Neetel Inside 文芸新都
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 近くにあったドトールに入る。女子大学生くらいの女の子がメニューを取っている。僕は何だか嫌な気分になりながら注文した。
「暖かい紅茶とハムタマゴサラダ。ここで」
「同じの」
 僕は何も言わなかった。彼女は窓から遠い席を選んだ。彼女はサンドイッチの耳の部分だけぐるりと齧った。パンくずが皿にこぼれて、そのうちの幾つかは紅茶に混ざった。僕は黙って紙ナプキンを広げて、カップを覆ってやった。夜と夕焼けの中間のような色になった。
「あんがと」
「どういたしまして」
 そのまま黙って、僕たちは朝食をとった。彼女は首筋をがりがりと引っ掻いて、「あんたさ、食うのうまいよね」と呟いた。
「練習したんだ」
「あ?」
「練習したんだよ。なんでしたのかはよく分からん。でもただしなきゃいけなかったんだ。子供の時の僕は少なくともそう思っていた。綺麗にメシを食え、手は爪まで洗え」
「綺麗にメシを食え、手は爪まで洗え」
 彼女は繰り返した。僕は頷く。これは誰が言っていたんだっけ。何の役にも立たない技術だった。誰の印象にも残らない食い方が出来るようになっただけだ。徴兵の時に『パンが綺麗に食えない奴は前線に行け』という司令がくだされるものと僕が信じていた時の話さ。貧乏人のプライドだ。
 笹崎はしばらく黙っていた。薄くて短い髪の毛を手櫛でいじっている。それから、ひとつため息を吐いて、「どうすんの、これから」と言った。僕はスマートフォンを取り出した。
「こいつがなんとかしてくれるさ。文明だね。市民には文明を与えよ。こっちを覚えとけ。飯を綺麗になんとか、じゃなくて」
「市民には……?」
「『市民には文明を与えよ』」
 彼女は首をひねった。つまらん冗談さ。全然だめだな。誰も喜ばねえ。でも僕は言っちまうんだよね。仕方ねえのさ。笹崎はそのくだらない文句を一回呟いた。朝だというのに、僕はすでに一日分の気力を使い果たしたような気がしていた。
 間。曖昧な店内音楽がかかっている。彼女は紅茶のカップにスプーンを突っ込んで、カチカチといじっていたが、やがて飽きたらしく、机に身を乗り出した。 
「結局さ、何であんたはあの人の事、知ってたの?」
「結局よ、何でてめえはチュー子の事、知ってたんだ?」
「チュー子?」
「八代仲子ナカコのことだ」
 僕はスマートフォンでタイムズのレンタカーを借りる手続きをしながら聞き返した。彼女は言いにくいそうに首をひねったが、んとさあ、と切り出した。
「つまんない話だよ。マジもんの。麻里さんは助けてくんなかったけど、麻里さんの知り合いの仲子ちゃんは助けてくれたってだけ」
「麻里さん?」
「あんたが牛丼の半券、あげた人だよ」
 笹崎夫人の事を思い出した。何だかひどく懐かしく感ぜられた。牛丼の半券。大戸屋のことを思い出した。自分の娘が傷つけられて、それで黙っている。最低の母親だな。僕は心のなかで舌打ちをした。マジでやってらんねえ。しかもあんなジジイと来た。『忍耐は一種の正義』だってよ。んなわけねーだろ。
「なるほどね。ちなみに、僕があのサカシタの事を知ってんのは君が言ったからだ。寝ながらな。こういうのは禁じ手だが、しょうがねえのさ。いつかてめえだって言っただろうからな」
 彼女は黙りこくった。そして「時間の問題ってやつだね」と小さく呟いた。彼女は紙ナプキンを小さく折りたたみ始めた。
「そうだな。時間の問題だ。すべての問題は時間とエネルギーと処理できない欲望の問題なんだ。知っての通り」
 間。僕は予約を途中でやめて、スマートフォンを伏せた。彼女と僕はやっと目を合わせた。新鮮な鶏肉みたいな色の唇がゆっくり動いた。
「あんたさ、おんなじ夢って見たことある?」
「ある」
 彼女はちょっと笑った。それから続けた。はよ言え。
「あたしも見んのよ。ヘンな夢だよ。でもマジもんなんだよ」

       

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