォルターはつい鼻で笑ってしまう。非常に苦い顔をしてヴィルヘルムはウォルターを眺めると、それに気づいて失礼。とウォルターは手を振り挙げた。
 どうやら、一番初めに響いた銃声はこのヴィルヘルムの銃による物で間違いはないようだった。つまり、ウォルターもリュカも全く無傷であって、ヴィルヘルムの射撃は助かったと言えばそれまでだが、非常に紛らわしいもので、二人は釈然としなかった。
 特にリュカとして不思議な部分が一つ。
「一発しか射撃音が聞こえなかったが……?」
 ああ、それはですね。とウォルターが言いかける前に、ヴィルヘルムは得意げに再び射撃音を森に響かせた。
「とまあね、こんなもんだが。おわかりかい?」
 速すぎて二人は息を飲んだが、引き金を引いたまま、撃鉄を指二本で指一本一回ずつ瞬間的に引き上げて、叩いてる様子が伺えなくも無かった。余りの早打ちで音が一回分しか聞こえない。
 リュカは初めて見るファニングの技術に大層感心したようで、手を叩きながら賞賛を述べる。
「ほう、こりゃあすごいな。廉価で大量にあるシングルアクションの銃はここまでポテンシャルがあるのか」
 ヴィルヘルムはだいぶ気を良くしたようで、ご機嫌に鼻歌を歌いながら倒れた山賊を引っ張る。
「取りあえずこの獲物は二体やるよ、三人いたみたいだから一人は俺が貰うぜ」
 山賊を引きずりながらヴィルヘルムは森林の闇へと消える。ウォルターはその様子を見ながら苦笑いして呟いた。
「しかし、世界は狭いっていうか、毎度ストーカーみたいに変なタイミングで出会ってしまうんだよなぁ、彼とは……」
 リュカが山賊の生死を確認したり、縛ったりしてる様子をウォルターが確認すると、すぐにその手伝いに取り掛かる。残念ながら山賊はショック死していたが、これもリュカの一つの経験だと、心に決着をつける。勿論初めてでないにしろ、己の心にも同じような言い訳で決着をつける。
 二人で門まで引きずり、門番がそれを見つけると先に着いていたヴィルヘルムと共に手を振ってきたが、リュカの目には嫌なものが移った。
 職務放棄していたリュカの天敵である警護兵同僚達と上司だ。
 どうやらとんずらをこいて、そのまま出国する予定が狂ってしまったようだが、ウォルターとしては正直リネットの一件を考え直してもらいたい事もあって、頭を冷やすにはいい機会だと思った。
「今日はありがとうな、ウォルター。良い準備運動になったよ……」
 警護兵数人に引きずられていくリュカ。鋭い眼つきは何処に行ったか。売られた牛のような目をした哀れな銀狼をウォルターは見送った後、ヴィルヘルムと共に宿屋、クルーズに向かう。
 何故ヴィルヘルムと宿屋に行く羽目になっているかというと、実はリュカはクルーズでの予約をしていたからで、そのカギを譲ってもらった為だ。考えてみれば、食事代が含まれる訳が無いこの低賃金の宿泊費で、あの時リネットがパン屋で数人分の食事を買い出しに行っていたのは、わざわざリュカが泊りにくるからだろう。実際晩御飯は大きく赤字になってしまうだろう、豪華な食事が用意された。
 せっかくこうして話せる機会になったので、ウォルターはあの件について尋ねてみた。
「ところで、クルーズさん。君は本当に資産家と結婚するつもりなのかい?」
「……そうね。先程来ていただいたわ。丁度良かったから私は了承の旨を伝えたわよ」
 ウォルターは渋い表情を浮かべた後、小さなため息をつく。ヴィルヘルムは興味が無いのか、貴族出らしくナイフとフォークで何も言わずに丁寧に料理を食べ続けていた。傍目から品があるが、全体で食べている量は明らかに品が無い。風格には品があるが、やることなすこと想像以上に下品なのがこの男ということを付き合いの長いウォルターはよく熟知している。
 リネットはそんなヴィルヘルムに気を移すことも無く続けた。
「なかなか気の早い人でね。今日から三日後。中央のセントフェリシア大聖堂で結婚式を挙げる事になったわ。エンゲージリングも肌身離さず持ってたみたいでね、案外優しい人かも知れない」
 言うとリネットは、リボンの彫刻に二つのルビーが埋め込まれた職人芸のような結婚指輪を箱から出して見せた。
 ヴィルヘルムは少しそれに興味が出たらしく、少しの時間眺めると、ほう。と息を鳴らした。ヴィルヘルムがこういう反応をするということは結構な値打ち物なのかもしれない。どうしたの? と尋ねてみると、初めて会話に参加してきた。
「いやなに、この色は下手するとピジョンブラッドという高級ルビーなんだよ。このカラットはなかなか結構な値段するからね。その資産家とやらはだいぶこの娘に熱を上げてるんだろうと考えてね。僕なら絶対にこんな小娘にくれてやったりしないね」
 ヴィルヘルムが言い終えると、リネットは怒り気味にヴィルヘルムを睨みつけた。やはり最後の一言が効いているのだろう。相変わらず人を怒らせるが得意な奴だとウォルターはため息をついた。
 気付いたヴィルヘルムは弁解なのか知らないが、言葉をこう繋げた。
「いやいや、君が魅力的な花の蕾ってのは良くわかるんだ。どうせなら僕だってお近づきになりたいさ。だけど、僕だったらこんな道具に頼らず己の魅力で君を惹きつけたいって考える訳」
 言いながら、ヴィルヘルムは今にもリネットにキスしてしまいそうな距離まで顔を近づけた。リネットは唖然としていたが、我に返るとその距離に気付くなり、顔を真っ赤にしてヴィルヘルムのその面を引っ叩いた。
 結局言い訳しても違う方向で怒らせちゃ意味無いと思いつつも、その妙な積極性にウォルターは感心するばかりだった。積極性というよりも明らかに素でバカやっているだけであろうが。
 ヴィルヘルムに話を振った自分にウォルターは後悔しつつも、話を戻す事にした。
「それよりもリュカさんの話だけど、君は彼に好意を抱いたりはしてないのかな。僕の目には君が引き留めて欲しいように見えた、あれだけはっきり言っていたしね」
 言うと、リネットの食事の手が止まり、俯く様に視線を少し下に向けた。
「そうね……、私は彼の事がきっと好きよ。幼少の頃遊んでもらった延長線上かも知れないけど、毎週欠かさずにこの宿を利用して、王宮の事や仕事の事。色んな話をしてくれるのもとても嬉しかった。でも、彼は私の事を家族の様に見てる。それはとても嬉しい事だなって、思うけども。でも、私の宿の経営は芳しい物ではないし、彼も遠くへ行くみたいだものね。そういう思いを断ち切る為にもこれでいいのかもしれないわ」
 淡々と答えるリネットの姿があったが、ウォルターは目の周りに溜めた涙を見逃したりはしなかった。ヴィルヘルムが何にも気にせず、ぶたれた頬の痛みすら気にせずに、食事に集中していたのは、結果として空気を読んでいて、ウォルターが食事をしようと目を伏せた時にリネットは、二人に見つからない様にサッと涙を拭いた。
 

     

 先日になるがままよと、辞表を叩きつけたリュカだった。三丁持っていた内の二丁のハンドガンは元々予備の物をくすねた物で、支給されたハンドガンこそは返したが、これから旅をする上で必要な武器はしっかりと準備できた事になる。
 弾薬も魔道具として分類される火薬は、一応希少な物に入るが、9ミリパラベラムであれば、ファクトリーロードもしっかり魔法工業都市を基軸に流通している為、不足する事はそうないだろう。
 警備兵での訓練では、空手や柔道、空道(大道塾)も行っており、剣術やナイフ術に於いてもしっかりと訓練を執り行っていたのでどうしても必要とは言えなかったが、無いならば無いでやはり心細いものだ。
 そうなるとあとはやはり、リュカの気がかりになるのが、リネット。その一人であった。
 家や財産を売り払い、旅の支度もウォルターにあった日には既に済ましていて、あの日すぐにでも街を出るつもりだった。だが、ウォルターは最悪の提案をして。リュカにとってそれは大きな気がかりとして心に残り、今もクルーズとはまた別の宿に泊りながら、街に出る事も無く、あの噴水広場でただぼうっと空を見つめていた。
 リネットとの思い出を頭に巡らせながら、リュカは左手に身に着けたクォーツの時計を撫でる。
――連れて行ってもらえるなら私は行きたいけどなぁ。
「リネットは生活をやり直せる、そのチャンスが目の前に来ている……」
――あなたは……私を助けてくれないの?
「それなのに、何故そんな事を言う……」
――わかったわ、リュカ。あなたが望むことだものね。
「俺がリネットを不幸にしている、と……。そういう事なのか……?」
 リュカは右手で左手を覆うように時計を握りしめた。
 リネットは本当に親から受け継いだ大切な宿を捨てて、リュカと共に旅を出る事を望むか。資産家の庇護の元、何不自由なくこのリネットの生まれ育った街で一生を過ごすのが幸せか。
 リュカは自分の裁量で決めるべきでない選択に手を拱いていた。出来るならば、今すぐリネットに会いたい。その気持ちを隠して、ただ未練がましくこの街を出ようとはしなかったのだ。
「リュカさん、何やってるんですか」
 急にリュカの横から聞こえたのは聞き覚えのある、ウォルターの声だった。
「ウォルターか、まだここに滞在していたんだな」
「まあ、旅の疲れを癒したり、仕事する為に、初めから長期滞在するつもりでしたし」
 言いながらウォルターは一枚の封筒をリュカに見せ付ける。
 何事かとリュカは半立ちで考えながらも、その封筒にプリントされた、可愛らしい花柄とウェディングの文字でそれを察した。
「クルーズさんの結婚式にお呼ばれしていましてね。彼女が言ってましたが、住所不定で戻って来たそうですよ。あなたへの招待状」
「ああ、君とあった時に、既に家は売り払ってしまったからな。今の私は旅も始まっていないからね。ただの無職ホームレスさ」
 リュカはうなだれる様にベンチに掛け直すと、ウォルターも横に腰掛ける。
「隣、借りますよ?」
 既視感を感じたリュカは小さく鼻で笑った。ウォルターはお構いなしに、大きなリュックからもう一枚の、リュカ宛てであろう招待状を取り出すと、リュカにそれを手渡した。
「クルーズさんから見つけたら頼む。とお願いされてましてね。彼女、あなたにはどうしても来て欲しいそうですよ。百歩譲って来ないのは結構です。ですけどね、絶対に捨てないでくださいね」
「なんで君はそこまで俺達の問題に関わるんだ?」
「あなたからした迷惑かも知れませんがね、僕はクルーズさんには低賃金でご飯まで頂いているという恩がある。そして、リュカさん。勝手ですが、一度でも命を預けあったあなたを戦友だと思っています。僕は結構お節介な方でして、申し訳ありませんね。でもね、最後に一つだけ言いますとね」
「それを捨てずに受け止めた上で選択をしない限り、あなたの戦いは終わりませんからね」
 それでは、とウォルターがベンチから立ち上がると、リュカは何も言えなかった。
 半日ちょっとを共にしただけの自分に信頼や友愛を感じてくれる事はリュカとしては嬉しかったけれども、やはりお節介はそれ以上でもそれ以下でもなく、ただただ悩みの種を強めている存在がウォルターであった。
 リュカ自身は自分の気持ちを考えたくないのに関わらず、そこにウォルターが踏み込んでくる。非常に迷惑極まりなく、それによった心の余裕の無さが、また尻に敷かれたベンチがリュカを離さなかった。受け取った招待状も無意識の内にポーチへと突っ込む。
 再びリュカは左手に付けた時計を撫でる。その必要以上に手入れされたクォーツの高級時計は、リュカに取ってその価値以上に大切なもので。でも、これもまた婚約が定まったリネットへの思いを断ち切るには今すぐ処分せざるを得ない物だった。
――わかったわ、リュカ。あなたが望むことだものね。あなたの言うとおりにすることにするね。
「その一言さえ無ければ、まだ現実として直視しなくて済んだんだ俺は……。俺がいなくなった後、資産家と結婚して、彼女が幸せになればいいと。俺は本気で考えてなんていなかった。俺はそうなる、かも知れないだけ。と気持ちを誤魔化した上で、逃げようとしたんだ……昔の思い出だけを胸に」
「心の何処かで、俺をずっと待っていて、旅から帰って来た時に、あの宿と共に迎えてくれたりとか。普通に考えてそんなことはあり得ないんだ。でも……俺はもう取り返しの付かないところまで来てしまった……」
 リュカが左手の腕時計を外すと、裏蓋にはL・Cと汚くナイフで掘った跡があった。汚くて良く見えない状態だが日付のようなものも見受けられる。
「あの男の子の時計も、こうやって裏蓋に親の愛が刻まれていたな」
 自分の時計にもそう言ったお粗末な刻印が掘られており、リュカはこれがヒントであの子供の時計の正体に気付いたのだった。
 時計を空いたベンチの上に置くと、ポーチに無造作に突っ込んでしまった招待状を思い出す。ポーチからしわくちゃになった招待状を取り出すと、おもむろにその封を解いた。
 適当に印刷された結婚式の日程は、いきなりの事に本日であった。とは言っても、なかなかリュカに渡せなかったのが原因で、本当はもっと早くに決まっていた事なのだろうとリュカは考える。
 深いため息をついて、再び空に視線を移そうとするリュカだったが、その視線が空に移動する前に奇妙な物に気付く。封筒の中にまだもう一枚紙切れが残っていたのだ。
 まじないか、一言メッセージか何かでも入っているのか。とリュカがその一片の紙を取り出すと、それは可愛らしい便箋にリネットの文字で書かれていた、たった二行の手紙だった。
『私の気持ちは貴方の左手にありますか?』
『貴方の答えを今日まで待ち続けています』
 ハッとしてリュカは己の左手を見る。そこには何も無い。
 思い起こして、ベンチに置いた時計を掴み取ると、鬼気迫る勢いですぐに左腕に巻きなおした。
 
――ねえ、リュカお兄ちゃん。これあげるね
リネット、どうしたんだいこれは?
小さい頃から貯めたお小遣いでね、買ったんだ。
そうか、俺が魔道具の時計好きなの覚えてくれてたんだな……ありがとう
うん、お兄ちゃんのイニシャルも頑張って掘ってあげたの。
だから指を怪我していたのか……全く、何で返してもお釣りが来ちゃうじゃないか
ううん、物ではね。返さないで欲しいの。
……? じゃあリネットは何が欲しいんだい?
えっとね、私が大きくなったらね――

「決めた」
 撥ねる様にリュカはベンチから立ち上がった。
「決めたよ決めた。俺は何でこんな大事な事忘れていたんだろうな! そうだよ、彼女は勇気を振り絞ってくれたのに……俺は一体、何やってんだ!」
 まだ人気の引いていない噴水広場でリュカは一人、狂ったように叫んだ。見知った人も、見知らぬ人も、沢山の人たちがリュカを不審な者を見る目で見つめていたが、リュカはそんな事欠片も気にせずに、走り出した。行き先は勿論セントフェリシア大聖堂だ。
 
 駆け足で街道を駆け抜ける。聖堂は街の中心部にあり、この街の最大の観光場所と行っても申し分は無い場所で、資産家とリネットはそこで結婚式を迎えるというのだ。
 リュカは時計を見ると、時刻はあと1時間も無かった。魔道具の車を用いても間に合う事どうか判らない程だ。
 しかもこの街がいくらそれなりに反映していても、貸し車なんて物は魔法都市や世界に代表されるような大都市にしか存在はしない。
「それでも俺は彼女に会いに行くんだ。俺自身の気持ちを伝えるために……」
 走りながらふと見つけた時計屋。リュカは思い立って、肩で息をしながらも中に入ると、店内を不審者の様にねめ回した。
 これだ、とばかりにリュカが掴み取った時計は、左手に付けた時計と同機種の物。急いでカウンターに出すと、鬼気迫る勢いのリュカに店員が縮こまった。
「早めに会計を頼む、それからイニシャルの依頼も頼む」
 ただでさえ、目つきが悪く、時に鋭い牙を用いて戦うボアルの種族に一睨みされれば、それはもう怯えてしまうのが当たり前だったが、リュカは渋い顔で早くしてくれ。と無茶な要求をせがむばかりだった。
「リュカさんが怒った顔してるから、店員さん困ってるんですよ」
 リュカの背後から、ウォルターの声が聞こえる。リュカが振り返ると幻聴ではなく、やはりそこにはウォルターの姿があった。
「君はなかなか神出鬼没だな」
「いえ、ずっと後を付けていただけですよ」
 リュカはウォルターの姿を見ると、少し妙な落ち着きを取り戻して、時計屋の待ち席に座りこむ。しかし、ウォルターは立ったままリュカに問いかけた。
「リュカさん、時間はありません。行きましょう。時計は後で受け取りに来るべきです」
「……しかし」
「彼女のイニシャルを入れた物を渡したいのですか?」
「ああ……」
 ウォルターはリュカの腕を握ると、引っ張り始めた。有無を言わさずに外へと連れだすと、ウォルターがリュカを追跡するのに利用していただろう、壊れかけた魔道具のバイク、モンキーV6が駐車してあった。
「レンタルですけど、結構高かったんですからね、僕の後ろ乗ってください」
「お前これ一人用……」
「大丈夫です、ここはどうせそんな法律無いでしょう」
 ウォルターがモンキーに跨ると、スターターを蹴り飛ばして、癖のあるマフラーの呼吸音を奏でる。しぶしぶリュカはうまい具合にシートのギリギリに乗っかり、それを確認したウォルターはアクセルを回す。
 そのバランスはとても良い物とは言えず、またウォルターも操縦し慣れてるとは言い難かった。
 この街も元より車両用に道路が補正されてる訳でも無い。法律も出来ていない。時々趣味で持ち込むものや、旅人が二輪を持ちいれる事はあっても、今日のリュカ、ウォルター以上に急ぐような危険な走行をする者もいなかった。
「こ、こわいなぁ。なぁ、ウォルター。おっかないのもそうなんだが、俺はあの時計を渡す事にそれなりに意味を感じているつもりだったんだ。やっぱり、なんとか用意したいのだが……」
「リュカさん、実はその話は一応クルーズさんから全て伺ってるんですけどね。そもそもクルーズさんのイニシャルって何ですか?」
「え、リネット・クルーズ……まあL・Cだな」
「そこで、一つ案なんですが、今回はその時計を代替にするのは可能だと思うんですよね」
 リュカの時計の裏蓋に掘られたイニシャルもまた、リュカ・シャルリエ。L・Cである。
「確かにリネットさんが渡したものかもしれません。でも、この偶然を持ってかつ、あなたから渡し直す、という事に意味はあると思いませんか?」
 ウォルターのその説明で漸くリュカは納得する事が出来た。もとより納得しなくても、もはや時間を優先させる為に、諦めざるを得なかったのかも知れないが。
 そうして、街行く人々の迷惑をお構いなしにウォルターは、モンキーで街道を最速で突っ切った。

     

 やがて、聖堂の前に付くと、リュカはバイクから跳ね降りて、ウォルターも邪魔にならない適当な場所にバイクを止めた。
「ありがとう、ウォルター。なかなかお節介や仏頂面が目立つけど、君は最高にクールだ」
「言ってくれるのはありがたいですがねぇ、もう神父が聖書読み上げてる頃だと思いますよ」
 ウォルターに言われてリュカは時計を見ると、時刻は予想リミット迄20分を過ぎている。
 小走りで二人は聖堂内に入ると、観光スポットと呼ばれるだけあって、ウォルターは壮大なステンドグラスや建築様式に息を巻いた。こんな場所で挙式するなんてのは、やはり相当なお金が掛かっているだろう。と、下らない事を考えながらリュカは廊下をウォルターと共に駆け抜けた。
 真っ赤なカーペットの続く、長い廊下を走っていると、塞ぐ様に立ち尽くす、屈強なサングラスを掛け、頭から二本の立派な角を生やした、髪の毛が退行気味の黒服の男達が四人ほど並んでいて、気付いた二人はそこで走るのを止める。
 係の人だろうか、とリュカは考えて尋ねる。
「遅刻したんですが、こっそり入れてもらっても構いませんか? 招待状もあります」
 黒服は身体、表情はおろか、眉一つ動かさずに返す。
「貴方達の名前を伺ってもよろしいか?」
 問い掛けに対して、二人は各々名前を名乗ると、妙な殺気立った緊張の空気が包み込んだ。
「ウォルターさん、あなたは通って構いません。ですが、リュカさん。あなたは主人にお通しするな、と言われています」
「え、なんでですか」
 リュカは予期もしない突拍子も無い理不尽を突き付けられて、思わず変な声を上げてしまう。
「僕は良いみたいだから、先行ってますよ。時間も無いですから待ってますね」
 ウォルターは慌てるリュカを、無情にも置いていき、そのまま廊下の奥へと消えて行った。リュカは情けない顔を一転、生来の鋭い眼つきを黒服達にぶつける。
「ちょっと何を考えてるんだ。あんたたち」
「奥方にリュカという昔の男がいる。面倒を起こされても困るから、挙式に近寄らせるな。との事でね」
「強引にでも通るぞ?」
「いずれにせよ、主人はあなたを街に居られない様にするつもりだ。まあ、それが早くなったところで困ることはないだろう」
 言うと、不動の黒服の男は漸く動き始め、まず羽織っていたスーツを床に投げ捨てた。
 威嚇するように指をぽきぽきと鳴らすと、その先陣を切った男に合わせるよう、他の三人もスーツを脱ぎ始めた。
「ちょっと待てよ……随分排他的で、妬み意識を持った主人なんだな。やっぱり改めてリネットをそいつに預けるなんてのは、考えられなくなってきたよ俺は」
「それだけ奥方を大切にしたいと考えるのが、我々としては適当だ。君に恨みはな……」
 間髪を入れずに、リュカは右肘を一人目の顔面にぶち込む。奇襲を掛けられた黒服が顔を抑えると、すかさず急所に前蹴りを入れて、リュカは四人から距離を取った。
 まず一人目が前のめりに倒れるが、残り三人に大きな警戒を与えたようで、各々が両手拳を顔の位置まで上げた。
 見た感じは柔道か何かと取れ、掴みに警戒する事にリュカは意識を向ける。
 うち一人がリュカの傍に前進する。リュカは右手を右顎に、左手を前に出し、体幹を横に向けると、左手を数回前に突き出す。
 黒服は冷静に払い落としながら前進を続け、とうとうリュカを距離まで捕えると、掴みに掛かってきた。
 すかさずリュカが黒服の首に手を掛けると、そのまま跳躍して顔面に膝を入れる。
 その程度で黒服は止まらず、リュカの羽織ったトレンチコートをしっかりホールドして、投げに掛かってきた。
 リュカは機転を利かせて、黒服の力を利用してコートを脱ぎながらしゃがみ、飛び上がるように下顎に掌底を加えた。
 複数で行かないと敵わないと気付いたのか、いつの間にか背後にいた三人目の黒服がわき腹に重そうな蹴りを放ってくる。交戦中にそそくさと背後に回っていた黒服をリュカは見逃して等いなかったようで、掌底を加えた黒服が崩れ落ちる様を確認する間もなく、すぐさま背後の黒服に突進すると、根元で蹴りを受け止めて右足で黒服の左足を掬う様にして転倒させた。追い打ちとして、死なない程度に心臓部分を踏みつけると、黒服は泡を吹いて悶えた。
「腐っても俺は警護兵だ。警察も軍も兼ねてるからそれなりに対人格闘訓練はしてるんで……」
 言い終える前に、リュカの目の前に残像が移る。この情景はリュカにとって初めてではない。
 今現在言う事の聞かない右腕を取って、投げられた事を感じ取ったリュカはすぐさま左手で頭部の受け身を取る。
 柔らかいカーペットのお蔭でだいぶ吸収できたが、着用していた腕時計で若干手首を痛めた。
 リュカは状況を確認すると、右手首を取られていた。すぐに右手を相手の手首を掴むように内側に回すと、それは容易く外れる。
 驚いた黒服は、すぐさま空いている右腕で大ぶりなパンチを飛ばしてくるが、リュカがそれを左側に避けると、その右腕を掴んで引っ張り、そのまま右足の横蹴りを横腹に叩き込んだ。カウンターの様に吸収の効かない痛烈な一撃であり、体重差等そこには関係なく、最後の黒服も崩れ落ちた。
 リュカも疲労から一旦その場になだれる様に座り込んだ。
「はぁー……、やってみれば勝てるもんだな……。偶然もあるかもしれないが」
 言いながら汗を拭おうと、リュカは顔を腕でこすると、赤黒い色の血液がぐちょぐちょと白銀の体毛にこびり付いている事に気付いた。恐らくは投げられた時、ショックで鼻の血管が切れたか、最悪脳がいったか。
「鼻血垂らして迎えるのも恰好悪いが……やむをえん!」
 時間も無く、バッと立ち上がると、脱ぎ捨てたトレンチコートを拾い、羽織った。

     

「ああ、リュカさん。まだ来ないのか」
 ひっそりと最後尾に座っているウォルターはちらちらと後ろの扉に振り返るが、未だリュカは現れなかった。
 式もユニティキャンドルに火を点け、もう終盤に差し掛かっている。
 ウォルターがリネットに向き直ると、その視線に気づいたリネットは申し訳なさそうに微笑んだ。
「駄目だったか……」
 呟くと、ウォルターの背後からギィィ、と重みのある音を響かせる扉の音が聞こえる。
 出てきたのは。
 鼻血と埃に塗れた、ちょっとばかし情けない恰好になってしまったリュカの姿だった。
 不躾にもその汚い恰好で、リュカは中央へと歩を進めると、バージンロードを踏みにじる。
「お、おい。お前! とち狂ったか!」
 資産家が叫ぶと、右側の新郎席から悲鳴が沸き起こる。幸いにも止める者こそは誰もいなくて、リュカは資産家の襟を掴むと、その身長差。高い位置から肉食獣特有の鋭い眼光を浴びせた。
「気が変わった。あんたにリネットは渡せねえ」
 リュカが啖呵を切り終えると、そのまま資産家を押し出した。余程怯えたのかそのまま力なく床に倒れた。
 唖然とするリネットを横目に、リュカはリネットに体を向きなおすと、左手の時計を外して片膝を付いてリネットに差し出す。
「今は君から貰った時計……。婚約時計しか渡すものが無いけど、許して欲しい」
 リネットは信じられない顔つきで状況を確認すると、両手に握りしめていたブーケをその場に落とす。
 ゆっくりとリュカにに左手を差し出すと、リュカはそれを丁寧に着用させた。
「リネット、こんな奴と結婚なんかするな。ずっと俺の横で笑ってくれ!」
 リネットはゆっくりと左手を下すと、うつむき、徐々に震えはじめた。
 隠す様にうつむいたリネットだが、カーペットに滴る涙で誰もがリネットの感情を伺える。
 右足、左足と、リュカに歩み寄ると、リュカは優しくリネットを抱きしめる。
「リュカ、やっと……返事をくれたね」
「ごめん、遅くなったね」
 リネットはベールを払い、二人が顔を上げるとその場に居る人達に見せつける様に、深く口付けをした。
 しばらくは皆が硬直し、時が止まったように。しかし、暫くして状況が理解できた頃、式場はパニックを起こす。
「……よし、行こうリネット!」
 リュカはリネットの手を握りしめると、再びヴァージンロードを駆け抜ける。
 見物していたウォルターも席から跳ねる様に立ち上がり、二人の後を追った。
「リュカさん、クルーズさん。このまま外に出ると、車の魔道具。黒のジープがあります。門で落ち合いましょう!」
 リュカが振り向くと、ウォルターは懐から出した車のカギを投げる。リュカがキャッチしたのを確認すると、ウォルターは走る速度を弱めた。
 ウォルターの組み立てた歯車が漸く噛みあい、あとは二人の逃避行となる。
「ジープラングラーか……」
 あちこちが痛んだその車を見つけたリュカは、丁寧にリネットを乗せるべく助手席の扉を開けて、中に入るのを確認するとドアを閉める。自身もすぐに乗り込むと、エンジンを回し、発進させた。
 この街公道はあまり広い物ではなく、逃避行というには車では遅すぎた。とはいえ、特に追手が来ることも無くて、快適と言えば快適なのかもしれない。
 ただ、ドレス姿の新婦を助手席に乗せた、血塗れの男が運転しているジープなんてのは、やはり物珍しい物で、道行く人々が驚いているのも確かではあった。
「リネット、そのドレスはその……とても綺麗だ」
「ふふ、どうしたの急に」
 瞬間にブロロロ。と右側を何かが走り抜けた。モンキーに跨ったウォルターだった。
 
 二十分ほど時間を掛けて、門の外まで無事抜ける事に成功すると、ジープからリュカとリネット、二人が降りて、三人が合流する。
 まずウォルターはリュカに手の平を差し出す。
「そのジープは祝儀ですが、ちょっと高すぎます。少しでいいから寄付してください」
 リュカはリネットと顔を見合わせた後、大きく笑った。そして笑いながらビニール牛革の高そうな財布を取り出すと、無造作にお札を出して、ウォルターに渡すと、確認もせずにそのまま懐に仕舞い込んだ。
「さて、良い物も見れましたし、僕はバイクを返却して、クルーズ亭に勝手に一泊してから旅に出るつもりです。二人はどうしますか?」
 再び二人は顔を見合わせると、リネットは顔を横に振った。リュカは頷いてウォルターに向きなおす。
「ああ、このまま旅に出ようと思う。ついでと言ってはなんだが、予約しておいた時計は良ければ君が引き取ってくれないか?」
「ああ、そんな物もありましたね。まあ、もしまた会う機会もあるでしょうその時に。それでは、またいつか」
 ウォルターがバイクスタンドを下そうとすると、リネットが静止した。
「ちょっと待って、あなたにはこれをあげる」
 そう言って渡したのは、布袋に小物が入った何の変哲もないお守りだった。貰って損する事は無い、とウォルターは首にかけるとリネットは微笑む。
 ドレスもあってか、その笑顔は非常に可愛らしい物で、ウォルターも少し表情に熱を帯びるものを感じた。
「……ありがとう、リネット。では、またあえる日を」
 ウォルターはスターターを蹴りつけ、エンジンを回すと二人もジープに乗り込みキーを回した。
 森林から外れ、やや舗装された道。南の方にハンドルを切ると、ジープはウォルターの視線から徐々に小さくなる。
 運転席右側の窓からひょいと伸びる腕。リュカの右腕が別れのサインを告げ、見えてるか否かはわからないが、伴ってウォルターも小さく手を振った。
 ジープが見えなくなる頃、辺りは淡いオレンジ色で、ふと西を見ると太陽が森の中に溶け込む様子が伺える。
 さて、戻るか。とウォルターは街に向かってハンドルをまわすと、右ハンドルを捻る。

     

 時計屋に行く道中に借りたバイクをレンタル魔道具屋に返すと、すっかり日が落ち、暗くなりかけた街道を歩く。
「ジープに紐と空き缶を括るっていう案も面白かったんだろうけどなぁ……」
 下らない事を考えながら、時計屋でL・Cと刻印の押された時計を受け取り、再び街道を戻ると、噴水広場に到着する。
 魔道具の一つである街灯が辺りに偏在し、日中とはまた別の幻想的な空間を演出していた。
 初めてウォルターが出会った時のリュカに言わせると、きっと先代息子が見栄の為に無駄遣いをした。そんな必要の無い代物かも知れないが、それでもこの景色を見る限り、きっと現国王もまた別の形でこの街を発展させようと思案しているうのではないかとウォルターは考える。
 ベンチに腰を掛けると、ウォルターは徐ろにクルーズ亭のキーを取り出す。すると、目の前にいつか会った薄汚れた衣を纏い、犬の様な耳を小さく生やしたクローランの少年の姿があった。
「おや、君はあの時の……お母さんは元気かい?」
「うん、それであのお兄さんにお礼言いたいんだけども、見当たらなくって」
「そっか、残念だけどあの人は街を出ていってしまったよ」
 そっかぁ……と、悲しそうに少年は漏らすと、ウォルターの横のベンチに腰掛ける。
「ところでも日は落ちている、家に帰ったほうがいいんじゃあないか?」
「ううん、家は無いから。路上で暮らしているんだ」
「そんな……貧困街は家無しの家庭も多いのか?」
「友達とかはそんなこと無いけど、お母さんは苦労しても、如何わしい商売だけはしたくないって、コツコツと家を借りる為に朝から晩まで裁縫屋でずっと働いてるんだ。学校は行けないけど、それはみんなもおんなじだし、お母さんのお陰でご飯が食べられるから、家がなくても全然平気だよ」
 そうか、とウォルターは背伸びをすると、ふとクルーズ亭の事が頭に過ぎる。家主を失ったクルーズ亭だが、暫く泊まってもバレないものではないかと、続けて考える。
 だが、この国の法律は知らない為、提案するのも気が引けるものだ。
「……いや、待てよ」
 独り言のようにウォルターが呟くと、少年が呆けた顔で見つめる。ウォルターは首にかけてある布袋を開くと、中の小物を取り出した。
「はは、そうか。そういうプレゼントだったのか。まじないに頼る乙女だと思っていたら、とんだ贈り物だったと」
 独り言を続けるウォルターの手には小さな印鑑がにぎられていた。勿論それはクルーズ家の印鑑である。
 ウォルターは困惑している少年に印鑑を握らせると、頭を撫でる。
「この家の家主は旅に出てしまったから、君と君のお母さんが使うといい。今日僕も泊まるつもりだから、今からそこのパン屋の横の路地、クルーズと言う宿屋にお母さんを連れてくるといい」
 少年は未だハッキリと状況を理解してはいなかったが、言われるままにと、ウォルターに小さく一礼して貧困街に走り去って行った。
「さて、色々あったけども、明日には出発か。結構いい街だったかな」
 空を見上げると、綺麗な満月がそこに浮かんでいた。
 本来持っている旅の目的からは大きく横道にそれてしまったが、ここでの出会いはウォルターにとって非常に心に残るものであった。気持ちの良い眠気がかすめ、ウォルターはひとつため息をつくと、徐ろに時計屋で受け取った刻印入りの時計を取り出し、箱を開けるととんでもない事に気付いた。
「これ、同機種だけど機械式じゃないか」
 慌てすぎたんだな、とウォルターは苦笑いすると、リューズを引っ張り、時間を合わせる。
 ゆっくりと竜頭を回すと、盤面の裏のテンプが往復を始め、秒針が動き出す。
「まあ、二人の時間は今漸く動き始めた。と言う事で」
 自身のセリフに歯痒さを抱きながらも、満更では無さそうに時計を箱に戻すと、丁寧に大きなリュックに仕舞う。
 反復するテンプに合わせて、小気味よいテンポを奏でるガンギ車の残響音が、深く長くウォルターの耳に残っていた。

       

表紙

秋海棠 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha