僕たちは僕の家にたどり着いた。少し瓦が剥げ落ちた一軒家だ。庭はない。その代わりに倉庫が置いてある。町内会に貸していて、父親はそれで小遣いを稼いでいた――いる、だろうか?
 車庫には車がなかった。父親は今日も仕事に行っているんだろう。当然のことだ。バックで停めた。
「鍵、取ってくる」
「あ?」
 彼女を助手席に置いて、僕は物置の裏手に回った。そこには『ピース』の濃い紫色の缶が置いてあった。泥があちこちにへばりつていて、半ば地面に同化しているように見えた。
 僕は蓋を開けて、中から鍵を取り出した。昔からやっていたことだ。鍵っ子の宿命。ここに入れとくから、帰ったら勝手に開けて、おとなしくしているんだぞ。鍵の隠し場所はずっと変わらない。僕と父親がうまくやってこられたのは、多分、この『ピース』の缶が、僕たち二人の間での――そして、永遠に二人だけの――秘密になっていたからだろう。鍵の隠し場所は平和という名なのだ。父親の独房の鍵の名前、僕の子供時代がしまい込まれたおもちゃ箱の鍵の名前だ。
 笹崎に降りるように促して、僕はドアを開けた。彼女は、しばらく、何だかためらうように、玄関前のステップをコツコツコツと蹴っていたが、やがて家に上がった。
 しょうのうの匂いがする。薄暗い部屋だ。薄暗い家だ。
 僕達はひっそりとした部屋に入った。二階に通じる階段を通り過ぎた。洗面所でめいめいにうがいをした。冷蔵庫にあるオレンジジュースを二人で少しずつ飲んだ。僕たちはテーブルに座った。電気はつけなかった。
 しんとしている。天井の隅には蜘蛛が巣を張っている。徐々にこの部屋の境界を曖昧にして、崩していくみたいに。綿埃が食器棚の隅に溜まっている。テーブルの上にはコーヒーメーカーや汚れたスプーン、一本だけの割り箸や、バターを包んでいたのだろう銀色の紙が乱雑に散らかっている。彼女はそれの一つ一つを、どこかの博物館に飾ってある品物を見るみたいな目つきで眺めてから、僕に向かって微笑んだ。
「いい家だね」
「血縁だから、僕の父親への皮肉は、僕の皮肉にもなるってことか」
 違くて、と笹崎は呟いて、手元にある、ひどく汚れている付箋を拾い上げた。元の色さえ判別できない。文字が書いてあるように見えた。
「何年前に作られたのかな」
「君より年寄り」
 彼女は目を細めて、それならいいなあと囁いた。低い声だが、後ろには掠れた高音が潜んでいる。いい声だ。一瞬、土が太陽に焼かれた時の香ばしい匂いを思い出した。
「――あたしさ、変な話、あたしが生まれる前に起きたことのほうが、本当のことみたいに思えるんだ。ずっと昔に、アルキメデスっていうおじさんがいました、って言う方が、なんとかっていう芸能人がいます、ってのより」
「どうして?」
「分かんないけど。でもとにかくそう思えるんだ。テレビで何週間か出てきて、知らない間にどっかに行っちゃう人よりもさ、本を開く度に、『ここにいるなぁ』って思えるベッキィとかセーラとかの方が、ホンモノらしく思えんだよね」
 時間が経った。
「僕はそうは思わない。僕はやっぱり一九四五年八月六日が晴れだったことよりも、やっぱり今日の昼頃に雨が振るかが気になるし、愛すべきアルキメデスより、くだらん下世話な話を見ちゃうもんだよ」
 彼女は僕と同じ反応をした。
「どうして?」
「考えさせて」
 遠くでカラスがぎゃーと鳴いた。次の段階に入ったことを知らせる開き括弧みたいに。二つ目のインデントみたいに。冷蔵庫がぶーんと音を立てて、かちっとまた無音に戻った。壁には僕が昔作った時計が掛けてあった。文字盤には中学校の校舎が描いてある。
「何でだろう。でもそうなんだ。僕は何だか恐ろしいんだ。昔のことを考えるのは。なんでかは分からない。別に思い出すと怖くなるわけじゃないんだ。ただ恐ろしいんだよ。何かがありそうな気がして。僕が生まれる前とか、そのちょっと後には、僕の思いもよらない化け物が住んでいて、そいつが、ひょっこりやってくるかもしれないじゃないか。ああ、お前を食い殺すのを忘れていた、って」
 コツッ、コツッ、という、一秒刻みの音だけになった。笹崎はスマートフォンをちょっと触った後は、食器棚の中を覗き込んでは、少し懐かしそうな、不思議な顔をしていた。
 僕は二階に続く廊下に出た。