あなたは炎、切札は不燃
HEBI-NO-ASHI ~Left~
貴族の客室、応接間、座談室……どう形容すればいいのかわからなかったが、調度品は一級ばかり、身を埋めた椅子に眩すぎるシャンデリアからの照明が落ちてくる。暖炉を囲うマントルピースには異国の写真が飾り立てられ、部屋の隅に並ぶクローゼットにはきっと幾夜も舞踏会を開けるほどのドレスが納められているのだろう。贅の髄を極めたとはまさにこのこと、積もった埃すら雪化粧に見える。そう見えることが幸せなのかどうか、彼にはわからない。
蒸気船の中に門倉いづるはいた。
一枚の絵画のような光景が船上だと床の揺れが教えてくれる。
手を何度かぐーぱーしてみているのは、ここに自分がいることを確かめているのか、それともその姿に似つかわしく、少年のような緊張感を覚えているのか。幼さを残した面影は、しかし嵐が過ぎ去った後のようなくたびれかたをしている。笑えば可愛げもあるのだろうが、どこか不満げな顔つきが彼と出会う人々に生意気さを感じさせる原因なのかもしれない。不貞腐れた子供。海のように青いブレザーに、車輪に踏みにじられた古雪のようなアッシュグレーのパーカーを重ね着している。いつものように、彼は一人で座っていた。
向かいに、女が腰かけている。やはりアッシュグレーのスーツを着た、若い女。弾丸のように鋭い眼差しは、長い前髪に時折隠される。それが今、どこか面白そうな表情を浮かべていた。足を組み、吸いさしの煙草は灰皿で燃え尽きていく。少年よりも五つは年嵩に見えるが、年齢など今は意味がない。
「来てくれて嬉しいよ、いづる。久しぶりだな。私がおまえのところに遊びにいった頃からだから……もう何年が経ったのかな? みんな元気なんだろう?」
「そう思うよ」
いづるは笑った。その笑みを誰かが見ていれば、相手を敵だと思ってはいなかったのかとそこで気づいただろう。それほどまでに、彼が日常纏う気配は失望と幻滅に染まっていた。
「フィブリオ……ここが君の船なのか? ずいぶん豪勢にしたんだな」
「ああ、当然だろ? これは私とおまえの夢の船……みすぼらしくちゃ悲しいじゃないか。飾り付けくらいはきちんとしておけ。夢にしろ、おまえにしろ」
「もう出航するのか。僕がここを降りたら」
「そう慌てるな」フィブリオはテーブルの上のグラスに赤い酒を注いだ。濃厚な果実の匂いがあたりに立ち込めるが、いづるは手をつけようとしない。
「ゆっくりしていけばいい。おまえはこの船の共同出資者、堂々としていればいいんだ。なんなら展望デッキに上がってみるか? いい眺めだぞ、死者の海を往く船は」
「残念だけど、高いところは苦手でね」
「ふん、相棒に笑われるぞ。……ま、どれほど飾り付けを派手にしようが、まだこの蒸気船には誰も乗っていない。一つの魂もなく、あるのは夢の器の人形だけだ。悲しいな、足音さえ響く。だが、それも今夜で終わり……」
フィブリオの黄金の眼差しが、グラスの酒の上に揺らめく。
「あとはいづる、おまえが応と言えば、それで決まりだ。夢は動く。私とおまえの願ったもの……死者を蘇らせるための船が、走り出す」
「神様を冒涜するために、か?」
「死ねば消える。もう戻れない。そんなルールを勝手に作ったやつに一泡吹かせてやりたいし、そもそも義理立てする必要なんかない。……それがおまえの気持ちだろ?」
「…………」
「そりゃあ激務にもなるだろうさ。死者の管理官というのは。そろそろおまえだって、一休みしてもいい頃だ。私がラクにしてやるよ」
「船の名前は、決めたのか」
「ああ。アリューシャン・ゼロ……“鹵獲された雄”号、っていうのはどうかな?」
「鹵獲……?」
「昔の戦争で、英雄みたいに強い飛行機があったんだが、墜落してしまった。そして敵国に機体の情報を奪われて、自分の国に脅威をもたらしてしまった……もし飛行機に花言葉があれば『無念』とでも名付けられたんじゃないかな。どう思う?」
「いいんじゃないか」
「もう少し、感情をこめて言ってくれよ」
「……死者を蘇らせる。そのために試練を与える。君の構想に不満があるわけじゃない」
不満ありげな顔でいづるは言った。本心はきっと誰にもわからない。彼をずっと隣で見続けてきた者でない限り。
「だが、これは最悪、蟲毒になりかねない。集めた魂を戦わせる。勝手に放置すれば、あっという間に内乱だ。弱肉強食……死者のための決意なんてどこかへ吹き飛ぶ。そんなものは見たくない」
「おまえらしくない言い草だな、ギャンブラー? ま、門倉いづるもオトナになったということかな?」
「見飽きたんだよ、そんなもの」いづるは吐き捨てた。そしてフィブリオを見、
「誰かが誰かを利用する。自分を信じた誰かを犠牲にして勝ち残る。そして僕は今、ここにいる。すべてを捨てて、僕は勝った。そして僕はそんな自分を赦せない。今でも。だから……フィブリオ。僕はこの船を、魔法の船にしたいんだ。僕が見たいものを見れるように」
「その願い、叶えてやるよ」フィブリオは猫のように微笑む。目が線のように細くなった。
「安心しろ。壺に絶望だけ放り込んで蓋をするような真似はしない。死者たち……この船で命を求めて抗うバラストグールの相手は、私がする。ほかの誰にも邪魔はさせない。約束だ」
「ああ、……約束か」
いづるはその言葉の意味を探すように視線を背けた。
「頼んだよ、フィブリオ」
「任せておけ。じゃ、堅苦しくって嫌なんだが……」
フィブリオが一枚の紙片を取り出し、羽ペンと共に少年の前に差し出す。
「契約書だ。一筆、認めてくれるかな? 王様」
「書き順が違っててもいいならね」
くせ字すぎてもはや本人にしか判読できないであろう悪筆を、フィブリオは実に満足そうに受け取った。すぐにジャケットの裏に紙片を仕舞、立ち上がる。
「ありがとう、いづる。私の夢を信じてくれて」
「いいよ、べつに。君が君のままでいてくれれば、それでいい」
「ああ、心配はいらない。もうこの船で、おまえの役目は今、終わった」
胸から拳銃を取り出して撃つ指真似をしてみせて、フィブリオは「チャオ」と言い残して去っていった。出ていき際に「ゆっくりしていけよ!」と叫ぶ彼女に、いづるは力なく手を挙げるだけだった。しばらく、テーブルの木目を眺め続ける。悪役に疲れ果てた舞台俳優のように。
その時、よく聞けば先ほどからガタゴトしていたクローゼットの扉が開き、中からどっと重量物が転がり落ちてきた。いづるはそちらをチラリと見やり、ため息をつく。
「いたのかよ、アルクレム」
「当たり前だ、こんな怪しい話におまえを一人で行かせられるか?」
真紅の絨毯から起き上がり、南国風の花柄シャツを着た男が、ぱんぱんと服の汚れを叩いている。胸ポケットからサングラスを取り出し顔にかけると、浅黒い肌と相まって、まるでこの船の金主のような貫禄が出る。やや背が低いのが愛嬌か。
「いやはや……あの女、何者だ? 人間じゃないよな」
「そんな大袈裟な。僕もよく知らない」
やれやれと花柄シャツの男が肩をすくめる。
「だから嫌なんだ、おまえみたいなのが王様だと。臣下が苦労するんだよ」
「聞いたことがあるよ、いい王様っていうのは、ものすごく頭がいいか、ものすごくバカにしかなれないらしい。僕はラクな方にしたんだ」
「知ってるか? そういう小賢しいことしか知らないやつを、中途半端っていうんだ」
アルクレムはフィブリオが座っていた席にどかっと腰を下ろし、いづるが手をつけていない酒をぐいぐいと飲み始めた。物珍しそうにいづるがそれを見ている。
「彷徨う死者の魂を『回収』する……俺たちの目が届かないところで。いづる、それはつまり、やつがおまえの仕事をするってことだ。それほどまでにおまえは、あいつを信頼してるのか?」
「この船は僕には造れない。だから、欲しいと思えば、彼女を頼るしかない」
「おまえにしちゃ単純な結論だな。それとも、これも一つの賭けってわけか? だとしたら……軽蔑するぜ、賭博師」
「手厳しいね……」
「ほんとのところを言えよ。何か考えでもあるのか?」
「アル、僕はこう思う」
いづるは暖炉で燃え続ける火を見つめながら、言った。
「何も信じずには、生きられない。たとえ、負けるとわかっていても」
「……そうかい」
アルクレムは立ち上がった。サングラスを外し、胸にかけようとしたが上手く差せず、仕方なく再び顔にかける。
「いづるよ」
「……うん?」
「おまえは、大勢の人間を傷つけてきた。そんなおまえが存在すること自体が、冒涜みたいなもんだ。だからおまえはずっとその道を歩き続けなければならない。それでも誰かをまだ信じてみたいって?」
からん、とアルクレムが置いたグラスの氷が揺れた。
「変わったな、いづる」
アルクレムは、笑っている。