Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-09-

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「猪狩、目を開けていいぞ。ただ、机の下は覗くなよ」
「無駄に念押しすんなよ。気になるだろうが」
 鱗道の許可を得て目を開けた猪狩は、机の下を覗きはしなかった。が、鱗道を見上げて、おっと声を上げる。
「お前、なんか頭がぼやけてねぇか? ……なんか、見覚えあるな」
 考え込むように目を細める猪狩に、鱗道は肩を竦めた。シロの力は、鱗道の外側から被るように借りるものだからいくら鈍い猪狩にも薄らとぼやけて見えてしまうらしい。クロにはもっとはっきりと、シロから借りている輪郭が見えているはずだ。
「シロから耳を借りてるんでな、それだろう」
「……イヌモードか!」
「その言い方は止めろ」
 物事をよく覚えている男である。以前――十年以上前、シロに諸々を借りた鱗道を見たことを思いだしたのだ。その時に猪狩は蛇神の力を降ろすことをカミサマモード、シロに力を借りることをイヌモードなどとのたまった。挙げ句、恐らく、本気で、羨望と憧憬を抱いたようである。それは十年経った今でもさして変わらず、茶色がかった瞳の大きな目を爛々とさせて見上げてくるものだから、
「お前には無理だ。諦めろ」
 と、鱗道は無性に切ない気持ちできっぱりと言い切ってやった。猪狩の表情が明らかな落胆に変わる。同い年にしてこの感性、との嘆きをぐっと堪え、
「会話が出来るかもしれん。が、シロの耳を借りなきゃ聞こえんほどの声だから」
 と、沈黙を要求したが、言葉途中で猪狩は右手の人差し指を己の口元に当てて見せた。最後まで言わずとも、という察しの良さには助けられている。他の所で、多分な苦労をかけられている気もするが。
 さて、と鱗道は壺を見下ろした。壺の中からは確かに、小さな音が聞こえている。だが、今聞こえているのは音である、と断言が出来た。細かなもの――金属やプラスチックなどが僅かに壺の内側を擦る音だ。声のように抑揚もなければ、感情や意思も感じさせない。
『ちょっと待ってね』
 シロの声が聞こえた直後に、頭の中を占めたのはノイズである。古いテレビの砂嵐と今時の不快な電子音と耳鳴りを混ぜてボリュームの大小を弄られ続けているような、慣れる気のしない不快な音だ。思わず顔をしかめたが、クロも猪狩も黙ったままでいる。次第に、ノイズの中に声が聞き取れだした。
『いぬ、ほえるの、やめて。こえ、こわい。きこえてる、し、きこえる、でしょ』
 奇妙な声であった。片言であるが、シロのような幼稚さはない。ノイズにあわせて声量は変化しているが、ふとした瞬間に明瞭に聞こえるようになる。まるで、ラジオの周波数を合わせているかのようだ。シロが待ってと言ったのは、この周波数を合わせる作業のためだろう。
『いれもの、こわすのも、やめて。おれ、うつわ、でたら、からだ、とける』
 声の響きというのも、また特殊であった。明らかに〝彼方の世界〟の声ではあるし、幾度か出会った精霊やその類いに似た響きではある。だが、自然物や人工物に宿った精霊と違って、声に質感や匂いを感じない。壺から出ていた触手が無色透明で陰影しか見えなかったように、声もまた無味乾燥と言える。
『とけるの、いやだ。だから、いれもの、こわすの、やめて』
 視線を、壺の傍らに立つクロに向けた。シロの耳を借りているから、クロの内部で液体金属が機構を動かし、絶え間なく流動している音まではっきりと聞こえてくる。クロは複雑な機構を動かして嘴を一度鳴らした。
『辛うじて聞き取れています』
 先ほどまではシロや猪狩、鱗道が絶え間なく喋り、クロ自身も壺から離れた場所にいたのである。周囲が静まりかえり、壺に触れる程接近することで、ようやくクロにも聞こえだした、ということだろう。鱗道もシロの耳を借りずとも、壺に耳を付ければ聞こえただろうか――そのままの状態では、会話をすることに支障がありそうだが。
「話が出来れば、無理に引っ張り出すつもりはないし、もう犬は吠えんよ」
 鱗道は努めて静かに、抑揚も少なく、声量も落として壺に向かって語った。壺の中では物の擦れる音が数秒激しくなり、
『いぬ、吠えない? いれもの、壊さない? 本当?』
 無味な声が恐る恐る返事を寄越した。ノイズが全て消えないのは、これ以上の調整は難しいと言うことだろう。だが、会話に支障はない。
「本当だ。俺は、中の物を返して欲しいだけだ。ブローチとか指輪とか」
『ぶろーち、このキラキラか? ゆびわ、この手の中の、か?』
「ブローチは……多分そうだ。なぁ、その手、邪魔だろう? アンタを引っ張り出そうってわけじゃないんだ。引き抜かせてくれ。指輪は、渡せんが」
 口籠もるような間と、音。鱗道は答えを急かさなかった。この手の相手は、急かせば急かすほど黙ってしまう。ひたすらに待つのが最善手だ。実際、十秒と少し待てば、
『手、抜くと、いれもの、壊れそう』
 と、落ち込んだような、恐れるような響きで声が返って来る。ちらりと壺の口を見た。猪狩の手首を飲み込んだ壺は、内側から懸命に繋ぎ止められている。入るときは一瞬で、かつ物の弾みであったのだろうが、現状以上に広がってしまうと繋ぎ止める限界を迎えてしまうのだろう。
「……入れ物から出ると溶ける、って言ったな。その……アンタは、何者なんだ? 幽霊じゃないし……付喪神でもないよな? 精霊、なのか?」
 壺の中からはそわそわと落ち着きの無さが伝わってくる。会話だけで全て穏便に解決という路線から、鱗道は横道に逸れるように会話の内容も変えた。
『おれ、何か? せいれい、ちがう。ゆうれい、ちがう。つくもがみ、ちがう。おれは、おれ。こういうもの』
 返事に淀みはない。また、頭の中ではシロが、
『うん、そう言うのじゃないよね。僕が知ってるのとは違うもん』
 と、同意を重ねる。眉間に皺を寄せる鱗道に、
『形容しがたいもの、魑魅魍魎、不明瞭な存在。鱗道、貴方の予想通り、相手は妖怪と称するのが正しいのでしょう。猪狩晃の引用になりますが、引き籠もった様から仮称するならば妖怪、〝蛸壺〟と言ったところで――鱗道、貴方の言葉は大袈裟ではなく、まさに妖器物であったのですね』
 と、クロが締めくくった。鱗道の眉間の皺はますます深くなったが、クロの声は非常に満足げである。鱗道が壺から目を離し、クロに視線をやったからだろう。猪狩が「おい」と呼び掛けた。非常に小さく繊細な〝彼方の世界〟の声を聞いていた耳には、聞き取りやすい快活な声は棘じみている。鱗道が呻いたのを見て猪狩が片眉を上げたが、鱗道は猪狩に手を振りつつ壺に視線を戻した。
「入れ物から出ると、溶けるのは分かった。それが嫌で、壺から出ないってのもな。じゃぁ……なんで、そんな小物ばっかり集めてる?」
 あえて壺――〝蛸壺〟の答えを繰り返したのは猪狩に対する説明も兼ねてである。猪狩には鱗道の声しか聞こえていない。断片的な、しかも質問だけしか聞かされないというのは、猪狩でなくとも堪える状況だろう。
『おれ、キラキラ、いっぱいにしたい』
 〝蛸壺〟の返事は、今までのやり取りと少し変わって、
『キラキラ、おれ、好き。いっぱいあるの、好き。俺、キラキラ、いっぱいにしたい。けど、こん中だと、キラキラしない。外じゃないとキラキラしない。けど、外でると、おれ、とける。とけるのは、いやだ。いやだぁ』
 やや口早で、抑揚に溢れ、感触や臭いはないが意思と執着に満ちている。鱗道に感じ取れなかっただけで、この偏執的な願望こそが、〝蛸壺〟を存在たらしめている核なのだろう。
『これは厄介な問題ですね』
 クロの言葉は、鱗道の思考と合致する。〝蛸壺〟は光り物で満たされたい願望と存在し続けたいという意思が完全に両輪となっている。片方だけでは不満であって、以前、何らかの手段で箱に閉じ込められたときにはさぞ飢えたことだろう。壺が光を通さない以上、光り物を引き込んでも満足が出来ないことは承知している。だが、入れ物からは溶けてしまうから出られない。
 壺をどうにか無理矢理壊してしまって、〝蛸壺〟を溶かしてしまえば解決はするのだろう。が、考えている最中も、鱗道は左手で首の裏を掻いている。どうにも――若さがないからか、ただの受け身を止めてからか――原因を排除するだけで問題解決、というものは好かなくなった。生命や身体に有害でなければ尚のことである。互いに距離感を考え、何らかの取り決めを守ることで双方が一定の満足を得られれば、それこそが鱗道の望む問題解決なのである。
「随分とまァ、ややこしいことになってそうだな」
 猪狩の苦笑混ざりの声は、本来鱗道には聞かせるものではなかっただろう。シロの耳を借りて聴力が良くなっている鱗道であったからこそ、聞こえてしまった声だ。鱗道の左手を見ての言葉は、どこか沈痛で、やるせなさに満ちている。
『ねぇ、ねぇ、君の入れ物って、壺じゃなきゃダメなの?』
 ずるっと鱗道の顔半分から、シロが頭を覗かせて語る。シロの疑問は素朴な物だった。鱗道が思わず左手で顔を押さえるが、何の抑制にもならない。
『おれ、うつわの中なら、いい。この入れ物の前、ちがう入れ物にはいってた』
 シロの言葉に吠え声がないからだろうか、〝蛸壺〟はすんなりと返事を寄越す。じゃぁ、と跳ねた声に、鱗道は咄嗟に耳を塞いだが、やはり、なんの効果もない。
『じゃあさ、キラキラしてるの好きなら、光がダメってことじゃないよね? 透明でもいいよね?』
『おれ、光、好き。キラキラしてるもの、好き』
 シロの頭がずるずると、鱗道の顔から離れて腹に下りていく。耳をまだ借りているから、引っ張られるような痛みがあった。シロは鱗道の腹から口吻だけ伸ばし、〝蛸壺〟に向かって、
『じゃぁ、交換しよう!』
 と、言い出した。
『こうかん』
 と、〝蛸壺〟はシロの言葉を無味乾燥な声のままに繰り返す。意味が通じていないのではないか、という懸念は、
『そう! キラキラでいっぱいの入れ物を持ってくるから、それと交換してよ!』
『持ってきたもの、みてから、かんがえる』
『それでいいよ! じゃあ、ちょっと待っててね!』
 無用であったらしい。言い出したシロの声は自信に溢れているが、鱗道は勿論、クロですらシロの思考に追い付いていない。二人を差し置いて、〝蛸壺〟とシロで話は決まってしまった。
 机の下からシロの体がするりと抜け出て、鱗道の腹から突き出ていた頭がくっ付き、また見た目上ただの白い犬に戻って行く。シロの頭はすかさず鱗道のシャツを咥えると、
『ほら! 鱗道! こっち! こっち来て!』
 と、ぐいぐいと力任せに引っ張り出した。
「おいおい、なんだ。シロの奴――……つーか今、シロの頭、あったか?」
「あー、えっと、それは、あれだ……目を瞑ってくれ」
 猪狩にとっては急展開だろう。が、猪狩のみならず鱗道やクロにとっても急展開である。シロの頭の件は濁してみたが、鱗道が他に何を言えばいいやら分からぬまま、引きずり倒されるのは勘弁だと机にしがみついていると、
『シロ。先に説明をしてください』
 と、クロが机の上からシロを覗き込んで代わりに問うた。しかし、シロはシャツの裾から口を離さず、
『見た方が早いよ! 僕、説明下手だもん! すぐあっちにあるし! 早く早く!』
 幽霊の体重というのも可笑しなものだが、シロは顕現しているときには大型犬相当の重さを持っている。その全体重をかけるようにして、シロは鱗道を引っ張り続けた。シャツの生地か縫い目か、糸がプツプツと切れる音が聞こえた気がした。
「おい、シロ、交換ってのは」
『いいから! 早く! あっち! 居間! きっと大丈夫だから!』
 シロの意見に反対しているわけではないのだから、机から手を離すつもりではある。が、なにせシロが引っ張るのを止めないのだ。だが、抵抗の限界はもう近い。机を手放す前に、呆気に取られっぱなしである猪狩に、何らかの説明はどうしても言い残さねばならないだろう。
「猪狩、その、シロが解決策を思い付いたみたいで――」
 が、語っている最中に抵抗の限界を迎えた。鱗道の手は机を離れ、盛大に蹌踉けた勢いで壁に額を打ち付ける。事態にシロもようやくシャツから口を離してオロオロと鱗道の足下を右往左往し、クロの盛大な溜め息が聞こえたのは鱗道とシロだけだ。が、クロの溜め息を吐く仕草そのものは猪狩にも見えている。
「おい、呆れてやんなよ」
 つい先程までは呆気にとられる一方であった猪狩の声はすっかり笑みが勝っていた。大きく肩を震わせて、笑っているのを隠しもしない猪狩は、鱗道が顔を上げると、
「いいぜ。話は後で聞くからよ、まずは行ってこい」
 肩を震わせたまま、空いている右手を振って鱗道を送り出した。
「すまん。ああ、クロ、お前はここにいて、何かあったら知らせてくれ」
 鱗道はぶつけた額を抑えながら猪狩に背を向ける。
「居間、だったな」
 と、シロを促せば狼狽えていたシロの耳と尻尾が真っ直ぐ立ち上がって、鱗道の先導をするように走り出した。背後にはまだ、猪狩の笑い声が聞こえている。
 ふらつきながら鱗道が居間に辿り着くと、シロの前足はシンクにかけられ、大きな頭は中を覗き込み――
『ほら! これ! これならキラキラしてるでしょ! 僕だと出来ないから、鱗道、やって!』

       

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Neetsha