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朝。
差し込む朝日が覚醒を促す。
ロビンが眩しそうに瞼を開くと、傍らに坐するシンチーが見えた。
「…もう大丈夫なのかい?」
「まだ、鋭敏に動くことはできませんが大方の痺れは」
「…そうか」
状態を起こし、辺りを見回す。
まだ塔の内部は微睡の中にあるようだった。
陽光が黄色く辺りを照らしている。
幾人もの兵士たちがのろのろと起き上がっている。
ウルフバードとビャクグンは既に身支度を整えていて、緩慢な動きの兵士たちを気のない目で眺めている。
ピクシーに手を近づけるとバイザーが点滅し、飛び上がった。再起動したらしい。
ヒザーニャはまだ眠りこけている。
「私が起きたら眠ってしまいました」
そう報告するシンチーの声色は昨日とは違って優しい。
ロビンは大きく伸びをして立ち上がった。
そのままウルフバードたちのもとに近づく。
「おはようございます」
「おぅ、おはようさん。今日もお前らの力を借りるかもしれなぇがよろしくな」
「…まだシンチーは万全ではありませんが」
「俺は一応人間の兄ちゃん方にもお役目を果たしてほしいんだがね」
言外に使い勝手のいい駒扱いだ。
ロビンは無言でもって返して、ピクシーに尋ねた。
「現在の座標は」
「座標位置、北緯62度13分2052秒東経14度01分1190秒です」
昨日とまったく違う。
「決まりだな。この渓谷は移動している。…というか、その座標…確か黒い海の辺りじゃなかったか」
「黒い海…?ミシュガルド大陸の南東部のあの一帯ですか」
「あぁ、今は確かそのあたりの座標だったはずだぞ」
大戦の末期に行使された禁断魔法の影響か、アルフヘイムの沿岸が黒く染まり、生き物が住めない状態に変貌してしまった。
海域一帯が常に荒れていて、航行が非常に困難な場所だったはずだ。
その地獄のような海域は驚くべきことに移動をするのだ。まるでそれ自身が意思を持つかのように。
そして今、黒い海と称されるその水域はミシュガルド大陸とアルフヘイムの間に存在している。
つまり、渓谷はミシュガルドの外にも移動するのか。
「兄ちゃん、それは違うんじゃねぇか?」
「え?」
眉をひそめるロビンに対してウルフバードは笑った。
「あの黒い海もミシュガルドなのさ」
さらりと言われたその言葉にそら恐ろしいものを感じて青ざめたロビンを尻目にビャクグンが尋ねた。
「…小隊長殿、それではなぜ件の少年の時は渓谷の位置情報は更新されなかったのでしょうか」
「恐らくケーゴ君たちがここに迷い込んだ時点ではその場に留まっていたからでしょう。もしかしたら再び移動を開始する時に元の場所へつながる霧が発生するのかもしれません」
「なるほど、つまり俺たちが塔の中にいる間にも外では濃霧が発生していたかもしれねぇってことか」
「えぇ、それに昨日考えたんですが、ケーゴ君たちはこの塔とは反対の方向に走っていました。この塔が渓谷の中央に立っているとして、それに背を向けていたのだから…」
「この栄光の移動渓谷には“端”…というか“境目”とでもいうのか、そういうものがあるってことか。どこまでも渓谷が続いているように昨日の映像では見えたが、渓谷の移動時に霧が発生してこの場所の限界地点が明らかになると。…だが、移動時だけではなくて常に渓谷の端では霧が発生するのかもしれねぇぞ?」
「まだどちらの可能性も捨てきれません。ただ、迷い込む地点は完全にランダムと言うよりほかありませんね。俺たちは塔の近くに出たし、ケーゴ君たちは少し走っただけで霧に包まれたわけですから。」
ウルフバード、ビャクグン、ロビンの話を聞いていたシンチーはふとゼトセは大丈夫なのだろうかと思い出した。
今の話を聞く限り、もしかしたら一人だけ元の森に帰れたのかもしれない。というかそちらの方が望ましい。
だが、ひょっこりゼトセが塔にやってくる可能性も捨てきれず、シンチーはふらふらと塔の入り口に近づいて行った。
と、そこで腕を掴まれる。
「シンチー嬢、どこに行くんだい?まだ万全じゃないんだろう?」
「ですが、ゼトセが」
「ゼトセ嬢ならきっと大丈夫さ」
「この目で確かめたいんです。離してください」
「駄目だよ」
ヒザーニャが強くシンチーを引き寄せた。
身体に力がうまく入らない彼女は抵抗できない。否、万全だったとしても。
「…力、強いんですね」
注視することはなかったが、改めてみると彼の腕は太く、たくましい。
ヒザーニャは笑った。
「言っただろう?俺は危険な冒険野郎なのさ。これくらいは当然さ。シンチー嬢くらいなら投げ飛ばすこともできるよ」
ま、そんなこと絶対にしないけどね、と笑う顔が近い。
よくわからないが頬が熱くなるシンチーにヒザーニャは笑いかけた。
「俺が偵察してくるよ。シンチー嬢はもう少し休んでてくれ」
「…」
口をへの字に曲げてこくこくと頷いた。
数刻後、ウルフバードは大岩を破壊すべく螺旋階段を上っていた。
もしものことに備えて先頭には一般兵、中ほどにウルフバードとビャクグンがいる。
後ろにはロビンとピクシーが組み込まれた。シンチーとヒザーニャはゼトセが来るかもしれないということで1階で待機している。
結局半日かけて破壊できなかった大岩である。兵士たちが必死につけた僅かばかりの亀裂があるだけだ。
古びた岩についた真新しい傷を見てロビンはふと気づいたように眼下の階層を見下ろした。
昨日はもう薄暗くなっていたからあまり気にならなかったが、よく見るとあの壁の削られ具合は――
「いくぞ」
と、そこでウルフバードの声がロビンを目の前の課題にひき戻した。
ふっと手をあげるとそれに合わせてビャクグンの背負う甕の中から水が出てくる。
実際に目の当たりにすると不思議な光景だ。水が形を持って宙に漂っているのだから。
ウルフバードは水を大岩と床の間に滑り込ませた。
少しばかりの隙間だ。剣も滑り込ませることはできないだろう。
仮に滑り込ませたとしても足場は狭い。てこの原理など働かせられないだろう。
しかし、水ならば。
自在にその形を変えてどんな隙間にも入り込むことができる。
そしてじわじわとその隙間に水を流し込んでいけばやがて大岩と床の間に水が入り込むことになる。
そうすればしめたものだ。
入り込んだ水の量を増やしてやれば大岩は浮かび上がる。
そして水を操れば自動的に大岩も移動することになる。
かくしてウルフバードはいとも簡単に大岩を移動してのけた。
長年封印されていたらしい2階からは砂埃が噴出する。同時に不気味なほどの冷気が漂ってくる。
目を細めて口を覆いながらもウルフバードは先頭にいた兵士に2階に上がるよう指示した。
命令を受けた兵士は大量の砂埃に辟易しながらもそろそろと天井に顔を突っ込んだ。
人一人が余裕で通ることのできる天井に空いた穴を抜けると予想通りそこは2階の床だった。
そろそろと床に手をついて、そのまま階段を上って体を2階に持っていこうとした。
背後から見守っていたウルフバードもビャクグンもロビンも、階下のシンチーもヒザーニャも彼がそのまま穴を抜けて2階にたどり着くものと思っていた。
だが、上半身だけ穴につっこんだまま、螺旋階段に預けていた脚がびくりと痙攣したかと思うと兵士は赤い軌跡を描いてそのまま落下した。
「っ!?」
誰もが予想外の事態に瞠目した。
ぐしゃりと落ちてきたその兵士をシンチーがよく見ると、頭が割れていた。
「剣でやられたのか!?」
ヒザーニャの言葉を発端に兵士たちが逃げまどいだした。
足場の悪い螺旋階段で悲鳴を上げながら我先にと逃げ出すものだから足がもつれあい、体が絡み、ぼとぼとと面白いように兵士たちは落下していく。
巻き込まれたウルフバード達はたまったものではない。体の自由がきかないながらもウルフバードは水を落下地点に敷き詰め、多くの兵士が一命を取り留めた。
近くの釣鐘型の採光口に避難してその阿鼻叫喚図に巻き込まれないようにしていたロビンとピクシーはそろそろと螺旋階段の先の穴を見つめた。
何もやってくる気配はない。
だが、そこに何かが存在しているのだ。
「ピクシー」
「私がロビン様の言葉を予想して返答するところによれば、嫌です」
「やっぱり?」
偵察を頼もうとしたのだが。
一人で出来ることがあるわけでもないロビンは階下の様子を確認する。
「どうなっていやがる!?」
「わかりませんが…罠があるのかもしれません」
そこではずぶ濡れになったウルフバードとビャクグンが唸っていた。
どうやら無事ではあるらしい。
幾人もの兵士が転落死したみたいだが、仕方ないことだろう。
ウルフバードが水を再び一つにまとめ上げ全員の衣服を乾かしているのを見て洗濯便利そうだな、と詮無いことを思うロビンだ。
何を考えているんだ、と苦笑いした彼の背中を氷塊が滑り落ちたのはその時である。
「っ!?」
螺旋階段の先、2階につながる穴。
ガシャリ、と音がした。
鎧のような足が穴から出てくる。
ガシャリ、ともう一回音がする。
その音は本当に些細な音で。軍隊にいれば何度も聞くような本当に親しんだ鎧の音で。
それでも誰もがその音に動きを止め、目を奪われた。
静寂の中、次第に大きくなってくるキルキルキルという何か金属がこすれ合うような音。
ゆっくりと、しかし確実に階段を下りてくる。
ロビンの頭に最初に浮かんだのは甲皇国の機械兵であった。
しかし、それらとは見た目が全く違う。
兜は十字型に視界が開けているが、その奥にある無機質な黄色の光は1つで、それが人間のものではないとわかる。
首は異様に長い。錆色の胴体はしかし滑らかな動きをして狭い階段を体勢を崩すことなく降りてくる。
体の各関節は黒い球でつながっており、手には剣。血で濡れている。先ほどの兵士はこいつにやられたのだ。
恐らく、否、確実に人間ではない。
と、そこまでの状況判断はいい。
問題はロビンがこの兵隊と目を合わせてしまったことである。
機械兵士の目に相当すると思われる黄色い光が赤く変わった。
「私が若干の恐れを持って推察するにあれは戦闘態勢へ移行ということでしょうか」
「恐らくそうだろうね!!」
慌てて採光口から飛び降り、そのまま足早に1階に逃げ込む。
ここは本業の兵たちに頑張ってもらおうという訳だ。
ウルフバードもそれは想定済みらしく、ロビンが無事に階段を降り切ったと同時に兵士たちに命令を下した。
「あれを破壊しろ!」
言われるが早いか兵士たちは剣を構えて階段の下で機械兵を待ち構える。
それを気にも留めず機械兵は降りてきて。
「でやぁあああああっ!」
一人の兵士が勢いよく剣を振り下ろして。
機械兵は躱すこともしなくて。
「何っ!?」
しかし、その体には傷一つつかない。
返しの一閃で兵士たちの首が胴体と別れを告げた。
他の兵士たちは既に逃げ腰になっている。
「何なんだあいつはっ!?」
兵士が役に立たないと知るや否やウルフバードは水を形状変化させた。
「“刳”!」
水が回転を伴う刺となって機械兵に突き刺さる。
ぐらりと機械兵は均衡を崩した。
しかし、貫くことができない。
「この…っ!!」
ウルフバードが力を込める。
機械兵も負けじと全身を続ける。金属音が耳障りだ。
力比べの末、ついに機械の体にひびが入った。
バチリと嫌な音がする。
「抉れろやっ!!」
水の穿孔が敵の体を貫いた。
同時に小さな爆発が起きた。
機械兵の部品が辺りに飛び散る。
持っていた剣も弧を描いて飛び、シンチーの目の前に落ちた。
「…これ…」
手に取ると今使っている剣と同じくらいの大きさだ。だが重く、刀身も従来の鉄のそれとは様子が違う。
ヒザーニャに手渡す。
「…ふむ、俺たちの知らない金属だね。鉄の剣では歯が立たなかった奴らの装甲も、奴ら自身の武器でなら…」
「兄ちゃん、その武器寄越せ」
ウルフバードがそう言うか言い終わらないかのうちにヒザーニャの手から剣を奪い取る。
そして剣を観察してビャクグンに投げてよこした。
「ビャクグン、これはお前が持っておけ」
「なっ、勝手に…」
「倒したのは俺だ。戦利品も俺のものだ」
声を上げたヒザーニャをぴしゃりとはねのけウルフバードはビャクグンに向き合った。
「お前が一番適任だ。いいか、俺の傍を離れるなよ。その甕はもう置いていけ。ここからは出し惜しみせずに全力で行くぞ」
彼が見上げる先、階段からは2体目、3体目の機械兵が下りてきていた。