蒸気船の王




 肉の焦げる匂いがする。
 食卓にかけられた真白のテーブルクロスは染み一つない。
 どれほど食客が汚し散らかそうとも、すぐに染み抜きが行われ、そのクロスにかつて汚点があったなどと誰も想像できないだろう。
 いつでも新品同然、不愉快さは欠片もなく、最高級の蚕を絞め殺して吐かせた絹糸は貴賓の衣装にこそ相応しい。
 だからといって、食客に品があるものばかりが選ばれるわけではなく、むしろこのクロスは、下劣な主ばかり見てきたと言える。もし感情があれば、彼もしくは彼女は、この世界で食事を摂る存在すべてが耐え難いほどに忌まわしいと思うだろう。

 フィブリオには悪いクセがある。
 それは、食卓に並んだ料理は必ず一口だけ食べて捨ててしまうこと。
 料理人がどれほど腕に撚りをかけて渾身の逸品を拵えようとも、そんなことは彼女には関係がない。
 料理というものは最初の一口、絶妙なソースを上等な適量だけかけられた肉を噛む『あの』一瞬にだけ価値がある。
 噛んで味わってしまえば、もうあとはどれほど噛もうが同じ味。
 たとえ確実に美味であろうと、退屈であれば塵埃よりも味気ない。
 だからフィブリオは、蒸気船内がにわかに殺気立ち、また不気味に静まり返っている今この時ですら、自分の信条を曲げず、殺めたての豚をほどよく加熱したポークステーキを噛んでは捨て、噛んでは捨てている。
 いつも彼女の足元には、青いバケツが常備してあり、本格的に機嫌が悪いと作らせるだけ作らせておいて、料理を味わいもせずにそこへ掃き捨てたりもする。
 だが、たとえそれを見て、かつてその肉料理が誰だったのかを知っている奴隷人形が、異議や反逆を唱えはしない。
 創造主に逆らえる人形など存在せず、また彼女はこの蒸気船の所有者でもあったから。
 ゲームマスターの楽しみは、観戦にある。
 フィブリオはノイズ・キャンセリングのイヤホンを両耳に着け(流行に敏い彼女のことだから、こっそり内地を旅行した時にでも部下に買わせたのだろう)、鼻歌まじりにフォークで刺した分厚い肉をその小さな唇の奥に運んでいく。
 白い八重歯が吸血鬼のそれのように見え、周囲にぐるりと控えた人形たちが身を固くしている――ように見える。
 その中の一人が、おずおずと進み出た。

「フィブリオ様、ご報告が……」
「待ってくれ、今、いいところなんだ」

 フィブリオは犬にするように掌を突き出し、人形を黙らせた。
 石化したように、ディーラー服を着た男は口を半開きのまま、停止する。その瞳だけが再始動の合図を待ち、わずかに揺れていた。

「リザイングルナ……あっははは、彼女は拾い物だったなあ。こんなにも哀れっぽく踊ってくれる子に育つなんてね。だからやめられないんだよ……ああ、喋っていいよ、君。なに?」
「恐れながら、襲撃です」
「ああ、さっきからガタガタいってるこれか」

 フィブリオは床をトントンと革のブーツで踏み鳴らした。何かを掘削するような重低音が下階から響いてくる。

「で、なに。アルクレムが来たんだ、どうせ応援でしょ? 飽きないなあ。私を捕まえてどうする気なんだろ」
「……フィブリオ様は彼らの管轄ではありませんゆえ、厳重注意くらいが関の山かと」
「注意? 面白いね、だったら耳栓しとこうかな」

 フィブリオは記念写真の撮影でもしているかのようにニコニコしながら、ぺっと口の中のものを吐き捨てた。まだ肉のついた骨の欠片が、絨毯で跳ねた。

「人の娯楽に土足で踏み込んで……失礼なやつらだよ、まったく」
「大変申し上げ難いのですが……」
「なに」
「すでに、機関室を制圧されました。家畜化されたバラストグールたちも回収されており、燃料がありません」
「魔法の国の夢の船が何を寝ぼけたことを。どうせあいつのことだから、すぐに船が沈まないように石炭でも置いておいてくれるさ。――まだ最後の挑戦者がリザイングルナと対戦中だ。アルクレムがくっついてるんだから終わるまで邪魔もしないでしょ」

 言いつつ、イヤホンの位置を直す。奴隷人形は顔を伏せた。

「は……確かに。では、どうなされるおつもりで?」
「ここで待つさ」

 フィブリオは血のように赤いワインの注がれたグラスを顔に近づけ、匂いだけ嗅いで後は逆さにして流してしまった。自分の白いスーツに汚れが着くのも気にならないらしい。
 すぐに奴隷人形が跪き、甲斐甲斐しく染み抜きするのを鬱陶しそうに跳ね除けている。

「門倉いづるが私と会うつもりなら、そうしてあげようじゃないか。負け犬の遠吠えくらいには付き合うさ。私には代行者として免責特権が付与されている。死人の名簿屋ごときにお楽しみを邪魔される謂れはない」
「では……このまま、ここで?」
「楽しむさ。言ったろ」

 蒸気船の王はその場で満足げにくつろいだ。



「今、いいところなんだって」


sage