Neetel Inside 文芸新都
表紙

花咲け大樹
二話『きっとどうにかなる』

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「韓国!?ダメだ、ダメだ!お前さんみたいなお人好し、すぐに身ぐるみ剝がされっぞ!」
魚国さんは機械を動かして、イワシをミンチにしながら言った。
「そうだよ大ちゃん、外国なんて行かないで、うちの食堂でアルバイトしなさい。二階空いてるからね」
食堂のおばちゃんも、うさんくさい目でアンディさんを見る。魚国の厨房に集まった商店街の人たちは、ボクの決意を聞くとみんな止めた。……ボクはがんばって説明する。父親が誰か分かったこと。母ちゃんをなかったことにさせたくないこと。魚屋のアルバイトじゃ、父親に勝てないこと……。全部聞くと、魚国さんは「しょうがねえな」とため息を吐いた。

「いいさ大樹、お前さんも男だ。独り旅をしてみな」
魚国さんは包丁を置いて「ただし」とふり返る。ボクの肩に手をそえて、目を合わせる。
「一年だ。引き時を弁えるのも男だからな。どんなにきつくても、三ヶ月は踏んばれ。これでいいのか迷っても、半年はやってみろ。そして一年ダメなら、潔く帰ってこい。俺が一から鍛えてやるよ」
魚国さんは白い歯を見せて、ニカッと笑う。
「いいな?」
「はいっ!」
「よし、いい返事だ!」
魚国さんはボクの背中をぽんぽん、と叩いた。
「じゃ、二階は空けとくよ」
食堂のおばちゃんもやれやれ、と肩をすくめる。これで退路はない。一年でダメなら……ボクは全部諦める。魚国さんで魚を捌いて、夜は高校に行く。そう思うと、急にすっきりした気分になった。
「……ありがとうございます」
アンディさんは深々と頭を下げる。商店街のみんなは、やっぱり心配そうだったけど……お願いします、とお辞儀を返した。その光景に、胸が熱くなってくる。
(ああ、ボクって……本当にこの商店街で育ったんだなぁ)
学校でどんなに苛められても、孤独でも。ここは温かかった。それをどうして忘れていたんだろう。



一年帰ってこなかったら、荷物は全部捨てる。魚国さんとそう約束した。ボクはリュックに、母ちゃんとの想い出を全部突っこんだ。福引で当てた貝殻風鈴。母ちゃんお手製のレシピブックは、ずっしりと重い。ボクは居間の畳に座って、ぐるりと見回す。家具は全部商店街に寄付したから、もう何もない。産まれてから十七年、ボクを育ててくれた家だった。
「……ありがとう」
ボクは深々と頭を下げて、家にお礼を言った。ボクはいくじなしで、自分の幸せに気付かないでいたけど。一つだけ誓うよ。もう泣かない。世間がどんなに冷たい風を吹き付けても。ボクは絶対に、泣いたりしない。

鍵をかけると、いよいよこの家とお別れをするという実感がわいてきた。
「うっ……」
目尻が熱くなってきたのを、ごしごしと袖でぬぐう。アンディさんは階段を下りた所で、腕を組んで壁にもたれていた。
「準備できたか。行くぞ」
アンディさんはさっさと歩きだす。ボクは重い荷物を引きずって、何とか後ろをついて行く。
(そういえばこの人……いくつなんだろ?)
ボクはちらっと、アンディさんの横顔を見る。目尻にはしわがあるし、肌もかさついてる……でも、目を離せない類の華がある。芸能人みたいな……。
(”カリスマ”って感じ?)
視線に気付いて、アンディさんは「何だ」と顔をしかめる。またタバコを出して、火を点けた。ぷはーっと煙を吐き出す。……ボクの方に。げほげほと咳こんだボクにかまわず、アンディさんはタバコをじっくり味わっていた。
「あの、ここ路上……」
小声でおずおずと言い出したのに、アンディさんは無視してもう一本出した。本当にこの人を信じて大丈夫かなぁ……。



羽田からソウル行きの飛行機は、乱気流でたまにすごく揺れた。
「うぅ、辛いし胃がゆれるし、踏んだり蹴ったりだ……」
機内食で出たキムチのあまりの辛さに、ミネラルウォーターを空ける。母ちゃんの作ってた、唐辛子入らない、水っぽいキムチが恋しいや……。アンディさんはアイマスクを付けて、胸の上で手を組んで寝ていた。リクライニングを限界まで倒してる。後ろのおじさんは文句を言おうと口をパクパクさせてたけど、ボクを見て渋々矛を収めてくれた。すいません……。

「アンディさん、起きて。起きて下さい」
ゆったりしたメロディーが流れる中、お客さんたちは列をなして出て行く。ボクは必死で、熟睡するアンディさんを揺り起こした。
「ふわ……あー、よく寝た」
アンディさんはボクが使わなかったイヤホンとアイマスクを奪った。アメニティ用品、機内誌まで、持ち帰れるものは全部ポケットに突っこむ。恥ずかしいからやめて欲しい……CAのお姉さんが見てるよ……。

入国審査はすんなり終わって、ボクたちは夕暮れの仁川空港に降りたった。
「おぉ、外国……」
韓国語が飛びかう中、トラスの向こうにあるガラスから、きらきらと眩しい光が降りそそぐのを眺める。
「おい、置いてくぞ。……何見てるんだ?」
アンディさんは、ボクがアホみたいに口をぽかんとさせて天井を見てるのに、呆れたみたいだった。
「す、すいません。空港、初めてだから……あんまり綺麗で。あっ、何ですかあれ!?」
ボクたちのすぐそばを、時代劇みたいな恰好の人たちがぞろぞろと通って行った。みんな足を止めてスマホで撮ってる。ボクも急いでスマホを出したけど、充電切れだった。ボクっていつもこう……。
「ああ、パレードだよ。文化センターがあるからな」
「はえー……」
「昼飯時にテレビ点けたらいつでも見れるぞ、あんなモン。ほら、さっさと歩け」
「あっ、ま、待って下さい!」
ふり向きもせずに歩いて行く背中を、ボクは大急ぎで追いかける。ふう、ふう……空港は広いなあ。今日だけで何キロかやせられそうだ!

ボクたちはタクシーで、ソウルの街に出た。アンディさんはカードで支払って、さっさと降りる。ボクが荷物を抱えてもたついているのを手伝いもしないで、ふーっとタバコをふかす。
「若いんだから、鍛えないとだめだよ」
運転手のおじさんは呆れ顔で色々言いながら、キャリーバッグをトランクから出してくれた。
「えっと……何て?」
「お前のぷにぷにな頬っぺたが可愛いと言ってる」
「絶対嘘だ……」
言葉が通じないのってもどかしいなあ。早く覚えなきゃ。……街にあふれていたハングルを思い出す。ボクには暗号にしか見えないけど……ちゃんと覚えられるのかなぁ?勉強も苦手な方だったし……でもやるっきゃないけど!

ボクたちが降りたのは『 碧山ピョクサン町』という所だった。碧い山、か……綺麗な名前の通りに、街は里山に囲まれていた。にぎやかなソウルの中心部から、車で一時間。ビルや学校、お家がたくさんある。そこそこ都会だけど、ソウルより緑が多い。閑静な所だ。
アンディさんは地図を片手に「こっちだ」と歩く。わりとアナログな所あるんだなあ。ボクのお腹が、ぐ~っと鳴った。そういえば機内食も残したし、何も食べてない……今から行く所に辛くないご飯があるといいなあ。街灯が、ぱっと点く。石畳の坂は小さなアパートや一軒家が建ちならんで、美味しそうな匂いが漂ってる。
(あ……ここ、うちの近所にちょっと似てる)
ボクの胸が、つきりと鈍く痛んだ。ボクたちは細い小路に入った。シャッターが下りた汚い道を、街灯の青白い光が照らしている。アンディさんはひときわ汚い雑居ビルの前に立って、「ここだ」と手招きした。

(うわー、築何年だろ。あの商店街とどっちが先輩かなぁ)
ボクはボロボロの雑居ビルを見上げた。小さな三階建てのビルは、豆腐に窓とドアを付けたみたいな形だ。コンクリートはひび割れて、薄汚れてる。アンディさんの後をついて急な階段を上ると、ぎしぎしと音がした。
「――、……!――……」
ドアの中から声がする。曇りガラスの向こうに人影が揺れる。アンディさんがドアを開けると、声は急に鮮明になった。

「――すいませんっ!!あと三日だけ待って下さい!!」

ドアを開けるなり、土下座しているおじさんが目に飛び込んできた。おじさんはくたびれたスーツで、頭を床に擦り付けて「何とぞ、何とぞ利息は……!」とお願いしている。おじさんのそばで正座した女の子も「お願いします」と頭を下げた。ヤクザっぽいお兄さんはおじさんのそばにしゃがんで、ため息を吐く。

「なあオムさん、もう破産したらどうだ?このビルも売りなよ」
「そ、それはっ……」
「まだ元本も全然減ってないんだぜ?うちはヤクザだけど、カタギ相手の商売だからよ。そこは法律通りだ。まず民事で破産して、全部売って、返せるかどうか試す。これしかないぜ」
お兄さんが淡々と言うのに、おじさんはまた顔を擦り付ける。
「だ、大丈夫です!この子たちがコンサートをして返します!それにSiaもいますし……なあハヌル?」
ハヌルと呼ばれた女の子は、こわごわとうなずく。
「……分かったよ。女の子にお願いされちゃ、聞かないわけにいかねえ。ただし、31日までに今月分の返済額。920万ウォンを用意しな」
「は、はいっ。必ず……」
「じゃ、おやすみ」
お兄さんはボクたちに気付くと、一回足を止めた。ボクを頭から爪先までじろじろ見て「悪いこと言わねえ。やめときな」とだけ言った。お兄さんが出て行くと、部屋には気まずい沈黙が満ちる。

「はぁー……何とかなった……」
おじさんは床にあぐらをかいて、冷や汗をふいた。
「よお。連れてきたぞ」
「ああ、ユンさん!ありが……えっ?」
おじさんはボクをじろじろ見て「これが?」と聞いた。アンディさんは黙ってうなずく。
「き、君っ……本当にユミさんの子供か?ユミさんはもっと……こう、けぶるような色気が……」
おじさんはがっくりと膝をついた。言ってることは分からないけど、ボクのせいでがっかりしてることは分かる。
「あ、あの……すいません」
ボクが謝ると、ハヌルさんが「謝る、だめ」と笑った。

「えっ?日本語?」
「うん。私……たち。日本語、分かる。勉強」
ハヌルさんは「チョグム」と付け加える。うーん……たぶん「ちょっと」的な意味?
「紹介しよう。こいつがラッキー・オム。元芸人で、ここの社長だ」
アンディさんは、土下座おじさんの肩をぽんと叩いた。
「初めまして、今村大樹です」
ボクがお辞儀すると、オムさんも「こんにちは」と日本語で返事をした。

「こんに、ちは……私は、チェ・ハヌル……です」
ハヌルさんはたどたどしく自己紹介する。左手でピースして、右手で丸を作って「スムサル」と言った。えっと、多分『ハタチ』ってことかな?ボクはもうすぐ十七だから、三つも年上のお姉さんだ。ボクは握手しながら、失礼じゃないくらいに見つめる。小柄なので、ジャージもだぼだぼだ。ピンクまじりの金髪に、ぱっちりと大きな瞳。ボクの視線に、ハヌルさんはちょっと照れて、髪を耳にかけた。

「お前は今日からここに泊まれ。三階が宿泊用だ」
「よ、よかったー……家なき子になるかと思った……」
ほっと胸を撫で下ろす。ボクたちがいる二階は、丸ごとオフィスになってる。トイレの扉には板が打ち付けられてる。……何を封印してるんだろ?わりと綺麗に掃除されてるけど、物は少ない。社長の机、ロッカー、本棚で区切られた向こうはホワイトボードがある。会議用のスペースかな?
「あれっ、何で椅子がないんだろう?」
「イス?ああ、椅子……ここ、ない。夏。から……オンドル、も。ない」
ハヌルさんが教えてくれる。オンドル……聞いたことはあるぞ!床暖房的なやつだよね?ボクの目が輝くと、オム社長は「オンドルは壊れた」と肩をすくめる。



ハヌルさんは知ってる単語と、あとはジェスチャーでがんばって伝えてくれる。どうやらこのビルを案内してくれるそうだ。ちょいちょい、と手招きされて、階段を下りる。
「ここ。一階、ダンス……やる」
「わあ、本格的!」
一階は大きなスタジオだった。床から天井まで、壁一面が大きなガラス窓で、まっ暗だったけど、外の明かりを反射して、きらきらと輝いていた。床もぴかぴかに磨かれている。小さなロッカールームとトイレも付いている。ボクもここで、たくさんの時間を過ごすんだろうな……。

三階に上がると、階段の終点には二つのドアが向かい合っていた。ドアにはハングルで貼り紙がしてある。
「ここ、男の子。部屋って、読む」
ハヌルさんは指さして教えてくれた。鍵がついてないドアは、あっさり開く。ハヌルさんは壁のスイッチを、かちかちと押しこむ。何回目かで、電気がぱっ、ぱっと明滅しながら点いた。ほんと、全てがボロいんだな……。

明るくなった部屋は、だいたい十畳くらい。へたったマットレスに、安っぽい毛布。雑誌やスマホの充電器、お菓子の空き袋。化粧品のボトル……色々落ちていて、わりと汚い。
(万年床……ってやつかな?同室の子と仲良くできるかなぁ)
箪笥が一つ。破れたカーテンのひるがえる窓ぎわに、小さな冷蔵庫。それが部屋の全てだった。
(ダニとかいそう……座ったらチクッてくるんじゃない?)
ボクは窓ぎわに荷物を置いて、自分が座る一畳分のエリアを作った。……座った瞬間、お尻をチクッと刺す痛み。ま、マダニじゃないよね……?

「はい、これで寝る」
ハヌルさんが出してくれたせんべい布団は、あちこち破けて綿が出ている。韓国って雪降るよね?こんなペラペラの布団じゃ、凍え死にそう……。
(だめだめ、しっかりポジティブ!)
ボクは自分の顔を叩いて気合を入れる。ハヌルさんはびっくりして「いたい、いたいだめ」と叩いた所を撫でた。

「……はっ!ハヌルさんはどこに……ボク、やっぱり外で寝ます!」
「落ち着け。女部屋はとなりにある」
いつのまに上がってきたのか、アンディさんが教えた。男子の寝室から出た、向かいの扉。しっかり鍵がかかるようになってる。男子部屋のドアはフリーパスなのに……。
「見ての通り、日本製ロックだ。合鍵を作れない特許付き。女子たちに用がある時はノックしろ」
ほっ。それなら安心だ。
「明日、私の……メンバー、紹介、する。あと男の子、一人は……家?帰っている。もう一人、学校。えっと……旅行。水曜日、帰る」
ふむふむ。男子のうち一人が実家、もう一人は学校旅行で明日には帰ると。だいぶハヌルさんの日本語を聞き取れるようになってきたぞ。
「じゃ、おやすみなさーい」
ハヌルさんは笑顔で手をふって、女子部屋に入った。
「お、おやすみなさい……」
ボクもふり返す。そういえば……女子とこんなに話したのなんか、いつぶりだろう?高校生にもなって苛められる弱虫なんか、無視されるのが普通だったし。
「今日はもう寝ろ。何を始めるにも明日からだ」
「は、はい」
「じゃあ、ゆっくり休め」
アンディさんが出て行くと、部屋は急に静かになった。
「そういえばWi-Fiって……」
スマホを出す。いつまで経っても未接続。ですよね……。そこで、ぐ~っと腹が鳴る。そういえば飛行機から何も食べてない。アンディさんは(わざと?)夕食なんてすっかり忘れて行った。何かないか……。
「うっ、ボクの天敵が……!」
冷蔵庫を開けると、キムチのタッパーがでん、と鎮座していた。冷たくてカピカピのご飯と、やっぱり辛そうなまっ赤なおかず。あとは……「おぉ、これ辛ラーメンの所だ!」
ボクは『農心』と書かれたパッケージに目を輝かせる。たぶんヨーグルト味のクッキーかな?袋が赤くないので、辛くはなさそう。ロッテのフルーツジェル……これも甘そう。ボクは生唾をごくりと呑んだ。うーん、迷っちゃうな……。
「……はっ、だめだめ!他人様の食べものだよ!」
ボクは自分の顔を強めに叩いた。冷蔵庫のドアを窓の方へ向ければ、もう開けられない!日本円しかないから買いに行けないし。退路は絶ってる。布団に包まって、眠くなるのを待つ。大丈夫。寝ちゃえば大丈夫!

渡韓一日目。
ボクはホコリっぽい匂いがする布団で、ぐっすりと眠った。ここは言葉も通じない外国で。連れてこられたのはオンボロのビルで。不安しかないはずだけど。ボクは不思議と『どうにかなる』ような気がしていた……。

       

表紙

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