Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-06-

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 結局、あの〝蛍〟が何であったかは分からずじまい。駆け寄ったシロの体当たりで鱗道は地面に転がり、シロをクロが強く咎めたが仲を取り持つ気力もなく、しばらく好きにさせておいた。ボロボロに汚れたまま山を下りた時には日が昇りきっていた。早朝散歩やマラソンランナーからは好奇の目を向けられ、鱗道を知る近隣住民に「何があったの?」「どうしたのか」という質問を適当にはぐらかし、ようやくの思いで「鱗道堂」まで帰ってからの記憶はあるが、あまりはっきりとはしていない。
 腹が減っている気がしたが、何より汗と土にまみれた体をどうにかすべく風呂場に飛び込んだ。首や背中の数カ所に染みるような痛みがあったが意に介さず全身を洗いきり、風呂場から出て来て居間に広がっている光景を十数分は眺めていた気がする。
 鱗道がいつも座っている座布団で腹を出して眠りこけているいつも通りのシロと、ちゃぶ台の中央で剥製のように固まって動かぬクロ。クロ、と何度か呼び掛けても返事がない。眺めていると僅かに首が揺れたり足が姿勢を直したりとはしているので、クロが初めて直面した疲労感を処理しているのだろうと結論付けた。後でどのような休息であったのか聞いてみようかと、鱗道には珍しい好奇心が湧いたものだ。
 のろのろと二階の部屋まで辿り着けば、エアコンで快適な温度を維持し続けていた寝床に感激を覚えた。そして身を投げ出してすぐ――シーツの感触を噛み締める前に、意識がぷっつりと途絶えた。
 実際に経過した時間を計る術はない。時計なんぞは持ち込めず、そもそも時間というものが存在するかも分からない。鱗道が目を開けた時、夜空を思わせる重苦しい藍色が広がっていた。白く雄大な蛇行が、天の川のように流れている。雄大な流れは長い胴体に変わり、白は時に青、所により緑を含んだ鱗となって胴を覆う。流れの先、あるいは始まりが大きく膨らみ、鱗を割るように金色の目が浮かび、漆黒の瞳孔が鱗道を見下ろして弓形に歪んだ。
『よくやってくれたね、末代。これを早々と片付けられたのは、誠に僥倖であったよ』
 乾いた砂の擦れるような、吹きすさぶ風が駆け抜けるような、鱗道の全身に伝わる蛇神の乾きと輝きを両立する艶やかな声。あまりの音の大きさに鱗道には感情を読み取ることすら困難であることを承知の上、大きな抑揚にて意思を伝えんとしている。
 人間一人、容易に丸呑みに出来るだろう蛇神の頭がぱっくりと割れて大顎が開くと、細く鋭い牙に見覚えのある錆色の球体が貫かれていた。柔らかく崩れて見えるのは蛇神の唾液に濡れているからだけではない。蛇神の口腔内で、丁寧に丁寧に清め祓われ溶かされているのだろう。やがて真に飲み下されて、腹の中で消えるはずだ。消えた後、どうなるのかまでは知らないが。
 ――シロとクロにも伝えておく。
 夜闇のような藍色を、今日も鱗道は漂うばかりであった。だが、寝床に飛び込む前にあった鉛のような疲労や体の痛みは全くない。重力からも解き放たれて身軽な程だ。こ手足を動かして身軽さを満喫できないのが残念である。
『良い一匹と一羽よな』
 蛇神は顎を閉ざすと、口の隙間から二股に分かれた舌を出して鱗道の前で揺らす。ああ、と鱗道は短い返答を思い描いた。蛇神の前では声を発する必要がない。蛇神は鱗道の思考を読み取るからだ。
 ――しかし、僥倖という程のことかね。
 確かに、虫篭は穢れや瘴気の塊を持っていた。体高は鱗道にも迫ろうが、堅牢でも強固でも強大だったわけでもない。足も虫篭部分も片手分の蛇で砕けたのだから、むしろ脆弱な部類ではなかろうか。
『言う程のことであったのさ。お前に自覚がないのはしょうがないことであるがね』
 蛇神の目が細められた。笑うかのようにも見えるが、声は全く笑っていない。蛇神は己の舌先で、鱗を一枚剥ぎ取ると『ごらん』と鱗道の前に据えた。純白の薄い鱗に映っているのは、鱗道の背中のようである。ぽつぽつとそこに、七つの赤い点が浮かんだ。首の裏に一つ、体の中央とその左右、腹の左側に一ヶ所、腰の辺りに二ヶ所――
『どれも急所だ。喉と、両の肺腑、心臓、脾臓に両の腎臓。八本目の足を残していたら、肝臓に向かっただろうね』
 言われ、体をまさぐろうとして、それすら出来ずに呆然と鱗に映された背中を見つめるしかない。シロが遠吠えをしたのも、クロがそれが出来ぬと嘆くのも当然だ。肉が貫かれていたかもしれない等という鱗道の考えは甘かった。
『あの程度の輩、と思うであろ? あの程度の輩でも、これが出来るのだ。破壊と死滅を招く流れ、望む意思の、これが本領で本分だ。わたしが僥倖と言ったのが分かるだろう?』
 蛇神の舌がしまわれると、真っ白な顔に再び赤い亀裂が生まれた。蛇神が薄く口を開いて笑みを浮かべているのである。
『お前は確かに死ににくい。だがね、死なぬ訳ではないのだよ。それに痛みまでは消せはしない。下手な傷を負えば、長く苦しむことを忘れてはならぬ』
 薄く開いた口元に、剥がされた鱗が吸い込まれていく。薄い飴でも噛むように、ぱきりと乾いた音を立てて鱗を噛んだ口元は、この日、もう開かなかった。
『わたしはね、末代。お前が鱗道の末代であるからこそ、長く生きることを望んでいるよ。人で四十は折り返しと言う者もあろうがね、自らの足で歩む道の、これから先の長さなど、このわたしですら知れぬものさ』
 末代、と乾いた声が口にする。潮騒として、鱗道が感じ取るには大きすぎる感情に満ち満ちて。執着と嫉妬が強いと自ら公言する蛇神の、
『わたしにとってはホタルやセミと同等の、瞬き程の寿命だとしても。末代、お前は精々、長く生きておくれ』
 金色の目がゆっくりと閉じると、夜闇のような重苦しい藍色の空間は急に閉じていった。

 目覚めれば、セミが鳴き喚いている。筋肉や節々が痛む体を引きずるように窓に近付き、カーテンを開けば網戸に張り付いていたセミが飛び去った。眩しい夏の日差しが我が物顔で入り込み、遠くには青い水平線が町並みの隙間に煌めいている。
 鱗道は体を引きずるようにしてゆっくりと階段を下りた。寝床から立ち上がる前に見た時計は昼を回っている。空腹も耐えかねるほど強い。階段を下りきった先の居間では、シロがちゃぶ台の前に姿勢良く座り込んでいた。鱗道が下りてきたことは分かっていようが、その顔はちゃぶ台の中央に立ったままのクロに向いたままだ。
『鱗道、クロがね、喋らないの』
 きゅんきゅんと心細そさを訴える鳴き声に、言葉。鱗道は灰色の髪を混ぜながら冷凍庫を開く。
「……お前に聞こえるクロの音に、なんか変わりはあるか?」
 指先は迷って、味が濃いめのチャーハンと唐揚げの袋を取り出した。チャーハンには開封済みの物もあったが塩っぽい味付けのもので、今はもっと濃い味を欲していたのだ。
『水の音、すこしゆっくりな感じ。それ以外は、変じゃないけど』
 ゆっくり、という鱗道の小さな繰り返しをシロの耳は聞き逃さず『ゆっくり』と山彦のように繰り返した。足で冷凍庫の扉を閉め、棚から皿を引っ張り出す。いつもより大きめの皿に、唐揚げの袋の中身を全て並べた。
「じゃぁ、放っておいてやれ。クロは疲れてるんだ。休ませてやろう」
『クロ、寝ないのに疲れるの?』
「みたいだぞ。お前が歩き回ってる間、結構ぼやいてたからな」
 唐揚げがたんまりと並んだ皿を電子レンジに突っ込んで、適当に時間を指定する。長年の経験というものもあるが、足らねば追加でやればよい話だ。
『じゃあ、いつも寝たらいいのに!』
 シロの、まるで呆れているかのような言葉に、鱗道は肩を揺らして笑った。確かにシロからすればその通りであろう。だが、クロは先程初めて疲労感というものを実感したのだ――ということを、シロに説明してやろうかと思ったが、
「多分、今のクロは寝てるみたいなもんだと思うが、俺も分からん。クロが起きたら色々聞いてみたらどうだ」
 クロの場合は、こちらが妙に勘ぐるよりも全てクロに説明させた方が早い。いつになれば普段通り動き出すか見当も付かないが、じっとクロを観察すれば、鱗道が寝落ちる前よりも動きは多く増えている。それ程時間はかかるまい、と思えた。
『じゃぁ、そうする。寝てるなら、静かにしなきゃ』
 ふんふんと鼻を鳴らしながら、シロがちゃぶ台を離れて鱗道の足下に寄った。その顔は電子レンジの方を真っ直ぐ見ている。
「お前も食うだろ?」
『いいの!?』
 静かにしなきゃ、と宣言してからの一言である。鱗道は少し頭を反らせた。普段はシロがねだらない限り鱗道が唐揚げを渡すことはない。シロがねだったところで貰えるとも限らないのだ。なのに、そうだというのに! と喜び勇むかと思いきや、
『……なんか……みんないつもと違うから……変な感じ』
 シロの耳も尻尾も力なく垂れてしまった。鱗道は三度ほど目を瞬いて、シロの額を指先でぐりぐりと押し込んだ。
「たまには、そんな日があってもいいだろ。そういう思いがけない幸運をな、僥倖っていうんだ」
 霊犬であるシロの体は、体温もなくひんやりと冷えている。が、被毛の感触が暑苦しさを誘うのだ。その為、抱き枕には向いていない。撫でたり、時々触れたりして熱を逃がすのには適しているのだが。
『ぎょーこー』
 僥倖、と今度は鱗道が繰り返してやった。シロの頭を撫で回しながら――
「それに、お前のお陰で大怪我せずに済んだからな。その礼も兼ねてる」
 ――この冷えた体の奥底に、穢れや瘴気が未だ残っていることを考えていた。穢れによって変化した悪霊、瘴気を溜め込んでしまった物などとは相対したことはあれど、純粋な荒神に成り果てたものと対峙したことはない。一時は荒神に成りかけながらも耐え続けて、今に到るシロは特殊な事例であることは分かっていた。だが、今日の経験と蛇神の言葉で確信に変わる。もし、あのままシロが荒神と成り果ててしまっていたならば――向けられる悪意、敵意、殺意、破壊衝動等々は今日の比ではないのだろう。
 シロが踏みとどまれたことは、今の鱗道にとっては僥倖であろう。だが――鱗道が死ににくい分、痛みを長く味わわねばならぬように――常に穢れの熱塊を抱えることになったシロにとっても僥倖であったかは分からない。結論は、シロが迎える最期にしか分かるまい。
「……飯食って、まだクロが寝たままだったら先に買い物に行こう。クロにも礼をしなきゃならん」
 物食わぬクロへの褒美はレコードが相場であった。鱗道では違いが分からないが、クロはCDプレイヤーとレコードプレイヤーでは全く違うと言い、特にレコードプレイヤーのラッパの前で佇むことを好んだ。曲の種類はリクエストを聞いてやりたいところであるが、夕飯前には買い物を済ませてしまいたい。
『じゃぁ、レコード屋さんに行くんだね!』
「あとはスーパーな。夕飯用に、サラダを買う」
 蛇神に長く生きてくれと言われたことを思い返す。言われなくとも、早死にしたくないと思っている。叶うならば、シロとともに歩むことを選んだのだから、シロの最期を見届けてやりたいのだ。そこに蛇神の願いも重なったとなれば、これから先、代理仕事に従事する時も日常生活に置いても注意せねばなるまい。
『サラダ?』
「野菜だ」
 ぴたり、とシロの言葉が止まった。強い視線を感じてシロを見下ろすと、紺碧の目は薄らと涙を湛えてすらいる。どうした、と問う前に、
『鱗道が野菜食べるの? 麗子サンの煮物じゃないのに? 鱗道、体おかしいの? 大丈夫なの?』
 この日、一番情けないシロの鳴き声に、語調に声。鱗道が言い返すまでの間を繋ぐように、電子レンジが温め終了を告げるアラームを鳴らした。

       

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