Neetel Inside 文芸新都
表紙

桜島少年少女
3話 漂流サウナ

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 憂鬱な日々が続いた。
 高崎と出会い、彼女に対抗意識を燃やし、実際に対決した結果。桜島に対する愛の強さで敗北し、登山の能力でも敗北した。
 誰かに勝敗を判定してもらったわけではなく、自分で負けを認めてしまった。だからこそ、余計に悔しかった。
 八重山を下山してから徐々に自己嫌悪が強くなり、何もかもが憂鬱になった。その翌日は桜島にどう顔向けすればいいのか分からず、毎朝の礼拝をサボってしまった。高崎と再び顔を合わせれば劣等感に苛まれると思い、ワンゲル部の部室を訪れる事もできなくなった。
 気持ちの整理に時間を要して、大学の講義とアパートの部屋を往復するだけの生活を一週間ほど続けた。
 一週間、ひたすら自分と向き合い続け、桜島からアドバイスを貰った通り自分の個性を磨くしかないのだと覚悟し、再びワンゲル部の部室を訪れようと思った。
 久しぶりに訪れた部室には同期が全員集まっていた。
 俺は適当に挨拶をして、みんなと同じように畳の間へ腰かける。
「隼人、来たか。もしかするともう来ないんじゃないかとも思ったぞ」
 直井は俺の耳元でひっそりと話しかけてきた。
「もう大丈夫だ」
 俺は、高崎の方をチラリと見る。
「このままでは高崎に屈した事になるからな。いずれ見返してやるんだ」
 俺が言うと、直井は呆れた顔をする。
 誰にどう思われようと関係ない。俺はあいつと再び勝負する時が楽しみで。その為にここを訪れたのだ。
 勝負の時までじっくりと牙を研いでおきたい。そんな事を考えていると、長瀬が立ち上がり、話を始めた。
「今度のキャンプ場は、ここにしようと思うんだ」
 次回のアウトドア活動に関する話し合いを行うようで、活動の内容は鹿児島市の郊外にあるキャンプ場でのバンガロー泊だった。
「バンガローか」
 正直、俺はバンガローに泊まる事を快く思っていない。
 人里離れた自然溢れる土地を訪れて、わざわざ人工的な建物に宿泊する意味は何なのか。果たして、それはアウトドアだと言えるのか。
 そもそも道具を揃えてテントに泊まること自体、既に人工的すぎるきらいがある。それがバンガローとなれば、違和感があるのも仕方ないだろう。
 バンガローを全否定するつもりはないが、アウトドアを活動の主体とするサークルがそんな事をしていて良いのかと疑問に思ってしまう。
 実際は疑問に思っただけではない、不満が表情に現れていたのだろう。直井が俺の肩に手を置いた。
「バンガロー泊が不満な気持ちは何となく分かる。だけどワンゲル部のメンバーは俺を含めて初心者ばかりだし、少しずつ慣れていくのが良いと思うぜ」
 彼の言う通りかもしれない。
 アウトドアは素晴らしいもので、全ての人にその良さを味わってもらいたいとは思っている。俺の理想を押しつけて毛嫌いされるのはつまらない。だから段階を踏んでアウトドアを好きになってもらうのも悪くないだろう。
「分かったよ」
 俺は不満を飲み込んだ。
「それで、お願いがあるんだが、隼人のキャンプ用品を貸してもらえないか?」
「はあ?」
 不満を飲み込んだ途端、新たな不満が生まれた。
 キャンプ用品は俺の宝物だ、それを簡単に貸すなんてできない。
「ワンゲル部の備品にキャンプ用品は無いのか?」
「無い。新設されたばかりのサークルだから、備品は無いし、会費も無い。頼れる先輩はほとんど部室に来ない。だから、隼人の物を貸してくれないか」
 長瀬は手を合わせて、頭を下げる。
「俺からも頼むよ。お礼はするからさ」
 そう言って直井も頭を下げた。
 俺は少し考えて、これもアウトドアを布教する為には仕方ないだろうと思った。
「分かった、用意するよ」
 それから、直井に要求するお礼の内容を提示した。



 バンガロー泊の当日。
 鹿児島市の市街地から離れたキャンプ場へ向かう道中、バンガロー泊を楽しめそうにない俺は、ある計画だけを楽しみに道中を過ごしていた。
「せっかくの遠出だっていうのに、男二人でドライブするとはね」
 ハンドルを握る直井が言った。
「なんでこっちには誰も乗らないんだ」
「隼人が心を開かないからじゃないのか」
「そうかもしれない。俺はそういう人間だからな」
「冗談だよ。この狭い車に隼人が大荷物を載せたからみんな遠慮したんだろ」
 俺は後部座席に詰め込んだ荷物を眺めるとそれは強く輝いた。そう見えるのは膨らませた期待の大きさのせいだろう、思わず笑みがこぼれる。
 国道の脇道に入って、大きな橋を渡り、そこからさらに小さな脇道へ入る。木々に囲まれた道を進んでいくと、いつしかアスファルトの舗装が無くなった。それから砂利道を少し走ると、遂にキャンプ場へ到着した。
 寝泊まりするバンガローの脇に車を停め、二人で荷降ろしを始める。
 少し遅れて到着した長瀬は、「チェックインを済ませてくる」と言って、管理棟の方へ歩いて行き、彼の後を満重がついていく。
「満重さん、長瀬と付き合うのかな」
「つきあう?」
 トランクから荷物を降ろし終えた俺は、自前のコンテナに腰掛ける。
「この間の飲み会位から、ずっとあの二人は怪しいぜ」
「何の話だよ」
「交際を始めるんじゃないかって話。もしかしたら、既に付き合ってるかもしれない」
「へえ」
「隼人は男女の交際に興味なんて無いか」
「無いね。全く無い」
「だよなあ」
 直井は長瀬達の後姿をぼんやりと眺めている。
 誰と誰がどんな関係になるかなんてどうだっていい。
 桜島とアウトドア以外の事に現を抜かしている暇は無い。そう思いながら俺は桜島の方角へ目を向ける。このキャンプ場は高台にある為、桜島から遠く離れていても、その姿を拝む事が出来る。
 今日の桜島は噴煙を上げることなく静かに佇んでいるが、陽の光を浴びたおかげで隆起した山肌がくっきりと浮かび上がり、雄々しい雰囲気を帯びている。
「桜島は本当にどこからでも見えるんだな」
 俺と同じく桜島を見ていた直井が呟いた。
「それが鹿児島のシンボルである所以だ」
 桜島のおかげで既に満たされた気分だった。
 少しして管理棟から戻ってきた長瀬からバンガローの鍵を受け取った。バンガローは男女別に一棟ずつ借りていたので、それぞれの荷物を分けて運び込んでいく。
 作業が一段落すると、俺は直井に声を掛ける。
「じゃあ、ここからは俺の頼みを聞いてもらいたいんだが」
「例のテントサウナを始めるのか?」
「ああ。道具を川べりまで運んで、組み立てるところまで頼む」
「分かった」
 俺がキャンプ用品を貸し出す条件として提示したのは、テントサウナを直井の自動車でキャンプ場まで運んでもらう事だ。
 俺はバイト代を貯めてテントサウナを購入したのだが、それは非常に大きく、自動車を持っていない為、道具を運ぶ手段がなく困っていたのだ。そもそも自動車を持っていない以前に運転免許すら取得していないのでどうしようもない。何かと無計画だが、俺自身は満足しているので気にする事は無いだろう。
 それから直井と二人でテントサウナの道具を抱えて、バンガローの脇を流れる川べりへ降り、周囲の様子を伺って少し離れた人気の無いところで、設営する場所を決めた。
 テントサウナとは、名前の通りサウナを体験できるテントである。テント内に設置されたストーブで火を焚き、その熱気でサウナ室を作り上げる道具だ。
 作業の工程は通常のテントを組み立てるのと、同様で骨組みを立ててから、幕を張り、その中にストーブを置くだけの簡単な作業だ。
 初心者の直井と二人で作業をしても、苦労せずに完成させる事ができた。
「人生で初めて組み立てるテントがまさかテントサウナになるとは思わなかったけど、何というか、達成感があるね」
「少しずつ完成していくのが楽しいよな」
 俺と直井は完成したテントサウナをしみじみと眺めた。
 通常のテントではあまり見かけない四角い本体と、屋根から突き出るストーブの煙突が特徴的で、そのフォルムを眺めているだけでも長く楽しめるほどに魅力的だった。
「じゃあ、遊んで来いよ」
「本当に戻っていいのか?」
「遠慮しなくていい。俺は一人で楽しむからさ」
 部室でテントサウナの話をした時、ワンゲル部メンバーは興味を示していなかった。それに気づいていながらも、テントサウナを用意する話を進めた。その為、妙な雰囲気になっていたが、そんな事は構わない。
 自分を信じて個性を磨く。桜島の助言で決めた事を簡単に曲げる訳にはいかない。
 そんな事を考えながら俺はテント内のストーブに薪を並べる。燃焼のしやすさを考慮して、組み終えると火を起こした。
 想定通り、難なく火種がついて、薪全体に炎が燃え広がっていく。
 火が少しずつ強くなっていく様子をしみじみと眺めるのは至福の時間だ。
「これ、もう使えるの?」
 突然、背後から声を掛けられた。
 心が穏やかになり始めていたところだったので、驚き、慌てて振り返る。
 そこには感情を読めない妙な微笑みを浮かべる高崎が立っていた。
「…もう少し待てば使えるけど」
「へえ、そうなんだ」
「何しにきたんだ?」
「私も、テントサウナをやってみたいと思って」
「気を遣ってここにきたなら、必要ないぜ。俺は一人で過ごすのが好きなんだ」
 これは本心だ。俺はアウトドアを一人で楽しむ事が本当に好きなのだ。非日常の空間に入り浸り、誰にも気を遣わず時間が過ぎるのを味わう。それがアウトドアの醍醐味で、それが堪らなく好きなのだ。
「私も、本当にテントサウナをやってみたかったんだよね」
 高崎の表情変化が乏しく、これが本心なのか分からない。不機嫌な時は、分かりやすく顔をしかめるというのに。
「本気でやりたいのか?」
「うん。駄目なの?」
「テントの組み立てを手伝わずに、後から来るなんて図々しくないか?」
 俺は思った事をそのまま伝える。
「それは、ごめんね。確かに図々しいと思うけど、サウナに入りたくて水着に着替えてきたから遅れちゃったんだよね」
 高崎は体操服のような白いTシャツの裾を摘まんで言う。
「分かったよ。片づけは手伝ってくれよな」
 俺が言うと、高崎は頷く。
 テントサウナに興味を持ち、着替えまでしてくれていたのなら追い返す訳にはいかない。
 改めてテントの中を確認すると、熱気と蒸気で満ち溢れていた。
「そろそろ良さそうだし。入れよ」
「分かった」
 高崎はテントの入り口をくぐり抜けて、折り畳みのベンチに座る。
「私はサウナ自体が初めてなんだけど。そこに座ってるだけでいいの?」
「ああ、それでいいよ」
 大学生までサウナに入った事の無い人間がいるとは驚きだった。
「じゃあ、のぼせるから頭にタオル被れよ」
 そう言ってテントを出ようとした時、高崎に腕を掴まれる。
 彼女は俺の顔をじっと見つめていた。
「何だよ」
「初めてなんだから、離れないでよ」
「子供かよ」
「初めてなんだって」
「…分かったよ」
 見つめてくる高崎の圧力に負けて、仕方なく彼女の隣に腰掛けた。天文館では今より離れた位置に座っただけで酷い対応をされたというのに、都合の良い奴である。
「サウナっていうのは体を温めて、水風呂で体を引き締めて、外気浴で体をリラックスさせる。これを二、三セット繰り返すんだ。テントサウナの場合は、水風呂の代わりに川の浅瀬に入って、外気浴は陸に上がって陽の光と風を浴びて行うんだ。その結果、どんな感覚がして、どんな気分になるのかは、実際に味わってほしい」
「うん。自然に触れながらサウナを楽しめるなんて、最高の贅沢だね」
「ああ、その通りだよ」
 なかなか理解のある奴だと思った。
「これ、いくらしたの?」
「テントとストーブ、他諸々の部品を含めて十万円だ」
「高いね」
「大学受験が終わってすぐにバイトを始めてお金を貯めて買ったんだ。俺は運転免許を持ってないからテントサウナを運ぶ手段が無かったけど、気にせず購入したぜ。先に運転免許を取った方が良いとかは言うなよ。分かってるから」
「あはは」
 彼女が声を出して笑っているのを始めて見た。
「親の脛を齧る訳でもなく、偉いと思う」
「そうか?」
「うん、偉い。私は親に頼ったり、頼られたりで、まるで違うな」
 高崎にはこれまで何かと拒絶されてきたので、こうして肯定される時が来るとは思わなかった。
「この間、桜島に住んでいない事をからかったのは、悪い事をしたと思う。ごめんね」
「いや、気にするなよ。こっちこそ、先に失礼な事を言った。申し訳ない」
 まさか謝罪まで受けるとは、サウナを使わせてもらえた事がよほど嬉しいのだろうか。高崎の心は読めないがここで意固地になるのは格好悪いだろうと思い、俺も素直に謝罪した。
「隼人君は、桜島に住めない理由があるの?」
 答えにくい質問だった。
 過去のトラウマを話すべきか迷った。少しだけ悩んだ結果、妙な誤解をされるよりは、本当の事を説明した方がマシだと思ったので、打ち明ける事にした。
「俺は小さい頃、親戚のおじさんが持っていた漁船に乗せてもらって、釣りに行ったんだ。だけど、その船が壊れて浸水して、沈没したんだ。それで命からがら海上保安庁に救助された事があるんだよ。それ以来、水が怖いし、船も怖い。だからフェリーに乗って桜島から大学に通う事はできないんだよ。陸路で鹿児島県を横断する方法もあるが、運転免許を持っていないし、自動車も無い。そもそも陸路で毎朝、桜島から数時間かけて大学までの長距離を通うなんていうのは現実的じゃない。これが桜島に住めない理由だ」
 俺が話し終えると、高崎は微妙に顔をしかめていた。
「桜島には住みたくても住めないんだね。やっぱり、私はひどい事を言ったみたいだ」
「いや、いいんだよ。ただ、次は高崎の番だ。高崎はどうして桜島が好きな事を隠すんだ?」
 俺の問いに、高崎は眉をひそめる。彼女にトラウマを打ち明けた目的は、これを訊くためでもあったのだ。
 少しして、高崎は堪忍したのか口を開いた。
「私は生まれた時からずっと桜島に住んでいたから、特に理由があったわけでもなく、自然と桜島の事は好きになったんだ。桜島は、なんというか、いつも近くで見守ってくれる親みたいな存在だったんだよね。だけど、中学生の頃に桜島が好きな事を周りの同級生達に伝えたら、全員からそれを否定されたんだ。灰を降らす迷惑な山のどこがいいのか、寂れた田舎の桜島から早く抜け出したいんだとか言われて。すごく恥ずかしくて、すごく悪い事のように思えて。それからずっと隠す癖ができてしまったんだ」
「俺ならその同級生と取っ組み合いの喧嘩になっているかもしれない」
 高崎も違ったトラウマを抱えていたようだ。
「だけど、桜島にずっと住んでいたいという訳ではないけどね。大学の近くに住んでいた方が便利だし」
「何だよ、それ」
 同情しつつあったというのに、拍子抜けだ。
 桜島に対して、そこまで愛がないのならば、俺が味わってきた敗北感はなんだったのか。
「だったら、桜島を離れてしまえばいい」
「それはまあ、また別の問題があるんだよ」
 高崎にも何か事情があるようだが、それ以上は話したくないのだろう。
 俺もこれ以上、追求しようと思わないし、サウナの熱気によって思考が働かなくなってきた。気がつくと、体幹から頭の頂上まで熱を帯びて、全身の皮膚から汗が染みだしていた。
 高崎も頬が赤く染まり、長髪の毛先から水分が滴り落ちて、白いTシャツは汗が染みてスクール水着のようなものが透けて見えていた。そんな彼女の姿は目を引くものがあって、俺は息を呑む。
「じゃあ、そろそろ出た方がいいな」
「分かった」
 二人揃ってよろよろと、外へ出る。
 外の空気はサウナ内との温度差によってほどよく冷たく感じ、非常に心地よかった。
「体の熱が冷めないうちにさっさと川へ入るんだ」
 俺の言葉に高崎は頷く。
 裸足のまま歩くと足底に刺さる小石が痛かった。高崎も、「痛い」と言いながら微妙に顔をしかめている。
水際に着くと、すぐに右足を川面へ浸けた。強い冷たさを感じて足を引き戻したくなるのを堪えて、左の足を浸ける。そこから数歩歩き、ゆっくりと腰かける。
高崎は足を浸けるのがやっとで、そのまま動けないでいる。
「サウナの実力では俺の方が上みたいだな」
 俺の挑発が気に障ったのだろう、彼女はさっさと腰かけた。
「それで、どうするの?」
 高崎は口調を荒くして訊ねてくる。
「このままゆっくり仰向けに寝そべって後頭部の辺りまでを水に浸けるんだ」
 そう言ってゆっくりと寝転んでみせた。
 頭頂部から足先まで強い電流が走る。鳥肌が立ち、全身が痙攣したように感じて、脳がとろけそうな程に気持ちが良い。
「ああ」
 不意に声が漏れる。まさに絶頂、全身が川の流れとなって消えてしまいそうだ。
 高崎も水温に慣れてきたのか躊躇せずに寝そべると、彼女も同様に、「ああ」と変な声を出した。
「川の水は平気なの?」
「怖いけど、これくらいの浅瀬なら何とか我慢できる、あとは深いところを見ないようにすれば平気だ」
「足から先の、すぐ奥は底が深くなってるけど」
「見ないようにしてるんだから、嫌な事を言うなよ」
 俺は恐怖を拭い去る為に空を見上げた。
 まさに至福の時だ。身体の熱は水に流されていき、ゆっくりと快感も覚めて行く。
「そろそろ上がろうか」
 そう言って立ち上がると、高崎も身体を起こした。
 身体の芯が温かい内に外気浴をしよう。そう考えていた時、視界の端から高崎の姿が消えた。
 何が起きた?
 辺りを見渡すと二人で寝そべっていた浅瀬より少し奥の深い所で、高崎は体を倒して腕をバタつかせていた。
「おい、大丈夫か?」
 足を滑らせたのだろうか。深い所だとは言っても、高崎の背丈なら簡単に足をつく事ができる深さなので心配する事はない。その筈だが、高崎は少しずつ流されていく。
 この先には、水の流れが急に速くなる場所あって、そこまで運ばれてしまいそうだった。
「高崎、早くこっちにこい」
 そう声を掛けても高崎は流されるままだ。
 一体、どうしたというのか。考えても分からないが、どうにかしないといけない。
 腕をバタつかせる高崎を見て、次第に焦りが強くなり、息が詰まる。
 周囲には人が一人も居ない。バンガローの方まで助けを呼びにいく時間も無いだろう。
 こうなったら俺が何とかするしかない。だが、どうやって高崎の所まで行けば良い?
 浅瀬より先の深みまで足を運び入れる想像をして、吐き気がした。
 怖い。
 青緑に染まった深みが怖かった。
 俺は桜島に勇気を貰おうと彼の居る方向に目をやる。だが、木々に隠れしまって桜島の姿は確認できない。胸の奥で桜島に語り掛けるが、返事は無い。
 もう、覚悟を決めるしかない。
「ああああ」
 覚悟は決まらなかった。決まらなかったが、やるしかない。だから、自棄になって叫び声を挙げ、走り出した。
 水しぶきをあげながら夢中で高崎に追いつくよう走る。
 川の浅瀬より奥に入り、川底は少しずつ深くなる。
 恐怖を抑えるために、目を閉じる事にした。だが、皮膚の感覚が無理矢理川の深さを教えてくる。
 水面は徐々に高くなり、膝下、太もも、遂には腰の辺りまで届いた。その瞬間、胃の中身がこみあげてくるような感覚がしたので、息を止めて胃液が上がってくるのを堪えた。
 俺は目を開けて、高崎の姿を捉えた。高崎も必死に流れに逆らっているようだ。
 彼女の元まであと数メートル。一歩、二歩、できる限り早く足を踏み出す。
 高崎の体が急流に入る寸前、水面が俺の胸の胸元まで到達したところで、彼女の腕を掴んだ。一瞬、水流に負けて、俺ごと流されそうになったのをじっと踏ん張って耐えた。
「高崎、足を着けるか?」
 彼女は水面から顔を出して口を動かしているが、何も聞き取れなかった。俺は恐怖を必死に抑えつけながら陸に向かって高崎の腕を引いて歩く。
 浅瀬まで着くと、恐怖と緊張感から解放され、崩れるように川底へ腰かける。
 何とか生きて戻る事が出来た。大袈裟ではなく、本当にそう思った。ここにきて初めて激しい動悸を感じる。気持ちを落ち着けるために二人で息を切らしながら、しばらく無言で過ごした。
「川の水を飲まなかったか?」
 呼吸が整ってきたところで訊ねると、高崎は、「大丈夫」と言って首を横に振る。
「立ち上がった瞬間、足元が滑って、思い切り倒れちゃって。その後は何だろう。力が入らなくて、どんどん流されて」
 滑った驚きと水に流される恐怖心で力が入らなかったのだろう。
「水が嫌いなのに、ごめんね」
「いいよ。無事で良かった」
「ありがとう、私も水が怖くなったかも」
 皮肉を言う余裕はあるようだ。
「じゃあ、このまま外気浴だな」
 散々な目に遭った後だが、落ち着いてみると気持ちよく外気浴を味わうことができた。それは高崎も同様で、口を半開きにして間の抜けた顔をしている。
「隼人君は命の恩人だね。本当にありがとう」
「大袈裟だな。そして妙に正直だな」
「私はずっと正直だけど」
 不愉快な時には不愉快な態度を見せる高崎の姿を思い浮かべた。彼女の言う通り、出会った時からずっと正直な奴だと思った。
 外気浴を終えてから、サウナの中止を打診したが、高崎は二セット目をしたいと訴えた。あれだけの恐怖体験をしたというのに。大した奴である。

       

表紙

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Neetsha