僕たちはうまくいっているような気がしないか

 ノックの音で目が覚めたってかうるせえよ! 頭おかしいのか? んなノックしくても分かるっつうの。どうせまたなんだかの気がどうとか。コンコンコン、ピンポンが鳴らされる。もう一度コンコン。やめてくれよ。僕が何をしたっていうんだ? ベッドから這い出て、洗面所で口をゆすいだ。どろっとした唾液が排水口に吸い込まれた。洗面所も洗わなきゃな。
 ドアは相変わらず叩かれている。僕は電子レンジの扉を開けて(学習済み)、ドアを開けた。
 ――子供がぽつんと佇んでいる。
 誰だよ、こいつ、と言おうとして、僕は口をつぐんだ。
 見覚えのある顔だ。僕はじっくりと彼女の顔を見た。細い髪はところどころほつれている。頬には白い引っかき傷のようなものが走っている。服装は今日会ったのと同じ。外は随分暗くなっている。額には薄っすらと汗が浮いている。
「笹崎咲」
 目の前の人間の名前を言ってみた。彼女はじっと僕のことを見つめている。視線を少しも動かさないで。
「……アンジェリーナ・ジョリー」
 彼女は動かない。この実験から、彼女はアンジェリーナ・ジョリーでないのと同程度に笹崎咲でないということが推測できる。僕は壁に手をついて、こつこつと壁紙を叩いた。彼女は僕の手を見て、また顔に視線を戻した。
「デリ嬢が若くなったもんだ」
「……何?」
 僕はわざとらしく大きなため息を吐いて、ドアをちゃんと開けた。彼女は後ろに下がった。小さなピンク色の靴だ。
 ここでいきなりドアをバタンと閉めて、鍵でもかけりゃいいんだよ。しめしめなんて笑って。しめえにはてめえでさえ部屋から出られなくなる。この子を締め出すということは、この子に締め出されるということでも(いや、ねえよ。相対主義者じみた狂気だ)。
 僕と彼女は二秒間睨み合った。僕は短く「入れよ」と呟いた。
「僕のドアを開けた姿勢がそんなに好きってんなら、勝手にそこにつっ立ってな」
 彼女は短く頷いて、僕の腕の下を通り抜けた。彼女は玄関でひどく脱ぎにくそうに靴を脱ぎ捨てて、部屋の中に入った。僕も後を追った。ワンケーの狭いアパートだが、(自分で言うのも何だが)掃除は行き届いている。なんてったって、人間、ノットエデュケイテッドでなんとか――めんどくせえな、ニート――になると、本気でやることがないのだ。掃除と料理くらいしかなくなる。特にインターネットで失敗した人間はそうだ。
「まあ、座れよ」
 彼女はデスクチェアに座った。僕の部屋にはそれしか椅子がない。僕はベッドに腰掛けた。そして、人生でこれ以上ないというくらいでかいため息を吐いてやった。
 つーかよく考えろよ、僕は今結構ぶっ飛んで追い詰められているぞ。ここで笹崎の母親が出てきて「あんらああぁあああ! これは一体どういうことでございましょおおおぉぉおねええ!」とほざきやがるとも分からん。僕は突然立ち上がって、彼女に「お前も立て!」と叫んだ。
「何、いきなり――」
「いやどう考えても頭おかしいってか悪いってかだいぶおかしいだろ、な、おい、立て、ちゃんと立て! オーケー! 人間は考える葦で葦はちゃんと立つもんだからな!」
 彼女は眉間にぎゅっとしわを寄せた。
「ほらほら、こっち、こっちだよー! はいはいはいはい、ここが僕のキッチンでーす、左手には電子レンジですね、とっとと歩け! そう、右、左、オーケー。んで持ってこれが僕の部屋のドアですね。ここから先は外、分かる? 外、アウトサイドね、でも出たからってアウトサイダーになるわけじゃないよ、だって僕が部屋ん中で取引してもインサイダー取引じゃないもんね。あれ? これだと論証できてないね? 部屋から出た人が全てアウトサイダーということを否定すんだもんね。だからインサイダーの人が全員内にいるわけじゃないことを言やあ――ほら、ドアノブ握れや!」
「あんた、マジで、何――」
「ああ? 論理学の話してんだよ、昨日聞いたニュースで、どこそこの弁護士がスタバでインサイダー取引してたんだってさ、はい、これでオッケーだ。ああ? 詳しくはしらねえよ、何か株の、おばあさんとかおじいさんとかネズミとかが抜く――」
「あのさあ!」
 笹崎の手はドアノブを掴んでいたが、回せないらしく、都合、僕は笹崎をドアに押し付ける格好になっている。子供の時やったゲームみたいだ。スリー・ディーのやつ。キャラクターをゴリゴリ壁に押し付けられるやつ。くすりともできない。麻薬でもキメキメだったらクスリとするどころじゃなくぶっ飛んでる。完璧にストーンド。合成麻薬。二千十五年、清涼飲料水の名前が『キケンビバレッジ』に変わってたりしてな。黄色いお馬さんのマーク。株は? レバレッジ――こりゃ為替。ほら追及の手だ、かわせ! 僕はそのまま韻をぶっ続けて七個捻出し、粘土の塊をぶつけるみたいにべちゃべちゃ喋りまくった。笹崎は体を捻って僕の方を向き直ると、二の腕を掴んできた。強い力だった。
「ほんとにさ、あんたって……」
 なんだか漠然とした気分になった。彼女は目尻を拭った。とっちらけた気分で彼女から手を離した。彼女はドアに背をぴったりとつけて、玄関にずるずるとしゃがみこんだ。膝を抱え込んだ。玄関には合計六足の靴がある。五足が僕ので、一足が彼女のだ。
 間。
 彼女は手元の靴を片方だけ拾い上げて――僕の方を見て――ぽいと投げ出した。僕は肩をすくめた。
「なんでこんな靴あんの?」
「靴を買うからだ」
「分かった」
 分かった。これには参っちまうね。僕は彼女の前にしゃがみこんだ。僕は捨てられた靴を取り上げて、さっきの場所に戻した。
「どうやってここが?」
「あんたがトイレに行っている間、手帳、見た」
 僕は彼女の茶色く汚れたつま先を見た。彼女はそれに気がついて、恥ずかしそうに足先を蠢かせた。僕は本日二億回目のため息を吐いた。おもむろに立ち上がる。
「立てよ。牛乳飲む?」
 彼女はこっくりとうなずいて、ゆっくりと起き上がった。改めて部屋にはいる時、彼女が「ごめんなさい」と口走った。彼女はさっきと同じように椅子に座った。
 冷蔵庫から牛乳をついで、電子レンジで温めた。できるだけ綺麗なスプーンを突っ込んで渡してやった。彼女は手のひらでマグカップを包み込むように持った。
 気まずい沈黙が広がった。彼女は口の端を拭って、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。僕はますますもって嫌な気分になってきた。
 なんでって十二だか三だかのガキが「ごめんなさい」とかなんとかほざかなきゃいけないんだ? どんなに福祉が充実しようとも、どんなに貿易黒字が出ようとも、どんなに物資が行き渡ろうと、十二歳の子供が「ごめんなさい」と言わなければならない国家がこの世に存在していい理由はない。その子が「ごめんなさい」と口走った時にその国の元首は即座に反省すべきだし、その子の両親は深く反省するべきだ。しかし何より痛ましいのは、誰もが、そして僕自身が、こんな表現は単なる気休めで、ただ硬い壁を殴っているだけだと気がついていることだった。世界も国家も東京都も北区もインサイダー取引もなんとかも、僕のことなんか知りもしないで回っていくことだった。僕より洗練されたロジックで。僕より賢い人々の手によって。
 僕は口を開いた。
「――二度と『ごめんなさい』って言うな」
「あ?」
「『ごめんなさい』って言うな。『ごめん』か『すまんね』にしろ。生後三ヶ月のガキが『ごめんなさい』って言う時ほど嫌な気分になる時はねえんだよ」
 彼女はこっくりと頷いた。そして――。
 ドアがガンガンガンガンガンと叩かれ、ベルがピンピンピンピンピンポーンと鳴らされ、ノブがガチャガチャと回った。そして声が響いた。
「笛吹さん!」
 僕の知り得ない『それ』を中心に、僕は形作られている。
「隠れて、絶対に動くな。声も出すな。無理にとは言わないが、できれば呼吸さえしないで欲しい」
 彼女はこくこくと頷いて、玄関から見えない場所に体をしまいこんだ。僕は息をひとつ吸い込んで、今回は土下座まで何秒かかるのか考えた。きっと短いだろう。
 ドアを開けた。目の前には相変わらずあのばあさんが立っている。僕は彼女の体を見るだけでなんだか申し訳ないような気分になる。僕が何か罪深いことを犯して、その償いとして彼女がここまで病んだのだ。贖いは貝偏――償いは人偏。
 僕は自分の手のひらをじっと見た。視界の端に入ったばあさんのサンダルはピンク色だった。僕はひどく気が滅入ってきた。
「何でしょう――」
「笛吹さん、笛吹さんですか? あなたは笛吹さんですか? 答えてください!」
「そうです」
 僕は顔を上げずに答えた。
「じゃああなたは自分が何をしてる、た、した――何をしたか言えますか? 電子レンジを使ったんですよ? 分かっています? マグネティックな気を撒き散らしたんですよ! ええええ、言わなくてもいいですよ、あなたは分かりっこないですからね、あなたは完全に頭をやられているんですよ、これは毒ですよ、いやもう正真正銘の毒ですからね、あなたが電子レンジをピッとやる度にあなたの頭に磁気が、磁気がですよ、だって水が沸騰するんですからね! 毒です! あなたはし、信じないかもしれませんがね、それはあなたが中毒者だからですよ! だってフランス人のセッ、セッ、セッセッ」
「セバ・ミスチン」
「そう、セバ・ミスチンだって言っていることですからね! 科学者ですよ! あなたは何ですか? あなたは敵ですか? もしかしてあなたが敵なんですか? お尋ねしてもよろしいでしょうか、いいえ……尋ねません……敵は嘘をつく……敵は嘘をつく……これはもう完全にそうなんだわ……あなたは敵ですね! あなたも使い手なんでしょう!」
「いいえ、僕は使い手じゃありません、電子レンジを使ったのは謝り――」
「ああああ! 何を言っているんでしょう? 何語ですか? あなたはドイツ人ですか……? あなたは敵ですね……部屋に入らせてもらいますよ……ちょうどここに御札がありますからね、これさえ持っていれば笛吹さんに埋まった毒気も抜けますからね、なんて言ったって、人体は血液ですからね、血液は鉄で、磁石は鉄を中毒にしますからね! これはもう論理ですからね! 論理ですよ、事実、事実ときますからね! 明白なことなんですよ! 正しいことなんですからね!」
 僕は動かなかった。僕は彼女を部屋に入れることは出来ない。だって、彼女が僕を正しくしたら、彼女には何が残るだろうか? 正確に言おう。『僕』が彼女を正しくしたとしたら。彼女を部屋に招き入れて、電子レンジの効能を説明し、彼女の持っている論理をこてんぱんに叩きのめしたとしたら?
 なあ、もし、切り株にもう一度ウサギがあたって死ぬのを待っている人がいたとして、そいつから切り株を奪うってのは果たしていいことなんだろうか? そいつをぶん殴って、クワでもスキでも握らせればいいんだろうか? そいつが植えた苗の頭をつまんだらぶん殴って、そいつが自分の田んぼに水を引いてもやっぱりぶん殴れいいんだろうか? そいつが正しくなるから?
 ――答えはイエス。論理は絶対だ。感情は絶対だ。愛情も崇拝も信仰も科学も全てが絶対だ。ベルリンの壁が壊れて。ヴィエトナムの森が取り戻されて。海鳥から油が取り除かれて。全てに平和が訪れる。想像してみろよイマジン
 僕は嫌だね。ただ嫌なんだ。この気が狂ったばあさんに、どっか場所を作っておいてやりたいだけなんだよ。分かるかな。サナトリウムにぶちこまれて、鎮静剤で血液を半分に割トワイスアップって、それでこの――かつては女子中学生だった――ばあさんが死ぬなんてのはまっぴらごめんなんだよ。見て下さいよ、幸せそうな顔をしていらっしゃるでしょ、これが文明ですよ、これが科学ですよ、これが宗教ですよ、これが愛ですよ、チャラチャラ、独房の鍵の音、あっはっは、――そんなもんいるかよ!
「なんでどかないんですか! 気が狂っているんですか! 助かりたくないんですか! あなたは完全に支配されていますよ、あなたの部屋からマグネティックな気が滲み出ているんですよ! それがどうしてわからないんですか、それが、そそそ、それが、どうしてわからないんですか! あなたは頭がおかしいんですよ、頭がおかしい人はですね、病院に行って、頭にきちんとシールドを巻いて、これは保険が降りますからね、きちんとゆっくりしっかり寝ないといけないんですよ!」
「でも、すいません、ごめんなさい、でも入ってほしくないんです、ほんとうに」
 彼女はマスクの中でフゴフゴと息を荒くした。時折、ぷつっ、ぷつっ、と彼女の喉の辺りから、唾液がうごめくような音がした。彼女の髪はまとまりがなくパサパサしているくせに、根本は――夜だというのに――ぎらぎらと脂ぎっていた。彼女の瞳が狂気じみて僕の体をじろじろと眺めた。そして僕はゆっくり口を――。
「――おばさん、誰?」
 後ろから声が掛かった。僕は振り返った。
 笹崎咲が立っている。ピーコートを脱いで、クリーム色のタートルネック姿になっていた。薄い唇はまっすぐ結ばれている。
「あな、笛吹、しゅ、ふしゅ」
「あなた、誰、って、あたし、聞いているんだけど」
 彼女はゆっくりと、壁に手をつきながら近寄ってきた。彼女の瞳が眩しそうに細められた。一歩ずつ近づいてくる。
 駄目だ! やめろ! 違うんだよ!
「わ、私は、私てゃ」
 ばあさんは舌っ足らずな発音で答えた。正確には答えではない。『あなたは誰?』――『私は犬養毅です』。正しい回答のスタイル。話せば分かる。僕たちに足りなかったもの。そして笹崎の答え。歴史は繰り返される。小規模であるにせよ。自己相似形フラクタル。たったひとつのパターン。古代の人間はそれをなんと呼んだのだっけ……。細部に宿りしもの。全てを包みしもの。僕には理解できない周期。ほんの少し上の次元。笹崎が喋り始める。やめてくれ、ここに僕がいるんだ。
「あたし、笹崎咲と言います。あなたが誰かは知りません。でも(彼女はここでひとつ空咳をした)、私、あなたがやろうとしていることはおかしいと思います。人の部屋に勝手に入っていい理由はないと思います。違いますか?」
「ふっ、ちち、違い、あの、私は、いっいっ井上、いっ」
 彼女は僕の隣に立った。そして右手をさっと振った。それだけでばあさんは完全に黙りこんだ。瞳が忙しげにきょろきょろと動き回っている。ばあさんの瞳が、笹崎をやっと捉えた。しかし、それはどこかぼんやりした捉え方だった。巨大なものが迫ってきていて、遠近感がつかめなくなっているようなまなざしだった。笹崎は、ゆっくりと、落ち着いて、いつものざらざらした声で喋り始めた。
「結構です。私、話なんて聞きたくありませんから。二つだけいいたいだけです。ひとつ、あなたが、笛吹くんの電子レンジをどうこうする権利はありません。ふたつ、私、あなたに、出来れば帰っていただきたいです」
 間。ひどく長い間が経った。僕はチェーンロックを眺めていた。鉄球と鎖。拷問器具。中世の処刑方法。ここでも自己相似形フラクタル。閉じ込めて閉じ込められて。このばあさんを締め出すということは、このばあさんを、完全に締め出しちまうってことだ。私のところじゃ見られません。マザー・テレサ、あんたは電子レンジが好きかい? キング牧師、あんたの夢はどんなんだったっけ?
 ばあさんは、ゆっくりと後ろに下がった。彼女の全身が見えた。醜く太っている。肥満症めいた太り方ではなくて、何か不摂生な、完全に自分の責任において太ったような印象を受けた。僕は彼女のピンク色のサンダルを見つめた。
「笛、ふ、ふえふ……」
 そして、そのままばあさんは僕たちの前から姿を消した。誰かに引きずられるように消えていった。僕は黙ったままドアを締めた。そのまましばらくじっとしていた。それから視線を上げた。
 笹崎は、ふーっと息を吐いて、それから臆病そうに笑った。
 僕は首を振った。そして、黙って冷凍庫からご飯を取り出して、電子レンジに突っ込んだ。ねえ、言わなくちゃいけないんだ。僕は口を開いた。
「笹崎」
 部屋に戻ろうとしていた彼女が足を止めて、僕の方を振り返った。僕も彼女の方を見た。彼女は裸足になっていた。
「あのさ――」
「ちょっと怖かったんだよ、あたし」
 間。
 僕は彼女の瞳をじっと見つめた。彼女の口角がほんのちょっとだけ持ち上がった。言わなくちゃ駄目なんだよ。失われたものを砂漠の風の中に探しても、手に残るのは砂だけさ。クレオパトラの飲んだワインの水分子はあるだろうか? 僕は口を開いた。
「――ありがとう。助かったよ」
 九時ごろに、ドアがコンコンと叩かれ、ベルが控えめに押された。
 ドアを開くと、大家の老婆が立っていた。
「笛吹さん?」
「はい、笛吹ですが」
 笹崎は当然奥に引っ込んでいる。老婆は肩に掛けたショールを大儀そうに持ち上げて、ずれを直した。それからほぅっとひとつ息を吐いた。首に下げられている眼鏡が小さく揺れた。
「あのね、あなたのお隣さんいるじゃない?」
「ええ。います。知っています」
 間。
「あのね、あの人、あたしの……知人なの。とても近い」
 とても近い、と僕はオウム返しに言った。とても近い知人。遠くで何かの鳥が、つぽつぽつぽと鳴いた。僕たちに時の存在を知らせるために鳴いたようにも思われた。
「それで、さっき、何があったか、だいたい聞いたの、分かる?」
 僕は黙っていた。年老いた人間がよくやるような、頬の肉を全部持ち上げる笑い方を彼女はした。彼女は待つつもりだろう。僕が分かるまで。彼女は待ち続けてここまで年老いたのだし、六十を超えてからは手習いくらいしか出来ないのだ。
 ばあさんの姿を思い浮かべた。ばあさんの年齢を推測した。それに二十五を足した。それから、目の前の老婆を眺めた。なるほど。
「分かりますよ」
 彼女は微笑みを絶やさずに、「ごめんなさいね」と呟いた。
「私も、こういうこと、いいたくないの。でも、迷惑でしょう? 一ヶ月、それを目処に……お願いできるかしら。もちろん、家賃はそれなりにさせていただくわ。ごめんなさいね……」
 間。
 僕は老婆の目をじっくりと眺めた。黄色いシミが浮かんだ瞳だ。まつげはすっかり薄くなっている。彼女の瞳がふるふると動いて、やがて疲れたようにふせられた。
「……笛吹さん、本当にごめんなさいね。私も……こういうことはしたくないのよ。でも、分かるでしょう? 出来るだけのことはしてあげたいの。笛吹さんを追い払ってあの子がよくなるなんて、私は思っていないわ、でも――」
「やらずにはいられない」
 その通り、と老婆は短く答えた。精神病の娘を持って、ぼろぼろの食料品店を経営して。そしてずっとここで待っている。何を? 分からない。この老婆は何を待っているんだろう?この老婆は何を持っているんだろう? 何を侍らせているのだろう?
「本当に、すぐにとは言わないの。でも、できるだけ早めに、ね。引っ越しも手伝うわ。お父さんも、ごめんなさい、って。本当に」
 彼女はそう言って、僕の手をそっと握った。それから、僕の手に小さく畳まれたお札を押し付けると、またカン、カン、カンと、階段を降りていった。後には沈黙が残った。
 僕は家も失うわけだ。半ば混乱した頭で部屋に戻った。笹崎が、物珍しそうに僕の本棚を眺めている。
「あんた、本――」
「てめえ、そこに直れよ」
 笹崎は怯えたように僕を見つめて、ゆっくりと――視線を切らさないで――椅子に座った。僕は立ったままで話し始めた。
「てめえ、何だ?」
「……笹崎、咲」
「ありがとう。質問は続くぞ、てめえ、ここに来た理由は何だ?」
 彼女は答えなかった。黙って、クリーム色のタートルネックの首元をいじくっている。整理しよう。しなくてもいいさ。ガキが転がり込んできた。蹴りだすキッカウ。僕はこのぼろくそのアパートを出る。このガキがついてくることはなくなる。それでおしまいだ。僕のこれからの人生? 次にどこでバイトするか? そんなん知らないよ。常に最善の決定をしなさい。合成の誤謬。だからどうしたってんだ? 袋小路。どん詰まり。どん底。これ以上逃げ場はないよ。ミランダ警告。僕には何を呼ぶ権利が? まあいいさ。テッペンからケツまで。
「……なんでも」
 彼女は細い声で答えた。
「なんでも?」
 僕は突然手近なハンガーを取り上げて、床に叩きつけた。か弱い音がした。彼女がびくっと震えた。ふざけてんじゃねえぞ。
「『なんでも』? てめえが一番嫌いな言葉だぜ? ふざけてんじゃねえぞ? 何だ? あのいかれたばあさんが来たってだけでてめえがここにいていい理由になるってのか? ああ? 『ひさしを貸して』ってやつか? 答えろ、てめえなんでこんなどえらいどん底のどん詰まりに来やがった?」
 彼女は膝の上で拳を握り固めた。はあ? ざけんじゃねえぞ。なんでって僕がガキのお守りしなきゃいけないんだ? 彼女はもう一度呟いた。
「なんでも」
「なんでも? じゃあてめえがここにいるってのの贖いとしてさ、てめえのプッシーがどうの、って俺が言ったらどうするつもりなんだ? 俺がクソみてえな変態でさ、どうしようもねえクズだったらどうすんだ? 今からコンドーム買ってくるよってなっても、てめえはここにいんのか? てめえが何歳だか知ったこっちゃねえが、俺が十二歳のガキの首を絞めている時にしか興奮しねえような最低の――」
「――ちょっと黙ってよ!」
 間。
 突然、全てがくすんだセピア色がかって、次には白っぽく歪んだ。そしてまたいつものように戻った。底冷えのする寒さと、ひどい沈黙を残して。燃え盛る炎に、誰かがとんでもない量の水をかけたみたいに、僕たちの間にはどうにもならない静けさが立ち込めた。
 彼女はうわ言のように繰り返した。
「聴かないでよ……ちょっと黙ってよ……」
 二度言うなよ。彼女は両手で顔を覆って、細く泣き出した。僕はテーブルからマグカップを取って、ざっと洗った。僕たちはうまくいっているような気がしないか? 付加疑問文。誘導尋問だ。あなたは死にたがっているじゃありませんか。死神が名刺を差し出す。どうも……。
 スマートフォンが鳴った。
 着信。表示:『八代 チュー子』。どうしたってんだ? 止まらせてくれ。気の利いた一節が出てくるまで――そんな時間はないのだ。全ては動き出した。違う。速度が上がっただけさ。
「今すぐ、その部屋から出て。できるだけ遠くに行って。行き先は私に言わないで」
 八代さんの声。僕は聞き返した。
「その部屋から出てって言ってんの。できるだけ遠くに行ってって言ってんの。行き先はどこでもいい。とにかく遠くまで逃げて」
「アフリカはどう?」
「馬鹿言ってないで!」
「ごめん。それで、僕一人が――」
「馬鹿、咲ちゃんも一緒に」
「はあ? この子も?」
「そう、咲ちゃんも連れてって、早く! できるだけ早く! 遠くに!」
「――いや、そうじゃない、僕がいいたいのはさ、八代さん?」
「何!」
「なんで君は、この子が来ていることを知っている?」
「ねえ……聞かないでくれる。理由は聞かないで。終わったらちゃんと説明する。今は急いで。とにかく、少なくともその部屋から出て。今すぐ!」
「ちょっと、いや、八代さん、あんた、ちょっと、チュー子! ――おい!」
 電話が切れた。僕は笹崎のことを観察した。みすぼらしいジーンズを履いている。ユニクロで三年前買って、毎日履いてきたとでも言うようなジーンズだ。
 僕は深い溜息をついて、彼女の前に立った。笹崎は手をゆっくりとどけて、僕をの方を見上げた。
「手伝え」
「……あ?」
「冷蔵庫にメシが残ってるんだ。早く食えよ」
 彼女は立ち上がって、冷蔵庫の中のものをレンジに入れた。
 僕はノースフェイスのバッグを押入れから出した。ベッド下の収納から着替えを取り出した。財布は? 手帳は? 髭剃りを忘れるなよ。カード類をまとめて。一冊本を持っていけ。何がいいかな……。
 十分で準備を済ませると、彼女も冷蔵庫の中の物をほとんど温め終わったようだった。煮物やら豆やら肉やらがデスクに並べられている。
 僕は箸を二膳出して、彼女に一膳渡した。
「その大根の煮物、先、食え。それ、皿にして」
「うん」
 僕は黙って食い始めた。咲は何だか怯えたようにためらっていたが、やがて、少しずつだが、食事に手を付け始めた。
 きんぴらごぼう、人参のグロッセ、柔らかく煮た厚揚げ、キャベツのつけもの。大豆のトマト煮。煮豚。冷しゃぶ。牛乳も添えて。まるで母親だな。そうだよ。まるで母親なんだ。でも母親じゃなかったんだ。僕の母さんは死んじまったんだから。
 彼女の方をちらっと見た。彼女は申し訳無さそうに頭を下げた。彼女の取り皿の豆が減っていない。
「豆が嫌いなのか? 子供だな?」
「……あんたは好きなの?」
 食欲がない、というように、彼女は箸を弄くった。僕は豚バラの煮込みを食べてから答えた。
「ああ。仮に親が豆に殺されても豆が好きだね」
 彼女は黙った。それから「復讐ってやつ?」と尋ねた。
「じゃあ訂正。仮に親が豆に命を助けられていても、豆が好きだね」
 十分でメシを食い終わって、その後五分で最後の準備をした。ガスの元栓を止めて、ゴミをかき集めて袋に入れた。電気機器のコンセントは(冷蔵庫以外)抜いた。僕は短く頷いて、ポケットに入っていたガムの包を部屋に投げ込んだ。
「とっとと行くぞ。ちゃんと説明しろ。歩け、歩け、歩くぞ……」
 彼女はとことことついてきた。僕は自分のマフラーを彼女にやった。寒そうにしているガキを見るのは嫌な気分がするもんだ。
 街灯がぽつぽつと灯った通りを歩き出した。遠くから車の騒音が聞こえてくるだけで、ひっそりとしていた。一月の寒い夜。
 僕は近くのビジネスホテルに電話をかけた。愛想の悪いフロントマンが対応した。二人で。シングルを二つ。ダブルじゃなくて。そう、そうです。夜のチェックインで。一泊です。ええ。はい。番号ですか。はい。笛吹です。すいません。僕は電話を切った。彼女の方を見た。
「ちょっと歩くぞ。一キロちょっとだ。余裕だな。僕は少なくとも余裕だ」
 あのさ、と彼女が口を開いた。彼女の顔は暗くてよくわからなかった。月が夜空に埋め込められている。雲がするすると横切っている。
「……マジもんの話、あんたって何なの?」
「さあな」
「ねえ、一つだけしていいかな。どうしてもやりたいってわけじゃないんだけど」
やれよカム・オン
「なんであんたはさ、あたしのためにこんなことしてんの? なんであんたはさ、あたしを締め出したり、あたしにひどいことをしようとしないの?」
「どっちに答えて欲しいんだ? 質問は一つだけだ」
 彼女は足を止めた。街灯の下で。ゴミ捨て場が白い蛍光灯に照らされている。冷たい空気の中を蛾が飛んでいった。彼女の息が白く光った。
「なんであんたは、あたしのために汗をかいてんの?」
 僕はしばらく考えて、口を開いた。
「君のためじゃない。みんな汗みどろだ。生まれた時には母親の体温で、棺桶でも炎で汗みどろだ。僕は汗なんてかきたくないさ。ただね、僕は暇なんだよ。暇なだけさ。分かるかい?」
「全然」
「あるところに男がいる。そいつは仕事もそこそこうまく行っている。三重県の田舎にある市役所で働いてんだ。結婚して三人も子供がいる。でも、そいつは突然上司をぶち殺しちまうんだよ。トイレの便器の蓋の上に上司の生首を据えて、花なんか活けちまうんだ。それも、全部、ただ暇だったってだけの理由でね。人間、暇なら何でも出来るもんさ。ほんとに言ってんだよ。汗だってかこうと思うし、どんなに下劣なことでもやってみせるんだ。それが人間ってもんじゃないかな。僕はそう思うね。
 分かったらとっとと歩けよ。チェックインが遅いと睨まれるんだ。こいつはぶっ飛んだ猟奇魔じゃないかとか、なんとか」
 彼女は僕のことを疑り深そうな目で眺めてから歩き始めた。メスのチョウチンアンコウの発光体のように、街灯が僕たちを順繰りに誘った。駐車場の車のランプカバーが、昆虫の翅のように、暗闇でちらちらと瞬いた。
 歩きながら考えた。僕はなんでこいつのために汗をかいてやがる? 助けたら一発ヤラせてくれる? はっ。ガキだぜ。婆さんみたいな声の、拒食症みたいな体のさ。
 ねえ、僕はなんでこんなことをしているんだ? 僕を動かしているのって何なのさ。僕のやることはどこから生まれてくるのかな。僕の……ここにあるべきものはなんなんだ。上司を殺す部下。父親を殺したオイディプス。息子を丸呑みにしたウラヌス。ライオンに人肉を与えたユリウス。みんなきっと悪い人間じゃない。ここに何かが無いんだ。この頭の奥の、くるみほどに小さな部分にさ。細部に宿りしもの。僕の体を支配せしもの。
 答えが見つかる前に、ホテルに着いた。
sage