Neetel Inside 文芸新都
表紙

クーライナーカ
『九』

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学生の身分として学校の終わりはなんとなく一日の終わりに近いイメージがある。
ちょうど山の頂上にたどりついてすこし休憩した後に、
さぁ帰ろうと思い立ったときによく似ている。
なんとなく一日がほっとする一瞬なのである。
冬のために日が落ちるのも早いこの時期ではそのイメージはひかりの中でより鮮明に焼きついていた。ただ今日だけは特別である。
まだ学校に残らなければいけない。
ひかりは六限が終わった瞬間にそれを決意した。善は急げというものだろう。
沸騰した水のように周りが慌しく動いているその間を
ひかりは松葉杖を自在に操って縫うように進む。
騒がしさが激しくなっているこの教室でひかりの松葉杖を使う音はそれほど大きくはなく、簡単に消えてしまう。
それは今のひかりにとっては好都合なことだった。
目当ての人間のところまで、しかもその人間に気づかれずにやってこられたことに
ひかりはにんまりと口を綻ばせる。
ひかりは細心の注意を払いながらゆっくりと、
ちょんちょんとこだまの肩をつつく。
肩をつつかれたこだまは数秒間動きを止めて、
首だけを回してひかりへとその目を向けた。
ややつりあがっているその表情はどこか不機嫌そうだったが、
それがこだまの普通の表情であることは世界中で一番ひかりが知っている。
その目がさらに吊りあがらないうちに手短に自分の一大事を説明しよう。

「今日の授業。課題大量。私大変。」

ここまで言えばこだまなら分かってくれる。
ひかりはロボットみたいな片言で口をわざとらしくパクパクさせる。
即興で思いついたこだまを笑わせるひかりなりのギャグだったけど
こだまはくすりともしなかった。
ひかりの鼻面をみながらこだまは自分の頭を撫で回してため息をつく。
外野が騒いでいるからこだまの息遣いはひかりの耳にまでは聞こえなかったものの
こだまがどう思っているかはよく理解できた。

「一人でできないの?」

ひかりに対抗するように最後だけ語尾を上げてこだまも棒読みをする。
ひかりが次にどう返すのかは承知の上なのだろうが一応聞いたのだろう。
しかしひかりがそれで考えを変えるのを期待するなら宝くじを買ったほうがましだ。
ひかりは松葉杖を持っていない手を横に広げ、大きく手を振り上げた。
文字通りお手上げのポーズだ。
さわがしくて二人の会話など他人が聞き取れないこのクラスでも
ひかりのその体制は目立っていた。

「一人でやると消化不良を起こしそう。」

こう言うとこだまは十中八九一緒に課題を手伝ってくれる。
確信に似た喜びを飴のように舌で転がし味わいながら、
建前は困ったように半泣きをして目を潤ませる。
朝から降り続いている雨が窓を小刻みに叩いてこだまを急かしているようだった。
雨に小突かれ目には見えないほどにゆれているであろう窓をこだまは一睨みした。
そしてこだまは半ば諦めたように目を閉じ、ゆっくりと頭を横に振る。
ひかりがもしも松葉杖を持っていなかったら両手でガッツポーズを作っていただろう。

「のぞみは誘わないの?」

こだまは手で乱れた前髪を戻す。
その手つきに従って腰にまで達しているこだまの後ろ髪までわずかに揺れていた。
クラスでここまで髪を伸ばしている女子はこだまぐらいしかいない。
物静かな彼女がクラスでしっとりとした重い存在感を放っている理由の一つに
これがあげられるぐらいだ。
おそらく学校中でもこだまぐらいまで髪を伸ばしている人はいないだろう。
ひかりはその動きにちょっとだけ見とれていて
自分が質問を投げかけられていることを忘れそうになっていた。

「誘おうと思ったけどもういないのよ。」

騒がしさもピークを過ぎた教室をひかりとこだまはざっと見渡す。
どこを探してものぞみのトレードマークである短いポニーテールを
見つけることはできなかった。
何人かの生徒が掃除を始めて机を動かしている。
邪魔にならないように端に退避しながら二人は
のぞみがもう教室にはいないことに気づいた。
もう残っている生徒は両手で数えるくらいしかいない。
あれほどさわがしかったこの教室も今は雨音のほうがひかりの耳に届いていた。
ひかりはむぅっとうなった後に口をおおげさに動かす。
偶然と感じていたけどそろそろその認知は間違っていたと
分からなければいけないようだ。
のぞみがこうひかりよりも先に帰るという状況は連日続いていた。
のぞみは少しつきあいが悪い。
ひかりを避けているのではなくどちらかというと
何かに夢中になっているといったほうが正しい。
近頃ののぞみは授業、休み時間、昼休み、登下校の時間のいつも考え事を
しているようで現実のことに上の空な気がする。
その証拠として一回で呼びかけて気づいた試しがない。
授業中にのぞみの様子を盗み見しても
のぞみは鉛筆を口にくわえて定まらない瞳で前を向いている。
それが何時ものことでひかりは心配を通り越してすこし不安になっていた。
のぞみが何かに悩んでいることはよく分かる。
けど何に悩んでいるのかはいくら考えても見当がつかなかった。
ひかりが複雑な顔をしている横で
こだまはのぞみがいないことにはあまり感心がなさそうにしている。
窓を覗いて外の様子を見ているほうが今は大切のようだ。

「先に図書室で待っていて。後から行く。」

ずっと外を見ていたこだまがぽつりとささやいた。

「あっ。分かった。」

のぞみがいないことがちょっと引っかかるけど明日になればまた会える。
のぞみには少し悪いけど今は課題を何とかするほうが重要である。
それならこだまと二人でもいい。
こだまが加われば百人力だ。
課題なんて赤子の手をひねるように簡単に始末させてくれるに違いない。
自分の判断が正しかったことに納得してひかりは図書室へ向かう。
こだまがひかりとの約束をほっぽりだすことなどひかりの頭の中にはなかった。
のぞみと違ってこだまはひかりのそばにいてくれる。
ひかりはそれを信じて疑っていない。

     



 放課後までどれほど待ち遠しかったことだろうか。
六限が終わるまでの数十分間、こまちは高ぶる気持ちを必死で抑えながら
うずうずしていた。授業が終わると同時に先生よりも速く教室から飛び出していく。
帰りの支度などすべて後回しである。
先生が廊下を走るこまちに向かって何か叫んでいたけど
こまちはその怒号を片端から無視して走り続けた。
かび臭い廊下の先は暗いおかげでよく見えない。それでもこまちは走り続けた。
スカートのポケットに入れていた鍵を握り締めて生徒会室へと急ぐ。
誰かにぶつかろうと知ったことではない。全ての優先事項は目安箱を開けることにあった。



 静かだった授業中の分まで騒ごうというのだろうか。
放課後の学校はどこも生徒の騒ぎ声が支配している。
外には冷たい雨粒を降らせている雲が学校をたっぷりと見下ろしているが
その中の生徒たちはそれを意にも介さずに自分たちの思い通りな行動をしている。
暗い外の分まで明るく振舞っているようだと思いながら
こまちは階段を二段飛ばしで上がっていく。しかし何事にも例外というものがある。
それが生徒会室だろう。
今は分からないがつばめがいた頃はここだけ不気味に静まりかえっていた。
こまちがどれほど忍び足であるこうともその音がもれてしまうほどであった。
触らぬ神にたたりなしということのいい例であったと思う。
つばめのことを知っておきながら生徒会室の前ではしゃぐのはよほど命知らずな人間か
正真正銘の愚か者に違いない。
そしてこまちは生徒会室前の廊下で息を整えていた。
やはりこまち以外に誰も見かけない。
それほど生徒会室というのは近寄り難い空気の元となっているのだろう。
絶え絶えになっている息づかいを治しつつ
こまちはポケットの中にあるものを取り出した。
光を存分に反射しているその鍵はこまちの手のひらの上で
ひんやりとした感触を与えてくれる。
その形を見たときにこまちは荒い息づかいが完全に治まった。
鍵を持っているというだけでなぜ目安箱を開ける気分になったのかは
すぐには分からなかった。
今その理由を考えるとすればその鍵が目安箱の鍵かということを確かめるためだろう。
それがひいてはこまちが生徒会の書記であったことを証明することになる。
あいまいでしかなかった自分の記憶を肯定する決め手を得られたということだ。
そこまで考えがまとまったところで
こまちは生徒会室の前で目当てのものを見つけることができた。
両手でちょうど抱きかかえられる大きさの箱が生徒会室の前で
一寸も動かずにたたずんでいる。
立方体の一つの面は長方形の形で切り抜かれていて、
細長い口を開いているように見えた。
金色の金属でできているその箱の体がこまちの顔と天井を映している。
ところどころについている傷を見つけるたびにこまちの胸に懐かしさがこみ上げてくる。その思いは久しぶりだ。
これを開けるのはこまちの役目だった。
一週間に一度のペースでこの鍵を使っていた。中身に空気しか入っていないのを見ると
目安箱がぽっかりと口を開けているその様に同情してしまう。
開ける経験を増やすたびに今回も手紙が入っていることはないだろうと
あまり期待はしなかった。
だけどたまに手紙が底にたまっているのをみるとうれしさに胸の鼓動が高鳴った。
こまちが生徒会に入って初めて役に立った行動ができたと実感した瞬間だった。
だからこまちは定期的に目安箱の中を開いた。
中身が空でもそうでなくてもいい。
ただ目安箱を開いたときに感じる充足感は何事にも変えられない。
そのときに自分が生徒会員であると自信が持てる。
目安箱がこまちのやる気とやりがいを生み出してくれていた。

「さすがにバナナはおやつに入りますかっていう質問が入っていたのには驚いたな。」

今となってはいい思い出になっているその意見を思い出してこまちは苦笑する。
そんないたずらを面白半分で聞いてくる生徒がいることに驚いたけど
もっと仰天したのはそれを白黒はっきりさせようとしていたつばめだった。
そしてこともあろうにそれを代表委員会で提案して見事白黒はっきりさせた。
本人はいたって真面目であるから代表委員のみんなはなおさら始末に困っていた。
その後の修学旅行のしおりには持ち物の欄に
バナナはおやつに入らないと書いてあった。
その質問を書いた人は今頃どう思っているのだろう。
どんどんと思い出があふれてくるその目安箱の表面をそっと小さくて
細い自分の指でなぞる。
指先についたわずかなほこりをぬぐってこまちは行動を開始した。
目安箱の背後に取り付けられている南京錠をつかむ。幸いにも周りには誰もいない。
南京錠をはずせるのを確認したらまた錠を閉めなおす。
そしてここから離れればいい。
間髪いれずにやれば一分ともかからないはずで簡単なことに違いない。
だけど南京錠の差込口に入れようとしたところでこまちはちょっと戸惑ってしまった。
鍵を持つ手が意志に反して震えている。もしもこの鍵が入らなかったら、
それはこまちの記憶が全て偽りのことであるということを示してしまう。
差込口の前に鍵を入れようとしたままこまちの動作が完全に止まっている。
入れるべきか入れざるべきか? どちらに決めることもできなくて
こまちはその中間で揺れていた。何もできなくてただ時間だけが過ぎていく。
こまちにはその感覚さえ失っている。
南京錠を見ているのが耐えられなくなってこまちは目を泳がせた。
目安箱からそれを置いてある小さな机、そのまま床、
壁を目で追いかけ最後に見たのは生徒会室の扉だった。
それと同時にこまちの中で自然とつばめの顔が思い出された。
今日の午前中には思い出せなかった彼女の顔を頭の中に描けること。
それがこまちの背中を後押ししてくれた。
震えている右手に左手を包み込むように添える。
やわらかくて温かい手触りがこまちに勢いを持たせる。
こまちは唇を強くかみ締めて覚悟を決めた。開かなければ開かないでいい。
それでも自分がつばめを探すという目標はまだ失われないだろう。
南京錠を掴むと一気に差し込んだ。
覚悟を決めたとしても目をつぶって何も見えないようにしてしまうのがこまちらしい。
いくら押し込んでも鍵を進めることができなくなったのを確認して、
こまちはゆっくりと目を開けた。
徐々に広がっていく視界の中で見えたのは鍵を根元まで咥えている南京錠だった。
期待感が一気に膨れ上がりながらもゆっくりと鍵を回した。
何かがはじけたような音がして南京錠が開く。同時にこまちに圧倒的な安心感が訪れた。やっぱりこの目安箱を作ったのはこまち以外の何者でもない。
そしてつばめがいたということにもなる。
こまちの顔にも花が開いたように笑い顔が咲き、鍵を開けた反動で
目安箱がゆっくりと口を開く。

     


こまちはそしてすぐに微笑むことができなかった。
中身から出てきたものに普通に驚いて数歩後ずさりをしてしまう。

「何これ……」

わずかに開いた目安箱の隙間から一枚二枚と紙切れがつぎつぎとこぼれていく。
そして目安箱の口が全開になってからは大量の紙切れが吐き出され、
床にひらひらと散らばっていった。
それらが落ちていく音を聞いているのはこまちだけである。
すべての紙は一瞬だけ見ると黒かった。
しかしそれが黒い理由は鉛筆でびっしりと
小さな文字が書かれているからであってもとはただの真っ白な紙だ。
徹底的に余白を残さないこの書き方にこまちはこれを書いた人は
どれほど余裕がないのかを考えてしまう。
一つ一つの紙はノートのページをちぎったもので大きさもばらばらだった。
切れ口も乱暴に引きちぎっている。
手ごろな紙を用意する時間がなかったのか
その様子はこれを書いた人がかなり焦っていたことを物語っている。
目安箱に紙が入っているのは当然のことではあるのだがこの量は常軌を脱していた。
こまちは唇を震わせてそれらをずっと眺めていた。
あまり長い間見ていたいものではないけど、なんとなく自分と無関係とは思えない。
窓の外では二羽の雀が木の枝に止まり学校の中を覗いている。
ときどき羽を広げたり、木の上をまるでステップを踏むかのように渡ったりしていた。
うきうきとしたその様子は雨という天気に気づいていないかのように軽やかだった。
こまちは窓の外を見ることはなく手紙から目を離さなかった。
二羽の雀はそれに気づいたのか残念そうに木から飛び立っていく。
こまちはずっと見ているうちにそれを手に取りたいという衝動に駆られた。
慣れというものか。見ているだけでは初めに感じた戸惑いはもう現れなかった。
それとは別に疑問がこまちの頭の中で形作る。これを書いた人は誰なのだろう? 
動揺を乗り越えて落ち着きを取り戻したこまちは絡まった糸をほぐすように
慎重にかつ冷静に思考をつないでいく。
こんなに紙がたまっているということは
今の生徒会はこれを調べていないのではないのか。
そしてこの手紙はこれを開けようとする人間に向けてかかれたものであるとしたら、
この手紙はこまち宛のものなのかもしれない。
いやそうに違いない。こまちは震える手をその手紙へと伸ばしていく。

「あらあなた。こんなところで何をしているの?」

不意を突かれたせいでこまちは叫びそうになったけど
ぎりぎりのところで落ち着きを取り戻した。
すんでのところでその言葉を飲み込む。
他に誰もいないことは明白である。
それならこの言葉はこまちに対して向けられたものであることは間違いないだろう。
背後から確固たるけはいをひしひしと感じてこまちは振り返った。
高い。こまちが小さいこともあって
彼女の背の高さが威圧となってこまちに大きくのしかかってくる。
こまちの先輩であることを示す赤色のリボンが胸元にある。
こまちの青いリボンとは違いこの暗い中でもそのリボンの赤はとても目立っていた。
上から見られているせいで気まずさが体の中を駆け巡る。
けど彼女はそれに気づいていなくこまちがなぜここにいるのかに興味があるようだ。
そしてこまちの後ろでばら撒かれている手紙の塊に気づいた。
冷や汗がこまちの頬をたらりと伝ってゆく。
開いた目安箱とばら撒かれているほぼ黒い色の手紙を見て
真っ先に自分と関連付けてしまうかもしれない。
なんとかしてごまかさなくてはいけないと
彼女に話しかけられたときから思っているのだけど
それを打破するいい言葉も行動もさっきからさっぱり浮かばなかった。
そして案の定不信そうに彼女はこまちをにらみつけている。
この人は自分に何か気持ち悪いことを飛ばしていた。
敵意とは少し違うかもしれないがぬっとりとした何かが
こまちの頭の先からつま先まで調べまわしているようだ。
こまちはすぐに感じた。
彼女はこまちがなぜ開いた目安箱の前に立っているのかを探っている。
彼女はやがてこまちがこの目安箱を開けたことにたどり着いてしまうだろう。
自分がこの目安箱を開けたことはなんとかして隠さなければならない。
頭を全力で稼働して、言い訳を考えなければならない。
とにかくこの人に目安箱を開けたのは自分だということを気づかれてはいけない。

「えっと……走っていたらつまずいて、
たまたまそばにあったそれにぶつかっちゃって……それから……」

こまちの説明をよそに彼女はちらばった紙を踏まないように慎重に動いて、
紙切れの群れの前で座り込む。
紙切れの黒よりも黒い彼女の髪の毛が彼女の背中にぴったりと張り付いていた。
透き通るように白い指先が何にも混じりそうにない黒い色の手紙をなぞってゆく。
彼女の意図が分からなくてこまちはスカートの裾を握り締めながら
その背中を見ているしかなかった。
自分の弁明を彼女が信じてくれたのかは全然自信がない。
こまちの言葉を最後まで聞いてくれなかったのがどうなるのかは考えたくもない。
びくびくしながらこまちは次に彼女が何を言うのかを待っていた。

「ふぅん。まぁ別にいいわ。」

彼女は立ち上がると周りを見渡した。
そしてもう一度座り込むとばらばらになった紙切れを集めて
目安箱に無理やり押し込んだ。
こまちは彼女のしていることを後ろでただ眺めていた。
南京錠にはこまちの鍵がささったままになっている。
何よりもまずそれを抜き取りたいのだがそれをやる機会が巡ってくるとは思えない。
彼女はこまちに背を向けているが彼女がこちらに注意を向けているのは
痛いくらいに感じていた。
この分では彼女の目を盗んで鍵を取るのは無理にちがいない。
せめて床に散らばっている紙束のうちの一つぐらい拾いたかったが
それもかなわぬ夢だろう。こまちは手をこまねいて見ているしかなかった。
そうこうしているうちに
彼女は手紙を纏め上げて目安箱の中に入れなおそうとしている。
焦燥感がくすぶり始めていた。それが欲しいと言いたくても言えない。
だけど何としても欲しい。
起死回生の策を簡単に思いつけば苦労しないのだけどそれが全然思いつかない。
くすぶった焦りが激しく燃え上がる。なんとかしたい。
何も思いつかないがここで諦めたくはない。
あの紙切れが欲しい。必死に何か思いつかないか周りをすみずみまで探す。
そしたら偶然こまちはそれを見つけてしまった。
彼女の後ろに一つだけ紙切れが残されている。
彼女はまだ気づいていない。
こまちは一度躊躇したけどさっと近寄り本能的にそれを拾い上げ、
自分のポケットの中に押し込んだ。彼女はずっと目安箱のほうを見ていた。
これならばれていることはなさそうだ。
拾った瞬間を見られたことはなかっただろう
。こまちはちょっとだけほっとした気分になって
結局運でなんとかなった自分に半分呆れていた。

「この鍵はあなたのものなの?」

彼女は南京錠に刺さったままの鍵を指差している。
なんかその聞き方がいやらしかった。
こまちの答えを望んでいるというより彼女の望みどおりの
答えにこまちを誘導させようとしているような聞き方だった。
こまちはもうどう答えるかは考えている。というよりこれしか答えようがない。

「違います。」

「そうよね。あなたが生徒会に関係していないものね。」

服についたほこりを叩き落とし、彼女は腰に手を当てて再び周りを見回した。
そして鍵を引き抜くと彼女のポケットにしまう。
こまちは彼女に恨めしそうな視線を飛ばしていた。
同じ女子でも見かけることはない長い髪がその動きに合わせて揺れている。
ほんの小さな動きでもその髪の毛の揺らめきはこまちにはかなりの印象的なものだった。それがこまちの脳を引っかく。こまちはそれがきっかけで思い出した。

「前にすれ違いませんでしたか?」

「そう?」

「ちょっと前に……図書室でのことだったと思います。」

「そうかしら?」

彼女は天邪鬼のように微笑んだ。
ばかにしているようなのがこまちのこめかみを刺激させる。
不適に微笑んでいる彼女とは逆にこまちは眉毛を吊り上げて
彼女を下からにらみつける。しかし彼女はずっと笑い続けていた。

「気のせいじゃない? 私はもう帰るわ。友達を任せているの。」

ぽんと肩に手を叩かれて彼女はこまちの横を通り過ぎる。気のせいではない。
こまちは絶対彼女と図書室ですれ違った。自信を持って言える。
あの雰囲気を別の人と間違えるはずがない。
けどここで以前に出会ったか出会わなかったかを論議しても
それはただの押し問答で終わってしまう。
言いたいことが言えなくて、肩に置かれた手の重さが
それを裏付けているようでそれがなんとなく悔しかった。

「またね。こまちさん。」

肩の重みがなくなる。こまちは身震いをして彼女が消えるのを待っていた。
なんというか……彼女は危険だ。こまちさんと呼ばれたときに
自分が今まで感じていた彼女の抵抗をやっと言葉に表すことができた。

「……んっ? あれ?」

     



 ひかりが図書室に到着してから三十分ぐらいしてこだまは現れた。
こだまが姿を現したときひかりはほっとした。
ひかり以外の人間が周りに居なかったからだ。

「分からないところがあったら私に聞きなさい。
 肩代わりしてもらおうとか思っていたら今すぐ帰るわ。」

図書室に並べられている自習用の長机に二人は並んで座りながら
課題を始めるためにノートを開く。
なに、多いといっても限りなくあるわけではない。少し骨を折れば終わるはずだ。
教科書を目の前にひかりは勝ち誇っていた。しかし現実がすぐに直面する。
初めの内はそうたかをくくっていたのだけど思うように問題を解けない。
砂利道を自転車で走行しているようなものだ。思いもがけないところでつまずいてしまう。一つ難関を乗り越えて後、
自分が後いくら難関を乗り越えなければいけないのか確かめるときに感じる絶望感にも
そろそろ鈍感になってきた。三問のうち一つは分からないものにぶち当たる。
五分ほど頭を働かせて見るがやっぱり無駄な努力だった。
そういうときは遠慮なくこだまに甘えるのだった。
こだまはひかりが行き詰っている問題をざっと眺めると
考えるそぶりも見せずに粛々と解説をひかりのノートに記していく。
けっして直接、問題の答えを書くことはなく、
ひかりをそれへと導かせるような絶妙な説明をする。
ひかりは答えをずばりと教えてくれたほうがいいのだが、
こだまの解説に口を挟まず真剣に聞いていた。
こだまの説明は彼女の性格とは打って変わってかなり分かりやすいものだからだ。
それにひかりがこだまの説明で問題を正解すると、こだまは表情を和らげてくれる。
あまり自然な動きではないが確かにこだまはその仏頂面をやわらかくしてくれるのだ。
そしてひかりに憎まれ口をこぼしながらも笑いかけてくれるのである。
そのめったに見せることのないこだまの表情が見たくて、
ひかりは少しがんばってみる気になるのだった。
それに課題を消化している間ひかりは自分なりにこだまのことを気遣っている。
なるべくこだまの邪魔をしないように最大限の努力をしているのである。
だけどこだまならひかりと共に課題をしなくても自力で済ませてしまうだろう。
それに気づくとやっぱりこだまもひかりを気遣っていることを知ってしまうのだ。
こだまはどうしているのだろう。
教科書の文字を目の前にしてひかりはいつもそのことを頭の片隅にとどめてしまう。
だいたいは想像できるがひかりは横目を使って隣に居る友人を盗み見た。
案の定こだまはここが自分の家であるかのように落ち着いて
ノートの上ですらすらと鉛筆を走らせている。
そのこだまの姿にひかりは自分がここではなんとなく浮いているのではないかと
心配になった。椅子の脇に松葉杖を立てかけているだけでも目立っているのである。
そう思うの無理もないだろう。しかしここは人が寄り付かないことで有名な図書室である。いつもは人が居なくて残念だとひかりは思っていたが
このときばかりは図書室の人気のなさにありがたみを感じていた。
こだまの脇には課題とは関係ない本が数冊山積みにされている。
九決木大全
画矩円七節戯
斗心伝説極
こだまのそばにおいてある本は漢字ばかりで一体どんな本なのかは
中身をいくら読んでも分からないだろう。こだまはなぜかその本に手をつけない。

「その本何?」

「課題が終わったら読むやつ。ひかりより私のほうが早く終わるからね。」

実際こだまの進み具合は全体の四分の三を越えていた。
この調子で進めば三十分ぐらいで終わってしまうだろう。
ひかりは自分の進み具合を確認してしまうと現実逃避をしてしまいそうだ。

「趣味ということ?」

「そうね。」

趣味目的のものなのかよ。
高尚なこだまの趣味にひかりはその本を見ているだけでため息が出てくる。
その趣味にひかりは絶対相容れないと感じはしたが、
なんだかんだ言ってこだまの趣味としてはイメージどおりのものだった。
『趣味は一昔前の文学を読みそれに対する考察をすることです』と、
入社試験辺りで説明しそうである。
未来のこだまがそうであると思うとひかりはちょっとこだまのことが
かわいく見えてきた。
人はいろいろな一面を持っているのだと人生においてはいい知識を得た。
ひかりの宿題は遅々として進んでいない。

「ペン先が止まっているわよ。」

自分のノートから目を離さないまま鋭い指摘でひかりを妄想から引きおろした。
見ると妄想に気をとられていてさっきからちっとも課題が進行していない。
このままではこだまにもともとついている差をさらに広げられてしまう。
うろたえるひかりの隣でこだまはさっきからシャーペンを動かし続けていた。
ひかりはそれが止まっているところになかなかお目にかかれなかった。
自分の楽しみがそばにあるのに、
それに目を留めずにこだまはもくもくと勉強を続けている。
その不屈の精神力に感心してしまう。
図書室はこだまにとって安心できる場所なのかもしれない。

「この学校の図書室ってなんだか空気悪いわよね。」

教科書を捲りながらひかりに聞こえるぐらいの絶妙な大きさでこだまがささやいた。
ひかりはおおげさに見上げて二度三度深呼吸をする。

「別に廊下とあんまり変わらないと思うけど?」

こだまの意図を知りきれていないようにやや右上がりの口調でひかりは言った。
こだまは軽快に滑らせていたシャーペンを止める。
時計の秒針が五回ぐらい動いたときにこだまは頭を上下に揺らし何かを納得した。

「……埃が待っているという話ではないわ。雰囲気のこと言っているの。」

ひかりが考えていたこととこだまが考えていたことの違いに気づいた後に、
ひかりは自分の勘違いにちょっと顔を赤らめる。

「んで、まぁ図書室としては当然の空気だと思うのだけど、ちょっと静か過ぎない?」

初めて右手の動きを止め、こだまは軽くひかりに話題を振る。
こだまなりの世間話なのか。
しかしそんなことを今口に出さなければいけないのかどうかをひかりは疑問視した。
こだまが言い出すとは思わなかっただけにこだまの言葉が素直に耳に入らなかった。
しかしこだまは間違っているというわけではない。
ひかりはこだまの意見に賛同していた。
何度か来た事があるけどいつも来ても、何度訪れてもここは人が居ない。
本棚の前に誰も居なかったり、椅子に誰も座っていなかったりしているのを見ると、
ひかりはいつもここに来たのが間違いかのように後悔してしまう。
人が居ない状況は教室でもよくあるがここの人が居ないという状況とは
確かな違いがある。
上手く言い表すことはできないけど教室はいつか人であふれかえるから
誰も居なくてもそれほど気にならない。
ところが図書室は誰かが来るとは限らない。永遠に過疎のままで終わるかもしれない。
ひかりが感じたその違いはこんなようなものだ。
しかしそれをこだまが指摘するとは思わなかった。
こだまはこんな空気などなんともないと思っていそうだったからだ。

「早く終わらせましょう。やっぱりここは居心地が悪いわ。」

こだまは声のトーンを上げながらやや神経質そうにひかりに訴えた。
そして元々早い課題を解くペースをさらにあげた。
ひかりとしてはこだまがここから居なくなってしまうのは
自分の課題の進み具合から考慮しても避けたいことである。
ひかりは慌てながらもさっきよりも意識を教科書へと研ぎ澄まし
シャーペンを持つ手を強める。ひかりとこだましかいないこの図書室は音らしい音がない。司書が白衣を引きずりながら歩いているときの音だけが音と呼べるようなものだった。
そしてそれ以外の雑音という雑音を聞こうとしても聞こえない。
図書室はそういう場所なのだった。
そんな場所をこだまが居づらいと言ったその理由をひかりは見当さえつけなかった。
問題を一つ解き終わった拍子にひかりはその訳がぽっと頭の中に湧き上がった。
ひょっとしたらこれはこだまなりのひかりに対するプレッシャーの与え方
なのかもしれない。のろのろと課題を進めているひかりを見かねて、
そのピッチを上げようと、ほら吹いているという疑いもある。
早く終わらせようとこだまが宣言したら、こだまを失いたくないひかりも
早く宿題を終わらせなくてはいけない。そう思っているのだろう。
けれどこだまがひかりにそんな嘘をつくとは思えない。
ペースが遅いなら遅いとはっきり言うのがひかりである。
こだまは時として人をからかうような、挑発的な言葉を口にすることがあるが
ひかりに向けていったことは一度もない。
ならさっきの言葉はこだまの本心から発せられたものに違いない。
やっぱりどう考えてもこだまがさきほどの言葉を発するのは
ひかりにとって意外だった。
同時にこだまの今まで現れることのなかった一面を見られた幸運に
ひかりは気持ちを洗われた。感慨にふけるのはそろそろ終わりにしよう。
課題を再開しなければいけない。
わずかな幸運の帯を握り締めながらひかりは教科書と対峙する。

     


時刻は六時を回っていた。
もはやこの図書室に誰も現れないだろう。ひかりとこだまを除いては。
ひかりとこだまだけの場所として働いているこの図書室の中で
ひかりは懸命にシャーペンを動かしていた。先ほどとは打って変わった形相である。
ひかりの努力が反映されているのか
絶好調とはいかないまでもひかりはさっきより課題を進める速度が上がっていた。
その変化も本人が気づいているらしい。
抑えようとしてもシャーペンが描く軌跡は前よりも滑らかかつ豪快である。
ひかりはこだまを意識したがゆえに何時も以上の力を発揮することができていた。
本人もそれに気づいている。
自分の好調さをすこし自慢したくなったけどはっきりと宣言する必要はないだろう。
どうせまだこだまのほうが進んでいる。
それならひかりとこだまの差が縮まっているだけでもいい。
だけどそうと頭に言い聞かせているもののやはり体の方が正直だ。
隣の人の姿が気になってしょうがない。
だからひかりは何度になるか分からない横目を使った。
意外なことにこだまの進み具合が停滞していた。
なにやらシャーペンをしきりにいじっている。

「どうしたの?」

「シャーペンの芯がなくなっちゃった。まいったな……ちょっと買ってくる。」

こだまは立ち上がるとそのまま行儀いい歩き方で図書室から出て行った。
購買部はまだ開いているからそこへ行けばシャーペンの芯は売っているだろう。
席を立ち上がりなびいているこだまの長い髪を後ろから見届けなが
らひかりは複雑な心境を抱いていた。ひかりなら貸してあげることだってできた。
こだまのことだから貸し借りをしない主義なのかもしれないけど
やはりそこは身近にいる友達を頼って欲しかった。
それともひかりをあてにしていないのだろうか?
その拭いたい疑問を拭えないままひかりはシャーペンを片手で回していた。

「やっぱり私は足を引っ張っているのかな?」

こだまは顔には出すことはないがそれくらいのことは考えているかもしれない。
そして今ここに居ないひかりの第二の友人も同じ思いを抱いていると
ひかりは心の奥底で密かに推測していた。
こだまが席を立ってから一向に進まない自分の課題を見ていると
自分がいかに無力な存在なのかを見せ付けられてしまう。
止まっているシャーペンの先を見ている間も
ひかりは今ここに居ないのぞみの姿を空気中に描いていた。
埃に混じって確かに浮かび上がるそののぞみの顔は理由もなく寂しそうな顔をしていた。今のぞみがどんな気持ちで居るかはひかりには分からない。
でも最後に見たのぞみの顔はこうだった。
ひかりはこだまと共にいるだけでも満足である。でものぞみも誘いたかった。
のぞみが何かに悩んでいるなんて誰が見てもよく分かる。
それなのにのぞみは一人でそれを抱え込んでいる。
ひかりの目から見てもそれはつらいものであった。
のぞみがひかりたちに心配をかけないようにと配慮しているのが
余計にひかりの心を締め付ける。話して欲しかった。
ひかりがその悩みを解消できるかは限らないけど聞くことぐらいはできる。
そしてのぞみが感じている苦痛を一緒に背負ってもよかった。
だけど何日もたっているのにのぞみは全然話すそぶりを見せない。
のぞみは自分の悩みがひかりと何の関係のないかのように思っているのだろうか?
ノートに文字を書きなぐりながらもひかりはのぞみのことだけを考えていた。
のぞみとは知らない間に友達になっていた。それこそ自然な過程といったようだ。
もっとも友達などそういう風に出来上がるものだと
ひかりは頭の中で手意義付けていた。しかしのぞみの中ではそうとは限らない。
もしかしたら友達と思っているのはひかりだけなのだろうか?
のぞみはひかりをどう思っているのか?
思えばそのようなことを聞いたことはない。のぞみはいい人である。
すこし口がきついこともあるが根は優しい人だ。
いつものぞみのそばにいるひかりだけが言える確信めいた証言だった。
けどのぞみはひかりのことをどう思っているだろう。
ひかりのことを頼りない人だと思っているのか。
それとも面倒のし甲斐がある妹的な存在と見ているのか。
それともそれ以外の印象を持っているのか。
まとまりのない考えがひかりの中で渦を巻き、
ひかりはどんどんその疑問へと引き込まれていく。いくら考えても、
肝心ののぞみがここにいないのだから解決のしようがないのに
ひかりはそれをやめない。力を入れすぎたのか、
シャーペンの芯が折れその音で自分の思考が中断される。
エアコンが送り出す暖房の音が図書室の中を支配している
その中をひかりは焦点の定まらない瞳でノートへと目線を延ばしていた。
隣の席にあるのは開いたままになっているノートと教科書、それに数冊の本だけだった。誰も触っていないのにノートのページが微妙に揺れている。
いつか帰ってくる主を待ちわびているかのようだった。
こだまはまだ帰ってこない。購買からここまではかなりの時間があるから仕方がない。
おそらくしばらくは戻ってこないだろう。
集中力が途絶えた反動で頭がすごく重い。
こだまが帰ってくる前に少しでも課題を進めようと思っているのだけど
頭の重さがひかりの思考速度を遅くさせていた。
このままではカタツムリに負けてしまうかもしれない。
ゆっくりと立ち上がると図書室をぶらぶらする。
周りを歩いて気分転換でもしてみよう。そう遠出はできない。
図書室の中ならまぁ大丈夫だろう。疲れがたまった体をゆっくりねじり、
その疲れを搾り出すような動きをする。
気持ちよさで目を細めながらひかりはどこか面白そうな本が並べられている場所を探した。絵本ぐらいなら即興で読み終わることもできるが
高校生にもなってそんな幼稚なものを読む気にはなれない。
雑誌や週刊誌もいくらかは置いてあるもののどれもこれも最新版ではない。
時代遅れな情報を知ったって全然役に立たないだろう。
小説や文庫本はタイトルを読むだけでも続きが気になるから読まない。
絶対にこの後の課題を片付けるのに障害になる。
思い切ってひかりは一生縁のなさそうな辞典が集まっているところまで
足を伸ばしてみた。
埃の臭いにカビの臭いまで加わってひかりはくしゃみをしたくなる。
天井まで伸びている本棚には群青色や深い赤色の本が小奇麗にならんでいる。
その並びに感心をせざるを得なかったけど、
もしかしたら誰も手をつけていないせいでずっとこのままなのかもしれないと
ひかりは思った。
どの本の背表紙にも漢字でよく分からない文字が並べられていて
ひかりはそれが日本語なのか中国語なのかの見分けさえつかなかった。
本当ならここに来る理由などすこしもないのだけど気を紛らわすためなら
ちょうどいい。
初めて目にした図書室の場所にひかりは興味津々な様子で
一つ一つの本を見て回っていた。
手に取ることをしないのはどうせ
その内容を理解することができないからだ。
一つ一つそのタイトルをアドリブで読み進めていくのはいい時間つぶしになっていた。
なんとなく楽しい。何も考えることがないから気が楽に持てる気がした。
ひかりは脚の動きに任せて棚をずっと見ていた。
そしてある本を前にその動きがぴたりと止まる。
それが目に付いたのはおそらくなんとなくであってそれ以外の理由はないだろう。
百科事典よりも厚い他の本に比べて、その本はノートぐらいの厚さしかない。
その薄さのせいで他の本に比べてやや肩身の狭そうに本棚に横たわっていた。
ひかりはそれに視線を釘付けにされていた。
見れば見るほどその本は奇妙だった。
表紙には書かれるであろうタイトルが書かれていない。
和紙を使っているのだろうか。機械では決して作れない模様が印象的だった。
ひかりの左手がぴくりと動く。
決して手に取ると思っていなかったのにその本だけは読んでみたい気持ちで一杯だった。衝動がひかりの右手をじりじりと動かしていく。

「これ……」

ひかりはその表紙を掴んだときに手に吸い付くような感覚を感じた。
和紙特有のざらざらとした違和感が自分の手のひらにぴったりだった。
まるで自分のものであるかのように安心感と充足感がひかりの中に注がれる。
穏やかな温かさがひかりの体を支配した。
その感覚に驚きと戸惑いを隠せずひかりはすこしうろたえながらもそれを放すことはできなかった。

       

表紙

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Neetsha