Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-02-

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 鱗道が古い机に辿り着いた時には、シロが両前足を机の上に乗せていた。鼻先をぴったりと机に付けている。クロには少しでも風が通るようにと居間の窓を開けるように頼んでいた。シャッターは閉じたままだが店の扉も開けてあれば一応、店内にも風が抜けるはずだ。滲む汗をシャツの首回りで適当に拭きながら机の上を見下ろす。シロの頭の動きからして、何かは机の上を動き回っているようだ。シロの鼻先が、机を囲む棚の影に向いた時、鱗道の目にぼんやりとしたものが見えた。はっきりと姿形が見えたのではなく、影が薄れたように見えたのだ。
「おい、クロ。すまんが、こっちに来る時に灯りを消してくれ」
『了解しました』
 居間からの返事から間もなく、店内の灯りが消された。鱗道には殆ど真っ暗であるが、薄明かりのように傍らのシロがぼんやりと光を放っている。そして机上にはホタルのように、最大直径五センチ程の、本当に微かな光がゆっくりと明滅していた。
「暗いと少し見えるな」
 また、机上という近さもあって、鱗道の感覚に届くものがある。何かが動く度に足音のように立つ軽石をぶつけるような音と、小ささ故かぬるま湯のような温度だ。だが、この小ささでも温度を感じるとなれば、一概に弱い存在とは呼べそうにない。
『私には見えぬままですが』
 クロの羽音が側に聞こえ、鱗道が右肩を開けばクロが着地する。顔を大きく乗り出しているようだが、クロの顔は鱗道の視線やシロの鼻先と同じ向きを見ることがない。机上のホタルに似た光は、クロの優れた視覚機構では捉えられない、彼方の世界の光であるというわけだ。
「俺もぼんやり見えるくらいだしな……クロには見聞きが一切出来んか」
『貴方にも声が聞こえるのですか?』
「いや、今の所は動く音だけだ」
 微かな明滅と軽石の音は、机上にて鱗道やシロの前を行き来し始めていた。シロの鼻先で少し躊躇ったホタルのような光は、腕を組んで椅子に腰を下ろした鱗道の前にて動きを止めた。
 短い風切りの音、と言うべきか。か細く甲高い音が、頭の中に届く。光がシロに言われてジャンプした時の軽石のような音とは違い、音の高低、緩急、区切りはあるが、言語らしいものは全く聞き取れない。黙って光を見下ろしていると、か細い音もだんだんと間隔が広くなり、明滅もまた弱々しくなっていく。
「……どうしたんだ?」
『鱗道に通じてなくて困ってるみたい』
 頭に届く音なれど、じっとか細い音を聞こうと耳を澄ませていたものだから、特別大きな訳でもないシロの声に肩が跳ねる。一切の見聞が出来ないクロが鱗道の肩から離れて机の端に着地した。
「通じてない? じゃぁ……あれで喋ってるのか? おい、シロ。お前はこの……光? の言葉が分かるのか?」
『言葉?』
 鱗道に尋ねられ、シロは机に顔を擦りつけるように首を傾ぐと、
『ううん。言葉は分かんない。でも、何となく分かるよ』
 と、鱗道の顔をしかめさせる返答をした。
『言葉が分からないのに、何となく分かるとは全く理解できませんが』
 そして、表情があれば同様に顔をしかめただろうクロが、淡々とであるが困惑を滲ませた言葉をシロへと返す。クロに言われたシロは目を強く閉じた。なんとか伝える言葉がないかと考え込んでいるようである。
『うーん……でも、分かるの。お山にいた時も時々いたよ。こういうの。鱗道とかクロとは違って……なんかこう……なんか……分かるの……』
『何の説明にもなっていませんよ』
「……いや、そうでもないぞ」
 シロの言葉を――山にいた時に時々いたという言葉を聞いて、鱗道には思い当たる節があった。クロがピンとこないのは無理もない。その時、クロはまだとある屋敷の書斎にいたのだから。
「シロがいた山に、確かにいたんだ。俺には見えなかったが……蛇神が木霊とかいう、妖精だとかと言ってたな。でかいバッタか草の塊みたいに感じるものが、山の中にいた」
 その時も、木霊と呼ばれた妖精は鱗道の目には映らなかった。頭に届いて聞こえる音も、言葉になっていない枝葉が擦れるような音だけだった。目の前の光とは音の種類が違うもの、似たような感覚がある。
『妖精? 西洋ではグレムリンやピクシー、ノームなどという、神話に出てくる超自然的な存在のことでしょうか』
「海向こうのことまでは分からんが……自然の豊かな所や、何か特殊な環境で彼方の世界の力が自然物に宿ることがあるみたいだ。木霊ってのは、山の木や草に宿ったもんなんだろう。似たような形で人工物に宿ると精霊なんて呼ぶらしいが……蛇神はあまり分別してなさそうだ」
 ほう、とクロが上げた声は好奇心に満ちていた。
『成る程。私もかつて、人工精霊などと呼ばれたことがありましたが、精神界のものを物質界のものに人為的に宿らせたもの、という意味であったのでしょうか』
 店内の灯りは落とされ、机があるのは外からけっして窺えない店の奥。もっとも、外光が入ろうと未明となれば、霊犬故の薄明かりを放つシロとホタルのような僅かな光だけが店内の光源と言える。赤い目が反射する程の光がなければクロの姿もすっかり暗がりに溶け込んでしまって、鱗道には一応明滅しているホタルめいた光よりも、クロの方が見付けにくい。だが、恐らくクロは今、嘴を高々と掲げているだろう。理解し、納得を得たという意味合いで、である。
「お前の経緯まで俺や蛇神の知識に当てはめていいか分からんからなんとも言えんが……話を戻すぞ。とにかく、妖精ってのは自然のものだから、此方の世界――人間には触れていないのが殆どだ。だから、言葉がない」
『では、何故シロは通じている風なのです?』
「シロは元々イヌだ。最初から言葉が喋れたわけじゃない。多分霊犬になって人間と接する内に、だんだんと言葉を覚えて喋れるようになったんだ。妖精とは、言葉を覚える前の段階に持ってた感覚でやり取りをしてるんだろう」
 鱗道の言葉に、シロが大きく頷いている。
 嘴を掲げていたクロが嘴を下ろして鱗道に顔を向けたと分かるのは、クロの挙動が素早いものであったからだ。頑丈な嘴が大きく動いて、僅かだが風を引き連れたのである。
『つまり、鱗道。私には見聞不可、貴方でも会話困難なこの客は――シロの通訳が必要不可欠なわけですか』
 珍しいことに、クロの言葉にははっきりとした感情が滲んでいた。硬質かつ一律な音声に震えと罅が含まれている。濃厚な懸念と不安の感情だ。
「ああ。そういうわけだ……あんまり複雑な話じゃないことを祈ろう」
『僕、頑張るよ!』
 張り切るシロの声に対し、クロは明確に返事をしない。矢継ぎ早に様々な言語を呟き続けている。時折混ざる聞き覚えのある言葉からして、今まで培ってきた知識にある祈りの言葉を口にしているようだ。
 淡い明滅を繰り返す光を前に、シロとクロの対照的な温度差に挟まれた鱗道は暗がりの中で汗ばんだ首裏を掻いた右手を溜め息と共に気怠げに下ろした。

       

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