Neetel Inside 文芸新都
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Monday/春は遅れてやってきた




 見慣れたはずの異性に、あるとき不意に恋をする。
 この現象の名前は、一体なんと言うのだろう。
 一目惚れとは少し違う。まっとうな恋愛の手続きを踏んだわけでも、打算を積み上げていったわけでもない。いままで隠れていた感情が、とつぜん視界を奪ったような。ずっと手に持っていたガラクタが、価値のあるものだと気が付くような。
 あるいは、それは蕾だったのかもしれない。花弁を開くときまでは、息を潜めて秘めていて。ひとたび咲けば、美しさから逃れることを許さない。
 ……だとすれば。
 俺が恋に落ちたのは、うららかな陽気のせいかもしれなかった。


****


 一時間早く起きたから、一時間早く家を出た。
 早朝と言っていい時間帯。通学路の空気はいつにも増して澄んでいる。見渡す限りの風景には、通行人はおろか、農作業を行う老人すらいない。どこからか鳴くメジロ以外、動物らしきは俺ことVIP野 新斗びっぷの にいと(変わった名前だろ?)のみ。
 足元、平べたく続く地面は草の絨毯に覆われている。放射状に差し込む光は、薄い雲の向こうから。薄明光線とまではいかないが、天使でも降りてきそうな雰囲気だ。
 静謐な朝。この辺りは元々からして、うるさくない。余りきった土地は多くが田園に使われ、背の高い建物は数える程度。民家すらまばらに点在するだけで、窮屈とは無縁である。場の広大さは、個々の動きを希釈する。大気の揺らぎさえ、一切が静止しているような錯覚はそのせいだろう。俺は止まった時間をかき混ぜるよう、大げさに息を吐いて歩いた。
 見通しの良い畦道を進んでいくと、グラデーションのようにコンクリートが混ざってくる。学校が建つところは、わずかに都会的である。植え込みの並木がつくる木漏れ日を踏んで、やがて右手に校舎が見える。茶と白のラインで彩色されたコンクリート造。周辺施設も含め、建物は近代的なデザインで統一されているものの、奥側にそびえ立つ時計台だけは古めかしい。
 高校は、敷地の広さも相まって、辺りでは飛びぬけた威容を誇っている。俺にとっては見飽きたものだが、この場所に通うのも残り一年を切ったと思うと、惜しい気もする。
 ちらほらいる制服姿の生徒たちは、早起きな連中だろう。馴染みのないメンツを横目に歩道を進む。
 平穏な登校が打ち破られたのは、ちょうど校門をくぐったときだった。
「覚悟ぉっ!」
 背後で聞こえた掛け声とともに、後頭部に衝撃。倒れ込みそうになる。
 よろめきながら振り向くと、千恵が立っていた。鈍器として使用したらしいナイロンのスクールバッグを抱えて、ふくれっ面。膨らました頬の横で、二つにまとめた髪が揺れている。
 あけ放たれた引戸門扉、学校敷地の境目を挟んで、俺たちは相対する。どうしてだろう、千恵がいる。普段よりもとびきり早い登校時刻だというのに。
 いいや、そんなことよりも。
 俺はにわかに、自分の心を疑った。目前の光景に対して、自らが抱く所感におののいた。
 口先を尖らせる千恵。その、控えめに色づいた唇。清廉な意思を放つ、水晶の瞳。陽光を吸って宿したような、透き通った肌。並木から茂る若葉を背景に、少女はいまや亡き桜を思わせて、映える。――見惚れてしまう。
「薄情者ぉ。学校行くとき置いてかないでって、いつも言ってるじゃないですかぁ」
 恨みがましい非難は涙声だ。
 なにもかも不意打ちをくらった俺は、口も利けずに呆けていた。
 しばらく黙っていると、千恵の顔が心配に変わる。
「あ、あの、強く殴り過ぎましたか? 様子がおかしいんですけど。まさか脳に異常とか……」
 いたわる手のひらが額に迫って、俺は飛び退った。
「うわあっ」
「なぜ逃げるです」
「に、に、に、逃げてないっ」
「なぜ赤くなるです」
「あ、あ、あ、赤くなってねぇよっ!?」
「……怪しい」
 千恵はジットリした目で睨んでくる。
 校門近くの往来。周囲の視線を集めていると気が付くまで、俺たちは見つめ合っていた。

――――――
――――
――

「ですから、反省してくださいよ。早起きしたからって、ひとりで勝手に学校行っちゃだめですってば。毎日一緒に登校するって約束したじゃないですか。今日なんて、後から走って追いつくために、わたし朝食も食べられなかったんですよ。おかげで、お腹ペコペコです」
 せっかく合流したことなので、俺と千恵は連れ添って歩く。といっても、校門から下駄箱までの短い距離だが。そのことについて、千恵は先ほどから文句を垂れている。滔々と、先んじて登校したことの責を言い聞かせるように。こういう場合の彼女の饒舌さには、目を見張るものがある。
「ほら、ちゃんと聞いてますか? にい――」
 と、俺に呼びかけようとして、千恵は言葉を切った。
「はっ、そうでした。学校では呼び方を変えるんでした。ほら、ちゃんと聞いてますか? セ・ン・パ・イ」
 センパイ。先輩。無性にむずがゆくなる二人称。
「恥ずかしいから、やめろってのにその呼び方」
「どうしてです? 先輩にとっては、年下の女の子から敬われることがなによりの悦びなのでは?」
「人を色魔の変態みたいに言うな。大体、先輩というならこの学校のほとんどがお前の先輩じゃないか。敬った呼び方には賛成だが、せめて、『新斗さん』とか『新斗先輩』とかにしておけよ」
「ダメです。先輩は先輩なんです。わたしにとって真に先輩たる先輩は、先輩ただひとりなんですから。ほかの年上の方々は、先輩とは呼ばないのです。つまり、先輩は固有名詞。わたしに先輩と呼ばれる権利を持つのは先輩だけなんですよ。誇らしいでしょう?」
「『先輩』がゲシュタルト崩壊してきたぞ……」
 千恵がうちの高校に入学してきてから、かれこれひと月が経つ。しかし、呼び方も含め、学校での千恵の言葉遣いには、いまだに慣れない。
 というのも、俺たちの付き合いは、一年や二年の話ではない。中学生、小学生、遡れば幼稚園時代、果ては赤ん坊の頃からの付き合いなのである。当然、プライベートであればタメ口上等。年齢での優位など、あったものではない。
 それがどうして、高校の門をくぐったとたん態度が慇懃になるのかといえば、これには現実的な理由もあるのだが――。
「ねぇ、だって、先輩」
 顔を上げると、すでに目的地に着いていた。
 無数の靴音を反響させるエントランス。その中心に立ち止まって、千恵は俺に振り返る。さっきまでのぶーたれた表情や、冗談めかした表情とは違う、哀切めいた色を瞳に浮かべて。
「わたしがこの学校に入学したのは、先輩と一緒にいたいから、ですよ。できるだけ長くそばにいて、できるだけたくさん思い出をつくりたいから。……だから、少しくらい、わがまま聞いてくれたって、いいじゃないですか」
 おろしたての制服、チェックスカートが翻る。紺色のブレザーは、千恵にはちょっと堅苦しいようだ。制服に着られている感は、三年次にはすっかりなくなってしまっているのだろうか。
 だとしたら、惜しい。
 あどけない美しさも、去りゆく季節も永遠でないのなら、彼女を抱きしめていたいと思う。薄い唇にキスをして、離さないでいたいと思う。傲慢な欲望は、尽きることなく湧き出してくる。心臓の音が高鳴って、締め付けられるような感覚を味わう。
 俺は、内心を悟られぬよう、用心深く溜息を吐いた。
「しょうがないな、わかったよ。これからはもう、勝手にひとりで登校したりしない。先輩呼ばわりも、全面的に許してやる。それでいいか?」
 言ってやると、千恵は一気に相好を崩した。
「うんっ、よいですっ」


****


 学校から帰宅後。自宅。
 俺は、玄関の扉を開けるなり、入ってすぐのささら桁階段を駆け上った。すばやく二階の自室に滑り込んで、鍵を閉める。部屋の角にあるローベッドに、体を投げ出すようにして横たわると、虚脱感がのしかかってくる。
「なんてこった……」
 枕に顔面をうずめ、呟く。
 朝一番に千恵を見てから、胸の辺りを支配している感情。結局、学校にいるあいだ、ひとときも俺を離さなかった。授業で聞いた内容など、欠片たりとも残っていない。委員長からはシャキッとしろと叱られたが、無理だ。とうてい学業どころではない。世の浮ついた若者たちは、どいつもこいつもこんな敵と戦っていたのか。そりゃあ、成績だって落ち込むわけだ。
 降って湧いた恋の病は、なにが原因だったのだろう。春のうららかな陽気か、おろしたての制服か、あるいは、後頭部をぶん殴られたことか。どれもが見事な正解で、どれもが的外れな誤解であるような気もする。もっとも、原因を突き止めたところで、手の施しようもないのだろうが。
 シャワーを浴びる気力もなく、制服をかろうじて脱ぎ捨てると、俺は瞼を閉じた。今日はもう、寝てしまおう。明日の朝にはすべてが正常に戻っているはずだ。信じるしかあるまい。
 吸い込まれていく意識の中、願ったことはただひとつ。この恋心が偽りで、「つまらない気の迷いだった」で済むことだ。
 なぜかって。
 叶わない恋ほど、無益なものはないから。

       

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