Neetel Inside 文芸新都
表紙

花咲け大樹
三話『努力の賞味期限』

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夕陽に染まる商店街を、一人の少年がうつむき加減に歩いて行く。胸元には採点済みのテストやプリントが入ったファイルを抱えて、ぶつぶつと何か呟いている。
「二年A組の松田流威斗です。……日直なのでプリントを届けにきました……」
松田は口の中で何回も、同じ言葉を転がす。
「あの……お母さんが亡くなったって、聞いたんだ。色んなこと、考えたんだけど……あの、本当に……色々と、ごめんね。……ごめんね」
五番街に入った所で、ふと気付く。肉の焼ける匂いがしない。『肉食楽』はシャッターが閉まって、閉店のお知らせの貼り紙がしてある。あの牛の看板は片付けられていた。階段を上って、二階の玄関と向かい合う。インターホンを押そうとして、ためらう。ぐずぐずしていると、下から「ねえ、そこの子!」と呼ばれた。
「あんた、今村さん家に用?」
「は、はい……あの、先生がプリント……」
「そんなのもういいよ。あの子、出て行ったから。先生はまだ休学届けを読んでないのかい?」
食堂のおばちゃんは袖をまくって、シャッターのそばに残された段ボール箱や調理器具を片付け始める。松田は急に、胸に抱えたファイルがずっしりと重く感じた。どうしよう…と困った所で、ぴゅっと風が吹く。
「……あっ」
はみ出していたプリントが、風にさらわれる。松田は急いで、舞う紙を追いかけた。



小さな映画館の座席にボクは独り、ぽつんと座っていた。薄暗い中、映写機がかたかたと回転して、スクリーンに想い出が投影される。記憶の中で、母ちゃんはいつも笑っていることに気付いた。

「大樹、おかえり。今日は店で出す肉が残ったから、あんたの好きな青椒肉絲だよ」
「暑いのは分かるけど、窓は閉めて寝なさいね。あんたのふっくらしたお手々が蚊に刺されたら、母ちゃん嫌だからね」
「勉強はあんたのできる限りでがんばりなさい」

スクリーンの中から母ちゃんが語りかけてくる。なぜか涙が出なかった。そばにいなくても、心の中でいつでも会える。大人たちが代わる代わる言ったおためごかしが、本当のことなんだと分かったから。

「うん。水ばっかり飲まない。夜は日付が変わる前に寝る。ボク、全部ちゃんと覚えてるよ」
スクリーンの中の母ちゃんはいつのまにか、若いころの綺麗な姿に変わっていた。アルバムの一番後ろ、ほかの写真の下に隠されていた写真だ。豊かな黒髪をカールさせ、真っ赤なマーメイドドレスに身を包んでいる。人生の苦労を何も知らないころの顔が、同じ微笑みを浮かべながら、ボクを見つめてる。

「ボクのために、いつもお金のことを考えてたよね。同い年の人より早く白髪が生えて、脂ぎった肉の匂いが服に染み付いて……それで幸せだったの?」
夢と知りながら問いかける。若いころの母ちゃんは黙ってボクを見つめ返すだけ。答えは、ボク自身が出すものだ。
「ボクを産んでよかった……って、一回でも思ったことがあるなら。ボクはそれだけで一生がんばれるよ」
遠くから、ピピピ…と高い音。それがスマホのアラームだと思い出すと同時に、眠りの水面が破られた。

「んっ……変な夢」
ボクはごろんと寝返りを打った。その拍子に、腹肉が『ぽよんっ』とやわらかいものを弾く。感触的に……人肌……スマホを探した手が、水分を含んで滑らかな黒髪に触れる。こわごわと目を落とす。

美少年だ。ボクの腹に抱きまくらのようにしがみついて、すやすやと安らかな寝息をたてる。水分を含んだやわらかい黒髪のかかる二重まぶた。高く通った鼻。薄い色の唇……。
「ぅ、う……んっ?」
美少年はぱち、と目を開けて。ボクを寝ぼけた目で見て。ボクのお腹にかぷっと噛みついた。

「ギャー!!いたたたっ、ちょ、はなしてっ……!」
ボクはかん高い悲鳴を上げて、彼の頭をつかんだ。ぐいーと引っぺがした所で、ハヌルさんがドアを蹴破ってくる。
「どこ!?」
ハヌルさんはすりこぎ棒片手に、不審者を探して部屋を見回す。ボクのお腹をはむはむと食べている彼を見て「なんだ……」とすりこぎ棒を下ろした。
「ほら、起きて。夏偉シアウェイ
「んんっ……あれ、ハヌルジエ?」
美少年こと夏偉くんはやっと目を覚まして、ボクの腹から口を離した。よだれがつー、と透明な糸を引く。うぅ、ひりひりして痛い……。
「ごめんね、夢でプリン食べてた」
ミアネ、ってたぶん『ごめんね』的な意味だよね。プリン……プリンかぁ……。ボクのあだ名ってずっと豚か菌系統だったから、マシだよね。可愛いし……。夏偉くんはぺこ、と寝癖のついた頭を下げて謝る。まだ半分夢に浸った頭で、にへっと笑う。その顔が高校生と思えないほどあどけなくて。むくれていたのは、すぐ鎮火した。

「ハヌル姐ー、朝ご飯まだ?」
「はいはい、作るから。顔洗う!じゃなくて、まず自己紹介だよ!ほら、新しい友達がいるんだから」
ハヌルさんは韓国語だと、はきはき話すんだなあ。何言ってるか分かんないけど。
「大樹、彼は……夏偉。中国から来た。もうアイドル」
ハヌルさんはボクたちを「仲良し。仲良し」と握手させた。わあ、一日でアイドル二人と知り合ってしまった……。あれっ?でも夏偉くんって『学校旅行』に行ってる子だよね?帰るのは水曜日だって聞いたけど……何でもういるんだろう?



ボクたちは小汚い給湯室で顔を洗って、身支度もすませた。どうやら夏偉くんもちょっとだけ日本語が分かるらしい。ハヌルさんより綺麗な発音で、でもたどたどしく単語を並べて話す。彼は十七才と二ヶ月。ボクと同い年だ。『Sia』って名前で、ソロデビューしたばっかりなんだって。

(すごいなあ、同い年でこんなにがんばってるんだ……)
ボクはしゃこしゃこと歯磨きをしながら、となりの横顔を見つめる。夏偉は十二才でスカウトされて、すぐに渡韓したそうだ。もう五年も家族と離れて、外国で働いてるなんて……。
(ボクなんて、十三才のころは何を考えてたかな?学校で小突かれるのが恐くて、休み時間が気まずくて……あとは、食べることばっかり……)
急に自分が、恥ずかしくなった。お母さんにも会えないで、毎日努力している子がいるのに。ボクは苛められてることを言い訳にして、甘ったれて……。
(今まで怠けた分、これからは人の倍がんばるんだ!)
ボクは決意新たに、髪をとかした。

夏偉はボトルから化粧水をたっぷり出して、肌を潤した。名前の分からない、たくさんの種類の化粧品を顔につけて行く。ボクなんて冬もあかぎれ防止のバニシングだけなのに!
「このクリーム、私作った。シアバター、たっぷり。買うより安い」
ハヌルさんは瓶を指さして、ふふんと胸をはった。
「えっ、ハヌルさんが?器用なんですね!」
「うん。社長はお金ない。何でも私たち、自分でやる」
ハヌルさんは瓶を手にとって「大樹もぬる」とうきうき近付いてくる。
「わわっ、ボクはいいです!」
抵抗も空しく壁ぎわに追いつめられ、綺麗な指でいい香りのクリームをぬりぬりされる。ぎゅっとつぶった目を、おそるおそる開ければ。やけに真剣な顔がすぐそばにあって、落ち着かない!
「はい、できた」
「あ、ありがとうございます……」
顔をてかてかさせながらお礼を言ったボクに、ハヌルさんは満足げだ。うぅ、女子に免疫がなさすぎるなあ、ボク……。



「ガキども、屋上に行け!新しい朝だぞ!希望の朝だ!!」
アンディさんは拡声器を片手に、ボクたちを屋上へ追い立てた。ドアを開けた瞬間、強い風がぶわっと前髪を持ち上げる。

「うわ、風強っ……」
しかめた顔に、雨粒がぴしぴしと当たる。灰色の空から、小雨が降り注いでいた。屋上はそこそこ広い。テニスコートくらいの大きさに、古くて汚い洗濯機とドラム缶(まさかおふろ?)がある。階段ボックスの上にある貯水槽から柵までロープが張られて、洗濯物がひらひらと風にはためいていた。柵のそばには野菜のプランターが並び、まん中にはパラソルが付いた、四人がけのテーブル。

「あれテーブル、みんなあれ、ご飯」
ハヌルさんは食べる仕草をした。テーブルは雨ざらしなせいで汚れている。ボクは(掃除を手伝おう)と心に誓った。
「朝8時は国民体操の時間だ!朝一番で体を動かして目を覚ませ!」
ハチマキをしたアンディさんが、貯水槽の上から怒鳴る。ボクたちは一枚ずつスタンプカードを配られた。ラジオから流れる音楽に合わせて、みんなは渋々体操を始める。ラジオ体操的なやつかな?うん、運動苦手だけど、なんとかなりそう……オム社長もうとうとしながらやってる。……社長なのに弱いなあ、この人……ボクも横のハヌルさんを真似して、ぎくしゃくと体を動かす。

国民体操が終わると、アンディさんはハンコ片手に言った。
「よし、カード出せ。一ヶ月皆勤賞とったら、アイスクリームだ」
なぬ!?
「何でも好きなやつ買ってやる」
な、何でも……ボクたちはごくっと生唾をのんだ。スタンプカードを出すと、ドクロの印がぺたん、と押された。……ハンコのセレクトがひどい。



「朝ご飯はビビンパだよ!」
ハヌルさんはエプロンを付けて、袖をまくった。ボクはそばについて、作り方を習う。アイドルとして忙しい二人の代わりに、せめて家事はやらなきゃ!
「まずご飯を炊きます。夜も食べるから、たっぷり五合ね」
しゃがんで、洗濯用のホースからちょろちょろ出る水でお米を洗う。……衛生的に大丈夫?
「もやしと人参、ズッキーニを細切りにして、胡麻油で炒める」
プランターから取ったズッキーニは、とても太かった。たしか青果の八百八さんが言ってたな。巨大化したズッキーニは味が薄いって。味より量を取らなきゃいけないほど貧乏なのかな……。ハヌルさんはさくさくと野菜を切って、カセットコンロにのせた鍋で炒めたり、茹でたりする。
「野菜を味噌と胡麻、水飴であえたら、ご飯にのせてできあがり」
へえー、簡単そう……よ、よし。明日はボクが作るぞ!

みんなでテーブルについて、朝ご飯を食べる。ボクが座ると、椅子がぎしっときしんだ……。

「お、おいふい!」
ご飯と野菜をほおばると、野菜の旨みが口の中に広がった。野菜の自然な甘みと胡麻油がからみあって、食欲をそそる……!こりこりと歯ごたえのあるもやしとやわらかいご飯。よく噛むと、ふと母ちゃんを思い出した。母ちゃんも肉を入れないで、野菜をたくさん乗せてたなあ。
(母ちゃんがお店で作ってたビビンパに似てる……)
ボクはちょっとセンチな気持ちで朝ご飯を食べた。



朝九時。877プロダクションの一日が始まった。
「社長、学食のお金ちょうだい」
夏偉が手のひらを出すと、オムさんは渋々一万ウォンの紙幣をあげた。
「えー、これだけ?お腹空くよ。背のびないの、このせいだよ。高校生はお腹空くんだよー」
夏偉はぶーぶー文句を垂れる。
「お前のチビは遺伝だろ。あと、夜遅くまで起きてるな!」
「俺の一族はみんな大きいんだよ」
「じゃあ突然変異だ!ほら、さっさと学校行け!」
オムさんは夏偉の背中を押して登校させる。ボクが窓から手をふると、夏偉もにっこり笑ってふり返した。坂道を、同じ制服の子たちが下りて行く。……いいなあ。学校って。当たり前のころは、面倒くさいとか、憂鬱だとしか思ってなかったけど……。

アンディさんに呼び出されて、二階の会議室に行った。会議室といっても、スカスカの本棚で区切られただけの空間だけど……。
「よ、よしっ。この”レバレッジ”ってやつがいいらしいな。みんな、待ってろよ……もうすぐ美味いモン食わせてやっからな……」
向こうではオムさんがスマホ片手に株価を見ながら『寝ながらセレブになる方法』という本を読んでいた。

「よし、そこにハンコ押せ。それで契約完了だ。とりあえず外国人だし、商店街の人たちとの約束だしな。一年契約だ。うまくデビューにこぎつけたら、そん時はまた契約を話し合う」
アンディさんが出してきた書類に、ボクは日本語でサインした。どうやら韓国では七年の契約が普通らしい。一年。改めて目標についた期限に、ふんすっと気合を入れた。これでもう甘ったれたりサボったりできない。今日から365日が、最後のチャンスだ!

「大樹。聞きたいことはあるか?」
アンディさんはタバコを咥えて言った。ここ、火災報知器付いてないんですけど……。
「いっぱいありますよ!ボク、アンディさんのこともよく知らないし!あとキムさんは認知してないのに、どこからボクのこと知ったんですか!?あとオムさんとはどんな関係で、ここはどんな所で……」
「Stop!答えるのは一つずつだ」
アンディさんの目が、すっと細くなる。この人は優しいのか、恐いのかいまだによく分からないなぁ。

「まず一つ目。俺について教えよう……俺はアンディ・ユン。韓国名は……」
アンディさんは口の中でもごもごと発音した。
「え?なんて?」
「だから!……いいだろ!」
耳まで赤くしたアンディさんに、食い下がるのをやめた。なんだろ、よっぽど変な名前なのかな……。
「出身はロサンゼルス。だからお前と同じ”外来種”だ。オムとの関係は……渡韓したころからだ。あいつは売れない芸人で、俺”たち”の専属マネージャーだった」
「えっ、じゃあアンディさんは……元アイドル?」
「ああ。俺たちの活動休止で、オムも退社した。で、職を転々としたんだが……まあ、何にも向いてなくてな」
ちょっと分かる……。
「三年前。オムはこの”877プロダクション”を設立した。昔の伝手で呼ばれたが、俺はしばらく音楽PDの仕事が忙しくてな。ここに来たのはつい一か月前だ」

ボクはちらっとオムさんをふり返る。
「はあー!?この野郎、なにがロスカットだ!?レバレッジは少額だけど儲かるんじゃなかったのか!?」
オムさんはスマホを思い切りぶん投げた。……やわらかいソファに。まだ理性が残ってるらしい。肩で息をしながら、転がったスマホに目を落とす。
「ハァー、ハァー……いいぜ韓国株価、お前が俺を裏切るなら、本気出すぜ。三ヶ月、三ヶ月だ!家庭裁判所からの督促を無視して、SUNDAYのカムバ用に貯めこんでた養育費、全部ブチこんでやるぜ!!」
オムさんはぶつぶつ言いながら、スマホ画面を連打してる。
「これでダメなら女房の弟に殺されるか、ヤクザに殺されるか……大した違いはねえ!待ってろよみんな、天が俺を見放してなければ、今月初めての肉が食えるぞ……!」
オムさんは抽斗から出した通帳を見つめ、血走った目でぶつぶつ呟いている。意味は分からないけどやばい気がする……。
「何だ、何見てんだ!?人生に行き詰った中年がそんなに面白いか!?俺はなア、お前が絶対行かない兵役の時からなあ……!」
意味不明なダルがらみから逃れようと、アンディさんに向き直る。オムさんは「クソッ……こんなはずじゃ……」とめそめそ泣いていた。

「二つ目。お前をどこで知ったのか。……芸能界にいれば、マスコミも知らないことも多少は耳に入る。オムがしばらくユミのマネージャーをしてた関係で、名前だけは知ってた。キム・グァンスは敵も多い。Galaxy Studioはアコギな商売で有名だ。あいつに隠し子がいるのは、周知のことだ。まさかこんな”まんじゅう”とは思わなかったけどな」
うぐっ……悪かったね、母ちゃんに似てなくて!

「三つ目。この”バナプロ”について教えてやる。スタッフはオム一人。所属芸能人も合計で七人。お前が練習生になったから、八人。ハヌルは三人組ガールズグループ”SUNDAY”のリーダー」
アンディさんはホワイトボードに書きながら説明してくれる。
「夏偉……Siaはソロ歌手であり、”IRE4U”という四人組ボーイズグループのメンバーでもある。アイリーは活動休止中。バナプロはいま、SUNDAYとSiaで支えている」

ふむふむ。つまりまだ七人のうち、二人にしか会ってないのか。楽しみだなぁ。どんな人たちだろう?わくわくと想像をふくらませるボクを、アンディさんは無視した。

「大樹。韓国にはいくつの芸能事務所があると思う?」
「えーっと……100ぐらい?」
そんなの分かんないよ!ジャニーズしか知らないもん!
「答えは、4800だ」
「よんせっ……」
「まあ、開店休業の所をのぞけば1500といった所か。K-POPはもうかると思ったバカが、次から次へと、雨の後のタケノコみてえに設立しやがるからな」
アンディさんはちらっとオムさんを見て吐き捨てる。悪口はネイティブだなあ……。
「お前の親父が経営するGalaxy、SMエンタ、JYP……五つの大手事務所。ここからデビューする”A級アイドル”は、たっぷり金をかけてもらえる。必ずスターになれる」
「A級??」

アンディさんは、音楽番組の名前を一つずつ書いた。
「この六つの音楽番組のうち、一つでも一位を取れたらA級アイドル。六冠を取れたらS級。Melonなどの韓国の音楽チャートで一位を取ることも条件だ。あとはドームがサクラこみで埋まるか……とか」
「へえ。ジャニーズみたいなものかあ」
「男なら東方神起、BTSなんかはS級。ShineeあたりがA級だな。女ならKARAや少女時代がS級。Oh my girlやMAMAMOO、TWICEあたりはA級だ。EXOやSuperJuniorは大手だが……実質BとAの間くらいか」
おっ、さすがにボクでも知ってる名前が出てきた!

「その下に、資金力と人数で劣る中小事務所がたくさんある。BRANDNEWやCUBE……たいていは社長がプロデュースもする。このへんは二番手専用。つまり”B級アイドル”を量産する所だ。運がよければヒット曲が出て”A級”に上がるやつもいるがな」
「B級って……」
「男ならASTROとか、AB6IX、MCND、GOT7……女ならEVERGLOW、KISSOFLIFE……お前みたいなパンピーが知らない所は、みんなBだ。あとは2PMやSEVENTEENあたりも名前は売れてるが、ギリB級かな」
あっ、急に知らない名前ばっかりに。曲も多分聴いたことないなあ。
「まあ兵役で新曲が出ないとか、活動休止中とか……メンバー個々の知名度がないとか。そんな感じでAとBを行ったり来たりのグループが多いんだ」
アイドル戦国時代って感じだなあ……。

「じゃあ、中小事務所からはスターは出ないんですか?」
「ほぼ出ない」
アンディさんはきっぱり言い切った。
「なぜかって?新曲を作るのにも、音楽番組に出るのも、アイドルを美しくするのにも金がかかる。おまけにK-POPは金で宣伝しまくって、ファンと一体になって買い漁り、チャートをのばすのが王道。金のねえ事務所は、手札が足りないんだよ」
「うぅ、汚い大人の世界……あれっ、じゃあバナプロは?」
アンディさんはにっこり笑って、親指をゆっくりと下に向ける。

「中小のさらに下……超よわよわの、零細事務所」
ボクはごくり、と唾をのんだ。アンディさんはやけに綺麗な笑顔で説明する。
「明日にも潰れそうな、借金まみれのクソ企画会社。B級どころか音楽番組にもろくに出られない、C級アイドルしかいない。素人経営で火の車。それがここ。877プロダクションだ♪」

ああ、母ちゃん……親不孝なボクは、悪い大人の口車に乗って、とんでもない所へ来てしまいました。
「あ?なんか文句あんのか?こんな弱小じゃなきゃ、80キロの未経験デブなんか練習生にしねえぞ」
「90キロです」
「変わんねえよお前の8090問題、一年で解決しろよ」
「ば、バナプロって大丈夫なんですか?ボクがやせてデビューするまで、もちますか?」
「知らねえよ。まあ零細事務所はだいたい三年が寿命だ。そろそろオムに保険かけるべきかもな」
絶句するボクの後ろで、オムさんは「キェアアア!?」と奇声を上げ、スマホをとうとう放り投げた。スマホは壁に叩き付けられ、画面が割れた。

「うわあ、すっごい綺麗な陽射し……」
オムさんは窓ぎわでつーっと涙を流しながら、晴れた街を見下ろしていた。彼の足元で、粉々に画面が砕けたスマホはピコピコと健気に、借金取りからの鬼通知を鳴らしまくっていた。

渡韓二日目。ボクは877プロダクションの練習生になった……。全てを失ったオムさんは逃亡し……借金取りのお兄さんは、日本語で命乞いをするボクに、同情のまなざしを向けた。お兄さんはがんばれよとだけ言って。オムさんを探しに、ネットカフェ周遊の旅に出ていった。ボクがバナプロのくわしい懐事情を知るのは、もう少し後の話だ……。

       

表紙

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Neetsha