まだ、署内の明かりは暗かった。蛍光灯の一つは消え、もう一つも薄く光っているのみだった。設備の者に文句を言っても、やはり中々変えようとはしない。手元の書類の文字を読んでいると、以前より目が疲れてくる。
ここ一週間ほど、殺しの事件はめっきり減っていた。数か月前に龍門会の会合が襲撃されて以降、闇の勢力が活発化し、一日に一人以上の死体を見る日々だった。
嵐の前の静けさというべきか。近いうちに、必ず大きな騒乱が起こるに違いない。もしくは、自分達が気付くのが遅すぎているだけで、既に始まっているのかもしれない。ウツミは目を擦りながら書類の文字を追っていた。
「おい、どうしたウツミ。陰気な顔をもっと暗くしやがって。」
「貴方こそ、前より顔の黄疸が酷くなったんじゃないですか、シマさん。」
「馬鹿を言うな。俺の肝臓は鋼で出来ているんだぜ。触ってみるか?」
「遠慮しますよ。此方の手まで酒臭くなりそうですし。」
シマは、ふはっと笑うと、鞄からスキットルを取り出した。
「飲むにはまだ早いんじゃないですか?」
「こんな時だから飲むんだよ。運転するときは頼んだぜ。」
スキットルを口に当て、ごくごく、と音を立てて飲むシマを見ていると、此方まで酔いたい気分になってくる。だが、昔のシマはこうではなかったらしい。
早くに両親を失ってから懸命に努力を重ね、千寿署の刑事となった。当初は正義感に熱い警察官だったらしいが、ある事件を機に希望を失ったという。シマの話によれば、子供が被害者の事件だったらしいが、多くは語らなかった。
シマはまるで熟れた柿の様な香りの息を吐くと、やや伏目がちにウツミを見た。
「なあウツミ、俺は最近、何か嫌な予感がして仕様がない。」
「同感です、シマさん。私は貴方が倒れて入院しないか心配です。」
「これは冗談じゃねえ。刑事としての勘だが、近いうちにとんでもない事が起こる。まるでパンパンに空気の詰まった風船が弾けるような、そんな事が突然起こるんじゃないか、ってな。」
「ここ一週間が余りにも静か過ぎる、という点で私も違和感を覚えます。もしくは――」
もう始まっているのかもしれない、とウツミは言いかけて止めた。龍門会襲撃、六文組の刺客、ライゾウと名乗る男の言葉、全ての線がある一点へ収束していく様な、嫌な予感を禁じ得なかった。
そのとき、ウツミは頭が真っ白になる感覚に襲われた。何か恐ろしい者達が、遠くから此方の動きを伺う様な鋭い気を感じた。これに似た感覚を、ウツミはコーポスとして嫌という程に味わってきた。だが、それらの比ではない。まるで狼の群れに襲われる羊となった感覚に陥った。
「お前も感じたのか? ウツミ。」
ウツミが正面を見ると、顔面が蒼白となったシマがいた。先程までの火照った顔が嘘の様に、蟀谷の方まで血の気が引いていた。
「存外、早く来ましたね。それも、突然に。」
「奴さんら、思い切った事をしやがる。」
ウツミはシマと目配せすると、机下から拳銃を二丁取り出した。
「五十口径のブローバックか。設備の連中、こんな所ばっかりに金使いやがって。蛍光灯を変えろってんだ。」
「武器庫に行く時間はありませんし、これで我慢してください。」
シマがまた悪態をつこうとした時、轟音と共に床が揺れた。暫くすると、下の階から発砲音と共に、断末魔に似た悲鳴が聞こえてきた。ウツミは机を廊下に向けて倒すと、その陰に身を潜めた。
「爆薬まで使っていやがるのか。奴さん、本気で此処を潰すつもりだな。」
「下の階はもう駄目ですね。この階で食い止めるしかなさそうです。」
スライドを引いたウツミを見て、シマは意を決したようにスキットルの口を開けると、ごくごく、と音を立てて一気に飲み干した。
「こんな時でも飲むんですか?」
「馬鹿野郎、こんな時だから飲むんじゃねえか。」
ウツミは苦笑いを浮かべると、机の隙間から廊下を見た。
誰かが階段を駆け上がってくる音が聞こえる。下の階はやはり鎮圧されたらしい。
シマの言う通りだった。その日は唐突にやってくる。漫画やドラマの様な伏線など張る暇などなく、突如日常に降りかかる。それが幸福であろうと不幸であろうと躱しようがない。
階段を上がって来た男を、シマが撃ち倒した。男はもんどり打って階段を転げ落ちていった。
「見ろ、酔っていても当たるもんだ。さあ、来やがれ。」
シマがにっと笑った時、階段の向こう側から微かな音が聞こえた。