Neetel Inside 文芸新都
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青春小説集「リンだリンだ」追加
「ニュー・シネマ・パラノイア」

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※いくつかの作品についてのネタバレがあります。あと青春小説にはなりません。

 近頃家族で動物アニメ映画を続けて観ている。
「ロイヤルコーギー」「ドッグス!」「ペット2」どれも面白かったが、流れで観た「スタードッグ&ターボキャット」という映画がイマイチだった。しかしつまらない、と憤るのではなく、どの辺りに自分は乗り切れないのか、どの部分がこの映画の魅力を損ねているのか、それでもいいところがゼロというわけではないから、長所をなるべく見つけようとする、といった鑑賞の仕方をしていた。面白い映画は夢中になって観るので、そうした思考の隙間は生まれにくい。となると、面白くない映画にも、思索の幅を広げてくれたり、これまでとは違う物の見方や考え方を与えてくれるという意味で、意義があるのかもしれない。

 Wikipediaでの直訳調の愛の欠片もない文面から読み取れる通り、興行収入もかんばしくはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%B0%26%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%88

 この映画の欠点と感じたことを分析してみると

・世界観に入り込めない
 主人公のバディが50年前に宇宙へ旅立った時と違い、動物は迫害されている状況にある。その経緯がよく分からない。動物たちは二足歩行で歩き、機械を操るが、その点についても納得できる説明はない。

・ダブル主人公
 犬のバディと猫のフェリクスがダブル主人公のような形を取っている。しかし魅力的な描写の後に、醜態を晒す系の描写がしつこい。結果、どちらにも好感を持ちにくい。終盤では子どもを助ける猫の姿でやや盛り返す。

・しつこい、くどい
 何かにぶつかったり、犬特有・猫特有の失敗描写がしつこい。

 この映画の欠点と思われるような部分を分析することで、自作にも生かすことができる。つまりどれほど突飛な世界観であろうと、読者が納得できるような説明があればいい。主人公は一人に絞り、魅力的にする。何かを上げるために何かを下げる、といったやり方はしない。しつこい描写はしないでおく。

 何をしていても創作に結びつけて考えてしまう。朝、娘に上記のような考えを話したら「まるで作者みたいな考え方だね」と言われてしまった。

 青春についてもそうだ。「次はどのような青春小説を書こうか」と。まるでこれまで様々な青春小説を書いてきたような素振りで。だから読んでいる本に突然「青春」という文字が出てきて驚いてしまった。羽田圭介「滅私」の終盤である。語り手は物を極力減らしていく生活を推奨し、シンプルなデザインのブランドの商品監修や、ブログ執筆、株式投資などで生計を立てている。読み進めていくうちに、人畜無害な風な語り口でありながら、過去にはえげつないことをいろいろやらかしている男であることが分かってくる。その代償のように、彼に復讐しようと近づいてくる者もいる。これまで積極的に物を持たない生活を続けていた男が、ゴミ屋敷に侵入してから少しずつ変わり始める。恋人にもこれまでとは違う語りかけをする。しかし恋人の心はとっくに離れてしまっていた。語り手は全く気付いていなかった。
 
 恋人の心変わりの直前のモノローグで「青春」は現れる。
「青春時代のことを含めて、自分をかえりみる。」何気ないその一文にどうしても私は引き付けられてしまう。「伝説のミニマリスト」の残したゴミ屋敷を何度も訪れるうちに、主人公は無用の極みであるかのようなアート作品を作り始める。復讐のためにつけ狙われていた男との関係は、いつの間にか気安い飲み仲間のような雰囲気になってしまっている。なんだか青春真っ盛りのようなものと思っていたこちらとしては、語り手的には老後のような感覚だったのか、と思わされてしまった。

 といったことを踏まえないで、映画館デートの場面を書いてみることにする。そんなことは一度もしたことがないけれど。


 彼女が映画好きだというので、勇気を出して映画館に誘おうと決意した。しかし新作映画はどこの映画館でもやっていないし、恋愛系の映画フィルムとデータは全て政府によって破棄されてしまっていたから、街で唯一の映画館で観られる作品は限られていた。

「コマンドー」
「ランボー」
「馬鹿が戦車でやって来る」
「マッドマックス2」
「網走番外地」
「キル・ビル」
「GONIN」
 
 これら七本の映画が曜日ごとに入れ替わる。悩みに悩んだ末私は「馬鹿が戦車でやって来る」をチョイスした。兄がこの映画に女友だちを誘った話を聞いたことがあったからだ。その後二人は付き合えたというわけでなく、女友だちは戦車マニアとなり、今では先の戦争で打ち捨てられた戦車で形成されたスラム街の住人となってしまっていた。でも戦場で銃を乱射したり、刀を振り回したり、脱獄されたりするよりは、発射されない砲弾のついた戦車を愛でるくらいなら、何でもないことと思われた。

「映画の無料券もらったんだけど、一緒に行ってみない?」
 決意を固めたあの日から三か月後、ついに私はかねてから片思いしていた相手、ガダにそう声をかけた。
「ひっ」と彼女は喜んでくれた。決意の日からあまりに長く時間が経ちすぎていたせいで、私たちは既に同じクラスではなくなっていた。というか学校はもう卒業していた。彼女とは近所のスーパーで偶然出会った。風を装って近づき、映画の無料券をひらひらさせて、鼻息を荒くしながら声をかけたのだ。怖がられるのは当然だ。それくらいのことは私にだって分かっている。

「無料券なら私も持ってるし、それに私、結婚してるんだけど」
 そう、ガダは私が彼女を映画に誘うことを決意した日から一ヵ月後に、アルバイト先の社員さんと付き合い、卒業と同時に結婚までしていた。私がつけ入る隙は既にどこにもなかった。
「『馬鹿が戦車でやってくる』がいいと思うんだ。他のはちょっと血生臭いし」
「あの映画も結構なもんだよ。あとあなたとは映画に行かないよ。確か同じクラスだったよね? 名前は思い出せないけど」
「うんうん。でもね、その時の気持ちに合わなくても、後から人生の一場面で突然映画のワンシーンを思い出したりすることってあるよね。自分に合わないなと思ったら、どうして自分に合わないのだろうとか、この人物の性格をこう変えたらもっと面白いのに、とか、でもどこかにこの作品の魅力的なところはあるはずだ、とか、いろいろなことを考えるきっかけになるから、つまらない映画なんて結局はないんじゃないかなって思うんだ」

 既に私の渡した映画無料券は床に落ちてしまっているし、彼女は私を置いてスーパーのレジを済ませて、様々な食品をエコバッグに詰め始めている。私の話を聞くのはカニだ。新鮮さを強調するためか、まだ生きたまま陳列されて、客の指を挟まないようにハサミを輪ゴムで縛られているワタリガニだ。

「恋愛映画が消滅しても、人々は恋愛を止められないでいる。青春小説が焚書されても、人々はあるはずだった青春を追い求めてしまう。君を映画に誘うことが遅過ぎたから、君と私との恋愛は始まらなかったし、君は違う誰かとくっついてしまった。何もかもが今さらで、全てが遅すぎていることくらい気付いている」
 私はワタリガニのハサミを縛っていた輪ゴムを解いてやり、ハサミの間に映画の無料券を差し入れる。政府が全世帯に配る、何の価値もないその券を、カニはちっとも断ち切ってくれない。ガダはとっくに店を出た。

 破られなかった券を持ち、結局私はワタリガニと一緒に「GONIN」を観た。みんな死んだ。ワタリガニもその後長くは生きられなかった。


 映画館デートの話を書くのは難しい。

(了)

 あとがき

 また題名が後からパターンだったので、元ネタの「ニューシネマ・パラダイス」に関してはちゃんと観たわけではありません。青春といえば映画館デートだよね、ということで、ごく自然な形でそこまで持っていく話を書いてみました。結論としては、どのような経験も何かしら生きることがある、ということです。そういうことにしておきます。近所のスーパーに買い物に行くと、まだ生きていながら発砲スチロールの中に陳列されているカニに、いつも挨拶しています。中には手が数本落ちているのもいます。買いません。

     


       

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