第十話「涙の道筋は」



 ずっと死にたいと思っていたのに、私は助かってしまった。現実世界の住人に、私は助けられてしまったのだ。
 私の制服のスカートが少しすすけて汚れているのが、私が助けられたことの何よりの証拠だった。
 すっかり日が暮れた学校の裏山で、私はぼんやりと立ち尽くしていた。私の周りを輪のような形で取り囲むのは、私を助けた守山ヤスという男子とその友達だった。その友達の輪の中には、大垣穂積と呼ばれる女の子がいた。
 おさげ髪の大垣穂積という女の子が私に話しかける。目を合わそうとしてくるけれど、なんだか私と比べるとあまりに可憐で、女の子の中の女の子という感じで、私はつい目をそらしてしまった。私にとって彼女はあまりに眩かった。
「ねぇねぇ、山上さんってもしかしてほんとにあの山上さん?」
 あの山上さん? と聞かれても、私はどう答えたらいいのかよくわからない。逆に質問をしたいくらいだ。大垣穂積さんって、小学校の時に私と友達になりかけていたあの大垣穂積さん? って。
「ねぇ山上さん、私のこと覚えてる? 古森山小学校で一緒だったと思うんだけど……」
 ああ、やっぱりあの大垣穂積さんか、穂積ちゃんか。ええ覚えてますとも。というか今までで一番友達になりかけてたのが小学校の頃のクラスメイトの穂積ちゃんだったから、それを思い出しては毎晩やりきれない思いに駆られてるよ、とも。
 だけど私は何も言えなかった。幾つか言葉は頭の中で思い浮かんでも、声が出なかったのだ。
 口を開けてなんとか声を出そうとしても、喉の奥から全く声が出てこない。なのでまるで口パクをしているかのようになってしまった。そんな私を周りを囲む現実世界の住人たちは不思議そうにまじまじと見つめている。


「……もしかしたら、あまりの出来事に放心してるのかもしれないわね」
 私の左隣にいた眼鏡をしている賢そうな委員長タイプの女の子が声を発する。
「……それに、ちょっとだけ膝の怪我もしているし」
 委員長タイプの女の子はそう言うと、スクールバッグから絆創膏を取り出した。
「ちょっと待ってて」
 委員長タイプの女の子はそう言った後、手洗い場に向かっていった。一体何をしに行ったのだろう?
 しばらくすると委員長タイプの女の子が戻ってきた。委員長タイプの女の子は私の膝の位置まで体を屈ませて、濡れたハンカチを私の左膝にあてがった。無意識の内に体に刻み付けられていた左膝のかすり傷に、水分がじんわりと染み込む。ちょっぴり痛かった。
 ――委員長タイプのこの女の子は、私の左膝の手当てをしてくれていたんだ。そう気付くまで、しばらく時間がかかった。そう気付いた瞬間、私の胸の奥底にぎゅうぎゅうに詰まっていた何かが許容量を超えてあふれ出した。
 傷の手当なんて、生まれてこの方母親にさえ一度もやってもらったことがない――何をしてもどんな怪我をしてもいくら傷付いても傷を癒してくれるのは自分だけ。私を傷付けてくる人はたくさんいたけれど、私の傷を癒してくれた人は今まで誰一人としていなかった。だけど、私を囲む人たちは、私の傷の手当てをしてくれている。そう思った瞬間、急に視界が滲んでゆく。
 過度のストレスで目がおかしくなってしまったのかな、と思ったけれど、そうじゃなかった。
 情けない私をそっと包んでくれるようなこの感覚、ずっと心の奥底にしまい込んでいた感情がすっと体の中に入り込んで溶けていくような感覚……。
 そうか、私は泣いてしまっていたんだ。


 瞼に溜まった涙が、頬を伝ってぽろぽろと流れ落ちる。涙を必死にこらえようとしても止まらず、とめどない大粒の涙が頬を伝ってぽろぽろと流れ落ちていく。そのせいで私の視界はさっきより余計に滲んでぐにゃぐにゃになっていく。
 乾く間もなく瞼から流れ落ちる涙は、私の頬に一本の線のような軌跡を紡いでいた。
 ――涙は女の武器だ。涙という抗いようのない武器を男に振りかざせば、女は男に何をしたって許されると思ってるんだ。結局のところ、女って奴は泣けば何だって許されると思ってるんだ。これだから女って奴は、どいつもこいつもろくでなしなんだ。
 ――これが私の父の口癖だった。
 口癖だった、と過去形にしてみればあたかもとっくに父が改心したかのような字面になるけれど、実はそうではないことを私は知っている。涙は女の武器だ、だから涙を武器にする女は卑怯なんだ、と口にする回数は少なくなっても、父は内心では今でもずっとそう思っていることを私は知っている。
 ――涙を武器にして人の気を引こうとしているなんて、あなたは最低の人間なのね。そんな声が私の体のどこかから聞こえてくるような気がした。もちろん、そんな声なんて実在していないことを私は知っている。だって私は幻聴の病を患ってはいないのだから、誰も発していない声を聞くことができるはずがないのだもの。
 だけどやっぱり私の中の体のパーツのどこかから、泣いている私を卑怯者呼ばわりしている人の声が聞こえてくる気がして、私は耐え切れずに辺りを見回してしまった。
 だけどいくら見回しても、瞼に大粒の涙を溜め込む私を卑怯者呼ばわりする人なんてどこにもいなかった。
「……山上さん、大丈夫?」
 大垣穂積と呼ばれる女の子が心配そうに私に話しかけてくる。
「……っ"」
 返事に声を発そうとしたら、声にもならない嗚咽が込み上げてしまった。
 泣きじゃくる、と言っても仕方のないくらい情けない姿になっている私を、おさげ髪の女の子が赤子を抱くように包み込む。


 言葉にならない嗚咽を漏らしながら、大垣穂積と呼ばれる女の子の胸を濡らしながら、私は幾度も幾度もすすり泣いた。
 すすり泣く私の髪を、大垣穂積と呼ばれる女の子が小動物を愛でるように撫でた。大垣穂積と呼ばれる女の子の胸の奥の方から、子守歌が聞こえてくるような気がした。
 幻聴かと思って私は辺りに視線を巡らしてみる。
「……ねんねんころりよ、おころりよねんねしな。みこちゃんは良い子だねんねしな……っと。みこちゃんはもう大丈夫。安心して」
 どうやら今回は幻聴じゃなかったみたいだ。子守歌を聞いたせいなのか、散々泣きじゃくったせいなのか、優しく包み込まれて安心したせいなのかよくわからないけれど、とにかくいつの間にかおさげ髪の女の子の胸の中で私は泣き止んでしまっていた。


「……穂積って、人を優しく包み込む才能があったのね。意外だわ。今まで気付かなかったわ……」
 委員長タイプの女の子が、大垣穂積と呼ばれる女の子に話しかける。
「……失礼な! ぜぜちゃん、私は赤子を諭すように人を優しく包み込む能力を持ったフレンズなんだよ?」
 大垣穂積と呼ばれる女の子が、私を胸に抱きかかえながらぜぜと呼ばれる委員長タイプの女の子と会話をしている。私の頭上で言葉が飛び交う様は、ちょっぴり新鮮で、だけど何とも不思議だった。
 それからしばらくすると、大垣穂積と呼ばれる女の子は再び私の髪を撫でた。何度も髪を撫でられると、何だかほっとしたような感覚が私の胸の奥底からわきあがってきた。
「……良かった。落ち着いたみたいだ」
 大垣穂積と呼ばれる女の子が、私を抱きながらささやくようにそう呟いた。
 それからしばらくして、私の体を包み込む誰かの体温がなくなっていくのがわかった。大垣穂積と呼ばれる女の子は、私を抱く手をそっと緩めたのだ。


「……それで、これからどうすんだよ」
 私を助けた守山ヤスという男子が、山の端から端まで届くような透き通る声を発した。
「どうするって、どういう意味?」
 大垣穂積と呼ばれる女の子が首をかしげる。
「だから、そのままの通りの意味だよ。山上さん、今日はこれからどうすんだよ。事情はよくわかんないけど、何か家出でもしてきた感じみたいだし、だったら今晩泊まるところないじゃん」
「……言われてみればそうだね。……どうしよ!」
 大垣穂積と呼ばれる女の子が、さして悩んでいなさそうな顔でおさげ髪をくるくると指に巻き付けながら声を発する。
「……どうするって言っても、私の家は両親もいるから今晩は泊まれそうにないし……。ネカフェに泊まるくらしかないんじゃないの」
 委員長タイプの女の子がそう答えた。


 今晩泊まるところ、か。考えたこともなかった。というか正直どうでもいい。私は私を取り囲むこのみんなに優しくしてもらっただけでもう十分だ。
 泊まるところどころか、帰るところさえ私にはもうない。だけど、それさえも私は重々承知だったのだ。
 代々の慣習として生贄に奉げられることを拒んだら最後、私にはもう家がないも同然だった。代々語り継がれている生贄の慣習を拒んだ私は、私の家の周りの人が私を拒もうがそうでなかろうが関係なく、両親の強い拒絶でもって、私はきっと家から追い出されるに決まっている。
 だから生贄を拒んだ私にはもう家がないのだ。唯一家と呼べるような場所は、裏山の先にあるお山の奥深くにひっそりとたたずむ小屋だけだった。
 だけどその小屋も、母親か父親のいずれかに見つかってしまったのなら最後、取り壊されるか、あるいは出入り口となる場所を強力な工具でもって封鎖されるかのいずれかだろう。だから両親に見つかっていたとしたらもう小屋には入れないと思っておいた方がいいのだろう。
 私には、もう家がない。帰るべきところもなければ、帰ってもいいところさえもない。これまで親からの精神的な後ろ盾を持たずに生きてきた私は、生贄の慣習を拒むことによって、ついに物理的にも精神的にも根無し草になってしまったのだ。
 とてもとても辛い。だけどもう、私にはどうすることもできなかった。


「……家なんて、帰るところなんて、もうどこにもないよ。だからもういいです。今日は本当にありがとうございました……」
 そう私は言って、この場を足早に立ち去ろうとした。その私の発言を耳にするやいなや、私を取り囲むみんなが何やら神妙な顔つきになってしまって、哀れみの目で私を見つめてくるような気がした。
「……いや、その、ほんとにもういいですから。私なんかに時間割くより、男二人女二人できゃっきゃっしてた方が楽しいと思うよ。じゃあ私はこれで……」
 足早に立ち去ろうとして、身を乗り出そうとする私の体を誰かがぐいっと掴んだ。その感触からするに、恐らく男子の手だ。
「……ま、待って山上さん。そういうのって、きっとあんまり良くないと思うよ」
 私の手首を掴んだ男子の手の方を見る。見るからに冴えない覇気のない男子が立っていた。
「帰るところがないだなんて……、そんなこと簡単に言っちゃ駄目だ」
「……コウジくんって、そういうことも言うんだね。意外!」
 大垣穂積と呼ばれる女の子が、覇気のないコウジという男子に向かってそう言い放つ。
「……戸ノ内コウジ、あなたからそんな熱いメッセージが聞けるとは思ってなかったわ。……ごめんなさい、私は今まであなたのことを何だか覇気のない無能……げふんげふん、あんまり頼りにならない男子だと思ってたわ」
 委員長タイプの女の子が、戸ノ内コウジと呼ばれる男子にそう言い放つ。
 それを聞いた戸ノ内コウジが、少し怒ったような表情で周りを見回す素振りをしながら声を発した。
「……僕だって、そりゃあ熱くなることくらいあるよ。みんな失礼だなぁ……。そりゃあそんなに頻繁にそんなこと言うわけじゃないけどさぁ……」
 それを聞いた守山ヤスと呼ばれる男子が、少しからかうような口調で話し出した。
「まあ、コウジってこう見えても意外に熱い奴だからなぁ。俺がたまに癖でどっかに失踪してしまう時に、見つかるまで絶対に見捨てないで俺を捜してくれる奴はコウジくらいだわ。まあでもさ、その代わりって言ったらあれだけど、コウジは多分地獄の果てでも俺を追っかけてくると思うぜ。ははっ」
 それを聞いた大垣穂積と呼ばれる女の子が、少しだけ口角を上げながら言う。
「……へぇ、そうなんだ。コウジくんって、意外に頼れるところもあるんだね。どこに行っても私を絶対に見捨てないでいてくれる人って、なんか良いなぁ。なんか好きだなぁ」
 大垣穂積と呼ばれる女の子の言葉を聞いた戸ノ内コウジと呼ばれる男子が、少しだけ顔を赤らめながら得意げに話し始める。
 ……ああ、わかった。戸ノ内コウジというこの男子、きっと大垣穂積と呼ばれる女子のことが好きなんだ。
「……まあ、友達として当然のことをしたまでだよ。あ、あはは」
 戸ノ内コウジと呼ばれる男子の言葉を聞いたおさげ髪の女の子が、少しだけ俯きながら話し始める。
「良いなぁ。私も何があっても見捨てないでくれる人と一緒に居たいなぁ」
「……その言い方だと、まるで私が穂積を見捨ててばかりって意味にもとれるじゃない」
「それもそうだった! ぜぜちゃんも、そういえば私を見捨てないでいてくれる人だったね!」
「……もう穂積ったら。もしかして、昨日のLINEの返信が少し遅れちゃったことを根に持ってるの?」
「根に持ってはいないけど……。でも、ちょっとだけ寂しかったなって。もっと即レスして欲しいなって」
「ごめんなさい。今度からはなるべく気を付けるわ」


「それはそうとして……さ、山上さんが今晩泊まるところはどうするのさ」
 戸ノ内コウジが私の顔をまじまじと見つめながらみんなに向かって声を発する。
「……私はその……別にいいよ。なんかみんな迷惑かけたみたいだし、泊まるところくらい自分で何とかするし……」
 私はそう答える。私の答えを聞いた委員長タイプの女の子はこう言った。
「山上さん、ちなみにだけど今晩泊まる場所のあてはあるの?」
 しばらく考え込んだふりをした後、私はこう答える。
「今晩泊まる場所のあては、ないです」
 私の言葉を聞いたどこの誰かもわからないみんなが、少しぎょっとした顔で私を見つめる。
「えっ……。じゃあ山上さん、今晩どうするつもりだったのさ」
 守山ヤスが私に問いかける。
「……別にどうもしないです。まあ、なんだったらいつもの通り野宿するか、徹夜で学校の辺りをぼんやり歩いて回ろうかなって」
 本当はプランなんてなかった。まさか死なずに助かるとは思っていたなかったので、何も考えていなかったのだ。
 戸ノ内コウジが驚いた顔で言う。
「野宿って……。いやいや、山上さんそれはちょっと危険すぎるよ」
「……そうかな。私、お母さんと喧嘩して家に入れてもらえなくなった時は、毎回野宿してるんだけど……」
 私の顔を奇異の目で見つめながら守山ヤスは言った。
「……いや、でも山上さん、もしかしたら野宿マイスターなのかもしれないぜ。だったら女子高生が野宿したって安全なのかもしれないぜ」
 守山ヤスの話を聞いた委員長タイプの女の子は、少し呆れ顔で言う。
「……もう、守山くんふざけないで。仮にも女子高生が野宿なんてしてたら、いくら山上さんが野宿に慣れていたとしても危なすぎるわよ……」
「それもそうだったな、ははっ」
「……だけど、どうすることもできないわね」
 委員長タイプの女の子が、今晩の私の泊まる場所を真剣に思い悩んでくれている。その事実だけで私はとても嬉しくって、その想いを抱いて今日は野宿をしてもいいくらいだった。
「……ねえ、誰か今晩山上さんを家に泊めてくれる人っている……?」
 委員長タイプの女の子がみんなを見回しながら声を発する。もちろん、誰も手は挙がらない。みんな、「それはちょっと……」という顔をしている。
「うーん……、どうしようかしら……」
 委員長タイプの女の子が長考に入りそうな素振りを見せている。その素振りを見た大垣穂積が、少し息を吸い込んだ後、声を発する。
「山上さん、今晩は私の家に泊まっていってよ」


 思わぬ回答に、私は思わず大垣穂積の顔を凝視してしまった。
 それから色々やりとりがあって、私は今晩のところは大垣穂積と呼ばれる女の子の家に泊まることになった。


sage