Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-08-

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 あ、と声を上げたのは鱗道であり、猪狩は高い口笛を鳴らした。クロの嘴によって三角形の破片が捲り上がろうとしている。ほんの少し浮いた隙間を継ぎ接ぎの痕跡が伸びて繋いでいた。まるで――
「なんだ? ゴムみてぇだな」
 猪狩にも見えているものは言葉通りゴムのように伸びて、破片を引き剥がされまいと抵抗しているかのようだ。色は周囲の破片と同様を装っているが、無理に伸びている部分は鱗道には薄らと透けて見える。クロが更に持ち上げよう、引き剥がそうと重心を後ろに下げていくのにあわせ、壺の破片を繋ぐ抵抗は激しくなった。周囲に溶け込む色合いを諦め無色透明になり、塊が解けてクラゲの触手に似た細いもので破片にしがみつく。その陰影は、猪狩の手から指輪を抜き取った物と全く同じ物である。
 シロのヒャン! という強めな声は、悪意などない無邪気な、
『やっと出て来た!』
 という、歓迎の声である。だが、急な吠え声に鱗道が驚いたように、触手の持ち主も驚いたようだ。触手が急にばらけ、破片を手放して壺の中へと引っ込んでいく。クロは壺の抵抗を急に失い、引き剥がそうとする勢いそのままにあわや壺からひっくり返って転落、というところで、
「おっと」
 咄嗟に伸ばされた猪狩の右手をクッションにして免れた。仰向けに受け止められたクロは猪狩の手から転がるようにして下りると、机を三回足で掻いてから鱗道の肩に飛び乗る。嘴に破片を咥えたままであったから、音を立てる手段を足で引っ掻くしか思い付かなかったのだろうが、届かない声に変わる礼の仕草にしては繊細すぎて猪狩が気付いた様子はない。
「急に破片が取れたな。なんだ? 力尽くで取れるもんなのか」
「ただの力尽くじゃない。シロの鳴き声に驚いて離したんだ」
 鱗道の言葉を聞きながら、猪狩が欠けた壺の口に指の腹を当てる。クロに続こうとしているのだが、やはり少し浮き上がるばかり。先程同様、周囲の色に溶け込んだ触手が絡まり、破片を留めようとしている。
『ねぇ! お話ししようよ! 聞こえてるでしょ!』
 きっと、シロには鱗道よりもはっきりと触手の姿形が見えているに違いない。鱗道や猪狩を押し退けて、壺の口に向かってシロとしては友好的に語りかけている。が、触手はシロの吠え声を聞くと驚くように引っ込んでしまう。
『また引っ込んじゃった』
 耳が頭周りの毛に埋もれるように伏せられる。シロの鳴き声は子犬のようであるし、言葉もまた幼稚で拙く、舌っ足らずなときもある。が、それは人間基準の判断であろう。壺にとっては少なくとも――壺の中に入っている以上は――自分より大きな相手が、自分に向けて大声を発しているのだから驚くのもやむを得ない。なんなら、驚くと言うより怯えているのかも知れなかった。真珠の小瓶も猪狩の指輪も、シロが離れているときに動きがあったのだから。
「お、剥けた。ゆで卵剥いてるみてぇだな」
 小さな破片が取れると、また猪狩は別の破片に指をかけ出す。そうすると触手が絡んで、語り合おうとシロが吠え、間隔は開きつつも指先で剥がされていく大小の破片はまさしく、卵の殻のようであった。
『壺が歪む、ということは壺が壊れていなければ成立しません。何が、どのようにして壺の形状を保っていたかまでは不明なままでしたが――成る程、あのゴム状の物が、貴方の仰った妖器物の正体ですか』
 クロの硬質で冷静な語りに、先程自分がふと呟いた単語が混ざっている。鱗道は右手で鼻の頭を掻いて、
「……それは……まぁ、そう、だが……ちょっと大袈裟だったな」
 と、クロに向かって呟いた。気恥ずかしさを隠していない声である。その単語を使わないで欲しいという鱗道の願望は伝わろうが、
『分かりやすく、端的で、私としては好ましいのですが』
 やはり淡々と返されると、鱗道は二の句も紡げない。少しの沈黙を挟み、クロの嘴が鱗道の視界に入り込んだ。咥えられたままの破片を受け取り、手の平で転がす。やはり、何の変哲もない壺の破片だ。
『私や猪狩晃のように〝彼方の世界〟の感度が低い者にまで壺が割れていないと誤認させたのは、一体どのようにしていたのでしょう』
 クロの疑問に対し、鱗道は見てきた光景から考える。透明な細い触手、色真似をした凹凸、割れているのに割れない壺――
「中から、繋いでるんだろう。欠けたところやひび割れに自分の触手なんぞを埋めたり、くっつけたりして。猪狩の手首まで入ったのは想定外で、相当な無理をしたんだろうな……それで、壺が凹むのをシロやクロに見られたり……剥がされたりするのに抵抗して、色真似を解いてまで掴もうとした」
「お前が言ってんのは、壺の説明か?」
 鱗道の言葉が耳に入っていたらしい猪狩に頷き返す。シロは相手の無反応に気落ちしてすっかり耳も尻尾も垂らして黙ってしまい、猪狩の手は止まっていた。
「壺の内側で繋いでる奴がクッションになってるから、壺を割った感触があっても中の手には手応えがなかったんだろう。やってることは、シロの顕現と変わらん――となると、やっぱり随分と強力な手合いだな」
『それ程強力な相手にしては、シロの吠え声に反応して手を引くのが不可解ですね』
 首を傾ぐクロは理解出来ないようだが、鱗道は正体不明な相手に対し若干の同情を抱いていた。壺に長く引き籠もって、こそこそと小物を集めるような相手である。ずっとそうしてきた所で、威勢の良い相手に活力一杯で語りかけられても返事に困り、反応に困り、一歩引いてしまう――そう推測出来る正体不明の態度には、共感すら持てるのだ。
「そこまでして壺を守ろうっていう理由は分からんが……性分なんだろうよ」
 性分が絡むと力の強弱は関係ない。シロとクロで言えば、物理的な力も〝彼方の世界〟に対する影響力もシロの方が圧倒的に上である。双方とも分かっているし揺るぎない事実だ。しかし、クロは冷静な声と言葉選びに反して我が強く、シロに対して行動も意見も躊躇がない。シロは強力な力をクロに対して振るわない。守る為に得たものだからだ。シロとクロにあるのは力の強弱で決められた関係性ではなく、性分が形成した兄弟に似た関係である――この考えを、クロに言えばどちらが兄で弟なのか、そもそも性別は云々と講釈が始まるだろうが。
「まぁ……やってることがやってることだ。話が聞ければ理由も分かるだろうがなぁ」
 あとはどう、聞き出せば良いかである。シロに対しては語ってくれないようであるし、クロでは問い詰めてしまって、相手の性分を考えると難しそうである。
『理由。ああ、壺の強固な維持や光り物の収集に関してですね』
「そう……うん? 光り物?」
 あ、とクロが珍しく無意味な音を発した。相手からの無反応にしょげていたシロを焚き付けていた猪狩が顔を上げ、
「お、やっと聞いたか。ってことは、俺の推測もビンゴってか」
 と、ニヤリと笑う。鱗道の顔を見ているが、左肩にはクロが乗っているのだ。笑みがどちらに向けられたかは分からない。クロは嘴を閉ざし、鱗道から顔を遠ざけるようにそっぽを向いている。意図して黙っていたということだろう。
「……黙ってたのか」
 クロに対する呟きは責めるために発したものではない。クロが黙っていたのには何か理由がある筈で、その理由はクロには正当なものであるという信頼がある。確認であり――ただ、呟かずにいられなかった一言でしかない。が、一度背かれた嘴がまた鱗道と同じく前を向いたとき、
『申し訳ありません』
 軋みを伴う謝罪の言葉を聞いて、鱗道は言葉に窮した。クロの声に混ざる軋みの詳細は分からない。が、後ろめたさを覚えているかのように聞こえたのが実情だ。追及するつもりなど全くない。だからこそ、
「おい、もし痴話喧嘩してんだとしたら後にしろよ」
 軽い口調で、わざとらしく、あえて茶化すように言った猪狩の言葉に、少なからず救われたという気持ちがあった。深刻さが薄れる空気に乗って、
「そうだな。クロの判断だ。俺には大した話じゃない」
 クロのいる左肩へ、頭を傾けながら言った。口の中で語るような、不明瞭な声にも多少の抑揚を付けてみる。普段、鱗道やシロに誤解が生じにくく、伝わりやすいようにとクロがしている気遣いを真似たものだ。
「それで……なんだ。光り物、か?」
「壺が向こうで集めたモンは、ボタンに金属、玩具の宝石やビーズだろ? んで、真珠に指輪。価値は関係無しに、全部光りモンだ。ま、鼈甲のブローチってのが、断言するには弱ぇんだが」
 猪狩が右手で指折り数えながら得意げに語り、最後は首を傾げる。猪狩の言葉が気持ちを切り替える切っ掛けになったのは鱗道だけではないらしい。
『鼈甲には蒔絵や螺鈿が施されることもあります。それならば充分、目を引く光り物として扱えるでしょう。ただ、集める理由には思い当たりませんが』
 猪狩の言葉に付け加えるようなクロの声は、常の硬質さのみに満ちている。鱗道が見様見真似――クロに言えば、聞様聞真似と直されそうだが――は伝わったらしい。ずっと直されない、乱れた羽毛の頭が、鱗道の左頬に軽く当てられた。
「ああ……鼈甲には蒔絵や螺鈿の細工もあるらしいぞ」
 クロの言葉を聞いた左頬から、そのまま言葉を通訳する。猪狩は仰々しく片眉を上げて、蒔絵や螺鈿? と繰り返した。
「そりゃァ、あるが……俺等より一世代上にしても、鼈甲細工のブローチなんざ、ちょっと古臭くねぇか?」
 猪狩の言葉に、そう言われればと考え込む。相手は都会の一等地に邸宅を構えるような相手だ。価値観や美的センスが違うのもあろうが、今は鼈甲そのものを見掛けない。が、鱗道の思考はそこで止まった。歳に見合わぬものだとして、それがなんだというのだろう。猪狩は元の職業柄、そう言ったものが気になるのであろうが鱗道には些末どころか問題にもならない。
「俺には無関係な話だ……お前の手をどうにかする方が先決だしな」
 鱗道の言葉に、猪狩は忘れていたと言わんばかりに目を見開いた。先程は気が緩むと手が解かれそうだと言っていたが、中身が壺を守ることに腐心しているためか中の攻防もないのだろう。違和感や痛みがないというのであれば、幸いではある。

「おい、シロ。お前、さっきから黙りやがって。また吠えてくれよ。お前が吠えねぇと剥がれねぇんだよ」
 机に前足と顎を乗せ、じっと壺に鼻先を向けたままのシロを猪狩が軽く小突く。が、シロには軽く程度では通用しない。猪狩も知っているはずだがそれでも軽くで済まされたのは、シロの耳がピンと立っていたからだ。
 シロの鼻先がふしゅふしゅと、息を漏らすように小さく鳴いている。鱗道にも聞き取れない程の声であった。間隔が一定ではないのは会話をしているからだろうか。周囲が黙ったからか、ふっとシロが顔を上げる。キョロキョロと周囲を伺った後、鱗道を見上げて、
『あのね、やっと少しお話し出来たの。とけるから、やなんだって。ただ、凄く聞き取りにくくて』
 意思疎通が叶ったことが余程嬉しいのか、紺碧の目には光が戻っている。ひゃんひゃん語った声は、あっ、と更に小さく声を重ねて、
『あと、普通の僕の声だとビックリしちゃうみたいで……どうしよう』
 と、ボソボソ呟く。シロの鳴き声が息を漏らすようなものであったのは、壺の中身と会話するためであったようだ。鱗道が黙り、シロが鳴き止むのを見計らった猪狩が、どうした、と聞いてくる。鱗道はシロが語ったことを殆どそのまま口にした。クロの言葉と違ってシロの言葉は解釈の必要がない。聞き取りにくいが会話が出来たこと、ただシロの声に相手は驚いてしまうこと等をそのままに語り、
「まぁ……前にも経験があるが、シロだけと意思疎通されても情報を得るのはややこしいんだ」
 と、鱗道は顎を掻いた。シロとしか会話が成立しない相手とやり取りをした時、それはもうクロと共に苦労したものである。シロの語彙の無さや感覚頼りの言葉をああでもないこうでもないと試行錯誤して、なんとか結論に辿り着いたときにはクロと共に達成感を味わったものだ。
「んじゃ、お前が聞きゃぁいいじゃねぇか」
 思い出に浸っていた鱗道を引き戻したのは、猪狩が鳴らした指の音である。猪狩が何を言おうとしているのか鱗道はすぐに理解出来ず、
『シロの耳を借りれば、貴方にも聞き取れるのではないでしょうか』
 クロの言葉でようやく合点がいった。成る程、妙案である。鱗道の声は低く、掠れ、小さい。口の中で喋るからか大抵からは聞き取りにくい不明瞭も〝彼方の世界〟にとっては無関係だ。問題は二つばかりあって、一つは、
「シロ。相手の言葉は……その、俺にも分かる言葉か?」
 シロとしか会話が成立しない相手、というのは声の小ささもあるが相手が人間に通じる言語を持たなかったのが要因であった。〝彼方の世界〟の感覚でのみシロが会話を成立させていたのである。今回の正体不明もその手合いであれば、鱗道に声が聞こえたとしても会話は成り立たない。
『うん。言葉でお話ししてるよ』
 シロはすぐに頷いた。こうなると残された問題は一つだけ。猪狩を見下ろし、
「猪狩。俺がいいって言うまで、目を開けるな。それと、机の下に潜り込んだシロを覗き込むなよ」
 今度、言われた言葉を理解出来ないのは猪狩である。
「はぁ? どう言うことだよ」
「色々なモンに目を瞑れ、って意味だ。とにかく、まずは本当に目を瞑ってくれ」
 鱗道の説明は役目を果たしていない。が、猪狩は渋々目を瞑る。鱗道が説明を放棄して強引に話を進めるときには従わねば進展しないことを理解しているのだ。鱗道は猪狩が目を瞑ったのを確認してからシロを呼んだ。
「シロ。耳を貸してくれ。そして、その後、耳を返すまで机の下にいてくれ」
『貸すのはいいよ。でも、どうして?』
 シロの疑問に鱗道が答えるのを躊躇う数秒の間、鱗道の肩から机の上に飛び移ったクロが、
『鱗道に耳を貸した貴方は頭がごっそりなくなってしまうでしょう? 幽霊を好まない猪狩晃にそれを見られれば……ああ、シロ、貴方は、二度と構って貰えないかもしれませんね』
 と、鱗道に代わっての説明だが、特に最後は仰々しいまでの抑揚が付けられていた。怪談話でも聞いたかのようにぶるりと震え上がったシロには悪いが鱗道にとって重要な助け船だ。同じ内容を語ろうとしても、鱗道の声は猪狩に聞こえてしまう。と、なれば猪狩はシロの首無し姿を想像してしまうだろうし、目を瞑らせた意味がない。
 シロの『それはやだ!』とキャン! という声が鱗道の耳には重なって聞こえた。シロの鳴き声だけ聞こえた猪狩が「おい、何があった」と尋ねてきたがまだ目を閉じていろと伝えるだけに留める。
「分かってくれるか、シロ」
 シロは頭を大きく上下に、何度も振った。鱗道がシロの頭に手を置くと、雪が溶けるようにシロの頭が小さく透けていく。白い毛玉の塊が、鱗道の手の平から腕を登り、肩を登り、首を登って頭に到達する。背後に耳を引かれるような違和感を越えてしまえば、鱗道の耳は非常に細かな音を拾い始めた。机上に立つクロが僅かでも動けば機構の駆動音を、猪狩が手持ち無沙汰な右手で机を小刻みに叩く音を、そして――壺の中で、細かなものが擦れあう音を。
『さぁ、シロ。机の下に』
 鱗道に頭を貸したシロの元気のいい返事は、鱗道の頭の中から響いている。鳴き声は当然、無い。クロの嘴が鱗道を向いていることから、クロにも鱗道の頭からシロの声が聞こえているのだろう。クロに促された首無しであるシロの体は、猪狩の足を掠めながら難なく机の下に潜り込んで伏せた。
『以前も思ったのですが……この状態のシロは視界もないでしょうに、何故平然と動けるのでしょうか』
『えっ、なんとなく?』
 やはり、返事は鱗道の頭の中に響くだけだ。クロが口にしたことで、鱗道も同じ事が気になり始める。シロの頭が鱗道に貸されている以上、視界も共有しているようなものだ。鼻もきっと鱗道にある。が、視覚も嗅覚も聴覚も失ったはずのシロの胴体はなんの支障も感じさせない。気にはなるが、鱗道は疑問をぐっと堪えた。シロは〝彼方の世界〟の存在だ。ただの人間である鱗道の理解を超えた存在である。そう飲み込んでおかねば思考の泥沼に沈んでいくだけだ。

       

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Neetsha